くりす
1998-10-30(Fri)

私のWeb日記論

考えてみたら、せっかく日本web日記学会に参加したのに、それ以後「Web日記論」なるものを1度も書いていないのでした。

 学会設立後、いろんな人がそれぞれのWeb日記論を書いていらっしゃいますので、少々手垢のついた感もありますが、この辺で一応会員として何か書いておこうと思います。

 さて、Web日記といっても、私が書いているのは日常生活の出来事をいろいろと書く普通の日記のWeb版というよりは、エッセイ色が強いものです。よってここでは専らそういう形式のWeb日記について言及していこうと思います。

 私は普段からいろいろ考え事をするのが好きです。

 しかし、頭の中で考えているだけだと思考がぐるぐると同じルートをただ回っているだけになってそこから先に進めないという事がよくありました。

 あるいは所用で思索に耽ける行為を中断せざるを得ず、せっかく何らかの結論を出しかけていたのが御破算になってしまって、次に思いついたときに思考の組み立てをまた一からやり直す事になってもどかしい思いをする事もありました。

 そういった日常の思考を言葉として吐き出す事にしたのがこのkera-ma-goでした。

 こうやって一度言葉の形にしてみると、混沌としていた繋がりが区画整理され、またキリをつけたという事による達成感があるので、もやもやとした不完全燃焼感からある程度解放される事になりました。

 私は数学の問題を解くのが好きですが、一番快感を覚えるのは、考えてる間ではなく、考えついたものを紙に解答として書き出す瞬間です。

 Web日記を書く行為で得られる快感は、この感覚とかなり近いものと思われます。ですから、このように「自分自身を整理する為に文章を書く」人は多いのではないかと思っています。

 しかし考えを形にするだけでよいのなら、別に大勢の人に見てもらう必要はない訳です。メモという形で自分だけが見れる形に保存しておいても構いません。それをわざわざ不特定多数の他者に向けて公開するのはなぜでしょうか。

 他の人の思考の結晶であるWeb日記を読むと、自分の思考の道筋とは違う経路から発生した別の結論の可能性を見出し、新たな発見を生む事が往々にしてあります。

 長谷川さんが「じぶん更新日記」というタイトルのWeb日記を書いていらっしゃいますが、結論だけでなくその結論に至るまでの思考経路が感じ取られる他人の文章を読むと、私もじぶん自身が更新される感覚を得るのです。だから私は他人のWeb日記を読むのが好きなのです。

 加えて、Webの特性として、ハイパーリンクというものがあります。

 自分がその思考を導き出すきっかけになった文献について、ペーパーであれば参考文献の名前を列挙するのがせいぜいで、リアルタイムに元の文書と見比べる事は難しい事でしたが、ハイパーリンクが張ってあると、より作者の辿った思考経路を正確にシミュレートする事ができて、それだけ理解も深まるような気がします。

 私のつたない理解では、元来思考というもの自体、網目状に繋がっているシナプスをどういうルートで電気が走るかというものなのです。

 それは例えば起点からAという地点までいく道筋自体が、その人の持つAというものに対する概念で、その途中ルートで通る場所のイメージが、その人のAというものに対してもつイメージだという事ではないかと私は考えています。

 同じ地点にいくのにも複数のルートがありますが、人によってそのルートが違うため、それに対して持つイメージが違うのでしょうし、新しい何かを考える時は、新しいルートが生まれていくという事だと考えるとうまく説明がつくと思うのです。

 Webでハイパーリンクを辿っていくという行為は、関連するものからその新しいルートを模索していく現象と似ています。ネットサーフィンというのは頭脳の中で展開されている活動のエミュレーションであるとも言えるのではないでしょうか。

 知りたい情報をすぐに知る事ができる、情報発信源としてのWebも魅力的ですが、このような思索の手助けになる魅力がWeb日記の醍醐味ではないかと私は考えています。