み〜

世の中 blog ばやりだ。 blog や日記という形式をとらなくても、個人がWWW上に何らかの形で自分のページを持つ、ということに対して非常に敷居が低くなってきたといえる。 …ということは、当然WWW上にあるサイトやらページやらの数も増える。 インターネット人口も増えているに違いないが、それ以上の速度で Web Page は増えているだろう。 そこでどうなるかというと、超人気サイトがある一方で、一つ一つのページの“いわゆる”閲覧数は減っているに違いない。 そこで錯覚が起きる。 自分のページなどごく限られた少数以外、誰も見ていないと思っている人の実に多いことか…。

そこに書いてあることを鵜呑みにするわけではないが、誰が見ているかわからない、という意識の無さすぎ、そんなことをひしひしと感じるページが増えた。 いちいち私が見てます、なんて発言はしないが、あなたのその書き込み、読んでしまったのだが…(汗)。 インターネットで公開している以上、ローカルもへったくれもないのだが…。

iTunes でも動画を扱うようになった。…って随分前の話だが。 今まで試していなかったのだが、試しに、ドラッグ&ドロップ。 あっさり認識。 ちゃんと音だけ再生。 感動〜。

以前、動画ファイルから音だけ取り出してiTunesに取り込もうとしたのだが、ノイズが入ったりしてうまくいかなかったのだ。 もちろんしかるべきソフトを的確に使えば簡単なことなのだろうけど、その時はそれだけのためにそれ以上労力を払う気がまったくなかった。 それが簡単に出来てしまうようになったのだから、それはそれで嬉しい。

しかし、iPhoto でも動画を扱う。 どう住み分けるのだろう。 私にとっては、iPhoto も iTunes も iPod のサーバみたいなものだ。 もうちょっとスマートに連携してくれると嬉しいのだが。 iTunesで、音楽ファイルをすべて iTunes配下のライブラリにコピーする設定にしておくと、動画ファイルもコピーしてくれる。 でもその動画ファイルは、iPhoto にも登録していたりして、…となるとファイルが二重になってしまう。 嬉しくない。

さて、今日は Sir Paul McCartney のお誕生日だそうだ。 去年のこの日はというと…、六本木のライヴハウスで大騒ぎしてさんざん酔っぱらって… ま、それは置いておいて…。

マッカートニーII

1980年5月頃のヒット「Coming Up」収録のアルバム。 この頃は M の「Pop Muzik」もあったし、ピコピコなテクノ・サウンドが新鮮で流行っていた頃。 YMOの「ライディーン」もこの頃だったように思う。 この頃、Beatles の名前くらいは知っていたし、初期曲くらいは聴いていたし、ポールが空港で捕まって大騒ぎしていたのも知っていたし…、でもその程度。 なので、ポール・マッカートニーだから、というのではなく、ヒット・チャートに昇ってきたこの曲面白い、という印象だった。 ここから華々しいポールのソロ時代が始まる…って感じなのだが次のヒットは1982年のスティービー・ワンダーとのデュエット「Ebony and Ivory」だったりする。 とはいえ、元ビートルズではなく80sを代表する現役のミュージシャンとして活躍していたと思う。

ピコピコ・サウンドも、一曲ならば面白い、で受け止められるのだがアルバムで聴くとちょっと疲れる。 すべてがテクノな味付けというわけではないのだが…。 もっともポールのアルバムはこれに限らず、実験的なものが含まれているのが常といってもいいくらいだ。 なので、オリジナルのアルバムの形で聴くよりベスト盤で聴いた方がハッピーになれるかもしれない、なんて思う。

ライヴ写真を精力的に撮り続けて早一年…。 以前もライヴの写真は撮っていたが、暗いズームレンズしか持っていないためロクな写真が撮れなかった。 屋外ライヴはズームでもOKなのだが、そうそう撮る機会に恵まれるとは限らない。 そんなこんなでぜんぜん腕の方が進歩しなかった。 しかし、去年はデジカメを入手したおかげで、まず適正露出の計算をすることができた。 フィルムカメラでも高いカメラには絞りやシャッタースピードを記録する機能がついているが、私が使うような入門機ではそうはいかない。 しかし、入門機とはいえ、代替わりを重ねて現在使っているMYカメラ“君”はなかなか優秀なのだ。 早いオートフォーカスと優秀なオート露出、あとはそれをどう使いこなすかだ。

今日もライヴの写真を撮ってきた。 写真を撮ることにうるさく言わないライヴハウスなので、まぁ、フラッシュの凄かったこと…。 マイクに向かって歌いだした途端のフラッシュの嵐には、客席にいる私ですらかなりびっくりしたのだから、ステージ上からははてさてどう見えるのだろうか…。 ちなみに私はフラッシュは炊かない。 フラッシュなんか炊いたら、私はここから撮っています、今シャッター押しました、と宣言するようなもので、そんな恥ずかしいというか緊張に加速をかけるようなことはできない。 一度、カメラの設定ミスで予期せずフラッシュを炊いて撮ってしまったことがあるのだが、その時は全身から火が出そうだった。 穴があったら入りたいくらいだったが、設定を元通りにして再び写真を撮り始めるくらいの図太い神経も持ち合わせていたようだ(笑)。

ミスでフラッシュを炊いて撮ってしまった写真を見て、やっぱり、フラッシュは炊くものではない、と痛感した。 ステージの雰囲気も何もかも台無し。 人物はのっぺりと凹凸がなくなってしまう。 自分より前に他のお客さんがいれば、そのお客さんの頭がくっきりはっきり写ってしまい、邪魔にしか見えない。 フラッシュを炊かなければ、お客さんの頭もその場の雰囲気として写しこめる。 シルエットとしてうまく写しこめれば客席の盛り上がりぶりを表す雰囲気のある写真に仕上がることもある。

それより何より、フラッシュを炊いたらステージの演出(ライティングなど)が台無しだ。 フラッシュを炊いている本人以外は気が散るだけである。 さらにフラッシュを炊いてのっぺりと写った写真、撮られている方もそんな写真はイヤなのではないかと思う。 ステージに立つ人、すべてに聞いたわけではないが、のっぺりと写るからイヤだとか、フラッシュを炊かない写真の方が好ましい、といった話は実際に聞いた。 明るいステージ上にいるとフラッシュに気付かないこともあるようだが、逆にフラッシュで目がくらんでしまう、ということもあるようだ。 フラッシュを炊かないとどうしても撮れないならともかく、炊かずに撮る方法があるのならば、炊かないで撮ればいいじゃないか…ごもっとも。 はい、だから私は“炊きません”

…というわけで、素人写真ながらたまにお褒めの言葉を頂戴する写真もあるのだが、なかなか褒めて下さらない方もいらっしゃる。 褒められるためではなく自分の楽しみで撮っているのだから、自分が気に入ればそれでOKと言えばOKなのだが…。 が、それでももう撮るのを止めちゃおうか、という気持ちと、何が何でも気に入ってもらえる写真が撮れるまで頑張ってみよう、という気持ちと半々なのである。 もちろん、写真を撮らせていただいていることには感謝。

プロの写真というのはまた違うのだろうが、自分の楽しみで撮っている素人写真なのだから、自分がまずその場を楽しむことが大切。 写真というのは正直で、撮る者の気持ちを写すのだ。 シャッターを切る=楽しい瞬間を切り取る、だと思っている。 「楽しい」だけでなく「感動」だったり「感激」だったりその感じた気持ちの部分は場面場面で変わってくる。 瞬間を切り取るには、シャッターのタイムラグのあるデジカメでは難しい。 写真撮影に夢中になってライヴを楽しむのがおろそかになってしまっては本末転倒。 楽しい瞬間はとてもではないけど切り取れない。

もうかれこれ15年くらい同じ店で服を買っている。 こんな長いこと同じ店を利用し続けるなんて思ってもいなかった。 年代的なこととか、ね…。 心なしか、アピールする年代が上がってきた様にも思うが…。 そこのお店の服のデザインとか色とかが好みに合っている、ということもあるのだろうが、それ以上にコーディネイトの見せ方や接客が上手い。 買うものを決めていても、ついついセールス・トークにはまって一点多く買ってしまうのが常である。 ここだけなんだよね、いつも負けて買ってしまうのは。 もちろん、15年も使っていれば店員さんは変わってしまう。 が、基本的な接客方針は変わらないのだろう。

最近はすっかり大お得意様になってしまったようで、非常に複雑な思いである。 客に服を売るのが商売だから、似合っていようが似合っていまいが「お似合いですよ」とおだてるのはセールスのうち。 そうはわかっていてもなんとなく良い気分にさせられてついつい余分に買ってしまうのだが、盛大にお見送りまでされてしまうと、あーまたのせられてしまった、と少々後悔するのだ。 ついつい余分に買ってしまうのが怖くて、しょっちゅうは行かないようにしてみたりするのだが…。

オデッセイ・アンド・オラクル [ザ・ゾンビーズ] 「ふたりのシーズン」は曲のタイトル。 収録されているアルバムは「オデッセイ・アンド・オラクル」。 衝動買いしてしまった。

「車のCM」と人に聞かされて、言われてみればそうかもしれないが、CMで取り上げられるはるか以前から私はこの曲を知っている。 この雰囲気、サイケなオルガン・ソロはどう考えても60s... と思ったのだが、某ミュージシャンは70sじゃない、と。 本当かなぁと思ったので調べてみたら1968年だった。 ほらやっぱり…。

CMに採用された60sと言うと、やはりコダックの1980年頃の一連のCM「California Dreaming」「Surf City」「Daydream Believer」の印象が強烈だ。 ここが私にとってのオールディーズの入り口だったように思う。 「ふたりのシーズン」もこの頃一緒に聴いて記憶に残ったに違いない。

ちなみに私にとってオールディーズとは50s〜60sのこと。 最近は広義には80sくらいまでオールディーズと言ってしまうようだが、80sは私にとっては永遠にリアルタイムだ。

さて、これはアルバム・ジャケットもサイケなデザイン。 そして、サイケとしか言葉をあてはめようのないサウンド。 モノ版とステレオ版と両方収録されているところが、1960年代という時代を感じさせる。 しかしそのサイケな時代をリアルには体験していないので、タイムスリップするのは、サイケという言葉を知った1980年頃。 なんとなく懐かしいようなホッとするような、何もかも新鮮でキラキラしていたそんな気持ちになってしまう。

【このトピックへのコメント】
  • 暁[URL]初めてのTBですわ(^^)。
    件のアルバムはようやく昨日聴きました。結構お気に入りっぽいです、のんびり聴けて。とくにいいなぁと思ったのは、「エミリーにバラを」「ブッチャーズ・テイル」そしてやっぱり「ふたりのシーズン」でした。
    それにしても、ラストのラジオ放送モノはいきなり声が聞こえてきてビックリでした。
    (2005-06-24 13:57:13)
  • み〜コメントありがとうございます。
    「A Rose for Emily」は私も気に入りました。
    サイケなアルバムと書きましたがポップな感じの「Friends of Mine」も好き。
    「ふたりのシーズン」の為に買ったようなものですが、このアルバムは大当たりでした♪
    (2005-06-24 21:29:53)

Chicago Transit Authority ガツンとブラス・ロックな一枚。 Chicago Transit Authority というのが Chicago のデビュー時のグループ名。 なんだか問題があったらしくて Chicago になったらしい。 つまりこれは 1st Album にあたる。 1960年代にこれだけ厚みのある音を出していたということに驚き。

改めて聴いてびっくり。 2曲目の「Does Anybody Really Know What Time It Is」これ良く知ってる〜。 この一枚目に入っていたのか…。 そして4曲目の「Questions 67 and 68」は「威風堂々」を思い起こすなぁ…<わかる人だけわかって下さい。 そして原曲以上にギターもベースも弾きまくっているというコピー、ライヴで聴いてみたいです、はい

なぜこの一枚目をとっとと揃えておかなかったのだろうか…。 悔やむ一方、新リマスターの Rhino 版で買えたのだからある意味ラッキー。

最近、音楽ネタが続くが…、つまり Amazon で無駄遣い(苦笑)をする余裕が出てきたってこと。 この余裕というのは金銭的というよりは時間的だったり気持ち的な要因の方が大きいのだが。 (しかしあいかわらず映画は観ていない…)

Toulouse Street [The Doobie Brothers]

今やスタンダード化しているといってもいいくらいの「Listen to the Music」収録のアルバムがこれ。 The Doobie Brothers 名前は「Listen to the Music」で知った。 「Listen to the Music」を初めて聴いたのはなぜか“カバー”で。 今も続く長寿番組「ミュージック・フェア」でゴダイゴと野口五郎が共演で歌っていたのだ。 それがなぜかしっかりと刻まれた。 (その後、ゴダイゴは ♪Listen to the Music というフレーズを別のメロディにのせて歌うようになったがまぁそれはどうでもいいことだ)

以来、このアルバムを買おうという気持ちはずーっとあったのだが、月日が流れる方が早い。 ようやく“ポチ”に至った(笑)。 1970年代初めのウエストコーストサウンドと言っていいのだろうか、垢抜けきれなていないけど(まさにジャケットのイメージだ)さわやか系、みたいな。 重すぎないこんなサウンド、耳に心地よく響く。 「Listen to the Music」はいろいろな人がコピーするだけあってやっぱり良い曲。

ピアノが欲しかった。 やった、とうとう買った! …いばることではない。 ただの衝動買いのようなものだ。 しかしこれで下手クソなピアノをこっそり弾くことが出来る。 やった!

衝動買いとはいえかれこれ10年近く、欲しい、と思い続けて来たかと振り返ると長かった…。 今の所に引っ越して来てからは、実はアップライトのピアノであればわりと身近にあったりするのだが、生ピアノではいつでも弾ける、というわけにはいかない。 少しこっそり練習してから生ピアノを叩きに行こう。

問題は、置き場所と弾く時間を作ること…。 ピアノが届く土曜日までに考えようっと…。 …ってこんなに暑くて考えられるのか…。 ちょっとでも涼しい気分にならないかとデザインを変えてみた。

ドジを踏まないように気をつけているのだが、やはり月末に向けて危ない兆候が…。 再び忘れ物。 財布でないだけましか。 でも決して軽くて小さいとはいえない物を私のために運んで下さるお友達<すみません。 今日は今日で、定期を持って出るのを忘れた。 あまりに暑いので、取りに帰る気力もない。 なので、切符を買う。往復300円なり。あー無駄。

6月始めに予定した週休3日計画は、3週目に断念したが、やはりこのままでは持たないと思い、4週目に復活させた。 お蔭様で今のところ小さなドジで済んでいるが、今週(5週目)も週休3日計画はとても無理そうな状況だ。 週末あたり壊れているかも。

やたら暑くて汗ダラダラ。 いくらでも麦茶やらお水が飲めて、まるで自分が乾いたスポンジになった気分。 これ以上暑くなる夏を、果たして乗り切れるのだろうか。 不安になってきた。

昨日は軽い酸欠と貧血らしき症状が出た。 そんな状態でも意識が多少遠のくくらいで意識を失って倒れてしまったことはない。 その手の症状が出て今まで一番怖かったのはスキー場のゲレンデにいた時だ。 その時は低血圧か貧血のどちらかだったに違いないのだが、ナイターでゲレンデは薄暗い。 まずい、なんとか無事降りなければ危ない。 この時だけは本当に危ないと思った。 ま、無事滑り降りられたのだが。

そんな症状が出たときは、セーブして用心するに限る。 が、やっぱりどこか抜けているらしい。 気をつけていたのに、今日も定期を忘れてしまった。 さらに、先週いっぱいで締め切りの払い込みをすっかり忘れていて、催促の電話がかかってきてしまった。 まずい。 ごめんなさい。 今日やります。 やっぱり、頭に酸素が足りないな、これは。

最近、ふと思う。 写真撮らないでライヴ観たいな〜(聴きたいなぁ〜)…と口に出して言おうものならハリセンか何かが飛んできそうな気もするが(笑)。 ライヴ写真を撮り続けてきて、前より上手く撮れる様になった!と毎回毎回感じられる時期は過ぎたようである。 言い方を変えればちょっとしたスランプ傾向とでもいうのか…。 それでも1回のライヴで、1枚か2枚、こんな感じで撮れたのははじめてかも、と思える良いショットがあると次もついついカメラを持って出かけてしまう。 そしてカメラを持って出ると、最初はしまっておいても「あ、この感じ撮りたい!!この雰囲気を切り取りたい!」と思うとやはりカメラを取り出して撮りだしてしまうというわけ。

カメラを持って出て、写真を撮らずに帰ってきたライヴというのが1回だけある。 (持っていたけど撮影禁止だった、というライヴハウスを除く。) その時は、勝手がわからずかなり緊張していたのと、滅茶苦茶マナーの悪い素人写真家が撮影していたので、撮る気が失せたのだ。 マナーの悪すぎるヤツと同類に見られたくはない。

撮影禁止だったり、諸事情によりカメラを持っていくことが出来ないなど、写真の撮れないライヴやコンサートが続くと、たまらなく写真を撮りたくなる。 あーこの瞬間、こういう風に切り取りたい!なんて思いながらライヴを観ていたりする。 写真を撮らない人にとっては、この感覚、ほとんど病気にしか思えないかも。 しかし、写真を撮りたい人はそう思うのだ。

やっぱり、写真を撮らずにライヴなんて無理そうだ(苦笑)。 今日は久し振りにデジカメ出動〜

追記:で、久し振りにデジカメ出動させたが、やっぱり私には合わない。 アコースティック系のライヴだったので、シャッター音をさせるわけにはいかず苦渋の選択だったが、撮れた写真を見てメゲメゲメゲ…。 撮っていてもいまいち楽しくない。 一つはそのデジカメをまったく使いこなしていないせいもあるのだが、もう一つはシャッターのタイムラグ。 写真を撮る事ができても、タイムラグのせいでその瞬間を切り取る、という感覚はなくなる。

最後のステージだけはバンド・スタイルだったので、一眼レフ(もちろん銀塩)で撮った。 カメラがまるで自分の手の延長のように自然に馴染む。 音楽に合わせて手拍子をするのと同じような感覚で、シャッターを押している自分に気付いた。 カメラを持っていない時でも、目に入ってきた光景を無意識のうちに四角く切り取っていることがある。 自分にとって「写真を撮る」ということは、楽しむことの一部なんだ、と改めて思った次第。

そんな調子だから、いつもかなりの枚数を撮ってしまうのだが、何枚くらい撮っているかというのは、常人の感覚からはかけ離れている枚数のようだ(苦笑)。 とはいえ“カメラに気合が入りすぎている”のではない。 気合も何も…自分の一部みたいなものだから。

定期を忘れた忘れた、と書いていたが、実は定期入れごとなくしていた。 見つからなくて丸一日以上、気をもんだ。 やっぱり魔の月末だぁ〜。

定期入れを持って出るのを忘れるのは日常茶飯事といってもいいくらいなので、 …というのは、上着のポケットに入れっぱなしにしてしまったり、鞄を変えたときに移し変えるのを忘れたり、ということが非常に多い。 なので、駅まで来て定期がないことに気付いても「あ、また移し変えるのを忘れた!移し変えたはずなのになぁ…」くらいにしか思わなかった。 ところが帰宅して調べてみると、前日使った鞄には入っていない。 移し変えたつもりで部屋の中にでも落としてしまったかと思って探したがない。 部屋の中が雑多なので、まぎれてしまいそうな場所はいくらでもある。 日頃から綺麗にしておけば落ちていれば一目瞭然、探すのも楽なのだろうが、今そのことを悔やんでもどうにもならない。 思い当たるところを何度も見るが無いものは無い…。 家の中にないとすると、外で落としたか…? そ、そ、それはちょっと…。青くなる。

定期入れの中には何が入っているかというと、定期(まだ3ヶ月ほど残っているから払い戻せば1万円にはなるだろう…)、各種プリペイドカード(どれも1000円残っているかいないかだ)、運転免許証(これはまずいかも)、あとは時刻表とかそんなもの。 定期やプリペイドカードはお勉強代として、運転免許証はどうなるだろう…。 写真があるので悪用される可能性は低いとは思うが…。 それでも再発行など手続きをしなければならないだろう。 …となると、万が一見つからなかった場合、お勉強代(痛)としてあきらめられるといえばあきらめられるようなものばかり。 お財布をなくしたり、会社の入門証をなくすよりはかなりましのように思える。 しかし、ショックから抜けきれない。

99%ないと思ったが、駅に届けられていないかどうか尋ねてみた。 ない…。 交番にも行ってみた。 ない…。 運転免許証は写真があるので悪用されることはまずないだろう、と言われる。 いくらか安心する。

が、見つかった。 …というかポストに入っていたのだ。 つまり外のどこかで落として、どなたか親切な方が中の運転免許証の住所をたよりに入れてくれたに違いない。 感謝! どうもありがとうございます。

先月財布を忘れた件ではすぐに見つかったので「無くて真っ青」になっている時間は短かったが、忘れたことに対するショックは尾を引いた。 今回の定期では「無くて真っ青」だったのは一日強で、あまり心臓によろしくない…。