くりす
2002-02-02(Sat)

非努力宣言

ふと思ったこと。

「頑張る」とか「努力する」というのは自分に対するエクスキューズでしかないんだなあ、と実感したのでした。

他人にとって関係があるのは努力が産み出した結果だけであって、別にそれは努力が伴わなくたって同じものが作り出されていればいいわけで。

苦労することはそれ自体には何の価値もなくて。同じ結果が出るのなら苦労なんてしないに越したことはなくって。

あがいてもあがかなくても得られるものが同じなのなら、悩んでみたり無駄にあがいてみたりするのはやめよう、と思ったのです。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉は真理ではないと思います。

苦労なんてしなくていいのならしないほうがいいんです。どうしても避けられないときにはいやでも苦労しなければならないんですから。

若いうちは体力でカバーできた苦労でも、歳をとってから直面したら、体力だけではカバーできないかもしれません。けれどもそれは、若いうちに経験していてもしていなくても変わらないことです。

だから。少しだけ、努力するのをやめることにしました。
明日1日は仕事のサイトをのぞかないことにします。

……トラブルがなければ。(←弱い)
仕事のサイトは覗かないと心に決めたにも関わらず、朝起きたらすっかりそのことを忘れていていつも通り巡回していました。仕事(ユーザーへのメール対応。本来土日はやらなくていいもの)もしっかりしてました。こういうのをワーカホリックというのかも。

高校時代に無線で知り合った元友人(同学年)から突然メールが届きました。卒業以来一度も会ってない人なのですが、偶然私の個人サイトに辿りついてそこに記述してあったコールサインを見て私だと分かったので懐かしく思って連絡してきたとのことでした。

私が彼からのメールを読んで彼をすぐに認識できたのも、彼が自分のコールサインを書いてきてくれたからでした。世界にひとつしかないコールサインという存在のありがたさというのをつくづく実感しました。

もう何年もON AIRしていませんが、5年ごとのコールサインの免許更新だけは欠かしていません。今回の経験で、更新料の元は取れた感じです。それでもいつか、私が死んだりして更新ができなくなった時には誰か別の人がこのコールサインを使うことになるでしょう。(その時も現在のコールサイン制度が残っていれば、ですが)せめて20年更新を続ければ二桁コールみたいに永久欠番扱いになればいいのに。

メールに彼の個人サイトのURLが書いてあったので見に行ってみました。彼は今スタンフォード大に在籍しているようでした。高校在学時から情報処理の資格を取るなど勉強熱心な人だったので相変わらず研究畑にいるのが彼らしいなあと思いました。

写真のコーナーもあったので見てみたのですが、集合写真の中から彼を見つけ出すことはできませんでした。どうやら私の記憶の中の容姿とはかなり変わってしまっているようです。同窓会と名のつくものには出たことのない私なのですが、「うん十年ぶりの同窓会に出てみたらすっかり姿が変わっていて驚いた」気分を初めて味わいました。

それでもメールの彼は昔のままの彼でした。街中ですれ違っても気付かなかったであろう相手とこういう形できちんと相手を認識して再会することができたのは、webというメディアならではのことでしょう。

繋がっているって素敵なことですね。
なんだかいつもに比べてテキスト庵からのアクセスが多めだなあと思ったら、月刊テキスト撰で推薦してくださった方がいらっしゃるんですね。

テキスト庵経由で来る人って二桁いないので非常に驚きました。推薦してくださった方は以前のkera-ma-goを読んでいてくださった方だそうで。覚えている人っているのかなあと思っていたのですが、確認できて嬉しいです。

推薦ありがとうございました。
2002-02-06(Wed)

好きと嫌いは紙一重

筆者が男性+知的+センチメンタルの3点セットが揃っている文章が苦手です。

どれか2つまでなら特に気にならないのですけれど、3つ揃うとなぜか読後感がテキメン悪くなります。悪くなる、というか秋元康の著書を通し読みしたときのような「で、まあだらだら書いてるけど結局何が言いたいの?」というような空虚感が漂ってしまうのです。

同じ知的+センチメンタルな文章でも筆者が女性だと特に気になりません。なぜなのかなあと自己分析してみたのですが、男性が書いている場合、文章の内容を感覚的にすっと受け入れられず、机上の空論を見ているような感覚に陥ることが多いからかなあと最初は思いました。それはその男性の文章力に問題があるからという話ではなく、私が異性からの視点に馴染みにくいからという理由です。

でも、ウェブを見ていて、違う理由に思い当たりました。私が苦手な文章に対してはそれなりにファンがついてるようで、他の男性の文章への感想ではあまり見かけられない、情熱的な(主に女性の)コメントが見受けられることが多いのです。個人崇拝っぽいやつ。

そこで、私が本当に苦手なのは、スマートに女性ウケを狙った文章なのかなということに気づいたのでした。

センチメンタルな内容が女性ウケを狙ってるという印象を強めさせ、それが知的な表現でくるまれていると、こういう書き方しとけば女ウケするだろという女性を見下した計算高さを感じさせて不快感を感じるみたいです。

多分、個人的な関係がある相手が自分1人に向かってセンチなことを知的に表現してもそんなに不快感は感じないと思うんです。それをウェブ上で公開しているところに八方美人的なものを感じるというか、その文章を餌に陰で散々ネゲットしてるけど表面的にはそんなことおくびにも出さず「貴公子」のイメージのまま振る舞い、「なぜか女性が寄ってくるんだよねえ」と眉間にちょっと皺をよせて肩をすくめるようなイメージが浮かんで、「うわーやなやつー」と勝手に思ってしまうのでした。

そういう文章を書いているご本人が実際どうしてるのかは知らないので、こういうのは憶測に過ぎないのですが、最近あるところで、こういうモテ系の文章を書いている男性が読者をネゲットしてるという話を聞いたりしたので、あながち外れでもないのかなと思ったりします。

それにしても。この人はそういう文章を書く人だと分かったら以後そのサイトは訪れないようにするので本人のことは割とどうでもいいんですが、どちらかというと崇拝するコメントを見たときのほうが心理的にざわつきます。なぜかというと、そういうコメントを寄せている女性は日頃私がこの人は知的だなあと尊敬している女性が多いからです。

そう考えると、実は私はそういう男性に嫉妬しているだけなのかもしれません。自分こそがそういう知的な女性たちと交流を持ちたいのにそうなれない悔しさを転化しているだけなのかも。

そういう意味では自分も「振り回されている女性」のひとりに過ぎないのかなあと改めて思ったことでした。好きと嫌いは紙一重ってこういうことなのかもしれませんね。
良い仕事する普通の竿と、良い仕事をする大きな竿を選べと言われたら、絶対大きな方を選ぶと思うのです。
既に女性の方々から反論があがってますけど……、私も、同じ仕事をするなら「どっちでもいい」です。

よい仕事をする小さい竿とろくでもない仕事しかしない大きな竿なら迷わず小さい竿ですし。「よい仕事」ができるかどうかにサイズが関係ないとは言いませんが、小さくて働いてるかどうかわかんないのも大き過ぎて痛いのも等しく困ります。ジャストサイズが一番。

加えていえば、それは自分に対する仕事の話であって、自分が働きかけをする場合、大きすぎると相手に対して十分な働きができない場合があります。それを考えると案外両方ハッピーになれるのは、むしろある程度小さい場合なのかも、と思ったり。

胸の大きさに対応するのはむしろ男性の身長ではないかと思いますね。こちらは高い方がいいという認識を持ってる女性が多そうですし、外から一見して分かって、一緒に歩いているときに「うちの彼女は巨乳なんだぜ!」というのと同等に「うちの彼氏は背が高いのよ!」という見せびらかしが可能ですから。
どっちでもいいですか。どっちでも同じ”だった”ということ、ではなさそうですが。
そう受け取られましたか?それでは念のため追記しておきます。両方とも経験した結果、どっちでも同じでした。

で、さらに言えば前回書いたように、「こちらからの働きかけやすさ」の点で、どちらかといえば小さ目の方がお互い幸せだからいいなあと思っています。正直「ディープスロート」は苦しいでっせ。
いやーなんだかちょっとした祭りになってますけど、皆さん、龍成さん御自身を諌めたいというよりは、このネタに寄せて「大きいに越したことはない」と考えて大きさにあぐらをかいてテク向上の努力をしない方とか、相手が満足しないのを自分のサイズが大きくないせいにしてやはりテク向上の努力をしない方に向けて啓蒙活動を行いたいということだと思うのでした。

だから多分今となっては龍成さんがどうお考えになっても関係ないんじゃないですかねえ。強いてメールでなく風聞帳のような公開の場で発言しているのはそれが理由だと思いますよ。

で、まあわたしは、「ムスコのサイズは大きいほどいい」と考えているのは男性だけであるという立場に立っているわけですが、それとは逆に女性だけが絶対的な値を重要視していて男性はさほど重要視しているわけではないものは何があるのかちょっと考えてみました。

で、思いついたのは「女性の体重」。多くの女性は軽ければ軽いほどいいと思っているような気がします。でも、実際男性に聞いてみると、「あまりガリガリだと抱き心地が悪いからいやだ」とか「スタイルさえよければどうでもいい」という意見も少なからず聞こえてきます。

多分、スタイル・容姿レベルが同じで体重が48kgと45kgの女性がいたとしたらどっちを選ぶかと言われたらほとんどの男性は「どっちでもいい」だと思うのです。でもきっと多くの女性はそれでもより軽くなりたいと思うのです。女性同士の間では、軽い方が勝者なのです。そういう喩えをしたら、「ムスコのサイズの大きさ」にこだわる男性を女性がどう見ているかが少しは分かっていただけるんじゃないかと思った次第。

ちなみに前回「チチの大きさ」に相当するのは「男性の身長」ではないかと書きましたが、あれから少し考え直しまして、ある意味では当たってるけどある意味では違うなと思うようになりました。

なぜなら女性が男性に求める身長は「高ければ高いほどいい」ではなくて専ら「自分よりXcm以上高ければいい」という相対値の問題ですから。けれど男性が求める「チチの大きさ」はけして「自分より大きければいい」というようなものではないですよね。

どうして自分より身長が高い相手を好ましいと思うのかについてはまた今度考えてみることにします。