hirika
 はてなからここへ。いろいろ理由はあるんだけど、「ここの方が居心地が良さそうかなー」と思って。
 思えばあたし、大塚日記→ライコスダイアリーと来て、「楽天では書きたくない」と思って移行の手続きしなかったし、ログもすべて削除しちゃったんだけど、なんだろうなぁ、これも何かの縁なのかねぇ。

 心機一転とゆーか。なんだろうな、気持ちを切り替えたいって思いも強いのかも。
【このトピックへのコメント】
  • hirikaそうそう、たぶん「ひみつにっき」は書かないと思う。それを書く必要がなくなったから、ライコスでも最後はまったく書かなくなっちゃったんだし。(2003-09-04 01:23:42)
 ここをお借りしようと思い立ったのが半日ほど前なので、なーんにも考えてなくて、でも以前の日記と同じのは嫌なので、「うーん、どうしよう」と登録画面を前に唸っていたら、ふと、ネタ帳の中に書かれていた記述を思い出した。

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ウロボロス
 心理学的な意味だと母子一体の世界、無限に続く未知の夢のような内的宇宙のこと。
 ギリシャ語だと永遠の時間、始原の世界を意味する。
 ウロボロスはよく、自分の尾を噛む蛇の形で表される。蛇は自分の尾を食べながら成長するので、どこまでいってもぐるぐる回り、同じ。

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 これ、たぶんどこかの本に書かれていたのを書き写したものだと思うんだが、どの本だったかまったく憶えていない(だって書いたの97/03/05、6年も前だし)。
 まぁともかく、これを目にしたあたしは結構安易に「これでいいや」と決めてしまったのだった。なんか今の自分の感情に近い気がするし、どこまで行っても同じことをぐるぐる考え続ける、そんなあたしにはちょうどいいかなぁ、みたいな。
 とりあえず深い意味はない。うん。
 この二日、続けて以下のメールが届いた。
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ごめん。
この前、話したサイトだけど、リンク切れ起こしていたみたい。
今は、もう直っているみたいだから、もう一回いってみそ。

URL: http://man.8800.org/adultcontents/movie/fuck/actress/jpgirl-lab/

サンプル動画、更新してたよ。

とりあえず、もう一回のぞいてみて。
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 差し出し人は同じ人。メアドは違うんだけど。
 で、こういうメールが届くのってひさしぶりなんだけど、なんか、ねぇ? 今あたしさー、

「てめぇ死ねよ」モード

に簡単に切り替わっちゃう状態なわけでさー、つまり非常に精神不安定。なのでかなり参っているとゆーか。でも参ってる割には「やっぱしこういうことする人って頭悪いよなー」と冷静に考えていたりもして。
 人に嫌がらせする人ってさー、ふつうの方法では人に相手にしてもらえないっつーか、人と対峙できないからこういうことするんだと思うのよ。いやがらせってわかりやすいっつーか、簡単じゃん。人の興味を引いたり、好意を持ってもらうことより。
 人に興味を持ってもらったり、好意を持ってもらうのって努力が必要なわけでさ、でも努力だけじゃどーにもなんない部分も大きいわけで。だからそうして頑張ることから逃げてさ、簡単な方法で人と関わろうとするっつーか、人の反応を引き出そうとするっつーか。
 なんだろうな、「人から相手にされない」からこそ、自分の言動によって「人を動かしたい」つまり人を支配したいって思いも強いんだろうなぁ。で、「それって突き詰めてゆくとコンプレックスの裏返しだよな」と思ったりもして。
 そーゆーことを総合すると、嫌がらせなんてものをする人っつーのは「人に対するコンプレックスが強く、しかしそれと向き合うことのできない人」とゆー、非常に情けない人間なんだなぁ、と思うわけだけど、加えて「頭悪っ」と思ってしまう理由としては、「人にいやがらせをする」という行為で、己のそういう姿を晒しているってことに気づいてないんだろうなぁ、と思うからなのね。
 あたしだったら自分の愚かなところ、弱味にもなるような部分をわざわざ相手に教えるようなこと、したくなんかないけどさ、そーゆーのに気づかないくらい、お馬鹿ちゃんなんだろうなー。
 別にさー、アダルトサイトのURLが送りつけられて来ることに対してはなんとも思ってないよ。そうじゃなくて、「そーゆー頭悪くて情けなくてプライドのない駄目人間」にターゲットにされたってことがさー、不愉快っつーかさ。
 いや、こうして激昂しちゃってるわけで、まんまといやがらせする人の思うツボにハマってるわけだけどさ。そーゆー人ってただ、相手にして欲しいだけだもんな。どんな反応にせよ。

 でもさ、思うわけよ。こうしていやがらせする人ってさ、根っこの部分はアレと同じだと思うのね。少年犯罪とか小学校乱入殺傷事件の人とか。自分より弱そうな相手にしか手を出さないとかさ、異常なほどコンプレックスが強いとか性格が破綻してるとか。
 少年だったらまだ校正のしようもあるけどさー、二十歳過ぎていやがらせして人が反応するの喜んでる人はさー、いつか人を殺しちゃうかもしれないから、今のうちに病院に行って治療した方がいいんじゃないの?
 ──あ、頭悪いしプライドもないからそれはないか。
 何巻まで読んだかすっかり忘れていたのだが、イシュトがスカールと戦い、その後ヤンダル・ゾックの手に落ちたところで終わったのだけは憶えていたので巻末の内容を確認し、昨夜、84巻から読み始めた。
 現在91巻まで刊行されている『グイン・サーガ』、一応発売されるとすぐに購入するんだが、大抵1年ほどは積読になっている。まとめ読みした方が物語世界に入って行きやすいし、話の筋も頭に入って来るので、いつの間にかそういう読み方をするようになってしまっている。
 で。で──。91巻までは手元にあって、つまりあと4冊ほど残っているんだが、87巻を読み終えた今、どうにも続きを読む気持ちになれない。だってさ、だって、ねぇ?
 イシュトとおんなじ気持ちだもん。あたし絶対、「この人は死なない」と思ってた。「何があっても死ぬことはないだろう」と思ってた。「死ぬなんてあり得ない」と盲目的に信じてた。
 そりゃさー、88巻の帯にはそのことが書いてあったりするから、「あー、そうなんだ」と知ってはいたよ。知ってはいたけどさ、まさにその死の瞬間を読んで、それに対する人々の思いを知って、なんか「え?」って。「信じられない」って思いしか今はない。
 たかが小説のキャラクターだって言われれば、そりゃ確かにそうなんだけど、なんだろうな、今あたしの心の中にある思いって、この間飼い犬が死んでしまったときと同じような感じなのよ(あそこまで深いものではないけど)。
 実体としてこの世界に存在したわけではない、虚構なんだけどさ、現在も進行している物語の中に、「もう彼が生きて姿を現わすことがない」ってゆーのがさ、「彼はもう存在しない」ってゆーのがさ、「どーゆーこと?」っていう。
 正直、最初嫌いだったよ。嫌いで嫌いで、でも『死の婚礼』のとき、「いや、こんな性格の悪い腹黒い人間がそう簡単にくたばるかよ」と思って、それであとから姿を現わしたとき「ほーら、やっぱりね!」と嬉しくなって、「あれ、嫌いなんじゃなかったっけ?」と思ったんだった。
 そしてその後もいろいろなことがあったけれど、どうにも彼を信用することができず、どこかしらその心の内を疑っていて、だからつまりはまぁ、「あたしはそれほど彼に思い入れているわけではないだろう」と自分では思っていた。
 なのにさ、ショックなのね。「彼がもういない」ってことが。物語がこの先どうなるかを知りたい気持ちはあるんだけど、ちょっとだけ、「ここで時間を止めてしまいたい」なんて思いもあってさ、なんかそういう自分に対して「彼の存在ってあたしの中でそんなに大きかったっけ?」って感じなのよ。
 さっきも書いたけど、彼は小説のキャラクターで虚構で、実在することのない存在だし、本を開いてそれ読んでいる間はなんとも思わない。ただ、「そういうことがあった」という認識だけ。でも、ふと物語世界から離れてしまうと、もう本当に「これはほんとにあったことなの?」と、思ってしまうのだった。

 でも一方で、「マルガを出たマリウスはどうしたんだろう」とか「アストリアスって100巻までに出てくるの?」とか、思わずにはいられないので、結構非情と言えば非情かも。
 今書いておかないと忘れてしまうので、覚え書きの意味も込めて。

 いろいろな感情を噛み締めることなく、一気に駆け抜けてしまったので、それとネタバレするのが嫌なので書かなかったので、あたしもすっかり忘れていたが、ここを読んで思い出した。これは忘れたくないことなので書いておく。
 あたしもここで泣いたのだった。それもぼろぼろと。そして泣きながら思い出した。9年前も同じように泣いたことを。
 なぜ泣いたのか、うまく説明できない。説明できないどころか、その場面であたしの内を満たした感情というのはあまりにも複雑で、今も気持ちの整理をして順序立て、理論立てることができない。
 『MOTHER』というタイトル。
 それだけですべてが説明できる気もするのだけど、おそらくこれは「わかる人」にしかわからない。そしてそれがもどかしい。
 たぶんあたしの内で、“母との関係性・愛憎”は未だこじれて整理のつかないまま、己の存在意義というかアイデンティティに強く影響しているんだろう。
 ダブルバインド。どうにもならない矛盾と葛藤に飲み込まれてしまう──ということだけは確かなような気がするんだけれど。
 あたし的にはネット関係の愚痴置き場。<ひみつ日記。
 ところで昨日、はてなアンテナに反映されなくて、「なんでなんでなんで?」と恐慌状態に陥りそうになったのだが(大袈裟)、よく考えたら「ひみつ日記」更新は取得されないのだった。
 今日の午後になってから気づいた。アホだ……。

 それからふと思ったんだけど、カテゴリ。
 「日常雑記-音楽」と「趣味日記-音楽」ってどう違うんだろ。日常の方は受動的で、趣味の方は能動的、てことなんだろーか。つまり聴き手か演り手かどうかの違いっつーか。うーん、よくわからん。
【このトピックへのコメント】
 仕事中、所用があって本屋へ行った。そしてひさびさに音楽雑誌コーナーを覗き、表紙に「PIERROT 速報!8・10渋谷AXで見せた“最新型”feat.潤パーソナル・インタビュー」と書いてあるFOOL'S MATE10月号を手に取った。
 噂によるとじゅんじゅんは痩せて日焼けしているそうで、しかしあたしにはまったくそんな姿は想像がつかないので、一体全体どんなふうに様変わりをしているのか、確かめる良い機会である。
 というわけで、始めに目次で確認しピエロちゃんのページを開く。

 ……なんじゃこりゃ。

 えーと、すっげぇ失礼な言い種だけど、こんなに痩せてたことってあったっけ? しかもマジ、焼けてるよ? しかも髪! 短くなっててなんつーかその、すっげぇ好みなんですけど(←ジャーだから好きなのは当たり前)。つか、これで肌が白かったら形容詞は「きれい」なんだけど、なんか、男っぽくて(男だっつーの)えらくカッコイイんですけど。
 今さらこんなことを言うのも失礼とゆーか、本当にファンなのかって話なんだけど、じゅんじゅんてほんっとに、見てくれはカッコイイんだよねぇ。なんでこの容姿で中身がああかね? と思わずにはいらないっつーか、まぁ、「だから好きなんだろーなー」とも思うわけだけど。

 来月の3日にはライブがあるわけで、こうひさびさにあたし好みの容姿になったじゅんじゅんに逢えるわけだけど、きっとそれまでには肌の色は白に戻ってるだろうねぇ。体重は……どうだろ。
 まぁ、こういうカッコイイじゅんじゅんも好きで、ひと目逢いたいとは思うけれど、うーん……。正直、あたし的にはやっぱり、白くてぽよぽよしてるじゅんじゅんの方が好きかなぁ、みたいな。
環和我話 2003-09-08 01:43「Re:ひみつにっき&カテゴリ。」へのコメント:

 うん。あたしも「さてカテゴリ選択するか」と思ってふと見たら気づいて、「どう違うの?」って(笑)。加えて、音楽雑誌の感想なわけだから、「感想-本・雑誌」? とか(いや、それはないだろ)。

 それと、はい、眞知さんの真似っこして引越して来ました(笑)。うれしがってもらえるとうれしーです(^^)。
 人は変わる。生き続けて行く中で変化し続ける。そして、自分と関わりあう人々の中には当然それを受け入れない人もいて、もうそれきり、離れて行ってしまうこともある。けれど、「他者との関係を失うことをそれほど恐がらなくてもいい」と最近思う。
 すべてを失うわけではない。この手の平にはわずかながら、残る人々もいる。きっと去って行く人の方が多いのだろうけど、そうして己の前を人々が通り過ぎて行く間、自分を見守ってくれている存在も確かにある。
 そして、ずっと残り続け、積み重なり続けてゆく関係は、きっととてもかけがえのないものだ。誰かとの関係を失うたび、そのことに打ひしがれ、悲痛な思いをするのだろうけれど、逆に「ああそれでも、この人は自分の元に留まってくれたのだ」と知ることもできる。
 すべてを失うわけではない。そっと、付かず離れず、笑いかけてくれる人はいる。だから失うことを、また自分が変化することを、恐がらなくていい。
 ただ、それと同じくらい大切なのは、「そうして己の元に残ってくれた人々とどういう距離を置くか」だと思う。「この人は自分を見捨てずにいてくれた」と、過剰に相手に思い入れることは危険だ。それはきっと簡単に独占欲に変わる。
 己の元に残り、思いを向けてくれる人がいるのはうれしい。だからこそ、ともすれば取り残された悲しみも手伝い、その人を手放さないよう、他の人間を見ないよう、束縛しようとしてしまうと思うのだ。そしてそういう“強く重い人の想い”は、人と人の関係を歪ませてしまう。
 けれど、「自分は誰からも必要とされない人間ではない。想いの深さは人それぞれだろうけれども、それぞれにそうして自分を必要としてくれている」と、たぶん、こころから本当にそう思えたとき、いや、意識せずともそれが感じられるようになれたとき、人は相手を束縛しようなどとは思わず、適切な距離を置くことができるようになるのだと思う。
 そう思えるようになるまでにはとても時間がかかるし、何度も何度も失敗をくり返し、ほんとうに大切だと思っていた人を失うこともあるのかもしれないけれど、でも、もしそうなれたとき、自分にとっても相手にとっても、とても素晴らしいものを得ることができるんじゃないか、と思う。
 人は変わる。変わり続け、たくさんの人と出逢い、別れてゆく。固執し続け、失うことを恐れ、ひとところに留まろうとすれば、きっと何も変化することなく、何も失わない限り、何も新たに得ることはできないだろう。
 ほんとうに、「どうしても失いたくない」と思ったなら、留まることも必要なのだろうと思う。けれど、すべてを失う覚悟をすることもまた必要で、そうすることによって得られるものもあると思う。
 たぶんあたしは「失うとき」に来ているのかもしれない。恐れることなく己を変化させ、失い、その後残った人々とどう距離を置くか──それを自らへの試練とかすときが来たのかもしれない。
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 昨日ほぼ完徹だったので、頭がよく回ってない。なので文章がかなり変。でもとりあえず書いておきたかったので。
 6月くらいだっけ、「サイト削除したい」と書いた後、いろいろ考えてたことがあって、とりあえずはこれがその答えかなぁ、みたいな。
 地元の人間にはBS(ビーエス)で通じるブリヂストン栃木工場。まだ燃えてますな。
 あたしの職場(10数キロ離れている)からも午後の間ずっと黒煙が見えていたです。しかもちょうど頭上を通ってゆくので、まるで曇って日が陰っているような状態。常連のお客さんだの知り合いだのが来るとみんなその話で、「BS火事だって」「非難勧告出たってよ?」「●●で煤が落ちて来て車に積もってるって」「誰それの家が近くにあって職場に連絡があったって」「小学校じゃ保護者が来ないと子供を家に帰さないんだってよ?」「すごい爆発音がしてるって」「野次馬がいっぱい」「BSの前抜けるのにすごい時間かかったって(BSは国道4号線沿いにある)」「車停めて写メールで撮ってる人いたって」などなど、黒煙を目にしながらのそういう会話はすげーリアル。
 遠くで起こっている出来事なら、「わー、大変だね」ですませてしまいそうな感じだし、他人事とゆーか無関係な感じだけど、市内だからねぇ。うちの店のお客さんの中にも、BSで働いてる人っていうのはいるはずなわけで、今日うちに帰って来たら今度は母が「どこそこの誰それが勤めてる。明日からどうするんだろう」と言っていたりするわけで、なんか身近な感じで「どうなるんだろ?」って感じ。
 つか、家に帰って来てからやっとテレビで見たんだけど、燃え方がすごいわ。あれじゃあ職場からもあれだけ見えたはずだよ。
 強迫観念によって現在プチ精神不安定。と言ってもそれを忘れているときはいたってふつうとゆーかいつも通りで、1日のうちに何回か、数分だけ発作的にひどく追い詰められた精神状態に陥る感じ。だから端から見ればぜんぜん元気だし、あたし自身もトータル的に見れば結構安定してるんじゃないかなぁ、と思う。
 で、その強迫観念。元を正せば己の妄想だというのは頭ではわかっている。実際に起きた出来事に対してではなく、「こうなるかもしれない」という妄想に取りつかれ、恐怖しているわけだ。そして、それはまったく根拠のないものではないんだけれども、冷静に考えるとかなりの割合でそこには邪推だの疑心暗鬼だのが混じり込んでいる。
 わかりやすく、しかしぼかした言い方をするならそれは「両親からの存在の否定」なわけで、“今現在のあたし”じゃ駄目だと、そんなふうにこの世に存在してはならないと、つまり「生きていなくていい」と言われているような気分になるわけだ。
 短絡的だ、と自分でも思うけどさ、でもこれ、あたしにとっては自身の存在の根源を揺るがす非常に大きな問題で、だからいくら頭で理屈でわかってても、どうにもなんないのよねー。

 自分の心の変化を鑑みるに、やっぱし“自己否定”って病はかなり根が深くて、そうそうすっかり良くなったりはしないのな。一進一退っつーか、「良くなった」と思い込んで安心していると手酷いしっぺ返しを喰らうし、あれもこれもといっぺんに幾つかの部分を変化させてゆこうとすると、却って状態は悪くなる。
 だからまぁ、「確かに焦燥感に苛まれるけれども、そこをぐっと堪え、まずは比較的簡単なところから時間をかけて変化させてゆかなければならない」と自分に言い聞かせ、あたしはこうしてここまで己を変えてくることができたわけだけど、なんだろうなぁ。
 血のつながらない、他人とのコミュニケーションてゆーのはいくらかマシになって来て、「他人が自分を否定している」と思うことはほぼなくなったんだけど、血肉を分けた親との関係とゆーのはもうなんとゆーか、本当に「なんとゆーか」みたいな。
 「すべてを否定され、すべてをいっぺんに変えなければ生きていてはいけない」と言われているような気がしてきちゃうってゆーかさ。ゆっくり、ひとつずつ己を変化させていこうとしているのに、それを急かされて混乱してしまうとゆーか、ヒステリーを起こすとゆーか。
 まぁつまりは「このままでいてはいけない」と間接的に思わせるような出来事が今現在あるわけで、それで他者に対してはいい感じの状態ではあるものの、それを思い出す(というのとはちと違うんだけど)たび、発作的にもうどうしようもない気持ちになるってゆーね。
 もちろん何も言われてはいないわけで、「このままでいてはいけない」と思ってしまうのも、「きっと両親はそう思っているに違いない」っていう思い込みから来るものなんだよねぇ。「そうやって邪推してるんだったら直接確かめてみたらいいじゃないか」と言われそうだけど、それは本当の本当に、恐くてできない。

 で、こっからが本題なんだけど、昨日今日、そうして時折ふと激しい強迫観念に取りつかれ、そのたびに目を背けて来たんだけどさ、それじゃどんどん、ストレスが溜まる一方なのね。それも「極限まで行っちゃうんじゃないか」つーくらいのものなのよ。
 だからさ、ふとね、いっぺん目をそらさないで、「自分は何に怯えているんだろう、何が恐いんだろう」って考えてみたのよ。そしたらさ、ここまで書いて来たことに気づいたわけで、で気づいたら気づいたで書かずにはいられなくなっちゃったのよ。で、さらに「何で書かずにはいられないんだろ」って考えたらさ、“書く”って行為はそりゃいろいろな意味があるけど、あたしがこういうことを書くのって、たぶん「“恐怖のかたち”をはっきりさせたいから」なんじゃないかと思うの。
 幽霊の正体見たり枯れすすき。と言うように、正体のはっきりしないものって恐怖を呼ぶじゃん。自分の中であれやこれやと想像を膨らませてしまい、余計自分で自分を恐怖に陥れてしまう。だからさ、それならはっきりさせようと、それが何なのかわかっていればこれほど恐怖に駆られることはないだろうと。
 文字に変換し、目に見えるかたちにすることで、そして、「それは他者にも見えるものである」ということで、たぶんあたしは安心するんだと思うのね。もやもやうようよと広がっていってしまいそうになる恐怖をそうして枠の中に閉じ込め形を固定してしまうことで、やっと安心できるんじゃないかと思うのよ。
 で、そんなことを考えてたらさ、ふと思ったことがあって。あたしは自分の心の内を分析するのが好きなんだけど、それってもしかすると「自分自身が恐いからなんじゃないか」と。自分がどういう人間なのかがわからず、怯えずにはいられないから自己分析なんて好んでするんじゃないかなぁ、と。
 なんか、ね。もしそれが本当だったとしたら、あたしはまずあたし自身の存在に懐疑的であるわけで、だったらこうしてときどきひどく揺らぐのも無理もないのかなぁ、生きている限り、自分の存在に疑問を持ち続けるのかなぁ、なんて思ったよ。
2003-09-10(Wed) 14:03

DI:DO

 一週間使ってみての感想なんだけど、なんか「お気に入りリスト」なくても「新着トピック」をチェックすれば事足りるような。日記の登録の数が3桁を超えればまた違うんだろうけど。
【このトピックへのコメント】
2003-09-10(Wed) 23:35

Re:Re:DI:DO

ちきちきの本音かもしれない 2003-09-10 15:41「Re:DI:DO」へのコメント:

>でも、うちみたいにリストに載せてないのなんかは「お気に入り」じゃないとだめでしょうね。

 そうですねぇ。ただ、リストに載せない設定にしてる日記って、すべてのリストに載らないようなので、知っている人以外その存在に気づかない、みたいな。
 ちきちきさんの日記は眞知さんのところから跳んだので知ってたんですけど、他にもリストに載せていない方、けっこういますよねぇ。
2003-09-10(Wed) 23:43

混在。

 仕事中『ザ・ニュー・リリースDVD』という販売店用の雑誌を見ていた。で、その中の『21世紀型メディアの胎動』というコラムを読み、読み終えてふと文章の横を見ると、それを書いた方の名前と写真があった。
 赤尾晃一さんだった。
 名前を知っているだけだが、なんか変な感じ。ネットで知った存在というのはネットの中だけのものであって、知り合いにでもならない限りリアルでその存在と出逢うことなんてないと思っていたから、いきなりこういう出逢い方をすると面喰らう。
 なんとなく、バーチャルによるリアルへの侵蝕って感じ。つか、次元の混在ってゆーか。
 6日にアルルから会報が届いた。で、実はほとんど読んでなかったのだが、昨日あるピエラーちゃんの日記を読んで興味が湧いたので、今日やっとキリトさんと市川哲史さんの対談を読んだ。

 ……。
 極論だよな。つーかこれ、キリトさんのことを知らない人が読むとかなり誤解すると思う。てゆかそれ以前に、ピエラーちゃんに誤解されてんじゃないの、コレ。あんたがそう思ってるのは確かだろうけど、きっとそれ、考えてることの半分でしかないじゃん。
 それに、少年犯罪についてのアレはちょっと、あたしは反論したいね。「親の責任がどうのこうの」ってやつ。確かに親の責任ではないのだろうし、かと言って社会全体が抱える問題の一端が垣間見えているに過ぎない、と言ってる場合でもないんだろうけど、誰かが義務や責任を負わなければならない部分もあるはずだ。
 確かに個人に依るんだろうよ、究極のところを言えば。だが、あんたが求めるほどに人は強く(と言うと語弊があるけど)ない。それに、完璧に己にプライドを持ち、責任を負い、己を律することのできる人間なんぞいないし、いたら社会生物である必要なんぞないだろ。
 あんたの言ってることはある面で正しいと思う。しかしそれを強硬するには無理があるよ。人は統制されなければ生きてゆけない生物になっている。役割、責任、義務は分担されているから、大きな責任を負う者ほど、そうでない者を導く義務があるばず。
 自分自身の話になるけど、あたしがこんな人間に育ってしまったのは自分の責任で、決して親の責任ではないと思うけれど、その原因を作ったのは確かに親であり、そのことに気づく義務があったと思うよ。あたしが幼かったそのときにね。
 まぁその辺のところはちゃんとわかってて、それであえて言ってるんだろうけどさー、やっぱしどうにも言わずにおれないわよ。少年犯罪はあたしにとって地雷なわけで、他の人ならともかく、キリトさんだと過剰に反応してしまうのよ。
 それにねー、なんでそんなことを言うのか、わかるような気はするんだよな。個人主義っつーか、「個人ひとりひとりがちゃんとしてれば問題は起こらない」とか「個人の問題だから他者には関わりがない」って言ってるわけじゃなくてさ、「そうあれば社会は、人と人の関係はもっと豊かなものに変化してゆくんじゃないか」ってことだと思うからさ。

 なんか、ここまで書いてアレだけど、書いてるうちに「やっぱしあたしとキリトさん、根っこでは同じこと考えてんじゃねぇか」って気がしてきた……。
 もう2年以上、キリトさんにツッコミ入れてないから忘れてたけど、ムカついて反論しようとするといつもこうなるんだよなー。
 プロフィールの自己紹介文、なんとかしなきゃとずーっと思っているんだが、どうにも「これだ!」とゆーのが思い浮かばない。自己紹介……自分はこういう人です、ってことを書けばいいの? それともどんな内容の日記を書いているのかを書いた方がいいんだろうか。
 別にこの日記に限ったことじゃないけど、なんか自己紹介って苦手。自分で自分を客観的に見れない。別におもしろいことを書かなくてもいいんだろうけど、真面目に書くにしたって「ええ〜? あたしってどういう人よ?」みたいな。
 書いてる内容にしたってさ、取り留めがないっつーか、ピエロちゃんに関してはもう知ってる人しかわかんないだろうし、内省的、と言われることもあるけど、いっつもそればっかりってわけじゃないしさー。日常の出来事に対して思いを綴っているわけでもないし。
 こう人様の自己紹介文読むとさー(いろいろなところで)、「なるほどねー」と感心するんだけど、なんか自己紹介ってさ、どう書いてもしっくり来ない感じで、結局この日記の自己紹介なんかは「よろよろしてます」のままなのよね。
 それじゃわかんねぇよ、と激しく自分でツッコミを入れていたりして、なかなかに葛藤してたりするんだけど、どうにもこればっかりはなぁ……。
 むーん、考え過ぎ?
 予想通り、誰からもメールが来ない。……えぐえぐ。
 つか本当のところ、そのことに対してそれほど落ち込んでもいないし、だからと言って「どうせあたしなんか」的な気持ちにもなってないんだけど。
 なんだろうな、やっぱし気持ちが変化したとゆーか、「自分のすべてを受け止めて欲しい」とは思わなくなったんだろうな。本家だけでいいって人はそれでいいし、どこで書いているにせよ、それぞれに読んでくれてる人がいるっていう、それだけのことっていうか。
 自分のすべてをわかってくれなくていいってゆー。ある部分部分で、何かしら引っかかってくれればそれでいいんじゃないか、と。で、その部分部分で何かしら生まれたり、得られたりすることができれば、それでいいかな、みたいな。
 負け惜しみみたいだけどさー。
 でも「ひみつ日記」ほとんど書いてないし、ここまで書いたようなことなんかも表に出しちゃえ、とか思ってるんで、あんまし「何かを期待されてひみつ日記読者になってもらっても」とも思うしねぇ。
 それにこう、実はライコスで嫌な思い出があって、だからこういうシステム、実はちょっとだけ抵抗があるとゆーか。あはははは。
 今年とか、去年もそうだけど、「わかってもらえない」と悲しみに打ちしひがれることが多くて、まぁ他にも要因があったにせよ、それはあたしの心にかなりの打撃をあたえ、精神を不安定にさせた。でもそれは今にして思えば、「必要なことだったんだろうなぁ」と、そう思うことができるような心持ちになって来ている。
 「まったくそう思えるようになった」とゆーわけではないけどね。でも「そうなのかなぁ」みたいな、そんな感じ。
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 本家の方で

>「たったひとり特別な誰か」ではなく、関わり合う人々それぞれに適切な理解を得ることが必要なのだ

 と書いてはいるけど、でも本当の本当に最初は「自分を理解し受け入れてくれるたったひとりの誰か」が必要なのよね。
 自分自身をまったく肯定することができず、自分を信じることもできず、「自分なんて生きている必要がない」と強く思い込んでいる──こういう言い方は好きではないが──心が病に罹っている人に最初に必要なのは、「自分をわかってくれる人がいる」という心からの実感だと思う。
 その実感はのちに覆されることになるんだけど(人と人がどれほど理解し合おうとしても、別々の個であるのでそれは無理だと気づく)、最初に心がわずかでも安寧を得、周囲を見る余裕を持たせることができるのはそれなわけで、「そういう人と出逢えるかどうか」というのはやっぱし大きいと思うのよ。
 「自分をわかってくれる人がいる」と実感することで、「自分を受け入れてくれる人はいる」とわかるし、凍りついた心がわずかに溶け、「他にも自分を気にかけてくれる人はいる」と気づくことができるし。ただそこで、「自分と相手だけの二人だけの世界」に閉じこもってしまうのは危険。
 「自分にはこの人しかいない」と強く思い込むことは、その人を失ったときの衝撃があまりにも大きく、それに堪え切れない可能性があるのよね。そしてそれが向かうのは破滅的な結末のような気がするので、他の人々との関わりもまた、その中で重要かなと。
 自分に好意を向けてくれる人というのはひとりだけじゃないんだし、だからと言って「すべての相手が自分を一番に思ってくれている」わけでもないんだけど、「何もかも失ったわけではない」っつーね、それを己が感じ取れるかどうか、受け入れる心の状態があるかどうか。
 大切なのは、「何かを失った」と思うとき、「これですべては終わりだ」と思い込まずにいられる心の余裕だと思うのよ。それをどのように得てゆくかが問題だと思うんだけど、そこでね、最初に「自分をわかってくれる人がいる、という心からの実感」があったかどうかで、違ってくるんじゃないかなぁ、と。
 「自分は誰にもわかってもらえない、必要とされていない」と思い込んでいたあたしは、「自分をわかってくれる」と心から思える人に出逢えた。そしてそれがあったからこそ、周囲を見る余裕ができ、他にも自分を気にかけてくれる人はいるんだと気づくことができた(数年かかってるけど)。
 たぶんあたしは一番肝心な「自分を(すべてではないにせよ)わかってくれる人はいる」と本当に実感できるかどうか、というところをクリアできたんだろうな、と思う。そしておそらく、多くの人がつまずいているというか、抜けられない問題っていうのがそれなんじゃないかな、と。
 あたしはきっとそこを抜けて次の段階に入ったんじゃないかな、と思うのね。だから「『たったひとり特別な誰か』ではなく」と思うようになることができた。でもそこへたどり着くにはやっぱり、たったひとりでいい、「自分をわかってくれる人がいる」という実感がどうしても必要だと思うのよ。

 実は春頃からさー、「肯定されること、否定されること」つータイトルで書こうと思ってたことがあって。
 最初に必要なのは「自分を肯定すること」だと思うのよ。「自分はこの世界に受け入れられている」と実感すること。そして次に必要なのは、「自分はこの世界に受け入れられているけれども、世界とイコールではない」と理解すること。簡単に言うと、「自分をわかってくれる人はいる」けれども「すべてをわかり合えるわけではない、混じり合うことのない別の存在なのだ」と知ること。
 それを知ることによって「自分はひとつの個としてこの世界に存在しているのだ」という自覚が生まれ、それによってまた人と人の関わり、コミュニケーションてゆーものも依存というものから解き放たれた豊かなものになるんじゃないかな、と。
 これ、あまりにも込み入っているとゆーか、あたしのオツムではきちんと整理できないので(気持ち的な問題もあるが)書きたくてもずっと書けなかったんだけど、「肯定されること」については上記に書いたことが「こんな感じかなぁ」という感じなので、ここに記しておこうと。
 本当はこれさ、「昨日本家にアップしたやつの前に書いとかなきゃいけなかったんだろうな」とも思うし、「ここに捕捉っぽく書いてもなぁ」とも思うんだけどね。でもまぁ、「あっちだけ読んでそれを勝手に解釈してもらってもいいや」と思うんで、まぁいいや。
 あー、「矛盾したこと書いてる」とか「変わっちゃった」とか思われるんだろーなー。

 ああそれと。
 読んでるかどうかわからないけど、あたしが初めて「この人は自分をわかってくれる」と思えた人──13歳も年下の君には、あたしはとても感謝しています。あたしがここまで来ることができたのは、君が最初に手を伸ばしてくれたお陰だから。
 ツッコミがあるとは予想もしなかったのでかなり動揺しているんですが。というか、今そちらの日記を拝見して「別に応答しなくてもいいかな」とも思ったんですが(あたしが書いているのとはまったく別の話になっているので)、一応。

青山ありへ向けて。
 大切なのは「受容」あるいは「許容」なのだと思います。相手を理解せずとも受容することはできるし、実際、自分が受容している人というのは存在しますから(それを相手がどう感じているかはともかく)。
 ただ──ちょっと、説明がむずかしいのですが、乱暴な言い方をしてしまうと「自分は誰からも必要とされていない」と思い込んでいる人、つまり心が病に罹っている人というのは「理解」と「受容」を混同していると思うのです。
 あたし自身の話に限りますが、「自分は誰からも必要とされていない」という思いに取りつかれていると、「受容されること」というのは「己のすべて、思考から感情から行動から何もかもすべてに否を唱えず頷くこと」という意味になります。そしてその中には当然「理解されること」も含まれています。
 「理解されること」=「気持ちをわかってもらうこと」=「受容されること」であり、「あたしの気持ちがわからない(理解しない)のならそれは受容しているとは思えない」となってしまうのです。自分の感情を理解してもらえない限り、受容されたとは思えないのですね。
 「理解」と「受容」というのは分けて考えた方が良いとは思います。ですが、それができないばかりか、混同していると気づかないほどに混乱しているのが、「自分は誰からも必要とされていない」と思い込んでいる人間の心の状態なのです。というか、それがあたしの状態でした。
 「なんでそうなってしまうのか?」と不思議に思うかもしれませんけど、こればかりは「そういうものなのだ(少なくともあたしは)」としか言えませんし、それに、これは自分でもコントロールできないのです。
 たぶん、「理解」と「受容」は別のことなのだ、とそれを混同せずに考えることができるようになったとき、西田さんのおっしゃっていることについての議論もできるようになるのかもしれませんが、あたしが書いているのはその前段階でのことです。あたし自身まだ渦中にあって、混同しがちですし。
 ともあれ、「理解」じゃなくて「受容」が大切、ということはおそらくわかっていると思います。ただ、精神的な余裕がなくそれを考えるまでに至らない人間もいるのだ、と知っていただけるとうれしいです。
 ピエロちゃん10/3栃木総合文化センターの。なので早速座席をチェック!
 ……1階下手でちた。つか、センターと下手を分ける通路の、下手側の端っこ。列的にはまん中よりちょっと後ろ? 去年2階席で観たときはすごい近くてびっくりしたんだが、うーむ、今回はどうなんだろ。「じゅんじゅんがピック投げて届く距離ではあるよな」とは思ったんだけど、どのくらい見えるのかまではわからん。
 そういやじゅんじゅんと言えば日武のアレ、どうなったんだろー。Kくん来ないしさー。じゅんじゅんじゃなくてアイさんのでいいから早く欲しいよう。

 余談。アイジャーだとばかり思っていた方がジャーだと判明し、非常に驚いた。だってアイジさんへの言及の方が多いじゃん。や、あたしもそうだけどさー(だってアイジさんネタにしやすいし←失礼)。
 余談ついでに、『秘密の部屋』の「ひ・み・つ」もひっくり返りそうになったが、会報の「来ちゃった」も以下略。アイジさんさー、再来月29になるんだよなー……。

 つか今思い出した。あらたんの誕生日明後日じゃん! 明後日で29だよ!
 仕事中なんとなく、「これが予期不安で、この症状がひどくなったのがパニック発作なんだろーなー」と思ったり。
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 考えてはいけない考えてはいけない考えてはいけない。目を逸らして別のことを考えないと死ぬ。焦らなくていいゆっくりでいい目を逸らしていい逃げていい誰も責めたりしない。怯えなくていい不安にならなくていい誰も死ねとは言っていない。
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 午後7時半ごろ、常連のMさんが来店。30分ほどおしゃべり。不安に駆られてどうしようもなく、硬直しそうだった身体から力が抜ける。
 Mさんは25歳の男性で、お客さん達の中で一番仲が良いというか、親しい。友達と言ってもおかしくないくらいだが、客と店員の域を出ることはない。だが、Mさんとおしゃべりをすると落ちつく。
 この人はあたしがあたしのままでいても、それを否定しない。
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 自分では平気だと、ぜんぜん大丈夫だと思っていたのだが、今日仕事を終えてふと携帯を見たらメールが来ていて、それを見て涙ぐんだ。
 「たまらなくうめえっす(TДT)」
 まったくもって涙ぐむような内容ではない。ただ、その人がメールを送ってくれたということが、ひどくあたしを安心させた。そして気づいた。自分で思っているよりも、今のあたしは弱っていると。
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 家に帰ると弟くんが帰省していた。両親も含め、家族全員があたしの不安を増幅する。弛んでいた心がまた萎縮する。思い切って心の内を弟くんに話す。彼はあたしを否定しない。
 否定されることが恐い。恐くて逃げ出したくてしようがなくて、日々不安が大きくなってゆくばかりで、彼に否定されることが恐くてそうなるんじゃないかと悪い想像ばかりして、ずっと怯えていた。
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 とりあえず今は恐くない。なんとか身体の力を抜くことができている。大丈夫、恐くない、安心していい。
 ひさびさにニコチンを聴く。と言っても『School of Liberty』の『Get The Liberty』と『Flash Back』と『In The Rising Sun』のみリピートで。うーん、やっぱし『TAKE ME OUT TO THE BALL GAME 2003』買おうかなぁ。
 あと、今日仕事中にELTのベスト聴いてて、『Rescue Me』と『Grip!』で涙ぐみ、「やっぱいいよなぁ。『Many Pieces』買おうかなー」と思ったり(ベストより『Many Pieces』の方があたし的には好きなので)。
 それから、先日カジ(ヒデキ)くんの『ミニ・スカート』をひっさびさに聴いて、「やっぱし揃えたいかも〜」と思ったり。パーフリとかスパイラル・ライフとか、ああいう音は大好きなのよ。

 で。
 こうして欲しいCD並べてゆくと、ときどき「なんであたしピエロちゃん好きなんだろ?」とマジで疑問に思うのよね。うーん……。
 ちょっと──どころか、かなりうれしいひとこと。
 「ただいま」と言われたのに、あたしの方が腕を広げて迎えられたような感じ。

 大丈夫。
 ちゃんとたいせつなものは残るよ。
 どうにもこの日記、どう書いていいのかわからない。『あらたんにっき』は楽だった。コンセプトが「ミーハー馬鹿女日記」だったから、人目を気にせずくだらないことばかり書けた。リファラーに残るのも検索からのものばかりだったし。
 なんだろうなぁ、気分を変えたいってのもあって引越して来たんだけど、どうにも、自分自身の中で混乱していることが多いみたいだ。それでどうしたらいいのかわからない。書いたものを後から読み返すと、なんとなく「以前に戻った」ような気がしないでもないんだけど。
 あと、ライコスで書いていたようなことを、また書きだしてるような気もする。ある意味投げやりとゆーか、どうでもいいやという感じで何もかも書いてしまう、みたいな。

 本音を。
 心の内を曝け出したからといって、それを読んだ人がイコール書き手のことをわかるかと言ったらそんなことはないわけで。書き手の心の内に踏み込めるかというと、決してそんなことはないわけで。だからあたしはあのとき激怒したんだが。
 言葉というのは書き手と読み手が関わろうとしない限り、ただそこに存在するだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。そこに吐き出したり、そこから何かを読み取ることはできるだろうが、そこに人の関係は生まれない。
 それでいいと思った。何も伝わらず何も生まれずとも、ただそこにあることが自分が存在していると確認できる方法だと思った。

 ああ、自分でも何を書いてるのかわかんないや。
 あ、でも大丈夫。混乱してるだけだと思うので。今日は嫌で恐くて不安でどうしようもなくなったりもしたけれど、人との関わりはあたたかくうれしいものだと、思えることもいくつかあったので。
 あー、なんかもうぐちゃぐちゃ。