バージニア工科大で30人以上の死者が出た米国史上最悪の銃乱射事件から一夜明けたら、太平洋を挟んだ日本でも銃による殺人事件が勃発していた。狙われたのは選挙中の長崎市長の伊藤一長氏(61)だった。背後から2発撃たれ、出血多量で死亡した。

バージニア事件の犯人は韓国人在学生のチョ・スンヒ(23)で、すでに自らの銃で自殺した。長崎事件は、山口組系暴力団幹部の城尾哲弥(59)。動機は、片や恋愛のもつれから、片や仕事上の恨みだったという。どんな理由があろうとも、銃を使っての殺人なぞ愚行の極みである。

今朝の天声人語によれば、米国では銃の事を「平等をもたらす装置」と言うそうだ。相手が屈強でも銃を持てば対等になれるという。開拓時代の自衛思想に根ざしているそうだ。暴力にモノを言わせて侵略した開拓時代を今だに引きずっているというのも、進化からずいぶんと遅れた文化だと思うが。

こういった事件が起きる度に、一般の国民からは銃規制の声は挙がるのだが、全米ライフル協会(NRA)や銃擁護派の連中は「銃が人を殺すのではなく、人が殺すのだ」「撃たれる前に撃つ権利がある」と決まり文句を言い放つ。今回の事件でも、他の誰かが銃を持っていたらと残念がる声もあったという。

現在、米国だけでも2億丁の銃が出回っているそうだ。女性の殺人事件でもあれば、その地区での銃の売上げが飛躍的に伸び、その購入者の9割が女性だとか。これほど手近に銃があれば、些細なトラブルでも発砲につながりやすくなるだろうに。

そんな国でも百歩譲ってギリギリうなずけるとしたら、せめて抑止力としての銃の所持だろう。核兵器も平和維持のための抑止力としてその存在が許容されているのであって、実際に使用された瞬間、おぞましい悪魔の兵器に成り下がる。銃も同じだ。まして殺人目的の使用など論外である。

「目には目を」の文化を持つ中東の国を民主主義に解放すると言って戦争を仕掛けた国では、毎日「目には目を」の銃による殺傷事件が起きている。一方で、かの国では民主主義が根付くどころか、連日のように爆弾テロが起きているではないか。国民も政治家も、このあまりに明白で愚かな矛盾に早く気付いて、現実を変えるべく行動すべきだ。

わが国でも銃刀法を即刻改正して、銃の所持だけでも無期懲役にし、銃を使っての殺人は即死刑とすべきである。

今年初めての営業スキルアセスメントの手助けで昨日、福岡に降り立った。

福岡と言えば、まだ寒さが顔をのぞかす今年の4月であれば、水炊きも悪くないだろう。先般書いた「いろは」ではなく、通販で取り寄せたスープが絶品の白湯スープだった「博多 華味鳥」中州本店に行った。

福岡市内に数店舗構える店だったが、水炊き単品で2600円、前菜や鳥刺身、雑炊込みのコースでも@4000円と、「いろは」に比べてもかなり−ズナブルという点も気に入った。おまけに各種アルコール類の飲み放題も1600円である。

いろいろな肴が盛り合わされた前菜もいい感じだし、その後の鳥刺しやタタキもグーッ! お酒と共に十分すぎる位に暖まった所で、いよいよメインの水炊き登場。通販で味わった白湯スープもそのままに、鶏肉とツミレでその美味しさを十分に堪能した後に野菜類が投入される。最後に、そのスープで炊く雑炊も絶品だった。文句なし。

ここは数ある博多水炊きの店でもコストパフォーマンスの点で上位確実な店だと評価できる。だが、それよりももっと面白かったのは、着物を着た若い仲居さんだった。何と彼女達は中国人だったのである。しゃべる言葉のイントネーションが不自然だったので気が付いたが、見た目には日本人と区別がつかなかった。でも、かの「いろは」の店員とは大違いの細やかな心配りは見事だった。今後は福岡出張の際の水炊きはこの店に来る事になるだろう。

気分を良くした我々は、カラオケを求めて隣のフィリピンパブへ。当然、途中で記憶を無くす事になるのだが、記憶保持者の証言によれば、それぞれ数曲歌って当初の目的は果たせたらしい。長居をしたが、それでも@7000円と中洲のお試し料金の範疇だった。

毎度のごとく一夜明けたらひたすらノドの渇きと戦うハメになった我々。よくよく考えてみると、一次会二次会と10人以上の女性と接したものの、日本人女性とは一度も会話しなかったという摩訶不思議な一夜を過ごしたと気付いたのは翌日の昼前だった。

やっぱり、わかっちゃいるけどやめられねぇ〜、かな?

出張の夜は山あり谷ありの一夜となる事が多いが、半面、昼はおとなしいものである。夜の部の副作用として、寝不足に加え消化器系の疲弊が現れるので、あっさり軽目の食事を摂る事になるからである。それでも味にはこだわりたい。

それは、ここ福岡でも例外ではない。サッパリ物の代表格、蕎麦は以前書いた「いまとみ」と決めているが、今回はうどん、しかも讃岐うどんにこだわってみた。

福岡の讃岐うどん店で有名なのが「讃岐うどん大使 福岡麺通団」である。去年の出張の時に初めて行ったが、実は期待したほどには印象に残らなかった。讃岐うどん専門店のわりには、本場と比べて「ナンチャッテ讃岐うどん」に近い印象なのである。やや高目の値段設定、固めでコシが抜群のはずのうどん自体すら高松で食べたものと若干感触が違っていたからである。

「どこかに隠れた名店がないものか」そんな思いを抱えてホテルからタクシーに乗って会場のホテルに向かう途中、その近くの横丁に一軒のうどん店が目に入ってきた。看板には「博多さぬきうどん」と「うまい うまい」の文字が。福岡には博多うどんという物もあるのに、なぜ敢えて「博多」と「さぬき」を合体させたのかはあずかり知らぬものの、とにかく昼食休憩の時間に行ってみた。

メニューを見ると、かけうどんが320円なのに、自家製のえび天やごぼう天入りなどが350円という嬉しい価格設定。サイドオーダーした稲荷寿司も小振りながら3個で130円だ。両方併せて文字通り「ワンコインランチ」だった。讃岐うどんといい、宇都宮餃子といい、味に加えてリーズナブルな価格こそが地元の主食と言わしめる所以だろう。

やがて運ばれてきたえび天うどんは、手打ちうどん独特のコシも十分、うどんツユのダシも良好とまさに「お値打ち」である。その証拠に、一緒に行った四国出身の同僚も、こりゃリッパに合格点だと太鼓判を押していたほどである。

改めて店をネット検索すると、出てきたのは同じ場所にありながらも店名が異なる店だった。もっとも、正式な店名が看板に書かれていたわけではなかったので、それがその店なのかは確信が持てないが、地図に載っている場所は間違いないと思う。

改めて紹介しよう。「さぬきうどん渡辺通店」である。

そういうわけで、博多の昼の残る楽しみは、おいしいカレー店の発掘だけとなった。蕎麦屋とうどん屋とカレー屋があれば、最低3日は昼飯に困らないからだ。

「太陽は地球の周りを回っている」(28%)
「人類は恐竜時代に既に出現していた」(30%)
「科学的な知識だけを信じる」(20%)
「放射能に汚染された牛乳は煮沸すれば飲んでも安全」(14%)

これは、ロシアの153都市で1600人を対象に基本的な科学知識を試す形で行われた調査結果として伝えられたものである。

初めて有人ロケットの打ち上げを成功させた、先進大国のひとつであるはずのロシアでこんな結果が出るのは驚きだが、これが共産主義国家というものである。指導者層を除く一般国民への情報統制と操作の実態が浮き彫りになった結果とも言える。

人は国家教育の名の下で学習した事をなかなか疑おうとはしない。また、その総量が多いか少ないかの比較も難しいだろう。あるいは知識が正しいのか誤っているのか、他の情報との比較の手段も持てないとなれば、それを信じるしかあるまい。もっとも彼らの最重要事項は当面の衣食住であって、天動説であろうとなかろうと今日の暮らしの足しにはならないのである。

ただし生命に関する知識や情報だけは、これを誤ると大変な事になる。放射能汚染された牛乳を煮沸しても危険性は何ら変らない。煮沸殺菌とは次元の違う話である。たとえ自分は放射能の何たるかなど知る必要もない生活をしていたとしても、放射能を生み出す人間がいる限り、いつそれが自分達の中に入り込んでくるかわからないのである。

彼らの中には、チェルノブイリ事故直後に施設に入って作業した労働者もいれば、風下の地域で避難する事もなく家族共々住み続けている者もいる。このように、時に無知とは命の危険さえ生じるものなのである。

我々日本人は、確かに国民の現代科学の知識レベルは高いだろう。でも、環境問題、家庭問題、教育問題、原発問題、防衛問題、歴史問題などの政治・社会問題はどうだろうか。ロシア国民を笑えるほど知識があるだろうか。さらに、それらに対する想像力や判断力は、十分持ち合わせていると言えるだろうか。知識はあっても知恵がないのではなかろうか。

地動説や人類誕生は知らなかったとしても、もしも彼らが環境汚染のない自然と共に醜い争いのないのどかな人々と一生を過ごしているとしたら、それは我々から見れば奇跡的な幸せの姿だろう。笑うどころかうらやましい話である。

現役市長候補の射殺事件で注目を集めた長崎市長選挙の結果が出た。後援会に推されて投票日の3日前に急遽出馬した娘婿の西日本新聞記者横尾誠候補(40)を、同じ日に出馬した「市政熟知」の市課長田上富久候補(50)が破り初当選を果たした。

前市長伊藤一長氏(61)の盤石の支持基盤に加え、通常こういうケースでは有権者の「情」に訴える「弔い合戦」の構図が有利に働くと見られるのだが、「世襲批判」の声を前に、思うように票が伸びなかったようである。

当選した田上氏は、娘婿が後継として出馬した事に「市長は世襲制ではない。肉親の情は分かるが、自治の担い手は別問題。リーダーは市民が選ぶべきだ」と批判。世襲に危機感を感じたのが出馬の動機の一つとも語っていた。また彼は、昨年私も訪れた観光イベント「長崎さるく博」を企画立案したアイデアマンでもあるという。まさに市政の「実務者」であろう。

長崎の有権者は冷静にこれらに答えた形に見えたが、その差は千票にも満たなかった。期日前投票の「伊藤票」は無効なのは分かるが、昨日投票された中にも「伊藤票」は少なからずあったという。その数は到底千や二千の単位じゃあるまい。前市長へのお礼投票が大半だとしても、もしも横尾氏が伊藤姓を名乗っている立場だったとしたら、姓のみの「伊藤」票は本人にカウントされ、それによって当選者が変わっていたと、かなりの確率で言えないだろうか? 

こうして見ると、過去に当たり前のようにあった情が働いた選挙と比べても、結果としては紙一重の差だったに過ぎない。まだまだ有権者は情に脆いが、それが日本人の良さであるのも確かだ。横尾氏の妻の優子さん(36)は憔悴しきった様子で「これでは父は浮かばれません」と声を振り絞り、崩れ落ちそうになるのを関係者に支えられ、泣きながら事務所を後にしたという。

いくら身内とは言え、それまで長崎市政と全く関係のなかった人物よりも、伊藤市政の実務者が後を継いだ事こそ「浮かばれる」事だと思うのだが。身内の無念さを叫ばざるを得ないのが情実選挙なのだろう。

鹿児島の知覧に続いて、私に平和というものを深く考えさせてくれた長崎。今後も、前市長が強く思っていた「悲しい歴史を歩いてきたからこそ発信できるメッセージ」を新市長と共に期待したい。

本日をもって、禁煙一周年の記念日を迎えた。禁煙指導と禁煙パッチを交付してくれた会社近くの医療施設の栄養士と薬剤師の若い女性を招待して、一周年を祝おうと思っていたが、同時に禁煙した同僚の不手際で、結局この日は男二人で祝杯をあげざるを得ない状況になった。

卒煙日: 2006年 4月 26日
卒煙からの日数: 1年 0ヶ月 0日
延びた寿命: 19日と13時間27分
節約できた金額: 74259円(節税分 48317円)
節煙本数: 5121本 435.32m ジブラルタロック

思い起こせば、いや今なお私の脳みそは一服した瞬間の心地良さを記憶している。だから折に触れその誘惑が蘇って来るのである。身体はニコチン依存症からとっくに脱却しているのに脳の記憶は残ったままというのが、大方の禁煙者を再びの喫煙者に引きずり込む原因となっているに違いない。

そんなワケで、禁煙一周年記念の男二人の行く先はいつもの居酒屋になった。もちろん魚籠庵である。この時季のお勧めは初鰹の刺身とあぶりカンパチの刺身だろう。とりあえずビールもそこそことなる程、これらは焼酎に絶品の肴だった。この店は去年あたりからいつ行ってもほぼ満席で、予約なしでは入れない時がある位、賑っている。

いつ行っても空いていた当時を知っている我々から見れば痛し痒しなのだが、相変わらず旬の刺身やおでんを中心に他とは一味も二味も違った質の良さを感じさせる料理に満足している。こういった事が本物であればあるほど、それはクチコミでしっかりと伝わって行くものだろう。

久々にゆっくりと堪能した我々が次に見定めた店は、今夜初めて行った代々木駅近くの老舗ジャズライヴバー「NARU」だった。新進気鋭のバイオリニストやパーカッショニストの女性がライヴのメインを務める小粋な店である。大きなハコでないのが、かえって居心地の良さを感じさせる。ライヴチャージは付いていなかったが、その分飲み物は若干高めか。

それでも目の前で発する生の音の魅力はすごい。感性が求めるままに、バーボンロック2杯と共にじっくりライヴを味わった後、まだ十分早い時間の地下鉄に乗って家路についた。いつもならカラオケボックス行きも辞さないところだが、内容の濃いシャレた夜もたまにはいいじゃないか。

来月の全国研修ツアーの予演会がギリギリまで押し、3日前に暦通り9日間のゴールデンウイークを迎えた。今日までの3日間、カミさんも仕事で家を空けているこのチャンスに、私はある決意を胸に疲れを癒そうと考えたのである。

一年前は、禁煙開始と共に突入したゴールデンウイークだったが、それも一段落したところで、再びウエイトダウンを始めるために、徐々にではあるが胃を小さくしていこうと試みている。この長期連休をそのための助走期間としたい。そして、突入前までに蓄積された数々の疲労を「時間の概念を捨てて」癒してみたいのである。もっともそれは息子が帰省してくる5月2日までの期間限定であるが・・・。

目が覚めれば起床し、一人の時間をTV、書籍、あるいはゲームで過ごすも良し、街のカフェでiPodと雑誌でくつろぐも良し、気が向けば近場にドライブや買い物に行くも良し、である。面白いモンで、日頃は面倒なクリーニングや買出しも、それがその日の義務じゃないとなった途端、すんなり行けたりしてくる。

もちろんスケジュールとか時間的要素は何も決めない。ゆめゆめ無駄な時間の使い方などと思ってはならない。そしてそれは夕食の時間まで。夕食は仕事帰りのカミさんと家か外で摂る。そこがシンデレラのカボチャの馬車のタイムリミットである。それでもこれはこれで十分効果的だと思う。

仕事を追ったり仕事に追われたりした時に「ああ、今日はストレスやプレッシャーをかなり受けたな」と自覚できる時はさほど問題ではない。分かっているから、自分なりに発散させて解消すれば良いのである。本来、仕事には適度なプレッシャーやストレスは必要なのだから。

問題は自分で認識できていない「無自覚ストレス」である。無意識のうちに受け無意識のうちに蓄積し、ある時一気にオーバーフローしてしまうと、心身に相当な悪影響を及ぼすのである。おまけにその原因が「無自覚ストレス」だと気づいてないので、解消しようもない。やがて精神的な病名が付いてしまう事にもなりかねないのである。

実際、私も年に何度か「ワケの分からない苛立ち」を覚える事がある。そうなる原因は仕事にも家庭にも思いつくものがない。でも、まるで何かに煽られるが如く、内面からこみ上げてくるもののを覚えるのである。たぶん、これが「無自覚ストレス」のオーバーフローなのではなかろうか。

この「無自覚ストレス」を解消するためには、こちらも「無自覚」になるしかない。相手が見えないなら、こっちも見ようとせず、その代わり一切時間の感覚を持ち込まないプライベートタイムを作るのである。何ものからも追われず、何ものをも追わない時間を過ごすためには、何もない南の島あたりが一番いいのだが、現実はなかなかそうもいかない。

せめて自宅を時間の止まった空間に見立てて、我が身を晒してみてはいかがか? それが家族のいない時のとびきり贅沢な一時だけだとしても・・・。