何と都内でも30℃を越す真夏日となった。一人で留守番するのも飽きたので、愛用のipodで音楽を聴きながら中野新橋までブラリと散歩に出かけた。中野新橋と言えば、貴乃花部屋がある事でも有名だが、下町風の商店街もある。近くに居ながらも、これまできちんと足を運んだ事がなかったので、昼飯がてらノンビリと歩いて行った。

15分も歩くと地下鉄の駅に面したメインストリートに到着。見渡せば下町の商店街というより、飲食店の並んだ通りと言ってもいい風情。でもこういう風景には下町育ちの血のせいか身も心も馴染む。本当の商店街は別の所にあるはずだが、とりあず300m四方を北へ南へ東へ西へと歩いて回り、辿り着いた寿司屋でランチを食べた。

その後はお決まりのコーヒー。下町らしく喫茶店が何軒もあったが、今の時間帯はランチ客の書き入れ時なので遠慮し、ドトールコーヒーへ。ドトールはスターバックスのように禁煙ではなく、さりとてタリーズのような分煙でもなく混煙である。禁煙前までは重宝したが、今となっては厄介な店と思えてしまうから勝手なもんだ。

入ってみたら殆どの客がタバコを吸っていた。そして驚いた。店内の景色は霞がかかり、空気はタバコの臭いプンプンではないか。今まではちっとも気にならなかったが、今日は如実にわかった。だが、まだそれがうっとおしいとまでは感じない。もちろん喫煙者を見て吸いたいという気もさほど起きない。やっと5日目にして好ましい段階に入ってきたのか。

ゆったりと愛読書のひとつであるビッグコミックを読み、そこに載ってるさまざまな雑学を仕入れて店を後にした。マンガ誌と言えば小学5年生の時、少年ジャンプが創刊され、マガジン、サンデー、チャンピオン等と共に愛読書となったが、少年誌はさすがに学生時代で卒業した。否、卒業したと言うよりマンガの質が悪い意味で均一化してしまったので、興味がなくなったと言った方が正しい。

商業誌の宿命だろうが、あらかたのマンガ誌は新連載の度に売れ筋のジャンル、ストーリー、画風の方向へ同じように染まって行き、個性が無くなってしまった。昔のマンガ誌も商業誌には違いないが、それでも作者固有の個性がそれぞれ光っていた。もちろん作者も一流揃いだった。個性が失われると同時に、マンガから得るものも乏しくなった。マンガがきっかけとなって興味を持たされ、その後深く学んだものはたくさんあったのだ。偉人・達人伝、社会問題、戦争や世界史などはその最たるものだった。

そういう意味で今一流の範疇に入ると私が思う青年マンガ誌は、ビッグコミック各誌とモーニングあたりだろうか。それらは今でも愛読している。復刊したアクションも最初の頃は拉致など社会問題をテーマにしたものばかりで、単なる成人マンガ誌だった頃との雲泥の差に驚いたが、やがてパワーダウンしたため今は読まなくなった。最近テレビドラマや映画でマンガを原作にしたものが急増しているが、すでにマンガの時点で読んでいたものが少なくない。

「なにわ金融道」「Drコトー診療所」「亡国のイージス」「あずみ」「いま、会いにゆきます」「三丁目の夕日」「ドラゴン桜」」「県庁の星」「医龍」などなど。逆に言えば、今の脚本家に如何にオリジナリティが無いかの証左でもあろう。ドラマや映画ですらなりふり構わず「売れ筋」に飛びついている。情けないやら小賢しいやら・・・。

さ〜て、そろそろ買い物にでも出ようか。明日は息子が函館から帰ってくる。

いよいよ禁煙10日目に突入。肉体的依存のニコチン中毒の方は1週間もあれば無くなるそうだが、やっかいなのは脳の記憶である。「一服してスッキリ気分転換。うまい!」という経験を長年続ければ続けたほど、その記憶は強く刻まれる。これが禁煙後数年経っても蘇り、再びタバコを吸ってしまう原因となるらしい。

一種の精神的依存であるが、私も一日の中で数回苛まれている。こればかりはニコチンパッチも効果は薄く、ハードミントのガムや熱いダイエット茶などで凌いでいる。逆にニコチンパッチの方は、今の時点では貼っていても貼っていなくてもさほど変わり無いようにも思える。でもつい貼ってしまうんだな。

さて、2日にゴールデンウィーク帰省とやらで、息子が帰ってきた。今年も新入生が入り、学校も寮も賑やかになってきたらしい。息子の所属する囲碁将棋部は、息子の時に部員がどっと増えたそうだが、今年はそれを凌ぐ勢いで入部者が多かったそうだ。小学校の時からの経験がモノを言う運動部と違って、経験者であろうが無かろうが楽しめる所が人気なのだろう。多少はマンガの影響もあるかも。

息子は無事に高校へ進学できたら、今度は卓球部に入りたいと言う。卓球部は中学には無く、今は同級生と学校や町の卓球センターでたまにやってる程度だが、かなり興味を持っているらしい。その証拠に、親に内緒で何と1万円もするラケットを買っていたのだ。何人かの友人が買ったので自分も欲しくなり、親が寮に預けているお金からチョロマカしたそうだ。帰宅早々それがバレて、カミさんから大目玉を喰らった事は言うまでもない。

それはともかくとして、ここまで運動関係に殆ど接してこなかった息子が初めて興味を持って取り組んでいるという事は認めてやりたい。特に卓球は体格の良し悪しによるハンデが少ないスポーツなので、ヒョロ体型の息子も十分やっていけるだろう。無事高校に進学できたなら思う存分やってくれ。と言っても勉強もかなりハードになってくるらしいので、どこまで熱中できるかは知らないが。

その前に、GW6日間にもかかわらず結構な量出されている宿題を片付ける事こそが、息子の「今、そこにある危機」だ。

GW9連休も終わり、少し位は仕事してもいいかなという気持ちを抱えつつ出社。PCを立ち上げ、メールチェックに取り掛かったその時、その知らせが私を襲った。

5日、北穂高岳を縦走中の男女5人パーティの一人の女性が滑落し、不幸にも死亡した。その女性こそ誰あろう「ザル子6号」に私が認定した女性だったのだ! ザル子と言うだけあって日本酒が好きなくせに、久々の飲み会だと日本酒で酔いつぶれ、恒例のビートルズナイトでギタリストに一目惚れしてご祝儀を奮発、タフと元気が取り得の会社の仲間だったのだ!

夏休みや大型連休などになると、ニュースを見れば決まって海や山の行楽事故が報じられる。今まで見たニュースには友人・知人は一人も出てこなかった。その度に国内でさえもこんなに人がたくさんいるんだから無理も無いなと妙に納得していた。今回の事故も報道されたらしいのだが、どういう訳か私は見ていなかった。

彼女は山行が趣味で、この日も学生時代の仲間と作っていた山岳クラブのイベントだったとの事。山の頂上に連なる稜線は幅が狭く、雪のひさし(雪庇)を踏み抜いても突風に煽られても人一人があっという間に落ちてしまう。この季節は冬季登山よりも登りやすい半面、天気が良いと雪も緩む。

彼女は昨年父親を亡くしている。残された母親からすれば彼女が最後の希望の光だったに違いない。その彼女が親よりも早く33歳の若さで帰らぬ人となってしまった。悲しみを通り越して・・・ただただ無念だ。

もうあの溌剌とした笑顔も、ザル子の名に恥じぬ豪快な飲みっぷりも見る事が出来ない。せめて今夜は仲間内で静かに飲んで送ろうと思う。そして来月のビートルズナイトでは賑やかに追悼会をしてやりたいと思っている。

穂高は彼女が一番好きな山だった事が、せめてもの救いかもしれない。

オフィスのエアコンが朝から不調で、ついに室温30℃近くに達した。こうも暑苦しいと息苦しくさえなってくる。おまけに不調はこのフロアだけのようで、さっきも1Fのサロンスペースへ避暑に行ってきたばかりである。もう耐えられん、コンチクショー! 帰るぞ!

一昨日の禁煙2週後の外来検診。お楽しみの一酸化炭素濃度測定では、開始時点でレッドゾーンまで上がったレベルが見事非喫煙者の緑ゾーンに留まった。検査値上は十分正常レベルになったわけである。ニコチンパッチはもう2週間Lサイズ(30mg)で行き、その後Mサイズ(20mg)に落としていくという。今回の支払いも8500円也。ホント金かかるわ。

パッチを睡眠中も貼っているせいか、毎晩必ず夢を見る。そして明け方に一度目が覚める。見る夢は妙にリアリティがあり、目覚めた後もはっきり覚えているほどである。ある時、パッチを貼らずに眠ったら、無意識に会社の連中と一緒にタバコを吸っている夢を見た。という事は、まだまだ身体は一定以上の血中ニコチン濃度を必要としているのかもしれない。必ず夢を見るという事は眠りが浅い証拠、これもニコチンの副作用である睡眠障害なのだろう。

逆に日中は特に意識しない時はタバコを吸いたいと思わなくなってきた。頑張ってガマンしていた時に比べれば一段と進歩していると言っていいだろう。そんなこんなのニコチンとのせめぎ合いを繰り返しながら、やがてタバコから解放されるその日を迎えたい。

昨夜は中学校の同窓会だった。私の卒業した中学校は越境通学していた江戸川区の公立中学だったので、いつも江戸川区内の施設で行われている。それでも単一年度の卒業生の同窓会は実に9年ぶりで、前回は葛西のホテル、今回は船堀のタワーホールで開かれ、そのどちらの町でも当時を想像できないほど近代化された風景に驚かされた。

当時7クラス、二百数十名いた卒業生のうち今回集まったのは80名ほど。でも今回初めて全クラスの担任と学年主任の先生方が揃った。我々の代の同窓生が生まれた年にこの中学校も開校したと言うから来年で創立50周年だそうだ。どうりで受付係やロビーでたむろしている連中の姿はどっちが先生だかわからないようなOYAJI世代である。でも、それぞれどこかに当時の面影を残しているのが何とも可笑しい。

卒業以来、去年までで12名の同窓生がすでに亡くなっている。約5%の人数というのは高いのか低いのかわからないが、人生50年すら生きられなかったのだからあまりに短い。彼らの名前が発表される度に、あの頃の坊主頭の顔がひとりひとりはっきりと蘇ってきた。悲しい記憶である。

さて、11歳の孫を持つ73歳の先生を筆頭に、皆さん退職された後それぞれボランティアなどの活動をなさっていたのも驚いた。「まだまだ勉強する事が山のようにあるんですよ」とおっしゃる。さすが勉強や学問にも貪欲だった時代の方らしい言葉である。我々の時代は十分な教育環境があって、それが当たり前だった。だから受験以外で勉強する事に決してハングリーじゃないし、学習意欲も低い。思わず考えさせられた言葉だった。

同窓生に区議会議員になったヤツがいて、その選挙活動の一環として同窓会が使われている面があるので参加しないという者もいた。彼や彼を応援している連中が某宗教団体系なので、なおさらイヤだと言う者もいる。だがこの歳まで来るとそういう事情が出てくるのもある意味しょうがないとも思えるし、何より先生方の歳を考えれば、この先元気にお会いできる機会も減ってくる。私が今回出席を決めた理由はそこにある。もとより江戸川区民でもないし。

親の仕事を継いだヤツ、会社を興したヤツ、地元でレストランやパブを経営しているヤツ、あいかわらずサラリーマンのヤツ、そういう連中の中で一番多いのは主婦業に子育てに奮闘してきた普通のオバサン連中である。ほとんどが地元で結婚し、そこに住んでいる。孫が2人もいるオバサンもいた。彼女はフィリピンパブのママでもある。

地元に根付いているゆえ、このような会も開きやすいし集まりやすい。これも下町の公立中学ならではの良さである。我々の時代でも高校へ進学した者が殆どだったが、就職の道に進んだ者も少なからずいた。思えば、中学校までが皆同じ境遇でいられた最後の時だったのだ。だからこそかけがえの無い貴重な時なのだと思う。

校則も厳しかった。校内放送のチャイムが鳴ると、何をしていてもその場で直立不動で聞かねばならない。公共交通機関を使っての外出は、制服着用で親同伴。映画も事前に届出をして親同伴。当時はやったドロップハンドルの自転車に乗りたければ、筋骨隆々の生活指導の先生に腕相撲で勝たなければならなかった。つまりはドロップハンドルを操作するにはそれ程の力が要ると学校側が判断したからである。当然、勝った者はおろか挑んだ者もいなかった。スカートの長さは膝まで、髪は肩に付くまでで、左右に束ねる。今だったら生徒の人権問題だと騒がれるようなものばかりである。

おかげで卒業後も後遺症が残った。高校生になってもデパートでチャイムが鳴ると思わずその場で気をつけをしてしまった。校則違反といえば、初めて同級生と山手線に乗って一周してきたのがバレてビンタを喰らったり、ボウリングに行った連中が職員室に呼び出され、長時間正座の上コンコンと説教されたりと、事件には事欠かなかった。今考えればかわいいモンだが、当時はずいぶんとヘコまされた。

その半面、毎年クラスの歌を作ったり、清掃コンクールでは家庭用漂白剤とタワシを持ち込み、クラス全員で木造校舎の教室と廊下を真っ白に磨きあげたり、壁新聞コンクールで初めて取材写真を使ったりと前向きな情熱も持っていた。全ては学校から始まり学校で終わるような、学校生活が生活の舞台そのものだったと言える。ケンカはあったが陰湿ないじめなどはなかったし、先生方の目もしっかり行き届いていた。

先生方も悪い事をした生徒には手を上げた。あの頃の先生は、生徒にとって確実に恐い面を持った存在だったし、同時に愛情を込めて接してくれた存在でもあった。ある先生がしみじみと言った。「校則は厳しいですが、人生のうちの3年間ぐらいはこういう時期があって良いと思います。必ず成長しますから」近年になって金八先生が注目される遥か前から、我々の周りはそんな先生ばかりだった。当たり前のようにプロであり聖職者だった。

ちょっと薄らいだ記憶の備忘録を繕いつつ、全てが笑い話となったそれぞれの思い出を懐かしむ。30数年の時を経て、その当時のメンバーがそこに実在する同じ空気の中で・・・。

同窓会は心のタイムマシンである。