hirika
 なんとか冷静になったっぽいので。
 ええーと、昨日書いた「激怒した」とゆーのはライコスでの話。1年くらい前かなぁ、よく憶えてないが、こちらの心に土足で踏み込まれるようなことをされて、それで激怒したのよ。
 「あんたにそんなことを言う権利があるのか」と。「あたしの感情はあたしだけのものであって、あんたに指図されて決めるものじゃない」と。「あたしはあんたの思い通りに動く人形じゃない」と。
 「ライコス」って書いたらそのあとふとそれを思い出してさー、自分でも何書いてんのかわかんない状態だったから、思いつくままに書いてしました、みたいな。あはははは。すみませーん(しょぼん)。

 で、しつこいと思われるかもしれないけど、もう少しだけ「理解」と「受容」の話。
 別にさ、そーゆーのって人によって違うと思うから、「自分はこうだけどあなたは違うのね」でいいんだと思う。ただ、あたしが過剰に反応してしまうのには理由があるというか、別のところで。
 たとえば、平熱の人と39度も熱がある人とでは、物事の判断力って違ってくると思うのよ(個人差もあるだろうけど)。もし風邪をひいて熱がある人がちょっとおかしなことを言っても、「ああ、風邪で調子悪いんだな」って感じじゃない。
 それと同じっつーか。心の状態なんてのは身体みたいに目に見えるものじゃないからわかりにくいんだけど、心が風邪をひいて高熱を出している状態のあたしは、健康な人とはちと物事の感じ方とか考え方とか、ずれちゃう部分があると思うのよ。
 それをね、わかって欲しいっつーか。「風邪をひいて調子が悪い人なんだな」と知って欲しいとゆーか。「あたしは健康じゃないからそういう人と同じにされるとちと困るかも」みたいな。
 あたしが過剰反応を起こしていたのはそういう、思考の段階というか、次元が違うっていう部分です(あたしの思考は健康な人のそれとずれてると思う)。
【このトピックへのコメント】
  • hirikaてゆーか、あちら様はただ、「読んでふとこう思った」とゆーだけだと思う。あたしが書いたことに対して「それどうよ?」とかゆーんじゃなくて。が、ちょっとタイミングが悪かったのであたしが過剰反応しちゃったとゆー。(2003-09-16 01:17:21)
 昨日弟くんから現ちゃんの話を聞いた。渋谷でのライブに行って来たそうだ。キャパ200ほどの、マイクなしでもオッケイな感じの小さなホールで音響も良く、ひとりで演っているので(ローディーなし)ギターのチューニングをしながらしゃべったり(「地方に行っている間に東京タワーの形が変わっててムカついた」とか)、『ワダツミの木』を唄ったり、男性客があまりにも少ないので(男女比1:9以下)ライブの後男性客だけ残して握手したり、したそうだ。ちなみに弟くんは恥ずかしいので握手してもらわなかったそうだ。もったいない。レピッシュの頃からのファンが多く、それゆえ全体的年齢層高かった、と弟くんは言っていた。
 で、そのライブのときに「秋にアルバムが出る」と現ちゃんが言っていたそうなので、今日早速職場のPCで検索してみた。そしたら──出るよアルバム。しかも元ちとせ効果か、SMEから。
 調べてみたら案内書も来てるので速攻探してみると、煽り文句が「天才にして奇人、上田現社会復帰」……それ、シャレになってないような気が。
 内容の詳細はまだ決まっていないみたいだけど、『ワダツミの木』のセルフカバーが収録されるそうで、「もうもうもう! これは絶対に買わなければ!」みたいな。
 元さんには申し訳ないが、あの曲は現ちゃんが唄った方がずっとすばらしく聴こえることが容易に想像できる。とゆーか、現ちゃんファンはおそらくみなそう思っているんじゃないか?(希望)
 あの曲に込められている想いは、きっと現ちゃんの唄を好きな人でなければわからないと思う。つーか、わかって欲しくないとゆーか。
 ともあれ、以下アルバム情報。

上田現/十秒後の世界
11/6発売 SICL-65 \3059(税込)

 ほとんどのCD屋でオーダーしないだろうなー。
 同人サイトを立ち上げてから──と言うか仮オープンさせてからそろそろ1年になるのだった。「まさか1年も持つとは思わなかった」とゆーのが本当に正直なところだが、なんだろうな、ついさっきまで『ピンポン』を観ていて思ったんだが、やっぱりあたしは生粋の同人女ではないとゆーか、あたしが求めるものっつーのは“それ”じゃないんだよな。
 『ピンポン』もそりゃあたくさん同人サイトがあって、ハマったばかりの頃はいくつか覗いたりもしていたが、結局すぐに興味を失った。ペコとスマイルの関係とゆーのはそーゆーんじゃないとゆーか、あたしがあの二人に見ているもの、羨んでしまうものというのは、そういう感情や形じゃない。
 じゅんじゅんとアイジさんの二人に見ているものもそれと同じで、一応「同人サイト」とゆーことにはなっているが、続き物を書いているうちにどんどんその意味からずれていっている。ちなみに、あまり大きな声じゃ言えないが、続き物はこの先、そういう場面があるのかどうか自分でもわからない。もちろん、始めはそーゆーつもりで書いていたんだが。
 で、だったらなんであんなものを書いているのか、と考えてみると、それはあたしがじゅんじゅんとアイジさんに己の理想の人間関係を投影していて、それがあたしの一等に求めるもので、それはああいう形でしか人に伝えることはできないから、なんだろうと思う。それと、自分の内に渦巻く孤独感、疎外感、飢餓感、そういうものを埋めるため、だろうね。
 結局のところ、あたしが「書く」動機のひとつってやっぱしそういうネガティブなものから始まっていて、たぶんそれがなくならない限り、書くことは止められないんだろうな。
 「まさか1年も」とは本当に思うんだけど、「ああいう方法でしか決して伝わることはないだろう」っていうのと、どうにもならない渇望があるからこそ、かなりほそぼそとではあるけど、書き続けているんだと思う。精神状態がアレだから続くサイトってのも「なんだかなぁ」って感じだけど。
 「人が個人的に抱える心の問題というのは、他人じゃどうにもならん」と痛感している今現在。自分のこともそうなんだけど、なんだろーなー。
 「その人が一番に欲しがっているもの」を知っていて、なおかつそれを自分があたえられない、とゆーのも知っている状態ってのは、なんつーかアレだわね。
 だってそこへは決して踏み込めないもん。
 どうすればそれが手に入るのか、その方法のひとつをあたしは知っているけど、それを押しつけるのは絶対にしてはいけない。ただ、話を聞いてうなずくことしかできない。
 それがわずかでもなぐさめになればいいけど──むつかしい。自分がそっちの立場になることも多いから、それを考えると決して不用意な言葉は吐けないし。何もできないのを痛感するしかないっつー。
 まぁそういうのもひっくるめて相手のことが好きだから、嫌ではないけどねぇ。それに、以前のように「何もできない」と嘆くこともあまりなくなったし。
 人は混じり合わない。肉体もこころも、決して混じり合うことのない別の存在だから、踏み込むことができないのは当たり前で、ゆえに嘆くことはないんだと、距離を置いてそれを見ることができるようになった。
---
 余談。
 すっかり元に戻ってるっぽい、と思ったんだが、もしかするとチェンジしたのかも。負荷に耐えられなくなったか、それとも気が抜けたか。
 裏BBSの書き込みを見て「7万? 今年中?」と疑問に思い、ピエロちゃんのサイトへゴー。
 おお、前よりは(デザイン的に)マシになったじゃないですか。──つか、相変わらずフラッシュ多用で、ADSLではないうちの環境では厳しいものがあるんだが。しかもJavaが上手く動作しないし。アイジさんもmacなんだから、もちっとmac使ってる人のことを考えて欲しい気持ちだわ。
 で、肝心の「7万・今年中」──それについての記述が見つからん。もしかして会報でアイジさんが言ってた「ファンクラブ旅行」のことか? と思うのだが、うーん、一体どこへ行けばその情報にめぐり逢えるのだらう。アルルコールに電話すりゃわかるのか?
 とりあえずもしそれがファンクラブ旅行だったとして、金はあるが仕事のことを考えるとやはり無理であろう。それに、もし仕事がなんとかなったとしても、行くのは……うーん。
 あたしは彼等には偶像であって欲しいのよね。
【このトピックへのコメント】
  • hirikaJavaがエラー起こしてたのは}を閉じ忘れていたかららしい。macだからじゃなかったのね。(2003-09-19 02:26:39)
 8月の半ば頃からかなぁ、「いつ死んでもいいや」と思うようになった。でもそれは、「自分は精一杯生きたから、もういつ死んでも後悔はない」とゆー前向きなものではなく、生きることに対する執着がなくなったからだった。
 あたしをこの世につなぎ止めるもの、とゆーのがない。すべての事柄に対し、「別にどうでもいいや」と思うようになちゃったんだな。
 友達とか知り合いとか、じゅんじゅんとかピエロちゃんとか、そりゃどうでもいいわけではないんだけど、「それがあるから死ねない」とまでは思えない。きっと「ああ、しようがないや」と思いながら死んでしまえるんだろうな、と思った。おそらく未練は残らないだろうと。
 それでなんか──特に死にたいわけでもないから死なないけど(つーか、どうしたってあたしは“死にたい”とは思えないような頭の作りになっているんだけど)、そう思うようになってからずっとそんな感じで日々を過ごしている。
 でもってなんか、気づいちゃったりしてね。今まであたしはものすごくくだらない、「じゅんじゅんに逢いたい」とか、そういうことを生きることに対する執着にしてきたんだけど、本当はそれは執着ではなくて、執着なんだと思い込もうとしてきただけなんじゃないか、と。
 あたしは本当は生きていたくなんかなくて、生きることそのものが恐くてたまらなくて、でもそれに気づいたり認めたりするのが嫌で、「生きていたい」と思い込もうとしていただけなんじゃないかって。
 本当の本当はどうなのか、自分でもわからない。今現在は絶対死にたくないしさ。だってあと二週間でじゅんじゅんに逢えるんだもん。あの笑顔を見ることが、あの声を聞くことができることを考えたら、どうしたって死んだりなんかできない。
 ただ、今あたしの気持ちがそこら辺をふらふらしているのは確かで、ここのところはね、ずっとそんな感じなのよ。死ぬ理由もないのでとりあえず生きている、みたいな。なんか半分死んでるのと同じなんじゃねぇか、みたいな状態。

 と言っても心配ご無用。なんか今さ、思ってることをとりあえず全部吐き出したいとゆーか、吐き出すことで気持ちの整理をしたい感じなのね。そーすることで心を休ませることができるんじゃないか、みたいな。
 たぶん充分に休息を取ることができれば、また以前と同じように、些細なことにひどく執着して、独り相撲だったり空回りだったりするにせよ、生きていたいと思えるようになるんじゃないかなぁ、と思うの。
 なんかねぇ、なんか。やっぱし現実の力ってのは大きいよ。生きることってご飯を食べることで、つまり生活することで、何をどう考えていたとして、どんな理想や目標を持っていたところで、ご飯を食べられなきゃ人は死ぬしかないのよ。
 ご飯を食べずに生きて行きたい──とは思うけどさ、それはどうしたって無理なんだよなぁ。
【このトピックへのコメント】
 今、ちょっと1年ほど前に人様に送ったメールを読み返していたんだが、なんか「やっぱりあたしってすごいなぁ」と自画自賛してしまった。
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やっぱりね、なんて言うのかな、「自分を受け入れてくれる人達」
が存在するのはとても嬉しいことだけれど、
そこに閉じこもってしまうことへの違和感というのがあって。
エヴァンゲリオンの「人類補完計画」じゃないけど、
「わかってくれる人」だけに伝えようとすることって、
「人が別々に存在する意味がないんじゃないか」という気がするのです。
「伝わらない・わからない人達」をも含めたさまざまな人達へ向けて
言葉を発してゆくこと、その中で生まれる喜怒哀楽を受け止めることで
自分がどういう人間であるかを知り、また「そういう自分」が
「この世界で生きていること」を実感できるような気がします。
(中略)
あたしの言葉が届く人はちゃんといて、それに動かされちゃう人もいる。
もちろんそうじゃない人に出逢う可能性の方が断然高いと思うけれど、
それでも「自分が伝わらない・自分とはまるで違う」別の人間がいると、
それを悲しみ以外の感情で受け止められるようになってきたんじゃないか、
そうなっているのだったらいいな、と。
喜びだけでなく、悲しみや苦しみも出来うる限り、
受け止めて愛おしめるようになりたいな、と思うんですよ。
---
 今現在は「自分を受け入れてくれない人達」と対峙するまでの気力がないけど、なんだろうなー、「伝えること」ってゆーのは「自分と他者は別の存在であること」や「決して理解し合うことはできない」と知るための過程でもあると思うんだよなー。
 わからなくていいと思う。理解したりされたりしなくていいと思う。それによって「相手は自分とは別の存在だ」と知り、その上で相手とどう対峙するか、関わってゆくか、距離を取るか、なんだと思う。

 ずっとね、「わかってもらえないなら書いても書かなくても同じ。だから書かない」と思って、書かずにいたことがいくつかある。でもあるとき、「書いても書かなくても同じ→書いてもいいんじゃないか」と思うようになった。
 「わかってもらえなくてもいい」と多少思えるようになったからなのかもしれないけど、それより「書きたいなら書けばいいじゃん」と。わかってもらうことに固執して「書かない」と意地になったりせず、書けばいいじゃん、と思うようになったってゆーか。
 人がわかってくれるかどうかは置いといて、自分が「書きたい」と思うのなら、その感情に従えばいいんじゃないの? それで「ついて行けない」と思った人は来なくなるし、それでも見守ってくれる人はいるし、それでいいじゃん、と。
 そりゃどーしたって許容範囲を超える「わかってもらえない」とゆーのはあるし、そーゆーもんまで受け入れる必要はないと思うけどさ、「わかり合えない」ってことを前提にして成り立ってる関係もあるでしょ。それでいいんじゃねぇ? みたいな。
 なんだろうねぇ。人と人はわかり合えないよ、どうしたって。わかり合えた、と思えることもあるけどさ。で、その事実を己がどう受け入れてゆくか。
 まだまだ試行錯誤の途中なんだろうけど、なんか、ひさびさに自分の言葉に励まされたよ。「なんだよ結構前向きじゃん、すべて捨て去りたいなんて感情はそこにないじゃん」と。
 きれいごと言ってるよなー、とちと笑えたりもするけどさ。絶望を、悲しみを受け入れてゆくことで生きてゆこうと思えるようになるのなら、もうちっとがんばってみようと思った。
2003-09-19(Fri) 23:56

散髪。

 二週間後にはライブが控えており、「こんなボサボサの頭じゃじゅんじゅんに逢えな〜い」というわけで、散髪しに行って来た。し・か・も、FOOL'S MATE10月号持参。当然じゅんじゅんのページを開き、「こんな感じにしてください」と頼んださ(アホだ……)。
 いやでもあのじゅんじゅん、ほんとひさびさに「ああ、短い髪っていいよなー」と思わせてくれるものだったのよ。この数ヶ月、こういろいろ女性向けファッション誌とかヘア雑誌を見ても、なかなか「これかわいいじゃん」てなショートに出逢うことはなかったんだが、あのじゅんじゅんを見た途端、「わー、やっぱしショートっていいじゃーん」と。
 で、仕上がりだけど──やっぱしね、素材が違うからまったくおんなじってわけにはいかないわけで、「なんかちょっと長さ違うんじゃないの〜? 頭の形とか髪の太さとか量が違うからなの〜?」とゆーのはありつつ、う〜ん、やっぱりあたしショートの方がいいわ、と思った。
 こう半端な短さじゃなく、きっちり顔の輪郭が見えるようざっくり切ってしまった方が、なんかすっきりしていい感じ。顔が濃いからさー、髪型まで凝ったものにしちゃうとしつこ過ぎるのよねー。やっぱしこうシンプルに、スッキリとした方がいい感じざんす。
 で、家に帰ってからブリーチ&ヘアカラー。取りあえず色の段差はそれほどではなくなったので成功。色はピンクとオレンジがかった茶色……? きっとライブまでに色が落ちてしまうと思うので、もういっぺんやらなきゃいけなくなるんだけど、満足満足。

 ちなみにー、美容師さんにじゅんじゅんを見せたらー、「女の人?」と訊かれた。爆笑。いや、これどーやったって男にしか見えないと思うんですけど。しかもじゅんじゅん30だぞー。
【このトピックへのコメント】
  • hirikaてゆーか、この歳になってそーゆーことするのってどうなの? そりゃ髪切ったせいでまた一段と若返った感じで、どーしたって20代にしか見えないような気が、自分でもするけどさー。(2003-09-20 00:38:22)
ウロボロス 2003-09-19 01:23「心を休ませるために。」へのコメント:

 メールでコメントをいただいたのだけど、メアドはあれど名前がなく。メールをお送りするのはちとためらわれるので、ここでお返事しちゃいます。
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 あたしはそういうのを情けないとは思ってないんですよ。御大層な理由を並べられるより、よっぽどリアリティーがあるし。執着って本人にとってのみ重要とゆーか有効とゆーか、大切なことだと思うから。端から見たらきっと「すんげーくだらねぇ」と思われてるんでしょうけどね。
 はてなの方の日記を削除したいのだが、一括削除ができないようなので困っている。取りあえずログも落としたし、もう使用するつもりはないのでサックリ削除してしまいたいのだが。
 検索に結構引っかかってるし(主にあらたん&伊勢谷くん)、削除すれば気持ちだけ、負荷も減るんじゃなかろーか。
 うーん、ひとつずつ削除すんの面倒だしなー。どーしませう。
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 で、はてなの方ではずっと「じゅんじゅん」「アイさん」「しんやさん」だったピエロメンバーの呼称だが、なんでそんな呼び方をしていたかと言えば、きっぱり検索避けである。
 ARATAさんであれだけヒットするのだから(ARATA、アラタ、あらたん、新、井浦を含む)、「アイジ」なんつー滅多に見かけない……というか、他にそんな人が存在するとは思えない名前をそのまんま書いてしまったら、一体どうなることか。
 基本的に歳若いピエラーちゃんとは関わりたくないので、「いやーん来ないで☆」てな気持ちで一杯なんである。とは言え、「じゅんじゅん+アイアイ」でヒットしたりしてたりして、「あーあ」てな感じなんだが。
 まぁともあれ、はてなは検索にヒットし過ぎ。なのでそれを回避するためにふだん絶対にそんな呼び方はしない呼称で書いていたのだった。ああそれに、キリトさんの場合キリさんと被ってるし。
 だからまぁ、こちらに移ってからは「きっとそれほど検索に引っかかんないだろう」とゆー希望的観測のもと、アイジさんはアイジさん、キリトさんはキリトさんと書いている。
 じゅんじゅんもね、「別に潤くんでいいじゃん」」とは思うんだけどさ……。あまりにも「じゅんじゅん」と書いてばかりいたのでそれに慣れてしまい、「潤くん」と書くと緊張してしまうのだった。
 そう、「潤くん」と書くと訳あって己の心の内にある恐怖と対峙しなければならなくなり、「じゅんじゅん」と書くことであたしはそれから目を逸らしているのだな。はー、ここら辺があたしが激痛ジャーたるゆえんだなー。
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 あ、あとふと思ったんだけど、アダルトトピックって日記会員か読者会員にならないと読めないのな。同人(18禁)書きたくて、なおかつ読者制限したい人って、そう考えるとここ、すごい便利な気が。文字数制限もないしさ(当然利用規約は守った上での話だけど)。
【このトピックへのコメント】
 昨日今日とめちゃくちゃ寒い。昨日はなんとか我慢したが、今日はとうとうファンヒーターを入れてしまったのことよ。何もタイミングを図ったかのように、人が髪を短くした途端に寒くならなくてもいいのに。
 一昨日は外気温が30度を越えていたと思うのだが、今日は室内温度18度ですってよ? やめてくれー。寒暖の差が激しいと身体がついてゆかなくて体調崩すんだよぅ。
 竹内久美子さんの『シンメトリーな男』には以下のような記述がある。
ある人の手足の指を見るとことは、その人の生殖器を見るに等しい。

 で、昨日ふと思い出したんだが、SHOXX2001年7月号──アイジ×潤と大きく書かれ、水色の二人が表紙のヤツな、あれに掲載された写真で一番好きとゆーか、妄想を掻き立てられるのって、どちらかの手が相手の手首を掴んでいるものなのだった。
 どっちがどっちがわからないが(たぶん掴んでいるのがアイジさんで、掴まれてるのがじゅんじゅんだと思う)、手だけが写されたあの絵が、あたしは一番色っぽいと思うのだ。
 ……これってつまりはそういうことなんだろーか。いや、指じゃなくて手全体がイイわけなので、「決してそんなことは!」と言い切ることもできそうだが。
 しかし今回これを書くにあたりSHOXXを見返してみたところ、「じゅんじゅんの手ってスゲー好きかも」と思ったりなんかして、ええーと、うーんと、そのー……。
 まぁ、ジャーだし。
 観た。さっきテレビで。なんつーか、やっぱし『戦場のメリークリスマス』同様、よくわからん。むつかしーっす、大島渚監督の描かれるものは。
 でこの映画、実は職場に新譜案内書が来て、その中にサントラのことが掲載されてて、それを見てからずーっと気になっていた(一体いつの話だよ)。何が気になるかってそりゃ、内容がアレだってのもあるが、武田真治が沖田総司役っつー、そこが。
 「イメージが違うー!」みたいな? 新撰組は2冊ほどしか(しかも10代の頃)読んだことはないが、「武田真治が沖田〜?」みたいな、なんか納得のいかないものを感じていたのよ。
 ところが。
 さっき観たらさー、何? もうもうもう! すっげぇいいよ? 武田真治@沖田総司! こんなハマる役者他にいないんじゃないの〜? てなくらいあたし的に非常に素敵な沖田で。ああもうすんげぇラブ。できることならもうちっと画面に出てきて欲しかったよぅ。
 つーか、たけし@土方とのやりとりがもう素晴らしく。観ていて心が癒される感じだったわ。やっぱり沖田総司って魂がきれいとゆーか、爽やかとゆーか、純粋とゆーか、汚れがないとゆーか、そんなイメージなのよねぇ。
 あああ、司馬遼太郎 の『新選組血風録』買うか?(昔読んだのこれだったような気もするが)

 ちなみに、寺島進さんが一瞬だけ出てきてうれしかった。で、ふと「寺島さんと浅野さんて『DISTANCE』の前に同じ映画に出てたんだー」と思ったり。
 観た。観たさ、ああ観たよ。DVD持ってんのに。いやだってどのシーンがカットされちゃうのか気になってさー。あとアレよ、あらたん地上波初! てことで。せっかく地上波であらたんの姿が見れるのだから、あらたんラブのあたしとしてはこれはもう見なきゃダメでしょ。
 てことで。やってくれたわね。他のシーンは許せるとして、

星「お前と一緒だと楽しいよ。会話も弾むしね」

星「次?」
月「次の次」

月「イン・ザ・USAも唄いなよ」
星「はい?」
月「別に」

 これはカットしちゃダメでしょ。いや、ストーリーには直接関係ないけどさ、この会話が二人の関係をすごくよく説明してるわけじゃないすか。
 スマイルがなぜペコにあれだけ思い入れたり、逆にペコが「スマイルが待ってんよ」と言うのか、あれではあれではあれでは……。
 や、きっとわかる人にはわかるんだろーが、なんか、ああ、やっぱし「DVDで観てください」と今日テレビで観た人に言いたい感じ。や、それを言うなら「原作も読んでみてね」つー感じなんだけど。

 ところで。
 今日『ピンポン』が放映されたってことで、またあらたんファンは増えるのだろうか。別に増えてもかまいやしないが、検索ではてなの日記とか、本家のアレにたどり着かれるとちといやんな感じ。別にヤバイことは書いてないけどさ。
 そしてあらたん。やっぱしさ、「あれはあらたんじゃないよなー」と思った。つーか、ARATAさんじゃない。アラタ@スマイルなのよ。なんかあたしの中では、あらたんとアラタ@スマイルって分離しちゃってる。
 たぶん『DISTANCE』のせいだと思う。

 風邪ひき中+発熱中なので書いてることぐちゃぐちゃだ。
 ひと通り心の内を吐き出したせいか、気持ちはずいぶんと落ちついている今日この頃。しかしいきなり寒くなったせいで体調を崩しまくり、どうにも起き上がっているのさえツライっちゅー(いや、今日は仕事に行ったが)。軟弱な身体め。

 閑話休題。本家はトップページのみアクセス解析をつけているのだが、昨日はあらたん部屋からお越しの方が非常に多く。あらたん部屋からお越しの方だけでふだんのアクセス数を上回ってたよ。ぷ。
 なので、「検索からやって来た可能性もあるが、どこかからリンクでも貼られているのかしらん?」と思ってみたり。まぁどうでもいいんだけど、ちとびっくりとゆーか、笑える出来事だったので。

 明日明後日は仕事が休みなので、なんとか身体の調子を元に戻さないと。来週はライブだし。
2003-09-26(Fri) 00:38

観たい映画。

 ひさびさにこちらを訪れ、是枝監督の言葉を読む。「ええー、あのCMって是枝監督だったの?」とびっくりしつつ、あらたんは出ないけど、『誰も知らない』観たいなー、と思ったり。
 『DISTANCE』にあたえられた衝撃っていうのがすごく大きかったんだよね。それで「この人はこの先どんな映画を撮るんだろう」と興味を持った。サイトに置かれたメッセージを読むと、「うーむ」と唸っちゃうことも多いんだけど、ちょっと、追いかけてみたいなぁ、と。
 『誰も知らない』の公開は東京で来年の春、ということで。きっとDVD化されるまで観れないと思うんだけど、早く観たいなー。タイトルもすげぇ好きなんだよねー。

 そうそう、伊勢谷くんの『カクト』も観たいんだよなー。で、伊勢谷くんと言えば今度これが公開されるんだわ。
 観た(最近この始まり方多いな)。毎週放映されている頃は観たことがなかったので、これが初めて。なんで観てなかったのかとゆーと、ご想像の通り、あたしの場合ああいうのに過剰反応して異様なほどムカつくからですな。
 で今日観て。「ふーん」みたいな?
 なんだろうなぁ、親に虐待を受けたとしても真っ当に育つ子供達ってのがほとんどだと思うのよ。罪を犯してしまうのはきっと0.1%にも満たないんじゃないの? と思う。
 ただね、そのラインを越えるか越えないか──その境界線近くをふらふらしてる子ってのは結構いるんじゃねぇの? とも思うんだけど。
 今の子達が何を考えているのかなんてわかんないよ。うん、わかんない。昔、あたしが抱いた殺意は本物だったし、何度か刃物を手にして迷ったけれど、そのときの自分の感情がどんなものだったかは憶えてると思うんだけど、そーゆーの、今と昔じゃ違うところもあるだろうし、それ以前に、ひとりひとり違うものだと思うしねぇ。

 やっぱしさ、思うのよ。こういうドラマとかを見ると。少年はいいよなって。罪を犯すから社会が注目してくれるじゃん。少女達がどれほどリストカットしようが接食障害起こそうが、まぁ他にもいろいろあるけど、そーゆーことしてもさ、社会は動かないよね。あたしが知らないだけなのかもしんないけど。
 なんつーか。
 今ひさしぶりにあゆの『A BALAADS』を聴いてるんだけど、なんだろうなぁ、やっぱしある種の人達にはこういうものが必要なんだよねぇ。「闘ってる人」。
 あたし自身心惹かれる人ってのもそうなんだけど、やっぱし闘っている人に強く惹かれる。端から見て「辛そうだなー苦しそうだなー」って感じではあるんだけど、それに屈しないで立ち向かおうとする人な。
 心はさ、決して混じり合うことはないのよ。どれだけ愛し愛されても、身体をつないでその存在を確かめたとしても、どうしようもなくぽっかりと空いた心の空洞を埋めることはできない。
 きっと意識できずとも、そーゆーのを知ってるんだよな。だからそれを怖れずに立ち向かう人に力づけられ、励まされる。ちなみにあたしが一番励まされるのは元女王様(復帰するつもりはないらしい)なんだけど。

 なんか話が『TEAM』からそれちゃったけど。最後に黒木瞳さんが言った「私達にできることをしましょう」って言葉がね。それしかできないわけじゃない、それをすることでわずかでも世界は変わってゆくんだと、そう信じたいよなー、と思った。かなり弱気な感じで。
【このトピックへのコメント】
ウロボロス 2003-09-26 23:58「『TEAM』」へのコメント:

 追記ってゆーか。

 「人を見ると身体がビクっとなって」だっけ? 確かそんなセリフがあって、それを聞いてちと笑った。
 や、笑ってる場面じゃないんだけどさ、ねぇ?
 身体は正直よ。あたしもある一定の距離より近づかれると、どれほど親しい人でも身体がすくむ。男女は関係なく。たとえ家族であっても。
 これはどうしようもない。どれほど頭で「この人は大丈夫」と思っていたところで、身体は恐がるのよ。すべての人を。
 これは本人にしてみれば、笑うしかない。
 どこかで「これは女性に限ったこと」だと読んだ憶えがあるのだが、どうして人は服を買って家に帰ると休む間もなくひとりファッションショーを始めてしまうのだろう。それも、特によそゆきの服とかじゃなくて普段着でも。
 まぁこんなことを書くのも、今日お洋服を買って来て、さっきプチひとりファッションショーを開催したからで。購入したのはジーパンとTシャツで、ちゃんと試着もしてきたわけだし、別にわざわざそんなことしなくてもいいのに、なんで自分は毎度毎度コレをくり返しちゃうんだろうと、ふと疑問に思ったからで。
 しかもなんか、購入した服がお気に入りであればあるほど、何度も着たり脱いだりをくり返しますな。で、それを着た自分に見入ってしまうっつー。いやもちろん、そーゆーときとゆーのは自分のツラはできるだけ見ないようにし、首から下だけに視線を注ごうとするわけだけど。
 まぁその辺も含めて、不思議ですなー。
【このトピックへのコメント】
  • ばし男もそうだと思いますよ。ツラを見ないあたりも含め。(2003-09-28 22:33:25)
  • hirika周囲にそういうタイプがいないので女だけかと思ってたんですけど、男性もそうなんだー。(2003-09-28 23:27:29)
2003-09-28(Sun) 13:26

睫毛。

 自慢じゃないがあたしは睫毛が長い。平均1.5センチくらい?
 で、雨とか曇りの日ってビューラーでくるんとさせてもすぐ真っ直ぐになっちゃうんだけど、今日みたいにお天気の良い日は持ちもいいみたい。今化粧直しをしたんだけど、まだくるんとしてていい感じ。
 些細なことなんだけどさー、睫毛の状態でやっぱし顔の印象って違って見えるからさー。睫毛がくるんとしてると、なんか気分も上向く感じ。
 てことで、今ひさびさに『大きな河と小さな恋』(サントリーウーロン茶のCM曲)を聴いている。他の部分の歌詞は忘れたが、「世界第一的恋情〜♪(シージエディイーダリエンチン)」だけは唄えるぞー。
 で、この『大きな河と小さな恋』を唄っているのはaminという上海出身の女性で、今度……いつだったか忘れたが、山下達郎の『クリスマス・イブ』のカバーを出すのよ。でその後発売予定のアルバムにもそれと、あと『大きな河と小さな恋』のクリスマスバージョンが収録されるとゆー。
 なんかちょっとね、ここ数年メーカーの「売れるときに売っとけ!」的な思惑があからさまに見えて(『Chai』がそこそこ売れたので便乗して売ろうとゆー)、ときどきCD屋で働いてるのが嫌になるんだけど、これは結構欲しい気持ち。
 ジャンル的に言うなら『Chai』は癒し系・ヒーリング系(同じ)になるのかなぁ。あらたんがCMナレーションをやってるのに釣られて買ったんだけど、コレ、なかなかいいのよ。声がちとヲタク向けかなぁって気がしないでもないけど、広東語の響きが耳に心地良いし、聴いてると優しい気持ちになれるし。
 あたし的に女子十二楽坊よりオススメなので(20代後半から30代の女性向け)、もうちょっと『Chai』売れて欲しいす。そして『クリスマス・イブ』もぜひ欲しいぞー。
 ピエロちゃんのニューマキシが出るよ!
 12月3日発売、\1100(税込)、規格はUPCH-5223、タイトルは

『脳内モルヒネ』

 カップリングその他はわからん。案内書が来たわけではなく、今日職場のPCで何気に検索してたら出てきたデータなわけで、実は価格も予想だし(原価しか載ってなかった)。
 これ、あたし的には非常にうれしいことで。だってさー、ライブのアンケートあるじゃん。あれに書く「好きな曲のタイトル3つ」のうちのひとつは、いつも必ず『モルヒネ』なのよ。
 『CELLULOID』収録の『モルヒネ』も好きだけど、やっぱ今のピエロちゃんがやったらどーなるかっつーね、そりゃライブで聴くことはできるけど、手元に音源が欲しいじゃないすか。
 きっとコレ、また賛否両論あるんだろうけど、あたしは歓迎でごさいますですよ。まぁPVはね、きっとどれだけ金かけたってあれ以上の物は出来ないと思うけど。

 で、『モルヒネ』が出るとゆーことで現在脳内小躍り大会開催中なわけで、ひさびさに『Prototype』なんぞを観た(リピートで)。
 うはー、じゅんじゅん若! しかも今より華奢でかわいいっつーか、美人。『CELLULOID』が発売されたのが97年9月3日なので、えーと6年前? てことはじゅんじゅん24か。わはははは、そりゃ若いしかわいいわ。
 てゆーか、よく見ると今現在のじゅんじゅんより『モルヒネ』のじゅんじゅんの方が細いね。今のじゅんじゅんは引き締まった身体つきだけど、『モルヒネ』じゅんじゅんはほんと華奢って感じで、その違いなのかもしんないけど。
 チケを見る限り、「どこぞの大国に喧嘩売ってるんですか?」と訊きたくなるピエロちゃんのツアー、日付け的には本日からですな。
 今回あたしは二ケ所に参加するのだが、妹ちゃんは11ケ所ってことで、今日のさいたま市文化センターにも行くらしい。でその、「元は浦和市文化センターだったんだよねー」(妹ちゃん談)とゆーさいたま市文化センター、妹ちゃんに「席どこ?」と訊くと「3階」というお答え。が、しかし。
 「変なホールでさー、2階が6列、3階が8列しかないんだよねー」
 ……それ、2階と3階を分ける必要ってあるんだろうか。いや、構造上の問題とか、建築法の関係とか、いろいろあるんだろうけどさ。なんかこう、「変なホール」と思った。
 昨日今日とご飯がおいしい。別にいつもより良いものを喰ってるわけではなく、いつもと同じお弁当屋さんのカツ丼とか、おうちのご飯なので味はそこそこだったりするんだけど、なんか「おいしいなぁ」と、「ご飯を食べるのってうれしいなぁ」と、思う。
 たぶんこれ、気持ち的なものなんだろうね。気持ちが安定しているから、物事を肯定的とゆーか、ポジティブに感じることができるんだと思う。
 悩みとか問題とかがすべて解決したわけじゃなく、相変わらず心を痛める事象もあったりするし、逆に特別うれしいたのしいことがあったわけでもないんだけど、そーゆー中でちゃんと「ここ」っていう、自分の立っている場所、足元の地面を感じることができるとゆーか、「地震みたいにかすかに揺れてはいるけど、自分の足で踏みしめている地があるよ」みたいな、そういうのを感じているから、足元が崩れ去ってゆくような不安感はあまり大きくならず、特にすごく前向きになったり、後ろ向きになったりすることもなくいられるんだと思う。
 不安定過ぎるのも安定し過ぎるのも「どうよ?」って感じだけど、こういう微妙に揺れながらバランスを取ってるのって、なんかいい感じ。うん、「ご飯がおいしい、と思えるのっていいよなー」と思う。