hirika
 『浮気人類進化論』というのはまぁ、動物行動学の本なのですが、動物の世界にもきびしい社会といいかげんな社会とがあって、繁殖に関してはいいかげんな社会の方が弱者に救済があるのです。
 動物の社会では個体の優劣というのがはっきりしています。優れた強い個体が生き残り、子孫を残します。弱い個体は交尾することすらできません。
 でも、それは同じ動物社会でも「きびしい社会」でのことなのです。「いいかげんな社会」では弱い個体も繁殖するチャンスがあたえられています。
 しかし、そもそも善悪とは何だろう。彼らの世界では小さな悪が頻発する代わりに大きな悪が増殖しにくいというのも事実なのである。
 私は、いくつかの抜け道や人生の選択肢があり、弱い者だからといって即、排除されるわけではない柔軟で融通のきく社会を素晴らしいと思っている。そして、それを敢えて「いいかげんな社会」と呼びたい。「いいかげんな社会」では、驚くべきことに、動物界最大の罪悪の一つとも言うべき子殺しが防がれているのである。
竹内久美子『浮気人類進化論』148Pより
 そして──まぁこれを人間に当てはめるのはどうかという気もしないでもないですが「いいかげんな社会の「弱者でも即、排除されない」というあたりに希望が見えたりするのです。

 正論というか、「正しいこと」というのはなぜかはっきりとした理由もなく強いと感じます。対峙しなければならないことから逃げたり、楽をしようとすることを指摘されると、理由もなく後ろめたさが湧くことがあります。
 けれど、そうやって物事を善悪で分け、厳しさばかりを強いる社会というのは本当に素晴らしいばかりなのか、とも思うのです。小さな悪はたびたび起こるけれども抜け道があり、弱者にもチャンスがあたえられる社会──どうしたって弱者の方が多いと思わざるを得ない人間の社会では、ある程度の「いい加減さ」が必要なんじゃないかなぁ、と思うのです。
 弱いことそのものが悪だ、と言われたら返す言葉はないというか、「そういう人はそれでいいよ」で終わってしまいますし、現在の社会はいい加減になり過ぎたというか、厳しさは排除されてゆく傾向があるように思います。しかしだからといって、急激に厳しさを求めるのはむずかしいし、やはり厳しさに耐えうる人々というのはそう多くはないんじゃないでしょうか。
 今の世の中はあまりにも「厳しさ」と「いい加減さ」が離れ過ぎ、中間がないような気がします。それはそれでもう、変えてゆくことはむずかしいでしょうからあれこれ言っても始まりません。ただ、今の「いい加減になり過ぎた」社会の中で、人々に救済をあたえつつも、ひとりひとりの人間に強さをあたえる方法はないかなぁ、と思うのです。
 弱者が弱者のままで、けれども部分的にでいいから、強さを持てるようになる方法はないのかなぁ、と。
 人間はあまり──というかほとんど子殺しをしませんが、動物界ではそうでもないようです。
 ハヌマンラングールは(リンク先にも書いてありますが)ハレムのオスが交替するとき乳飲み子をすべて噛み殺すそうですし、ライオンは食事をする際子供達を後回しにし、あえて、そう多くは残っていない肉の取り合いをさせ、その争いに勝てない子は餓死してしまうそうです。
 は、やっぱし敷居高いよなぁ。さっきグループの方のリファに「はてな+フォントサイズ変更」での検索ってのがあったんだけど、はてなでフォントサイズ変更しようとしたらスタイルシートいじるしかないわけで、でもあれは、それがわからない人にはどうしようもないだろうしなぁ。
 まぁあたしも1年程前「どこいじれば色変えられるの〜?TT」とゆーところから始めたわけだけど、そういう面倒なことはしないで簡単に変更したいってゆー人にとっては、ねえ。フォントサイズひとつ簡単に変更できないのか! とわかると敬遠しちゃうわなー。
 あたしは刃物が嫌いです。どのくらい嫌いかというと、まず剃刀が駄目です。包丁も嫌いで、料理をしていて使用しているときはいいのですが、ほんの数分、その辺に除けておくのが嫌。使わないのに置いておくのが嫌というか、基本的に刃物を目にするのが嫌なのです。で、なぜ刃物を見るのが嫌なのかというと、たぶん、切り傷を連想してしまうからだと思います。
 別に「昔刃物で切りつけられたことがある」とか、そういうトラウマがあるわけではないんですけど、どうにもこう、刃物での切り傷というのが、肌から覗く赤い血肉とのコントラストというのが駄目なのですよ。なのでスプラッタ映画は一切見ることができません。どんなに作り物だとわかっていても、どうにも背筋がざわざわしてしまって駄目なのです。
 なので、今日こちらを読んで思ったことは、「医者もすごいが、手術のようすを正視できるシビルさんもすごい」でした。あたしは絶対そういうものを見れません。なのに真剣かつ冷静に見ているのです。
 変にぎゃあぎゃあ騒いだりおもしろがったりせず、こうしてきちんと見ることができるというのは本当にすごいと思うし、それに関係することに向いているのだろうなぁ、と思いました。
【このトピックへのコメント】
  • hirikaあ。今気づいた。日記才人での更新報告、「日記才人・日記批評」ですれば良かったんだ。←面倒なのでいつも雑記カテゴリ。(2004-06-19 01:02:08)
 潤いが欲しい。「潤じゅんが欲しい」でも可。

 ということで、心を潤わせようと『王子さまLV1』をプレイしようとしたんですよ、昨日。あのドタキュンっぷりを見れば少しはしあわせな気持ちになれると期待して。
 なのに仕舞っておいたプレステを1年ぶりくらいに引っぱり出して来て電源を入れたらね、ディスクを読み込んでくれないの。
 マジで? と思って何度もリセットしたり電源を入れたり切ったりしたんですが、「ジャーン」という音の後、ディスクを入れないで電源入れたときの画面しか現われないんです。
 そりゃ放置したままだったあたしも悪いかもしれないですけど、何ひとつ乱暴な扱いなどせず、ただ置いておいただけなんですよ? なのになぜ壊れるよと、すごいショックです。
 つかね、せっかく心が潤おうであろうと期待してたのにそれが裏切られたのがね、うわああああああぁん!みたいな。

 PS2を買えという神の啓示なんですかねー?
 憎しみは憎しみしか生まない。どれほどに憎しみが募ろうとも、苦しみに胸を掻きむしろうとも、それを止めなければ憎悪の連鎖が切れることはない。
 なぜ己だけが耐えねばならぬのか──そう思うこともあるかもしれない。けれど誰かが憎しみを止めるのを待っているだけでは何も変わりはしない。
 誰かに求めるのでなく、まずは己がそれをしようと努めること。そうすることでしかきっと何も変わりはしない。
 眞理亜さんに「「ila」はサビくらいしか聴いてないですけど、「Chaplin」に入っている曲とはそんなに遠くない感じでしたよ」と教えてもらったのに続き、zirさんまでもが「「ila.」に近い雰囲気といえば「Chaplin」収録の「baby baby」を推します、私は。」と書いています。これはもう買うしか! ちゅー感じですな。
 が、しかし、しかしです。『ila.』フィーバー中、一応取り寄せしようとしたんですよ。問屋に在確しようとしたんですよ。そしたらね、前はあったデータがなくなってんの。……え? みたいな。
 バロックオフィシャルサイトで確認したところ、ジャケに見覚えはあるとゆーか、以前はうちの店にも在庫があった商品なんですよ(特殊パッケージだったのでよく憶えています)。てことは取り扱いのあった商品なわけで。なのに今はデータすらない……。
 これたぶん、問屋で取り扱い外になったか、それとももう取り引きされなくなってしまったんでしょうね。だからデータが消されてしまったのだと思います。ちとショック。
 まぁでも、他にも入手方法はあるでしょうし、どーしても欲しい聴きたいってわけでもないのでまぁいいです。縁があったらね、出逢うこともあるでしょうし。今後発売される音源に期待してます。アルバム早く出ないかなー。
 ここ二週間ほど体調不良です。昨日はとうとうダウン、仕事を病欠してしまいました。何が原因かというと、まぁここのところの天候に身体がついてゆかないだけなのですが。加えて、それに影響されて気分も沈みがち。精神状態は悪くないものの、どうにもこう、体調の悪さに引きずられて活力低下中です。
 で、こういうときに人様の日記で「こういうことがあって楽しかったよ」という記述を読むと癒されますな。
 自分自身がダメダメでも、自分が好んで読んでいる日記書きの方が楽しそうだったりうれしそうだったりすると、「良かったなぁ」と思い、そういう“人のしあわせを喜べる気持ち”が、自分自身のささくれだった心を癒す効果があるようです。
 時と場合によっては逆効果、余計荒むこともありますが、こうしてただただ「良かったなぁ」と喜べる日記があるというのはいいものだなぁ、と思いました。
 ちょっとお聞きしたいことがあるんですが>本家散文を読んでいらさる方々。
 『真面目』だけでなく『煩悩』も含めてでいいんですけど、一番印象に残っている文章ってどれですか?
 まぁ人に何を言われようが「何をどう書くか」を変えたりはせず、“書きたいとき”に“書きたいこと”を“書きたいように”しか書かないあたしではありますが、参考までにお聞きしたいな、と思いまして。
 こう漠然と、「あー、きっとこういうのを読んで好意を持ってくれてんのかなー」と思うことはあるんですけど、それはあくまであたしの推測であって、本当のところ、読み手が何を好き好んで読んでくれているのかってのはまったくわからないんですよね。4年もやっていて。
 なのでこう、よろしければボードの方にコメントしていただけるとありがたいです。感想が欲しいわけじゃなくて「どれが人様の心に引っかかっているのか」が知りたいので、各文のタイトルだけでいいので書いてもらえるとうれしいです。
【このトピックへのコメント】
  • hirikaここのボードね。(2004-06-24 23:23:23)
  • シダ1つに絞るのは難しいですが⋯今は『絶望という祝福』と『悪意ならいい』かなあ。結局絞れてないですね。「一番」ってのは難しいです。(2004-06-25 01:12:42)
  • 月浬一番印象に残ってて未だに不覚にも泣きそうになるのは「かなしいな」です。hirikaさんのサイトに通うようになった切っ掛けも多分これ。(2004-06-25 01:36:35)
  • zir[URL]「衝動の行方」が好きです。考え事をしていてふと思い出すのは「あなたを探さない」。印象に残ったという意味ではこちらの方かもしれません。(2004-06-25 03:17:15)
  • 佐和zirさんとかぶりますが、「あなたを探さない」。勝手に自分の経験に当てはめて、震えるほど感動したのを覚えています。(2004-06-25 09:57:19)
  • 環和我話「Re:アンケート、というか。」今更なんですが。このアンケートを見たとき、すぐにぱっと浮かんだのは、「忘れていいよ」。でもこれは、そのときのわたしの心境に引き付けて読んだから、という理由が大きいので、回答するのを躊躇しました。...(2004-08-16 21:59:25)
  • Nana初めまして。大きくなったら何になる?が一番最初に目に飛び込んできました。時間が足りなくてまだ全部読めてないですけど”大きくなったら〜”を読んだときにhirikaさんてかっこいいかもと一目惚れ。(2004-12-08 19:56:31)
 去年の11月17日はピエロ上手ギター、アイジさんの誕生日でした。なのでオフィシャルサイトの掲示板へ行き、「おめでとう」の書き込みをしました。
ハッピーバースデー。
アイジさん誕生日おめでとう。
20代最後の歳、楽しんでくださいませ。
 で、書き込んだ後もちょこちょこと覗いていたのですが、あたしの書き込みの後、「20代最後ですね、うんたらかんたら」という書き込みが出てきました。カチンときました。
 あたしは30代です。自分自身が29歳だったときに感慨があるわけで、だからこそこれから29歳という年齢を迎えるアイジさんに「楽しんでくれ」と書きました。書き込みに年齢を付記したわけではありませんが、あたしなりに意味を込めたバースデーメッセージだったわけです。
 なのにそれをパクられたという。いえ、それを書いたのが30代以上のピエラーちゃんなら別に気にはしないです。同じような思いでしょうから。でも、どこからどう読んでも10代の子娘としか思えないような人がそれを書いているのを見て、あたしは「痛いなー」と思いました。
 どうしてそう人真似をするのか。いえ、真似をすることが悪いとかムカツクというわけではありません。ただ、あまりにも安易だな、と思うのです。他人が使っていた耳障りの良さそうな言葉や、気の利いた言い回し、それらを目に止めるとこぞって使うようになるのが安易だというのです。
 人はひとりひとり感じることも、思うことも、考えることも違うはずです。アイジさんの誕生日に何を思うか、どんなことを伝えたいと思うか、それもひとりひとり違うはずです。自分の中の思いや感情を言葉にしようとするとき、どれほど似通ったものであってもそれは微妙に違うものになると思うのです。それを、人から借りて来た言葉で代用してしまう。
 その安易さはアイジさんに対してとても失礼なことではないのか──とも思いますが、まぁそれはさて置き。人に言葉を発するとき、自分は何を伝えたいのか、何を思っているのか、それを己が知っていなければなりません。それらは上手く言葉にできない、形を取らない思いであることもあるでしょう。しかし自分自身の中を見つめてそれを探そうとしない限り、人に伝えようとしたところで何も伝わりはしないのです。
 もし上手く言えない、言葉にならないなら、それをそのまま書けばいい。まとまらない思いをそのまま、ああでもないこうでもないと書き綴れば良いのです。そうすることで、「意味はよくわからないけど気持ちはわかる」ということも多いのです。人の言葉を借りて綴られる言葉は、その人が何を伝えんとしたのか、相手に伝わることはありません。
 おそらく、「20代最後ですね、うんたらかんたら」という書き込みをしたピエラーちゃんは自分の感情、気持ちを表現することを回避したのでしょう。自分と向き合い、自分の心を見つめることを放棄した、と言えるかもしれません。そうして、その辺にあった言葉を拾ってきてはつなぎ合わせ、自分のメッセージとしたのでしょう。
 ピエラーちゃんがなぜそんなことをしたのか、はわかりませんが、そうして“自分と向き合うこと”から回避するのが日常的になっており、その自覚がない、というのは多くの日記や書き込みなどを読む限り確かではないかと思います。そして“自分と向き合うこと”から回避するゆえに「自分が何を感じ思い考えているか」がわからなくなり、そうなるとさらに自分と向き合うことを避け、他人の言葉を借り、そうすると増々自分がわからなくなるという悪循環。自分が何を感じ、思い、考えているのか。それが自分でわからないピエラーちゃんはとても多いのではないか、と思うのです。
 そして、何もこれはピエラーに限った話ではないとあたしは考えています。自分と向き合うことから極力回避しようとし、テレビや雑誌、その他さまざまなものから得た「自分の心の有りようを現わしているかのような言葉」のみによって、自分の思いや感情を語ろうとしている人がとても多いようにあたしは思うのです。
 そのときに使われる言葉の多くは借り物です。自分の内からわき上がってきた思いを自ら言葉に変換したものではありません。ゆえに自分自身ですら己の言葉に齟齬を感じ、しかしそれが正しいのだと信じて人とコミュニケートします。自分の思いを借り物の言葉で伝えようというのですから、もちろん意志の疎通ができるはずもありません。
 人とのコミュニケーションはとても大切だと思います。ネットに於いて言葉を綴ること、どうしたら人に伝わる文章を書くことができるのかと考えることもとても大切だと思います。でもその前に、「自分が書いているのは本当に己の内から湧いてくるものであるのか」「人から借りて来た言葉ではないのか」を考えてみる必要があるのではないでしょうか。そしてさらに言うなら、自分は自分の心と、感情と向き合っているのかを。
 自分は何を伝えたいのか。それがわからない限り、どれほど言葉を重ねても何ひとつ伝わりはしないでしょう。人に伝えようとする前に自分の感情と向き合うこと。自分は何を感じているのかを見つめようとすること。人とのコミュニケーション以前に、まずはそれが大切なのではないかと思います。
 ピエラーちゃんにしても、先日キリトさんの「リスカ発言」がありましたが、リスカなんぞ単に見えやすい表面的なことでしかないのです。本当に問題なのは、問題としなければならない根本は、こうして“自分と向き合えない”“自分の感情がわからない”ことが当たり前になっており、その問題の重要さに気づいていない人が多い、ということだと思います。
 昨日募集したアンケートに早速コメントしていただき、ありがとうございます。
 正直、一週間くらい待たないと複数集まらないだろうと思い、サイドバーにリンクを貼ったのです。なのでこんなに早くコメントをいただけてとてもうれしいです。や、最初見た途端「えええええ〜? なんで?」と困惑してしまいましたが。←ほら、普段ほとんど反応ないから。

 で、ぱっと見た印象ですけど、ほぼバラバラですな。あたしは一度書いてしまうとそれで満足してしまうのか、内容をすっかり忘れていたので全部読み返さなければなりませんでしたが、読み返してもやはり内容はバラバラ。
 こう、ときどきキレる原因となるメールとか書き込みを見る限りでは、「こころのもんだい」に書いたことに集中するんじゃないかと予想してたんですけど、そんなことはなく。……なんか、こう、ほっとしてしまいました。
 ここの日記なんかはもう、ほんとに何も考えずに書いてますけど、本家散文は結構いろいろな意図を込めて書いてたりするわけです。でもね、そういうあたしの意図なんぞお構いなしに、読み手は己の好きなように読むんだなぁ、というのがわかって安心したというか。
 「こういうことを読み取ってくれ」とか「こういうふうに読め」みたいなことを考えてたりするんですよ、本当のところ。でも、そういう読み方をしている人が(今のところ)いないっていうのがね、うれしいのです。
 だって人と人の関係って強要されるものではないじゃないですか。あたしは好き勝手に書いて、読み手はそれを好きなように読んでっていう、社交辞令を言うのでも愛想を振りまくのでもなく、それぞれがやりたいようにやれているっていうのがいいなぁ、と。
 まぁこういう場へは決して出て来ない人達、というのもいるのでアレですけれど、「読み手は自分で好きなように読み、自分なりの意味を乗せてゆく」ということがわかり、それを「誰もあたしをわかってくれない」と思うのでなく、逆に喜べる自分がいるのだとわかって本当に良かったなぁ、と思います。

 アンケートはしばらく続行しますので、コメントの方、よろしくどうぞ。便宜上「一番」と書いてますが、ひとつに絞らなくて結構ですので。
 それと、まさか本家の方も読んでいるとは思わなかったのでびっくりしました。どうもです>zirさん。
 日記才人の投票ボタン、押してくださっていらさる方々、ありがとうございます。「読んでくれてる人いるんだ!」とうれしくなります。

 てことで。
 たぶんこの日記を読んでる人の中には「日記才人って何?」という人もいると思うんだが、まぁそれはさて置き、投票ボタンの押し方には「読んだら押す派」と「おもしろかったら押す派」の2つがあると思う。で、常々疑問に思っているのだが、登録している人の中でのこの割合というのは一体どのくらいなんだろう。
 ちなみにあたしは「読んだら押す派」。才人に登録してから1年くらいは「おもしろかったら押す派」だったと思うんだが、今はとにかく読んだら押す! どれほどつまらない日記でも押す!
 と言っても全部が全部押すわけでもなく、「おもしろかったら押してください」と書いてあるものについては「つまんねー」と思ったら押さない。逆につまらなくても「押せ!」と命令口調で書いてある場合は押す。「命令されるのムカツク」などということはない。
 で、なんでこういう押し方をしているかというと、自分もボタンを押してもらう立場だからだ。自分の日記がおもしろくないなんてことは知っているし、おもしろさで人と競おうなどと思っていない。しかし、読んでくれる人がいる、という実感は欲しい。
 一応コメントボードはついているが、見ての通りほとんど反応はない。リファラが残るので、取りあえずページが開かれたことだけは確かだが、それだって通りすがりの人か定期的に読んでくれている人なのかの判別はできない。
 いや、DI:DOには「お気に入りリスト」なるものがあって、そこから来てくれる人もいるし、才人のマイ日記リストから来てくれる人もいるのだが、それだとどうも「ほんとに読んでんのかよ?」と思わずにいられないのだ。こう、読み手からの何らかのリアクションがないと、「読んでもらっている」という実感が得られない。
 他の人はどうだか知らないが、あたしは「自分が書いていることがおもしろいかどうか」より、「読んでくれている人がいるかどうか」の方が大事だ。日記才人のボタンは、それを知る唯一の手段なのである。そして自分が読み手になったとき、書き手に「読んだよ」と伝えたい──たとえその日記を読むのが一度きりだったとしても「読んだよ」と伝えたいため、どんな日記であろうが読んだら押すのだ。
 ま、中には自分の日記のおもしろさはどの程度なのか、それによってどこまで読み手を増やせるか、に情熱を捧げている人もいるだろうから、そういう人にとってはあたしのような押し方は迷惑なのかもしれないし、「おもしろかったら押す」がランキングの王道だと言う人もいるだろう。
 だからまぁ、人がどういう押し方をしようとそれはかまわないのだが、今現在、日記才人登録者の中で主流になっているのは「読んだら押す派」と「おもしろかったら押す派」のどちらで、そして押してもらう人達はどちらを望んでいる人が多いのだろうと、なんとなく疑問を投げかけてみたいと思ったのだった。
【このトピックへのコメント】
  • シビル読んでも面白くても押さない私。こんなんでも良いですか。(2004-06-27 01:45:13)
  • hirikaうん。読んでくれてるんだな、というのはなんとなくわかるので良いです(^^)(2004-06-27 01:48:59)
  • gene「Re:投票ボタン、どっち派?」 シビルさんは「読んでもおもしろくても押さない派」、KASAさんは「つまらなくなければ押す派」と、「読んだら押す派」「おもしろかったら押す派」の他にも派閥があるんですね。その辺考えなかったわけではな...(2004-06-27 23:27:15)
gene 2004-06-27 01:09「投票ボタン、どっち派?」へのコメント:

 シビルさんは「読んでもおもしろくても押さない派」、KASAさんは「つまらなくなければ押す派」と、「読んだら押す派」「おもしろかったら押す派」の他にも派閥があるんですね。その辺考えなかったわけではないのですが、「気が向いたら押す派」くらいしか思い浮かばなかったので「つまらなくなければ押す派」というのは盲点でした。他にもいろいろな「押す/押さないの基準」がありそうですな。
 余談ですが、「読んでもらっている」という実感がまったくないわけではないですよ。
 昨日はお夕飯の後うっかり寝てしまったよ。途中一度目が覚めたんだけど、起き上がることなく朝まで眠ってしまった。
 てことで、今日は8時起き。ちゃんと眠って朝ご飯食べて仕事に来ると、やっぱ違いますな。気分がかなり上向き。仕事に対するやる気もいつもよりある感じで、朝早く起きるっていいなぁというか、きちんとした生活っていうのが精神にあたえる影響って結構大きいのかも、と思ってしまった。
 以前何かの本で「朝起きて朝日を浴びることで、体が『1日の始まり』を理解し、始動する」みたいなことを読んだんだけど、まさに。緩急というか、1日ごとの始まりと終わりをはっきり意識できる感じで、メリハリがあるというか、切り替えがスムーズというか、「昨日は昨日、今日は今日、だからがんばろう」みたいな感じ。