hirika
 一番やりこんだのって何だろうとふと考えてみたんだが、うーん……。たぶん『弟切草』か『ダブルキャスト』かなぁ(他にもいろいろやってるばずだが思い出せない)。
 『弟切草』はプレステ版ではなくスーファミ版(一応プレステ版もプレイしたけど)。会社の同期(男)に借りて全部の(たぶん)エンディングを自力で見た。『ダブルキャスト』もかなりやったんだけど全部は無理だったんだよなー。たぶんエンディング2つくらい見れてない。98%くらいだったか、そのくらいまでやったら散々いろんなルート試しても分岐しなくなっちゃったし、別のエンディングも出て来なくなったので投げた。
 アドベンチャーって一度クリアしちゃえばお腹いっぱいで「もういいや」と思うんだけど、この二つはもう一度プレイしてみたいねぇ。もちろん『弟切草』はスーファミ版で。
 頭にきたらいちいち吐き出しちゃえばいいんだよなー。あたしの場合、一旦吐き出せばしばらくは落ち着くんだし。こう、いつもいつも同じ文句を書いてるような気がしてアレなんだけど。
 わけあってピエロちゃんのデビューシングル『クリア・スカイ』を聴いているのだが、こう、アレだな、いろいろな意味で今よりも数段劣るんだけれども、ひとつだけ素晴らしい、「これを取り戻すのは無理だろうな」と惜しむものがある。そう、初期衝動っつーのを持ち続けるのはむずかしいんだな、と思った。
 音とかアレンジとか、上手い下手のよくわかんないあたしが聴いても今よりぜんぜんヘタ。すごくぎこちないっつーか、伝えたい気持ちに技術が追いついてないというか、そういう感じに聴こえる。それでなんか、聴いてて恥ずかしくなってくるというか。でもこう──なんて言うんだろ。この『クリア・スカイ』に込められているのと同じ熱は、今のピエロにはない。
 いや別に、それが悪いってんじゃないよ。思いは人に触れることで形と温度を変える。ただただ叫ばずにはいられず、吐き出さずにいられなかった思いは、人に届き、触れることで世界に触れる。そして、「自分はこの世界にひとりきりで生きているのではない」と知ると、凝り固まっていた思いはほどけて広がってゆく、そうして変わってゆく。
 でもねー、いくら変わったとしても、強い初期衝動を失ってしまったとしても、根底にあるものは変わんないのよね。ただただ「伝えたい」っつーだけだった思いは、何をどう伝えたいかとか、その手法とか、さまざまなものを得て形を変え、温度を変えたけれども、「なぜそれを伝えたいのか」という部分は変わってない。
 世界に触れたい、世界に生まれ出たいという衝動は、おそらくそれがわずかでも叶うと変わってしまうものなんだろう。どうにもならない切実さ、切迫感というのは非常に心を惹き付けてやまなくて、それがあたし自身の衝動をも呼び起こすから、失われつつあるのはとても残念であるのだけど。
 最初に「初期衝動を持ち続けるのはむずかしい」と書いたけど、その衝動は自らが変化してゆくことを切望しているという矛盾を孕んだものでもあると思うので、これでいいのかもね。もしかすると、初期衝動がそのままずっと変わらないのは悲しいことなのかもしれない。
【このトピックへのコメント】
  • 螺旋胞「so far, so close」何と云うか……すごくタイムリーというか、つい自分のことに引き寄......(2004-08-04 01:27:58)
 お手数おかけいたしました。
 あまりにも動揺してしまい、しかも職場のwinからだったので英語だらけの画面にさらに動揺を煽られ、かなりあわてんぼうな書き込みをしてしまいました。本当に、びっくりしたんですよ。
 リアルタイムで更新される日記は、やっぱり以前とはどこか違うなと思いながら読んでたんですけど、これからどうなるのかも楽しみにしていたいと思います。
 てことで、テストも兼ねてとらっくばっく。
【このトピックへのコメント】
  • hirika文字化けしてるー<とらっくばっく。(2004-08-04 00:07:24)
  • シダちょうどこちらからもトラックバック送ったところでした。シンクロニシティ?
    こっちからのは文字化けしてない…ですよね?何故だろう。むー。
    (2004-08-04 01:39:27)
  • シダ文字コード変えてみたら直ったみたいです。お騒がせしました(先に対処してみてからコメントするように>自分)。(2004-08-04 01:55:47)
  • hirikawinでも確認しましたが、直ってます<文字化け。ありがとうございます。

    シンクロニシティ(笑)。や、せっかくの機能も、ちゃんと動作するかどうか確認しないと不安じゃないですか。なので僭越ながら(笑)。
    (2004-08-05 00:03:20)

 あたしがweb上で書き始めたきっかけって、まぁ本家の方で何度か書いてるように、ラミさんの書いたものを読んで「あたしも書きたい」と思ったからなのね。で、「じゃあ何で“書きたい”と思ったのか」っていうと、自己表現がしたいからでさ。さらに「じゃあ何で自己表現したいの?」っていうと、世界に触れたいからなのね。
 自分が今生きている世界がどういうものなのかを、直接手に触れて確かめたいっていうか、自分が存在しているのは世界の中のどういう場所なんだろうってゆーかさ。何があって、どんな人がいて、どういう物事があって、どういうふうに自分に関わってくるんだろう、みたいな。
 上記はたった今思いつきで書いたことなんだけど、たぶんそうだと思うのよ。で、「きっとそういうのって誰でもそうなんじゃないの?」と思うのね。そこに込める思い入れだとか欲求だとかは個々にまったく違うものだとは思うんだけど、なんつーのかな、自分が生きている実感として? 「“世界に触れたい、自分が生きている世界を知りたい”と思うから、他者へ向けて言葉を発しようとする」部分てゆーのは同じなんじゃないかと思うのよ。
 で、自分を振り返って思うことでもあるんだけど、「そういうのってどうしたって変わりようがないんじゃないの?」と、「それが変わらない部分なんじゃないの?」と。初期衝動がどういうものかは個人個人それぞれに違うだろうし、それがどう変化してゆくかもまた違うだろうけど、それが生まれた場所は変わらないと思うのよ。
 なんか、思いつきでテキトーなこと書いてるのでアレだけど。「人は変わるし、変わらない」──

 ああ、昨日今日と扁桃腺腫らしたり熱出たりと体調不良なので頭が回らずまとめられん(←いつも。ああでもお仕事はちゃんとしたよ!)。すみません、ニュアンスで何かしら読み取ってください。つか読み取れ。

 その頭の悪さ、オツムの弱さってどうにかなんないのか。己の身のほどを受け入れることができず、自分は選ばれた人間なのだと勘違いし、それを認めない人間、あるいは本当はそうでないのだということを暴こうとする人間に責任を押しつけ、何をしても正当であると思いこめる自尊心の無さも含め、反吐が出る。
 死ね。死んでしまえ。この先、生きてたっていいことなどひとつもない。
 を起こし、この数日ふとんと仲良くしてました。ひさびさに酷い目に遭いました。
 連日暑い日が続きます。充分な睡眠と食事、そして水分補給を怠らないようにしましょう。
上手スタンド

 後でぴえろグループの方に詳しく書きますが、よりによって初めてのにほんぶどうかんでアイジさん側……。ううぅ、えぐえぐ。

 先週の火曜日くらいから体調が優れず、要は脱水症状だったわけだけれど、もう本当に、こういう(体調か精神状態が悪い)ときのあたしというのは平気で暴言を吐きますな。や、本家BBSに迷惑な書き込みをされ、具合が悪く気が立っていたせいもあるんだけど、こうしてふつうの状態に戻ってしまうと、自分でも首を傾げたくなるほどのことを書いているよなぁ、と。
 まぁふだん、できるだけああいう感情は押さえに押さえて、ひたすら自ら抑制してるから、その反動ってのもあるんだろうねぇ。あと、あたしは「自分に非はない」と思い込んでいるとき、そりゃ強気に出るし、相手が悪いに決まっている、罵倒して当たり前、という思考しか持てなくなるのよ。まぁ特定の相手なら押さえることもできるけど、誰がやってんのかわかんないし、向けられてるのは好意とは呼べないものだしねぇ。……だからと言って「言って良いことと悪いことがあるだろ」というのは、後から気づくことだけど。

 余談。
 先日、本屋でサイバーストーカーについて書かれている本をちらりと読んだら、そういうことをする人というのはネットに関するスキルが高いと書いてあったのよ。で、人に嫌がらせをする人ってのもきっとそうだと思うの。
 たぶんそれだけが拠り所なのよ。他に秀でることもなく、コミュニケーション不全で、自分は正しく評価されてないと思い込んでて、他者に不快感をあたえることでしか優越感を得られない。「可哀想な人」などとは間違っても思わないけど、哀れだしみじめだ。
 あと、これはまったくの憶測だけど、あたしがこうして分析とかしちゃうから余計しつこく同じことされるんだろうなぁ。たぶん、「ああ、この人は自分のことをわかってくれるんだ」とか思われちゃうんだよ、きっと。

 先日リニューアルしたオリコンを見ていたら、「誰コイツ?」とゆー男の子が載ってたんですよ。で、何気にプロフィールを確認したら、カンヌで最優秀男優賞を受賞したと、で出演した映画は是枝裕和監督の……えええ? 『誰も知らない』の主役の男の子かよ!
 いやーびっくりしました。まさかオリコンで是枝監督のお名前を拝見するとは。なんとなく微妙な気持ちなんですけど、こういう取り上げられ方をするのって。あまりうれしくないというか──いや、プロモーション的には良いことなんだろうけど、なんか、うーん。フィルターっていうか色眼鏡っていうか、そういうもの越しに見られそうな気がして、それが嫌だなっていう。
 まあかく言うあたしも元々は『ピンポン』→ARATAさん→あたらんが出てる映画って?→『DISTANCE』『ワンダフルライフ』という経緯で是枝監督にたどり着いたので、ぜんぜん人のこと言える立場じゃないんですけど、なんか今は、あらたん抜きにして「この監督はどういうものを撮るんだろう」と、追いかけてみたいなと、思っているのです。
 やっぱりこう、『DISTANCE』で受けた衝撃っていうか……いや衝撃じゃないな、なんて言うんだろ。うーん、かなり上手く言えないんだけど、観ることによって「自分の内の“何か”が引き出された」というか、それによるショック? なのかなぁ、それが大きくて──でもそれは決して毒があったり厳しかったり激しかったりってものではなく、なんだろうなぁ、すごく穏やかなのね。すごく穏やかでやさしい視線で“人の姿”を撮ってる。その視線が、今度はどういうものを映すんだろうっていう。
 今月7日から公開中のこの『誰も知らない』は、他の人が撮った映画なら「ふーん」で終わりになっちゃうようなストーリーなんだけど、ぜひとも観たい気持ちでいっぱいです。なんか、人はとても悲しい生き物なんだけど、それでも救いはあるというか、人と人が関わり合うことで希望も見出せるんじゃないか、みたいな、是枝監督の視線からはそういうことが感じられるような気がするのです。
 というわけで、先ほど書き込んできましたが、うさたん(本家BBS)を閉じることにいたしました。
 まぁ一番の理由は「書き込みがない」とゆーのに尽きるんですけど、他にもまぁ、URL貼付けてく馬鹿がいるとかね、そーゆーのもあるんですけど、こう──読み手との距離を計るのに邪魔というか……いや邪魔と言うと言葉が悪いか、なんて言ったらいいんだろ、距離を計ろうとするときに感覚を狂わせる作用があるというかね、そんな感じがして、だったらいっそのことない方がいいんじゃないか、と思ったんです。
 書き込みがある程度あれば削除しようなんて思わなかったと思うんですけど、なんだろうなぁ、こう直接的に人とコミュニケーションするっていうのは、どうにもあたしには向いてないようで、だったら自分に合った方法でそれをやればいいじゃないかと、そう思ったからというのもあります。それにぶっちゃけ、直接的なコミュニケーションならここでやればいいんだし。
 こういろいろ、良いことも嫌なこともたくさんあった場所なので思い入れが強いし、本当に後悔しないか? という気持ちも大きいんですけど、必要でないものというか、この先目指しているところへ進むにあたって本当に必要なものかと考えたとき、やっぱり「コミュニケーションは本家から切り離した方がいいだろう」と思うので、うさたんにはさよならすることにしました。
 「可逆」という言葉はお気に入りで、その言葉だけでもどこかで使いたいなぁとか、はれむさんの書き込みが〜とか、4年という歳月の重み、変容──思うことはたくさんあるんですけれども。

 「お久しぶりです」という件名のメールが来て、またスパムかよと思いつつ開くと──1年半ぶりくらいの、とある女の子からのメールだった。読んでいるうちに込み上げるものがあって、読み終えるとつい泣いてしまった。

 あたしは馬鹿か。
 何を恐がる必要がある。傷つくことに、失うことに。どれほど傷つこうが何を失おうが、決して変わらないもの、残るものがある。
 あたしは自分を曲げられない。それゆえに手にすることができるものなどわずかだけれど、適当なもので満足したふりをするより、本当に欲しいものだけを手にすること、それと共にある苦しみを受け入れることを選んだんじゃないか。
 簡単に手にすることはできない。欲しいときにあたえられるわけじゃない。苦しみの方が大きい。あたえられたものに依存してはいけない。でも、それでも、こうしてどうしようもなく確かだと思えるものに触れられる。
 正しいとか間違ってるとか、ふつうだとかふつうじゃないとか、多数か少数かとか、そういうことじゃない。己がしてきたことに胸を張れるか、これで良かったのだと笑えるか。

 初めてメールをもらったときは15だったのに、もう二十歳になるのか。

 DI:DOのアンケート結果を見ると、「Q4.お気に入りリストに登録している日記はいくつですか?」という設問に23人もの人が「使っていない」と答えている(日記会員のみの数)。昨日か一昨日、何気に気になったので確認したんだけど、ちょっとびっくりした。
 ちなみにあたしは「11以上」(自分の日記も含む)。その内知り合いは二人なので、ほとんどは知らない人の日記だ。特におもしろいというわけではないんだけれど、なんとなく「ああ、そうなんだ」とか「大変だねぇ」とか「がんばれー」と心の中で呟きながら読んでいる。
 閑話休題。で本題なんだけど、「お気に入りリスト」を使っていない人がそんなにいるのに、なぜあたしの日記をお気に入りに登録している人は15人もいるんだろうか。
 いや、全員が全員ちょこちょこ読んでるわけではなく、更新するたびに読んでるのは2、3人くらいじゃないのかな、と思うんだけど、それにしたってこの数、多過ぎない?
 あたしは自分の日記はおもしろくないというか、あまり人に受け入れられやすい内容のものじゃないと思ってるし、他の、日記才人のリストとかはてなアンテナとかでも片手で足りてしまうくらいなので、なんか「これは一体どういうことなんだろう?」と謎なのよ。
 それで思ったんだけど、他の人って一体何人くらいの人のリストに登録されてるんだろう。
【このトピックへのコメント】

環和我話 2004-08-13 18:31「Re:あなたの日記をお気に入りに登録している人は何人ですか?」へのコメント:

 「お気に入りリストを使っていない」ということは、「DI:DO内には自分の好むタイプの日記がないという人が多い」ということなんでしょうか? もしそうなら、「じゃあその人達は一体どこでどんな日記をどれくらい読んでいるんだろう」と興味があります。
 それとも「日記廃人」と呼ばれるほどに他人の日記を読む人達というのは今はごく少数になってしまい、「他人にあまり興味がなく、知り合いの日記しか読まない」という人の方が多いのかなぁ。

【このトピックへのコメント】
 先日BOOK:OFFで『ネット心中』という本を買った。何となく気になったので手に取ってパラパラとめくると自殺系サイトのことについて書かれており、それはちょっと前からどうしても頭から離れない、リスカについてのアレコレと関連があるような気がしたからだ。
 が、今ちょうど半分を読み終えたところなんだけど、どうもリスカとはあまり関係ないっぽい。いや、まったく関係がないわけでもないんだろうけど、心中とリスカっていうのは別の事象なんだな、という印象。ただ、なんて言うんだろ──根源は違うもののような気がするけど、表出の仕方が似ているような、そんな気がする。
 うまく説明できないんだけど、読んでて一番に思ったのは──こういうこと書くのは良くないと思うんだけど──「死ぬならひとりで死ねばいいだろ」だった。「誰かと一緒じゃないと死ねないなら死ぬな」みたいな。
 いや、ここで言うリスカというのは全部が全部じゃなくて、ピエラー限定のリストカッターのことを指すんだけれども、まぁリスカしていなくとも「何かに依存していないといられない」ピエラーちゃん達と、「誰かと一緒じゃないと死ねない」人達って、なんだか似ているんじゃないか、と。たとえば「誰かと一緒じゃないとライブ行けない」とか、「ひとりであること」「孤独であること」をとにかく避けようとする部分が共通してるような気がする。
 確認するのは絶対無理なのでアレだけれども、「ひとりでは寂しいから」とネットで知り合ったよく知りもしない人と一緒に死んで、果たしてその人は本当に寂しくなかったんだろうか。たとえ肉体は寄り添い、触れ合っていたとしても、心は別々に存在していてひとりで死んでゆくしかないのに。
 ひさびさにスピッツの『スピカ』を聴いているんだけれども、何度聴いても次の歌詞は頭をぶん殴られる感じがする。
割れものは手に持って 運べばいいでしょう
 これを初めて聴いたとき、そりゃもうすんごい衝撃だったなぁ。「そう、そうだよ、そうじゃん! なんでそんな当たり前のことに気づかなかったんだろう?」と。
 たぶん今と同じように、弱者についていろいろ考えていた時期だと思うのよね。弱者ってのは不要なものか、ただ押し退けられるしかないのか、排除されるしかないのか、と。そこへ「手に持って運べばいい」なんて言われたもんだから「ああ!」と。
 弱者は決して不要ではないのよ。「手に持って運べばいい」の。それが依存を招くこともあるかもしれないけど、持ち手が「どう持つか」を工夫すればいいことなのよ。