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2005-11-16(水)

実験をどうするか、ではなく。


実験で失敗(それも大きなもの)を立て続けに繰り返す今日この頃。
修士論文の研究がなかなか前に進まなくて、気ばかり焦る。

助手の先生に言われたこと。

「みんな、お前だけじゃなくて、
 実験を成功させるために何をすればいいかは十分知っている。
 でも、実験を成功させるために自分をどうすればいいかは知らない。

 実験をどうコントロールするかはもう十分なんだよ。
 自分を知って、自分の長短の特性を知って、短所も認めて、
 失敗しないためには自分をどう扱えばいいかを知れ。」

***

僕はこの人に僕の性格を殆ど見抜かれていることに気づいて
もの凄く驚いたことがある。

僕はこの人に知られていることよりも、自分自身のことが
分かってないんじゃないのか。
または、分かってても認めようとしていないのではないか。



2005-10-26(水)

電子顕微鏡


今日は電子顕微鏡を覗いていた。

10万倍くらいで小さなクリスタルを観察。
とっても綺麗。

電子顕微鏡って見てるものの写真をとって残すんですよ。
だからピントをしっかり合わせて、構図を決めて、ぱしゃり。

被写体が街だろうと目に見えない結晶だろうと、
やっぱりこういう作業が好きだな。

大きくても小さくても、美しい絵を描くこと。
嘘はつかずに、ありのままを写すこと。

電子顕微鏡は自分に向いているかも、と思った一日でした。



2005-10-23(日)

Newsweek


Newsweek誌のキャッチコピーに惹かれて
続けざまに2冊買ってみた。

・・・こんなくちばしの黄色い僕が言うのもなんですが、
記事が一流じゃないなー、と思った。
なんかキレがない「埋め合わせ」みたいな記事だったり
コピーが誇大すぎて記事がでっちあげに見えたり。

ちなみに読んだのは日本語版です。

最近の号だと「世界が尊敬する日本人100人」という
キャッチコピーのを買いましたが、
世界が尊敬する、という点において「?」な人が
たくさんあげられている。

例えば。

●蝶々夫人
→尊敬する?百歩譲って愛されてるかもしれないけれど。

●小泉純一郎
→尊敬する?そりゃ一応首相だけどさ。

●ジョン万次郎
→日本人が尊敬する日本人かも知れないけれど、世界?

●小泉八雲
→イギリス/ギリシャ人だし。偉大だけれど。

なんだか、日本人が日本人用に書いた記事にしか思えない。

あと、なんでわざわざ100人にする必要があったのかな、と思う。
100人集めようとして無理した、っていう雰囲気があるから。

100人の中には中には「ほぅこんな日本人もいるのか」と思う人もいたから、
むしろ20人くらいにしておけば、記事としてきらりと
光ったと思うのだけれども。

(内田光子が入っていないのは不思議だけど、それはさておき)

***

あと、日米の同盟関係をやたらと強調する記事が
買った号のどれにも出ていて、なんだかいやな感じを受けた。

ハーバードの教授が
「アメリカは日本のこれまでの協力体制には最大の敬意を払ってきたし、
これから日本がその協力をさらに拡大し、同盟関係をさらに
緊密にすることを友として大いに期待する」
っていう寄稿をしていたけれど、

たぶん編集部が教授に「FunnyなBad jokeをかましてくれ」って
依頼したんだと思う(毒)



2005-10-15(土)

コトバ、できる/できない


公共広告機構

★公共広告機構の広告より。

  命は大切だ。命を大切に。
  そんなこと何千何万回言われるより
  「あなたが大切だ」
  誰かがそう言ってくれたら
  それだけで生きていける。

うまいな、と思った。

「命を大切に。」というのは、「あなたの命をあなたが大切にね。」
という意味で、「これはあなたの問題だから」という響きが
言外に感じられる場合がある。

「あなたが大切だ」というのは、「僕/私にとって大切なんだ」
という意味で、そこに無責任さはかけらも無い。
あたたかくて、大きな言葉だ。

似たような言葉なのに、響きは大きく異なる。

「あなたが大切だ」
僕も言いたい、言われたい。

***

他人に生かされなくったって生きていけるよ、という
強い人も存在するこの世の中。

それはさておいても、人間にとっての身近な問題のうち
最高に難しい部類に入るのは、

  自分が簡単に出来ることが
  簡単には出来ない人の気持ちを理解する

ということだと思う。
特に、努力できる人が努力できない人の気持ちを理解するのは
「困難だ」の上で、「不可能だ」の下くらいに位置するのでは
ないだろうか。

***

でも、程度の差こそあれ、大体の人はみんな
「理解できない側」と「理解されない側」との
両方を経験するのではないかと思う。

だから、「自分はいま、理解できない側にいるんだ。」と気づくこと、
そして、かつて「理解されない側」を経験したときのことを思い出すこと、
その2つさえ出来れば、難易度レベルは「困難だ」くらいで
落ち着くと思うのだけれども。

そして「努力しろよバカ」という言葉と、
「努力できないのも個性」という言葉の、
両方が不適切だということが自ら知れると思うのだが。

*御意見、大歓迎致します。
 

【このトピックへのコメント】


2005-10-12(水)

実験との距離感


ここ数日、ぶっとおしで実験をしまくった。
文字通り、「しまくった」という感じだ。

おかげで2年ぶりに風邪を引いてしまった。

実験との適切な距離感がまだ分からない。
修士課程の一年半をかけて探って来たけれど
いまだにわからず、このザマだ。
今日休んだおかげで、共同実験者にまた実験をやらせてしまった。

距離を取りすぎると実験は進まない。
実験に忠実になると、休めなくなる。
三連休も休めなかった。

自分と実験との距離は、連続値を取らない気がする。
やるかやらないか、その2値しか取らないのではないか。
もし本当にそうだとしたらどうしよう。

***

僕が今やらなければいけないことは、
からだを使うことではなくて頭を使うことのはずだ。

自分がしたいことについて、研究に身を捧げるのか
それとも官僚になって日本の教育改革に身を捧げるのか、

武装することが学問の方法であったのに現在では
それが目的になってしまっていることについて、
自分なりにどういう姿勢をとるのか、

自分は他人にやらされる「自己主張」を
無理をしてでもやらされてやるのか、それともやらないのか、

などに、今の段階で答えを見つける努力を
しなければいけないのではないだろうか。

なのに時間の大半は労働に使われる。



2005-10-07(金)

怖い夢


実家が火事になる、という夢を見て
普段寝坊するところをさっさと目が覚めた。

これまでの自分の歴史、自分と家族をつなぐ思い出の品が
全て燃えてしまうという恐怖を体験してしまった。

夢の中では、家に火が回るのにまだだいぶ時間がかかるから
何かを持ち出そうとするのだけれど、何を持ち出してよいか分からず、
また持ち出したいものがどこにあるか分からず、
結局ほとんど何も持ち出さなかった。

火の元に注意する、というのも大事だけれど
いざというときに持ち出す最低限のものを決めておくというのも
案外非常に大事なんじゃないかと思った。

まだ夢のショックから覚めやらないので暗いテンションで書いてます。。。

それにしても、昨日は何本も夢を見たけれど、すべて
不安とか失敗、恐怖にまつわるものだったな。
なんでだろ、昨日はいいことあったのに。



2005-10-05(水)

もらいながら生きる


三重の学会から帰ってきました。

その後、週末は名古屋の友達の家に遊びにいき、
今は大学に復帰して実験してます。

修士論文完成のために、実験に使えるのが
正味2ヶ月になり、内心焦りはありますが
修士課程で約一年、実験にいそしんだ結果として
「焦りは成功に導いてくれない」ということが理解できたというのがあり、
もう焦りはしてもあんまり焦らないです。

成長した、のかな?(笑)

***

三重の学会で、研究所につとめる先輩(といってもかなり上の人々)と
たくさん話をし、

名古屋では、友達に話を聞いてもらいアドバイスをもらい、

また名古屋では別の知人(作曲家)のコンサートを聴きにいき、

そんなこんなでたった一週間でしたが、
「自分は人からいろんなものをもらいながら生きている」ということを
如実に体験し、また理解したように思います。

僕はある意味、真に「生かされている」と言える。

***

三重の学会の会場で、そして二次会で、色んな話を聞かせてくれたT氏は
僕の薄っぺらい発表をほめてくれた。
また、僕の抱いている将来に対する不安、周りへの打ち解けにくさ、
その他諸々の「生きにくさ」をあっさりと見抜いて、
そして優しい言葉で自分の体験談や考えを話してくれた。
僕は涙さえ浮かべて話に聞き入っていた。

T氏が僕に示してくれたもの、実際に手渡ししてくれたものは、
お褒めの言葉であり、暖かい期待であり、生きるヒントであって
僕はそこから自信を回復し、謙虚さの大切さを学び、心が軽くなった。

しかし、T氏と話していて僕が得た、もっとも大きな収穫は
T氏の機知と暖かさに対する尊敬であり、またどんなに周りの人々と
打ち解けられなくても、この人なら分かってくれる、という安心感だった。

その二つが、尊敬から生まれたT氏のようになりたいという野心と、
安心感から生まれた「僕はここに居られるのだ」という赦しとが、

もう修士課程で自分の学業は終わりにしようとまで思い詰めていた、
自分のこれからの道に対する大きな絶望と諦めとを消し去り、

また研究の道に、その暖かな灯りの中に、僕を引き戻した。

***

名古屋で久々に聴きにいった、クラッシックのコンサートでは、
モーツァルト・ベルディを初めとする巨匠のオペラ・アリアと
知人の作曲した日本歌曲とを聴いた。

優れた音楽は、どんな状況でも揺らがなかった。
集まった聴衆が、音楽を邪魔するような行動をとっても、
歌い手が、心を純粋に音楽に捧げきれなくても、

素晴らしい歌は、そこに確かに存在して、
変わらずその強い色をした魅力的な洞窟に誘い込むのだった。

僕がそこでもらったものは、愛であり悲しみでありそしてそれらの
普遍性の力強さであり、それを雄弁に語る、音楽の光だった。

柳よ、柳。。

干し芋みたいにしなびていた僕の心は
涙に濡らされ、光を分けてもらい、色に照り映えた。

***

週末の殆どをずっと一緒に過ごしてもらった友達から
僕がもらったものは、愛情以外の何者でもないだろう。

人が人に対してもつ、思いやりと愛情。
それらは様々に姿を変え、時間を変え、もたらされる。

文字通りの惜しみない愛情を受けて、
僕の心は喜びに震えた。
頭は芯からしびれてじんじんした。

僕はこれ以上に、表現する方法をしらない。

***

僕はいろいろなものを人からもらって、頂いて、生きている。
時にはもったいないほどのものを。時には不条理なものも。

概ね記憶に残るのは、素晴らしいものを頂いたときだ。
記憶だけじゃなく、それらが実際に僕を歩かせている。

僕は、真に、生かされている。

これは不思議な感覚だ。
ずっといままでそこにあって、ただ今をもって「名前がついた」だけのはずなのに、
足に触れる床の感触、空気の質感、体の軽さまでが違うようだ。

***

もらうものの中には、使い方の分からないものもある。
使い方が不安なことはしょっちゅうだ。

ただ僕は、受けとり続ける。

僕は感謝しつづけるしか、今は知らない。

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