先週の土曜日、三匹めのドジョウ狙い映画「交渉人 真下正義」を公開初日に観に行った。混雑はある程度覚悟の上だったが、それでも開演40分前から100人を越える客が通路に並ばされた。初日という事もあるが、そこそこ盛況だと言えよう。

上映時間2時間以上の作品だったが、最後まで飽きずに観る事は出来た。だが、ストーリー展開があまりにありふれている。最初に早々と事件が起こり、犯人像も大筋でわかってしまう。明らかにならないのは犯人の最終目的だけである。いかにもという展開はTVの2時間ドラマ以上のものではなかった。メインテーマであるはずのネゴシエーターの技の描写も全く物足りない。

連休前に同僚から借りたDVDの映画「ソードフィッシュ」は、静かな会話の直後、いきなりそれが犯行の真っ只中だったという場面から始まり、さらにその4日前に遡ってじっくりと話が始まるという、主役のジョン・トラボルタも感心したというストーリー展開だった。見終わって思わず唸ったのは言うまでもない。

いつも思うのだが、どうして外国の映画やドラマはこうも唸らされるものが多いのだろうか? テーマや素材は日本の物とそう大差は無い。とすれば、それは脚本力の差ではないだろうか? 

思い出すのは、推理物のセオリーを見事に破壊せしめた「刑事コロンボ」シリーズである。犯行を犯人と共に先に見せてしまう常識破りの場面から始まり、後でコロンボが犯人を追い詰めてゆく。当時大ヒットしたのは、犯人の追い詰め方や推理の妙味もさることながら、そんな斬新なストーリー展開が根本にあったからに他ならない。たまにNHKで放映している海外ドラマシリーズにも、思わず唸らされる作品は多い。

いい意味で観客を裏切り、そして唸らせる脚本が日本の映画・ドラマには極めて少ないと思う。たとえ「意外な展開」があったにせよ、それはリアリティーを伴わないゆえ違和感があり、観ている方も納得できないし唸るまでには到底いかない。過度に作り込まれた場面設定や人物像ばかりが鼻につく。当世の脚本家は、徒らに複雑化すれば高度な脚本だという誤った感覚を持ってやしないか?

単なる娯楽作品と割り切れば「交渉人 真下正義」は、その使命を果たしていると言えよう。特段感心もしなかったし、唸りもしなかった。まるで読み捨てが宿命の漫画雑誌のような印象であった。登場人物は「踊る大捜査線」でおなじみのメンバーが多く、それなりに安心感を持って楽しめはするけど。

ヒット作におんぶにダッコ、あるいは何匹目のドジョウ作戦しかできないのなら、この先も日本映画は暗い。手遅れにならないうちに名作秀作と後世言われるようなストーリー展開の書ける本物の脚本家を育てるべきである。