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タイタニック フジテレビで放映していた。 テレビの放映を観るのは二度目。 私はひねくれものなので、これほど大ヒットした映画は、話題の波に乗り遅れれば当然映画館で観ることはない。 しかもアイドル、ディカプリオが出演しているとくれば、なおさら。 …が、タイタニックが沈む、という映像への興味は断ち切れず、テレビで放映されたのを機に観てしまった。

タイタニックがどう沈んだか、という点については、興味への期待を裏切らない出来だ。 妙にCGっぽい、あるいは安っぽいCGアニメを感じさせてしまう部分があるのは、まぁ目をつぶろう。 沈没後の、いかにもプールです、という海と、明らかにマネキンの死人も目をつぶろう。 タイタニックが沈む、という惨劇に瀕したいろいろな人のドラマを少しずつ織り込んでいる所が上手い。 最後まで演奏を続けた楽士たち。 船に残ることを積極的に選んだ船長や船の設計士、その他の人々。 救命ボートを巡るドラマ…。

それに比べて、肝心の主人公のローズとジャックのドラマはあまりにお粗末だ。 タイタニックが沈む、という大きなドラマに都合良く絡むよう創作した物語なのだから、しょうがないのかもしれない。 が、ジャックの人間像の曖昧さにはどうにも納得できないものがある。 ジャックが必死に生きることを望んだローズにも、それだけの魅力を感じられないのは物足りない。 アカデミー賞11部門を受賞という肩書がついているが、主演賞/助演賞/脚本賞辺りを逃していたりノミネートすらされていないのは、妥当なところだ。 やはり、ロマンス・ドラマとしてではなく、パニックものとして評価されたのだろう。 しかし、ドラマ抜きのただのパニックものだったら、ここまで評価もされなかっただろうし、興行成績もあげなかったと思われるから、難しいところだ。 お粗末のラブ・ストーリーでも充分その役目は果たしたに違いない。 ピカソの絵の話など小技は効いている。 現代の視点を入れ、回想の形をとったのも、わかるような気がするが冗長になり過ぎてしまったとも言える。 年老いたローズがダイヤを捨てるシーン以降はあってもなくても…という気がしなくもない。 が、ローズを中心にもってくることで、パニックものを好まない女性客をつかむことを狙ったのだろう。 実際、それが当たったから、音楽もイメージアップに貢献したので、桁外れの興行成績をあげることに成功した。

タイタニックを映画の主役にするのであれば、別の肉付け方法もあったと考えられる。 この映画の形がベストだとは思えない。 沈んだタイタニックが発見される以前から、たくさんの人々の想像力をかきたてたタイタニックは様々な形で小説化、映画化されてきた。 が、しばらくタイタニックを巡る新たな物語は世には出てこないだろうと思うとちょっと残念だ。

チョイ役といえるが、一等船客のグレーシー大佐を演じていたバーナード・フォックスを富田耕生さんが吹き替えていたのにはニヤリ(笑)。 バーナード・フォックスはドラマ「奥さまは魔女」ではドクター・ボンベイ役なのだが、この吹き替えが富田耕生さんなのだ。

ビリー・ジョエル、32歳年下と再婚だって。 最近、ビリー・ジョエルに関するニュースというと、事故を起こしたとか、こんなゴシップ・ネタばかり。 もうポピュラー音楽を作ることはないだろう、と本人が言っているくらいだから、ミュージシャン ビリー・ジョエルとしての活躍ぶりを期待するのは難しいとはわかっている。 が、ただのスーパー・スターになってしまったみたいで、ファンとしては複雑な想い。 次々とヒット・アルバムを送り出していた1980年代がなつかしい。

イノセント・マン ミュージック・エア・ネットワークで、ビリー・ジョエルのクリップ特集をやっていた。 チャンネルをまわしたとたん目に入ってきたのは「アップタウン・ガール」のクリップ。 このクリップで、アップタウン・ガールを演じているのはこの時のビリー・ジョエルの2番目の奥さん。 そんなことはまぁどうでもいい。 この頃はアルバムごとにガラッと作風を変えてきて、かつ、ヒットを量産していた。 クリップもたくさん見られたし、ファンとしては楽しかった。 「アップタウン・ガール」はアルバム「イノセント・マン」からのシングル・カット。 このアルバムは50sのノリのアメリカン・ポップをイメージしたものだった。 たしかこの前後のアルバムはわりと重たい内容だったと記憶している。

今度、ビリー・ジョエルのニュースを聞く時はミュージシャンとしてのニュースを聞きたいものである。

テイラー・オブ・パナマ 日テレで深夜に放映していた。 原作は、ジョン・ル・カレの小説『パナマの仕立屋』。 訳本の邦題と同じように映画の邦題も「パナマの仕立屋」とした方がずっと良いのではないかと思うのだが。 なんといったって「仕立て」がキーワードなのだから。

007のピアース・ブロスナンがスパイを演じているが、正統派、王道のスパイ映画ではない。 スパイといっても、ピアース・ブロスナンにとってはセルフ・パロディ的な役柄。 これに拒否反応を示す人もいるようだが、これはこれでいいのではないだろうか。 007のようなかっこいいスパイを、007シリーズ映画以外で演じたって…ねぇ。

パナマの仕立屋ハリーを演じるのは、ジェフリー・ラッシュ。 やや神経質な役柄は、ピアース・ブロスナン演じるスパイと対象的。 だが、重くないか? いや、ハリーはあれでいいのかもしれないが、映画全体の味付けとしてもっと軽くても良かったのではないか? とはいえ、原作はもっと重厚感があるそうだ。 原作者のカレが脚色として映画製作に関わっているにもかかわらず、改変されて軽いノリになっているという。 しかし、単純に楽しむには後半が重すぎると思うのは私だけだろうか。 徹底的にシリアスに描くならむしろその方が良いし、ピアース・ブロスナンをスパイ役に起用することから、思い切ってコメディ仕立てにしてしまうか、どちらかにするべきではなかったか。 実際、興行成績、評判ともにふるわなかったようだし。

実際にパナマでロケをした映像は良かったが、あまりにおもちゃな飛行機には笑ってしまった。 B級スレスレの出来といったところか。

鹿賀丈史と市村正親26年ぶり舞台共演だなんてすっかり見落としていた。 この二人の共演はぜひ観てみたい。 このことを知ったのは、ホリプロからのダイレクト・メール(手紙)。 ミュージカル「ジキルとハイド」を観た時にアンケートを書いたかもしれない。 それで届いたのだろう。

「You Are The Top」の時もすっかり話題に乗り遅れていて、気付いたときにはチケットがほとんど取れない状況だった。 鹿賀さんが降板で、あきらめがついた。

さて、今度は何としてでもチケットをとらねばならない。 ネット上での先行予約は既に終了している。 いらない広告メールがたくさん来るのが嫌で、アンケート欄にメール・アドレスを書き込むのは控えているのだが、失敗したかもしれない…。 電話の先行予約がダイレクト・メールが届いたその翌日。 こんなタイミングで送ってくるとは。 しかし、その日は既に先約があって、電話をかけることは不可能に思えた。 ところが台風のために延期になったのは、幸い。 これで電話をかけることができる!

しかし、電話受付開始の10時頃はすっかり頭から抜けていて、思い出したのが10分くらい過ぎた頃。 あわててかけてみるが、当然のように繋がらない。 電話だけに専念していたわけではないが、いつまでたっても、繋がらない。 終了時刻の13時が近付いてきてさすがにあせってきた。 ようやく繋がったのが13時少し回ったところ。 時間で機械的に切られてしまう回線ではなかったようだ。 が、13時できっかりあきらめた人が多かったのだろうか。 とりえあずチケットがとれてホッ。

復活の日 日本映画専門チャンネルで今月放映している。 この映画は公開時に映画館で観た。 その当時は、細菌兵器などというものはピンとこなかった。 むしろ米ソの対立の方がリアリティがあった。 今観ると、むしろ米ソの冷戦の方が冗長に思える。

これでもか、これでもか、と悲劇をたたみかけてくる。 映画の最初から最後までテンションが高いままだ。 そういう意味ではどこにクライマックスがあるのだかよくわからないのだが、最後までひきつけるものがある。 やはり原作がしっかりしているからだろう。 長編の映画化の常だが、原作を読まないとよくわからない部分、理解しにくい部分も多々ある。 しかし、それは映像で補えるだろう。

原作にほぼ忠実に映画化されているが、細かい点で異なる。 原作では南極に残された人数はもっと多かった。 映像化の都合か、あるいは、より現実に即した数字に変えたのかはわからない。 マリトについても、確か原作ではもう少し年配の女性だったはずだが、まぁ、映画にするにはある程度「華」ががないと様にならない。 (オリビア・ハッセーのカネボウのCMはたしかこの前年だった。) マリトに最初にキャスティングされた女優さんはラストのシーンで海に入っていくのを嫌がったのでおろされて、オリビア・ハッセーが起用されたようなことが、パンフレットに書いてあったと記憶している。 そんなことはどうでもいいのだが…。

死に方がみんな綺麗、というのも少々ひっかかるのだが、まぁこの頃の映像表現だとこんなものだろう。

良い意味で、角川映画が非常に元気だった頃の作品であり、それを象徴するかのような作品に仕上がっていると思う。

日本テレビ系でアニメブラック・ジャックのシリーズ放映が始まった。 手塚治虫の個性を生かす、ということらしいが、やはり、医学の進歩を加味しなくてはならないといった面もあり原作にどれだけに忠実にできるか難しいところだ。 あまりに忠実にしてしまったら、時代遅れの遺物みたいになりかねないし、かといって、映画「メトロポリス」みたいに原作から離れてしまうと違和感がある。

手塚治虫の描く絵は2次元的だ。 アトムの角は立体のぬいぐるみにするには、どうにもこうにもおさまりが悪い。 2次元だからこそのあのキャラ・デザインが成り立っている、と言ってもいい。 映画「メトロポリス」では、3次元の背景の中に2次元の平面的なキャラが動いているのが、なんともいえない雰囲気だった。 今回の「ブラック・ジャック」でも、CGを使ったであろう3次元的な絵の崖っぷちの家に違和感を感じた。 CGを駆使した3次元映像も、ONE PIECEのような最近の作品では面白い、と感じ、手塚治虫作品のようなレトロなものでは違和感感じる、というのは、観るほうの勝手な言い分かもしれない。

そんな細かい話はあるが、概ね、好印象だった。 (しかし最初のレベルで最後まで作ってくれるとは限らないのがシリーズ物の宿命…。)

悪霊島 日本映画専門チャンネルで今月放映中。 随分久しぶりに観た。

ビートルズの「レット・イット・ビー」「ゲット・バック」を使用したことで話題になった作品だ。 カバーではない、オリジナルだ。 これが意外にマッチするというか、エンディングで「レット・イット・ビー」が流れるのはとても印象的だった。 が、これがなんと差し替えられているではないか。 著作権の問題で、DVD化に際しカバー曲に差 映画の印象がガラリと変わってしまった。 せめてもっとオリジナルに忠実なコピーを使用することはできなかったのか。

冒頭、ジョン・レノンが撃たれたニュースから、登場人物の一人、三津木五郎(古雅谷雅人)が1960年代を懐古するところから物語は始まる。 今観ると、さすがにこれは余計な気がする。 三津木五郎の回想で物語は始まるが、次第に物語のすみに追いやられ、結局、三津木五郎の実母の謎もあいまいなまま終ってしまう。 どうせあちこち手を入れて原作を変えているのだから、思い切って三津木五郎の視点で最後まで語る、くらいしても良かったのではないか。(ちょっと無理か?)

この映画でなんといっても存在感があるのが、岩下志麻。 映画の細部は忘れてしまっても巴御寮人の(良い意味で)怪演ぶりだけは印象に残るだろう。

そんなわけで、金田一映画でありながら、金田一演じる鹿賀丈志の印象がいまいちな気がする。 もったいない。

風と共に去りぬ 「風と共に去りぬ」のDVD-BOXが発売になる。 廉価なDVD盤はさんざん出回っているが、今度はおまけ満載だ。 「風と共に去りぬ」はLD時代にBOXを買っている。 その頃は、こんなに早く次世代メディア(つまりDVD)が普及するとは思っていなかった。 今のDVDの平均的な値段から考えると、LDは廉価版であっても高く感じるが、当時は買うことに迷いはなかった。 今のDVDの普及具合を予見することができれば…、そんなことを言っても今さらである。 高密度のDVDだけあって、LD-BOX以上におまけがついている。 やはりこれは買わなければなるまい…。

「風と共に去りぬ」は史上最高の興行成績をあげた映画だ。 この最高、というのは、物価を加味したランキングでのことだ。 物価を加味する、というのは不安定な要素ではあるが、それを言うなら、ワールドワイドな興行収入を計算する時、為替の変動はどう計算しているのだろう、という疑問もある。 つまりランキングなんて目安に過ぎない。

さらに言うと「風と共に去りぬ」は1939年の作品。 テレビが普及する前だ。 今のように待てばテレビで放映される、なんていう期待はない。 レンタルもない。 セル製品もない。 映画館が集客するのは当たり前とも言える。 さらにリバイバル上映での興収も加算されるとなると、数字なんて、ただそれだけのものである。

だからといって「風と共に去りぬ」という作品にケチがつくわけではない。 半世紀が過ぎた今観ても、決して最近の作品に見劣りすることのない映画だと思う。 人間ドラマが基調だということもあるかもしれないが、映像でもひけをとるとは言えない。 メイキングを観て知ったのだが、セットとばかり思っていた背景が絵だったとか、びっくりすることは多い。 映像的に一番凄いと思ったシーンは、スカーレットが医者を探しにアトランタの駅に行った場面だ。 呆然とするスカーレット(ヴィヴィアン・リー)を中心にカメラがひいていく。 彼女が立っているのは負傷兵の列の真ん中だ。 見渡す限りそこは一面横たわった負傷兵だらけ。 カメラはスカーレットが判別つかなくなるくらい小さくなるまでゆっくりとひいていく。 映画館のスクリーンで観るとかなりの迫力だ。

スカーレットの型破りな生き方は、現代に通じるものがあると思う。 決して時代の一部分にはなっていない。 それ故色あせないのだと思う。

誰も知らない

誰も知らないは、明を演じた男の子、柳楽優弥君がカンヌの主演男優賞をとったことで話題の映画。 また、ショッキングな実話がベースになっていることも、話題づくりに一役買っているように思う。 まぁ、そんな話題につられて観てしまった訳だが…。

ドキュメンタリー風の映像は、つい、ここはどこだろう、なんて思いながら観てしまう。 そんな情景にまどわされてしまうだけ、実は、損しているかもしれない。 肝心の子供達から気がそれているからだ。 子供達の素を生かしつつ、物語を作り上げていったのは上手い。 キャスティングに成功した、これなくしてはこの映画はあり得ない。 主演男優賞をとったとはいえ、それは柳楽優弥君の演技力というよりは、天が彼に与えた「gift」によるところが大きいと思う。

実話だと思ってみると大きな間違いだ。 実話はあくまでもヒントになっているだけだと思ったほうがいい。 兄弟姉妹の年齢構成も違う。 あの微妙なバランスはあの設定でこそ生きてくる。 映画にするのに都合の良いよう変えたわけだ。 その辺り、間違った認識が変に広まらないことを願う。

映画は事件のショッキング性を伝えるものではないと思う。 見ても見ぬふりの都会。 知っていても知らないふりの都会。 そんな都会の一角で起こるべくして起こったように思える。