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ジキル博士とハイド氏 前回の観劇から2週間、千秋楽に向かい最高潮にのっている時か、あるいは少々疲れが見え始める時か… どんな舞台が見られるか楽しみに再び劇場に向かった。 やはり、舞台の楽しみは「生きている」ということ。 複数回上演されればまったく同じ、ということはないのだから面白い。 私の印象では前者、つまり、総合的にみれば2週間前に鑑賞したときより良くなっていた。

マルシアさんのルーシーのセリフと歌のギャップが少なくなったように感じた。 ルーシーは上流階級の人間ではないから、しゃべり方が多少たどたどしくてもおかしくはないことが幸いしているのだが、セリフが良くなっていたように思う。 知念里奈さんのエマも前よりずっと良かった。 2週間前よりずっと声がよく出ていたと思う。 ミキサーで調整しているのかもしれないが、マルシアさんのルーシーとのデュエットでもちゃんと声が聞こえてきた。 そして、「気の強い」エマというより「若々しい」エマになっていた。 どんなにひいきめに見たとしても、知念 里奈 さんに演技的な深さを求めるのは難しい。 では、彼女に出せるものは何か。 やはりそこは若さしかない。 歌は思いきってのびやかに、演技は背伸びせず若々しく、といった風で、2週間前より好感が持てた。 例の「やめて」というセリフの言い方もソフトになり、その後、しばらく呆然としてしまう流れへ自然とつながった。

エマという役柄の位置付けについての問題はまた別。 そもそも、この「ジキル&ハイド」はドラマ性が低いと言えるのかもしれない。 ドラマというよりはショー。 ジキルとハイドの葛藤というのはドラマチックにも成りうるが、一人が歌いながら演じ分けるというこのミュージカルでのクライマックスでは、ドラマチックというよりは、ちょっとしたショーだ。 殺人のシーンの派手な演出を見ても、ドラマというよりショー。 一方、ジキルとハイドを単純に善悪でなく描くやり方はドラマ的と言える。 科学者としては優秀で善人であるが社会性に欠けるジキル。 悪い奴なのだがどことなく魅力的なハイド。 ドラマチックなものを求めてしまうと、派手な演出が目障りだったり、コミカルな笑いをとるようなセリフがドラマを壊していると感じるかもしれない。 1回しか見ないのであれば、派手な演出が意外性となり面白く映るのだが、複数回見ると、意外性は感じなくなるので目障りにもなる得る。 ハイドが、サベージ伯爵を手にかける前に「勝手に死んでしまった」というセリフは笑いをとるものとも言えるが、ちょっと見方を変えるとサベージ伯爵という人物をよく表しているとも言える。 ショックで死んでしまうような小心者というのもなかなかリアリティがある。

2週間前より、前方の席で観ることができた。 舞台全景を見るにはけっこうギリギリな所である。 改めて、いくつかのことに気付いた。 スポットの当っていない所でも、別のドラマが繰り広げられているのには気付いていた。 窓から街の様子を眺める顔があるなど、舞台全部から目が離せない。 ジキルの元に薬が届けられた時、それを2階から見ている執事プールの姿に、今回、初めて気付いた。 気付かなくてもどうってことないといえばそうなのだが、プールという人物をよく現しているように思う。

2週間前の時は、少々魅力薄だったハイドだったが、より魅力的になっていてホッとした。 …が、ハイドが魅力的な時程、ジキルとハイドの演じ分けが曖昧になる傾向にあるようだ。 少なくとも私はそう感じる。 色彩に工夫があるのはパンフにもある通りだが、編曲にも工夫があるようだ。 後半ほど、楽器の部分ではピアノが単独で響いてくる部分が多くなる。 ピアノの音を哀愁の感じられるものとして使っているようだ。 そして、実際それは成功していると思う。 その他、同じメロディでも使われる場面と編曲が違うだけで まったく別の歌のように聴こえるのも面白い。 ジキルが、自らを実験対象に使うことに決め、希望も新たに歌うときは、不安を感じつつも船出を祝うような明るさに満ちているのに、ハイドを葬り去ることを決心して歌うときにはなんとせつなく苦しく聴こえることか…。 観れば観る程「ジキル&ハイド」の世界、そして音楽の魅力に ますます惹き付けられる。