み〜

Sliding Doors

1998年の作品。 新譜発売のパンフに載っていたストーリーにひかれ、なんとなく気になりつつも、買ったりレンタルしてまで…と思ってしまったのでなかなか見る機会がなく、結局TV放映で視聴。 TVで見るくらいがちょうどいい小品ですね。

てっきり米映画だと思って見始めたら、舞台はロンドン。 後で調べてわかったことですが、監督も主役の男優二人も主人公の友達役の女優も英国人。 ハリポタみたい…かも(苦笑)

主人公のヘレン(グウィネス・パルトロウ)のちょっとした運命の違いからくる二つのパラレルワールドを平行して見せてくれるラブ・ストーリーです。 それぞれのラブ・ストーリーはなんてことはない、どこにでもころがっているような話ですが、それが平行して描かれるところがこの映画のミソ。 片方は怪我をしてバンソコウを貼っているとか、片方はイメチェンで髪を切るとか、それぞれの世界にいる二人のヘレンが区別つきやすいような配慮しているのはまぁ、当たり前。 面白いと思ったのは、二人のヘレンがニアミスしているところ。 恋人に裏切られ失意で呑んだくれているヘレンと、恋人に失業のことでなぐさめられはしゃぎに出かけたヘレンの行ったバー(?)が同じ…など、前半はそのニアミス具合がカメラワークも含め、なかなか良し。 自分で会社を興して生き生きしていくヘレンと、バイト生活にくたびれていくヘレンが実に対称的なのも見所。

結局、2つのストーリーは最後、1つになるというのは薄々知っていたので、どうまとめていくのか、後半に期待していたのですが、ストーリー展開が強引になり、二人のヘレンがシンクロするのさえわざとらしくなってしまったのはちょっと興ざめ。 ストーリーに無理があるな、と思った第一の理由は、ヘレンの同棲相手だった恋人のジェリー(ジョン・リンチ)があまりにも情けない奴だったこと。 昔の恋人リディア(ジーン・トリプルホーン)と焼けぼっくいに火がついたのか、ヘレンに内緒で二股かけています。 こういうお調子者の奴は、世の中に絶対いそうで、そういう意味ではリアリティがありますが、この映画の中では、上辺だけでもカッコいい奴に描かないと、リディアがヘレンと別れるように迫る理由がわかりません。 リディアがてっきりジェリーとヘレンをいじめて面白がっているのかと思ったら、どうやらジェリーに本気で戻って来て欲しいと考えているらしい…。 リディアのような女性が、こんな情けないジェリーに固執する理由がいまいち不明。 ジェリーは処女作を執筆中の物書きということになっていますが、何か書いている様子がまったくありません。 二股かけていて忙しいので当然とも言えるのですが、書けないことをヘレンがほとんど追求しないのも不思議。 「いつになったら書き終わるの?」とは尋ねますが、それ以上は踏み込みません。 ジェリーはヒモ状態、一方ヘレンはバイトでくたくたな上に、ジェリーの不信感を抱き始めているという場面では、もっと怒りますよね、普通。

さてさて、いち早くジェリーの裏切りを知ってしまったもう一方のヘレンにも納得できないところがあります。 こちらのヘレンには、新たに恋人ジェームズ(ジョン・ハンナ)ができますが、この恋人も何かワケあり…。 見る方も、再びヘレンは裏切られるのかとハラハラ見守ることになります。 ジェームズには離婚手続き中の妻がいるのですが、そのことを切り出せず、ズルズルと日は過ぎ、ある日、ひょんなことからヘレンはその妻の存在を知ってしまいます。 一荒れあるのかと思いきや、「別居中の妻がいるがかくかくしかじか離婚手続き中」との言い訳であっさりと仲直り。 ヘレンとは、友達という立場でつきあい始めたこともあり、ジェームズ側から考えるとなかなか切り出せない気持ちはよくわかりますが、ヘレンの立場に立てば、理屈はわかるもののその一言であっさりと許せるでしょうか。 最終的には許しても「もっと早く言って欲しかった」と少しくらいなじる言葉が出ても不思議ではありません。 その後、車に轢かれてしまうのは、もう一方のヘレンとの辻褄合わせでしかなくて、思いっきり不自然な展開が続くだけです。

二人のヘレンが妊娠→事故→流産という道を辿るのは、やや強引な感じで、クライマックスとしては思いっきりありきたりでつまらない。 最初のアイデアは良かったのだけど、結末につなげるのに良いストーリーが思い付かず強引につないだ、という印象です。 結末…ほんとのほんとのラストシーンは悪くないんですけどね。 その結末につなぐために、二人のヘレンのうち一方を消す必要があったのでしょうか。 消さなければならないのだとしたら、事故、は必然だったかもしれませんが、やや安直な解決方法ではないでしょうか。

もっとコメディタッチにすれば、肩の力を抜いて見られる良い映画になったかもしれません。 いずれにせよ、ストーリーの練りが足りなかったのは、残念。

Road to Perdition これは映画館で観た。良い映画だ…と思う。 しかし、手放しで拍手賞賛を送ることができない。 たくさん人が死ぬし、最終的に悲劇なので、後味の良い映画とは言えない。 結局何を描きたかったのか…、今一つ焦点がぼやけているような気がしてならない。 製作者の意図は唯一つ、映画の題名「Road to Pardition」の通り、一組(※ 二組ではない!)の父子のロード・ムービーだ。 凍りついていた父子の心は、最後にパーディションに至った時に、溶ける。 さらに言うと、父子のロード・ムービーというのは、「子連れ狼」がアイデアの元らしい…。

まぁ、まず日本語タイトル「ロード・トゥ・パーディション」はいただけない。 パーディションが地名だとわかる日本人はまずいない…。となると、ロードがRoad(道)なのかどうかもはっきりしない。 ありきたりだが「パーディションへの道」くらいにできなかったのだろうか。 そのままカタカナというのは最近の傾向だが。 次に宣伝の仕方。 宣伝の常套手段として当たり前のことだが、トム・ハンクス、ポール・ニューマン、 ジュード・ロウ、この3人を全面に出している。 いったい誰が主役なんだか、どこが父子のロード・ムービーなんだか…。 映画の語り手はトム・ハンクス演じるマイケル・サリヴァンの息子マイクだ。 この子供マイクが主役のうちの一人なのだ。 そのわりには、子役ということもあるだろうが、存在感がいまいち薄い。 オーディションで選び出した無名の子役を、宣伝に使っても集客力の足しになるかどうか怪しいので仕方ない。 そんなわけで、物語りの焦点がいまいち不明のまま、最初は話が進行していくのだ。

子役の存在感がいまいちなことを除けば、 他のキャスティングはなかなか絶妙とも言える。 ポール・ニューマン…すっかりいいおじいちゃん役者になった。 年老いてもなおもかっこいい。 ルーニー役はポール・ニューマン以外考えられなかった、とパンフにもあるがその通りだ。 難点を言えば、少々ノーブルすぎないか? トム・ハンクスが冷血無常なギャング役とは意外な人選、というようなことが パンフに書いてあったように思うが、たぶんこの人なら何をやらせても うまくこなすに違いない。はまり役かどうかはわからない。 …が、間違いない配役だった。 ジュード・ロウは、トップ3人に名を連ねている、ということは、物語の途中で 姿を消すことはなく最後に必ずもう一度出て来る。 つまりラストの悲劇は充分想像できるのだ。 想像できても、どういった形で登場するかはわからない。 再登場を想像できてしまうだけに、あの演出は鮮烈だった。 そして、顔面傷だらけだったのも迫力満点だ。 ラストに限らず、不気味さ、得体のしれなさ、どことなく漂う異常な雰囲気、すべてはまっていた。 とはいえ、ジュード・ロウでなくてはいけない理由はなかったと思う…。 集客力の足しにするいはジュード・ロウだったのかもしれないが。 そして、キーパーソン。コナー・ルーニーを演じるのがダニエル・クレイグ。 コナーはすべての事件の発端である。 コナーさえ、バカをやらなければ、すべての悲劇は起こらなかったともいえる人物。 しかし、事件の発端は物語りを始めるきっかけにすぎない。 パンフにあるように、比較的名前を知られていない役者を配したのは英断だ。

冷めた目で見れば、上手な役者を配しているのだから、役にそれなりにはまっているのは当たり前といえば当たり前。 この人でなきゃ、という必然性まで感じられない。 上手い役者、集客力のある役者を揃えてご苦労さま、ってところだろうか。

ストーリーの難点を言えば、ジュード・ロウ演じる殺し屋マグワイアが、実に都合の良い場面でしか出て来ないという点だ。 マグワイアにサリヴァン殺しが依頼された時点で、父子の逃避行の物語になるのかと思った。 マグワイアは依頼されるとあっという間にサリヴァン父子に追い付く。 その手口は実に鮮やか。 最初に追い付かれた時点では、ここで終わるわけはないからうまく逃げられるに違いない、と思った通り、予想通りの展開だ。 予想通りとはいえ、ハラハラドキドキさせられるのは映画ならでは。 ところが、その次にサリヴァン父子の前に殺し屋が現れるまで随分と間があるような気がする。 最初に追い付いた鮮やかな手口から考えると、のんびりと銀行強盗をしていてもいいのかい、と思わなくもない。 逃避行という感じがぜんぜんしないのだ。 なんて、もたもたしていると、やっと現れる。 …というか待ちぶせしていたという方が正解か…。 殺しの腕から考えると、再度、現れたときに逃げおおせたのは万に一つの確率も考えられないくらいの奇跡に思える。 しかも殺し屋相手に、すぐに追いかけて来られないような傷までおわせている。 もちろんサリヴァンの方も無傷ではすまない。 …が、親切な夫婦に助けられる。これもあまりにも都合よくできてはいないか。 父子は助けられた夫婦の家にしばらく厄介になる。 ここでも、いつ殺し屋が追っかけて来るかわからない。 もし来れば、厄介になっている家に迷惑になる。 …が、サリヴァンは盗んだ書類を調べているのだ。 ここでも逃避行という感じはない。 次に、話をつけようと再びルーニーに会いに行く。 話はつけられず、サリヴァンの復讐の範囲は広がり、さらなる悲劇を生む。 殺し屋が現れても現れなくても、サリヴァンは常に死と隣合わせだ。 しかし、不思議に無事である。そして父子でパーディションに旅立ち、到着する。 殺し屋が現れるのは、パーディションに到着してからだ。 父と子の関係を築くのに、あまりに都合の良い展開だ。

それ以外をとっても、発端はともかく、その後は偶発的なことの積み重ねで成り立っているストーリーでリアリティに欠けると言えなくもない。 無駄な描写や冗長な場面がなく、コンパクトにすっきりまとめられているのは 評価できる。 が、無駄がない故、ロード・ムービーという面は薄れたように思う。

映画のテーマは父子だが、背景は1931年のアメリカ北部で、現在の常識は通用しない世界である。 サリヴァンはなぜマフィアなのか、なぜ危険を犯してまで復讐するのか、その辺りでつまづくと映画を見ていても面白くなくなってしまう。 サリヴァンが復讐という手段をとらずにアイルランドに引っ込めば、生き残った息子を危険にさらすこともなく、自分も死なずにすんだはず。 しかし、復讐という選択をした。 その背景にあるのは、その時代というものだろう。 私は、アメリカの大恐慌時代を知識としてよく知っているわけではないし、当時のマフィアに詳しいわけでもない。 でも、復讐という選択をせざるを得なかったのは、今の常識では理解し得ない事情があったのだろう、と察することはできる。 その辺の事情を深く描きこんでいないのは、映画としては正解だったと思う。 映画の大部分を覆う暗い色調が、当時の厳しさを充分物語っている。 それでもなぜ復讐しなければならなかったのか?とさらに問うことは野暮だろう。 そこに同調できないと、この映画は意味のないものになってしまう。

斬新な手法があるわけではないが、場面の一つ一つがストーリーをつなげるものではなく、見せる工夫がいろいろなされている。 面白いと思ったのが、ガラスを使った場面。 冒頭で、子供マイクが、コナー・ルーニーをガラスのドアを通して目撃する。 母と弟を殺した犯人だ。 既に辺りはうす暗い。 外にいるマイクからコナーを見ることができるが、中にいるコナーからはガラスが 鏡になって外にいるマイクを見ることができない。 マイクが機転をきかしたために、コナーはそのままマイクを見過ごす。 もう一つはラストの場面だ。 パーディションに着き、子供マイクは砂浜で犬とたわむれる。 父サリヴァンはその様子を、家の中から窓ガラスを通して見る。 ガラスの反射でわかりにくいが、実は、サリヴァンの後ろにいるのは 殺し屋マグワイアだ。そして…。 不気味に静まりかえりガランとした家はあまりにも不自然だ。 充分異変は感じとれたはずなのに、マグワイアが家の中にいるかもしれない、と予想できたのに、一瞬、気を抜いたのか、あまりにもあっさりとやられてしまうのは、冷静沈着なサリヴァンとしては不自然だ。 しかし、それ以上に、その演出に目を奪われる。 それまでの暗い色調とはうってかわった明るい場面、しかも家は白が基調、の中での死の場面は鮮烈である。 マグワイアが写真を撮るためにセッティングした舞台装置としても納得のいくものである。 もし、子供マイクが先に家に入って来たら、ああはならなかっただろう…とも考えてしまうが、それを言うのは野暮だろう。 悲しくて無情…目をおおいたくなるような残酷な場面だが、美しい場面でもある。 映像美を追求しているが故、リアリティはなかったりするが…(苦笑)。

その他、音を消したマシンガン乱発のシーン。 バスルームの鏡に映る死体…。 特別、新しい手法でもない。 ちょっと、ひいて見れば、次にどういうシーンが続くのか想像するのも難しくない。 しかし、その場面の一つ一つは充分ひきつけるものがある。 あくまでも絵的であって、リアリティがあるかどうかは別の話だ。

最後だけは予想外だった。 いや、何も予想していなかったというのが正しい。 一人残されたマイクは、道中で世話になった人の良さそうな夫婦を再び訪ねる。 救いようのない殺人シーンの連続だったが、最後、マイクの落ち着き先があってホッとする。

こんな風に書いてくると、結局、父と子の話はどこへ…と思ってしまう。 実際、父と子の会話のシーンが多いわけでもない。 しかし、言葉で語らなくても、充分映像で語られている。 サリヴァンとルーニーの父子にも似た関係、ルーニー父子の関係は、すべて脇役だ。 サリヴァン父子はパーディションへの道中でお互いを理解するようになったが、他の父子関係をすべて破綻させた上に成り立った絆だと思うと虚しさが残る。

さて、視点を変えて、これはワルの話だ。 ワルは現実では勘弁して欲しいが、映画ではついつい感情移入してしまう。 ワルが主役の映画は結構多いものだ。 ポール・ニューマンがロバート・レッドフォードと主演している「明日に向かって撃て」も「スティング」も主役はワルだ。 ワルを主役にするには、舞台を一昔前に戻すに限る。 現代が舞台だったら、悪役を追い詰める刑事が主人公の方がずっと受け入れやすい。 父と子の関係が映画のテーマだとしたら、大恐慌時代のマフィアで描く必然性は必ずしもない。 マフィアでなければこんな血生臭い映画にはならなかったはず…。 かといってマフィア映画に分類されるものにもなっていない。 華やかな時代ではないものの、クラシックな雰囲気を味わえるのは映画の醍醐味だ。 そんな楽しみがプラスされている。

まぁ、結局の所、ストレートに父子のロードムービーを描いても、その内容が どんなに良いものだとしても、なかなか人は集まってくれない。 大物を配し、話題が出そうな肉付けをして、映像は美しく…、そして無駄は省いて…と出来上がったのがこの映画だと思う。 だから、良いものはあるのに、焦点がぼやけてしまっているのだろう。