三重の学会から帰ってきました。
その後、週末は名古屋の友達の家に遊びにいき、
今は大学に復帰して実験してます。
修士論文完成のために、実験に使えるのが
正味2ヶ月になり、内心焦りはありますが
修士課程で約一年、実験にいそしんだ結果として
「焦りは成功に導いてくれない」ということが理解できたというのがあり、
もう焦りはしてもあんまり焦らないです。
成長した、のかな?(笑)
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三重の学会で、研究所につとめる先輩(といってもかなり上の人々)と
たくさん話をし、
名古屋では、友達に話を聞いてもらいアドバイスをもらい、
また名古屋では別の知人(作曲家)のコンサートを聴きにいき、
そんなこんなでたった一週間でしたが、
「自分は人からいろんなものをもらいながら生きている」ということを
如実に体験し、また理解したように思います。
僕はある意味、真に「生かされている」と言える。
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三重の学会の会場で、そして二次会で、色んな話を聞かせてくれたT氏は
僕の薄っぺらい発表をほめてくれた。
また、僕の抱いている将来に対する不安、周りへの打ち解けにくさ、
その他諸々の「生きにくさ」をあっさりと見抜いて、
そして優しい言葉で自分の体験談や考えを話してくれた。
僕は涙さえ浮かべて話に聞き入っていた。
T氏が僕に示してくれたもの、実際に手渡ししてくれたものは、
お褒めの言葉であり、暖かい期待であり、生きるヒントであって
僕はそこから自信を回復し、謙虚さの大切さを学び、心が軽くなった。
しかし、T氏と話していて僕が得た、もっとも大きな収穫は
T氏の機知と暖かさに対する尊敬であり、またどんなに周りの人々と
打ち解けられなくても、この人なら分かってくれる、という安心感だった。
その二つが、尊敬から生まれたT氏のようになりたいという野心と、
安心感から生まれた「僕はここに居られるのだ」という赦しとが、
もう修士課程で自分の学業は終わりにしようとまで思い詰めていた、
自分のこれからの道に対する大きな絶望と諦めとを消し去り、
また研究の道に、その暖かな灯りの中に、僕を引き戻した。
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名古屋で久々に聴きにいった、クラッシックのコンサートでは、
モーツァルト・ベルディを初めとする巨匠のオペラ・アリアと
知人の作曲した日本歌曲とを聴いた。
優れた音楽は、どんな状況でも揺らがなかった。
集まった聴衆が、音楽を邪魔するような行動をとっても、
歌い手が、心を純粋に音楽に捧げきれなくても、
素晴らしい歌は、そこに確かに存在して、
変わらずその強い色をした魅力的な洞窟に誘い込むのだった。
僕がそこでもらったものは、愛であり悲しみでありそしてそれらの
普遍性の力強さであり、それを雄弁に語る、音楽の光だった。
柳よ、柳。。
干し芋みたいにしなびていた僕の心は
涙に濡らされ、光を分けてもらい、色に照り映えた。
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週末の殆どをずっと一緒に過ごしてもらった友達から
僕がもらったものは、愛情以外の何者でもないだろう。
人が人に対してもつ、思いやりと愛情。
それらは様々に姿を変え、時間を変え、もたらされる。
文字通りの惜しみない愛情を受けて、
僕の心は喜びに震えた。
頭は芯からしびれてじんじんした。
僕はこれ以上に、表現する方法をしらない。
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僕はいろいろなものを人からもらって、頂いて、生きている。
時にはもったいないほどのものを。時には不条理なものも。
概ね記憶に残るのは、素晴らしいものを頂いたときだ。
記憶だけじゃなく、それらが実際に僕を歩かせている。
僕は、真に、生かされている。
これは不思議な感覚だ。
ずっといままでそこにあって、ただ今をもって「名前がついた」だけのはずなのに、
足に触れる床の感触、空気の質感、体の軽さまでが違うようだ。
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もらうものの中には、使い方の分からないものもある。
使い方が不安なことはしょっちゅうだ。
ただ僕は、受けとり続ける。
僕は感謝しつづけるしか、今は知らない。
努力しなきゃいけないのにできないことは努力不足なのか甘えなのか云々・・・・困難なんだものーと言ったところでみんな苦しくってがんばってるのよーと言われればがんばれない自分がいけないのかもうがんばれないの境目はどこなのか。体が壊れないのだから心も壊れていないのか・・・暗いね。笑。そして少しお休みすることにしました。(2005-10-17 14:39:09)