日曜日に投票があった千葉7区の補欠選。連日ニュースで取り上げられたほどのパフォ−マンスを与党・野党ともに競い合い、結局1000票足らずの僅差で26歳の民主党女性候補が勝利した。コメンテーター達は、人気やパフォーマンスではもはや選挙に勝てない時代だと総括していた。

選挙期間中に炸裂した与党側のアホさ丸出しパフォーマンスの数々については「きっこのブログ」に見事に描写されているのでここでは割愛するが、浮動票が多く、とりわけ有権者の年齢層が比較的若い地区では全くの逆効果で、あれならやらない方がよっぽど勝てたのでは?・・・それにしてもハマコーは何の因果で時代錯誤の土下座なぞしに来たんだろ?

話は変わって、みのもんたの「朝ズバ!」でも取り上げられていたが、このところ親子間の暴力・殺人事件が頻発している。ほとんど毎日、日本のどこかでこのテの事件が勃発しては報道されている。少年少女が絡んだ理解不能で刹那的な傷害・殺人事件も同様だ。

やっぱり時代と躾のせいかなと思う。誰もが生活のため、自立のために定職に就く事が当たり前だとした時代が、今はその場しのぎでも十分やって行けるような物の豊かな時代である。世の中も個人の自由のみを拡大解釈し、バイトをフリーターと呼び、不労働者をニートと呼ぶ。まるで一つの生き方でもあるかのように、オブラートに包んだように言い換える。所詮そんな生き方など最後まで通用するはずが無いのを知りながら。

団塊世代以降の親は、子供に対して少なくとも強く怖い存在ではなくなった。自分の親世代で懲りたのだろうが、決して物質的な飢餓感を覚えさせず、ひたすら与え続ける中で、枠を定めぬ自由をも容認してしまった。その結果、子供からは「やりたくてもできないこと」「やってはならないこと」が無くなり、気づいた時には子供はとんでもない場所に行ってしまい、親の声もろくに届かなくなってしまったのだ。

子供は物質的にはほぼ満たされているゆえ、逆にその反動で精神的飢餓に陥ってゆく。ガマンする経験が不足しているので「分相応」という事がわからない。不満の限界もわからない。ある時、何かによって自分の精神的な枠を超えてしまったら、ドップリと落ち込むか抑制の効かない行動に出るか以外に解決を図る術を知らない。一種の思考停止状態とも言えよう。

昔の子供は、親に先生に近所の人に怒鳴られ叱られ、そして褒められて育った。否が応でも自分の周りの大人が自分に積極的に関わってきたのだ。常に大人の目があり、道から外れそうになるとすぐ引き戻された。そもそも怖い存在が身近にあるだけで、子供といえどもそうそう道は外れないものだ。

子供は親の鏡であり、若者は時代の鏡とも言う。責任を伴わない自由は存在しないという言葉も汎用されて久しい。責任を取らない自由とは、突き詰めれば「我儘」に他ならない。昨今の惨状は、無関心な親や大人の「我儘」をそのまま子供に見せてきた結果に過ぎないのではなかろうか。