しばやんの悲しい出来事があって以来、正直Diaryを書くのもつらかった。この間、10個目の上陸となった台風23号により数十人の命が奪われた。逝かなくてもいい人が突然失われ、一方で今日も生き続けている人がいる。

今日からリフレッシュ休暇に入った。10年勤続毎に与えられる休暇で、連続10日間(土日を入れれば16日間!)にも及ぶ長期休暇である。転勤直後で余裕があるわけじゃないが、有効期限ギリギリでムリヤリ取ったというところである。

台風一過の昨日の夜、前々から狙っていたエリアである新宿十二社通りを居心地のいい居酒屋を探して流してみた。今の勤務地からもすぐの所なので、気に入った店が見つかれば通ってみようと思っている。

最初の店。10坪ほどの小さな居酒屋、と言うより飲み屋と言った方がしっくりくる。おばさん一人がやっていて、壁紙には「天然の魚介類のみ扱ってます」と書かれている。そうくれば気分も盛り上がるというものだが、品書きにはなぜか煮物焼き物干物の類ばかりで、刺身が無い。

それならばという事で、かつて岐阜の郡上八幡で虜になった「鮎の一夜干し(ここのは四万十川産)」と「イカ肝の醤油漬け」をたのみ、熱燗をあおる。久しぶりの燗酒が身体にしみ入る。ツマミの値段は少々高めだが、ネタの良さと素朴な店内の空気、のどを通る酒とが相俟って、久々に大人の秋の夜という満足感を与えてくれた。

2軒目は路地の奥にひっそりとある信州そばの店。ここでは「鳥わさ」「マグロのほほ焼き」「牛の朴葉みそ焼き」を注文し、これに信州の清酒「舞姫」を合わせた。最初の店では熱燗だったが、ビートルズの歌が静かに流れる明るめのこの店では、燗酒より冷酒が似合うとみた。どれもが量的にも味的にも上々。この店はわりと広く、多少多めの人数で来ても良さそうである。

シメは当然、ウリである信州そばのせいろ。これまた量も十分あり、そばにコシがあって大満足! 元の勤務地だった代々木にはうまいそば屋がなかっただけに、こういう店がとても嬉しい。

ほろ酔い加減で店を出たのが9時を回った頃だったか。当たりの店が続いたところで今日はこれにて撤収。これ以後のお楽しみは次回へ持越しである。お勘定は2軒ともほぼ同じ。3000円でおつりが来る。

帰り道、晴れた夜の月がまぶしかった。

2日前の新潟県中越地震はついに死者20人を超え、いまだ余震が続き8万人以上が避難生活を送っている。こちらでも結構な揺れを感じたが、震源地の山間部では想像以上の被害が出ている。台風による地盤の緩みも原因とされているが、例年以上に強烈な自然からの警告もしくは報復だいう気がしてならない。

昨日の曇り空からいいあんばいに晴れた今日は、土曜出による休校となった息子を連れて九段下の暁星学園に行った。先日学校説明会に行ったのだが、偏差値のわりにいい雰囲気の学校だったため、第二志望にさせようという魂胆である。私の頃はとても歯が立たないレベルの学校であったが、最近の下位校の進学実績追い上げを喰らい、相対的にランクダウンしているという。それでも家から30分の近さは捨てがたい。隣は女子校と靖国神社だし。

このあたりの学校の中では一番広いというグラウンドでは、ちょうど体育の時間でソフトボールに興じている生徒の姿をじっくりと見られた。和気あいあいとした雰囲気に息子もまんざらではない様子。校舎も今まで見てきた学校の中ではきれいだと言う。結局、狙い通り第一志望に落ちたらここでもいいという事になった。

後の問題は、宗教嫌いという息子に、ここがカトリックのマリア会による設立で、週に1度は宗教の時間があるという事をいつ伝えるかである。校舎の内外にも白いマリア像が設置されているが、今の所それには気づいていないようだ。なんせこの前の全国模試の会場が聖学院で、そこの派手なステンドグラスとキリストの磔像に参ってしまい、さんざんな成績になったくらいである。

帰りの下り坂から遠くに見える武道館の大きな玉ねぎを見ながら「まあ、第一志望を落ちて入らざるを得なくなったら、宗教もへったくれも関係ないわ。だったら今から言っておく事もないやね」という悪魔のささやきに耳を貸していた。

死者は30人を超え、避難者は10万人を越えた。とりわけ「地震によるショック死」が12人にも及んでいるのに驚いた。地震そのものでは死なないですんだのに、生存後に亡くなってしまうのは本当にしのびないと思う。

連日、避難所生活の様子がTVに映し出される。さまざまな物資が不足し、環境も劣悪だ。こんな生活を強いられていたら、ますます疲労とストレスが蓄積され、心身共にさらなる影響が出てくるだろう。マスコミも迅速な対応を呼びかけている。

こういった報道を見るにつけ、地震の影響の皆無だった側から被災者の立場に立ってみると、衣食住に不自由な生活がこの先いつまで続くのかと思うだけで精神的につらいだろうと想像できる。だが、つらいのはそれだけだろうか?

私が感じるのは、この状況に身を置かざるを得ない「屈辱感」である。天災というどうしようもないものが原因であるゆえ、起こってしまった事を恨むより、運が悪かったんだと思い込むしかないだろう。だが、家を追われ土地から離れた避難所生活となると現実は一変する。

不十分な物資に一喜一憂しつつ、あらゆる我慢を重ねる。そんな姿をTVカメラが嘗め回す。避難した人同士とも外部ともプライバシーなぞ無く、常に丸見えの姿を晒し続ける。取材されれば、感情を抑えつつ家族や自分を守るために不満より感謝を口にする。それが新潟県民の特質だと言う者もいるが。

今まで自力で頑張って、それでもきちんと生活してきた者が、ある日突然家を捨て、離れた土地の体育館暮らしを強いられる。そこは仕切りひとつ無い一人一畳程の床。食べ物、入浴、はてはトイレの自由さえ制限される。そんな姿を内外に晒さざるを得ない自分、そして家族。それは屈辱以外のなにものでもない。

いつもの本当の自分はこんな施しを受けずとも十分にやっていた。家にさえいれば、こんな姿を晒さずにいられたんだ。天災のせいとはいえ、情けない惨めな気持ちで一杯だろう。偉い人の視察も結構、補正予算を通すのも結構だが、そんなものに時間をかけるな。豪雪地帯に時間は無いのだ。雪が降ったらすべてが止まってしまうのだ。せめて仮設住宅ぐらい雪が来る前に作れ。ここには土地はある。国にだって左前企業に資金援助するほど金もあるじゃないか。あとは迅速な決断だけだ。

地震による最大規模の崩落が起こった道路を、その日その時間に走っていた不運。母子3人の車はこうして行方不明になった。しかし、ここから奇跡が起こり始める。人が近寄れない険しい崩落現場の一角に、わずかに地面に顔をのぞかせたナンバープレート部分が空から見つかる。それ以外はすべて岩と土砂に埋まっていた。もしそこも岩で隠されていたら、ついぞ発見される事はなかったに違いない。

だが、その映像を見たおそらく誰もが生存を絶望視しただろう。救助隊もその日は現場に近づけなくて日没と共に打ち切りとなった。翌日も再開されたのは午後からだった。しかしなんと、そこに生存反応があったのだ。車と岩の間にたまたま出来た空間に2歳の男の子が立っていたという。事故から90時間以上経っての生還であった。

この奇跡は、物理的な偶然の重なりがもたらしたという以上の、人智を超えた何かが起こしたのではないだろうかと思った。きっとこの子は何かの大きな力で守られていたんだとさえ感じた。それはこの子のいわゆる守護霊なのか、はたまた残念ながら亡くなってしまった母の念なのか。ともあれ3人のうち1人に奇跡が起きた。

同じ頃、イラクで日本人が拘束されたというニュースが流れた。人質と共にVTRに映ったテログループは、以前起きた事件の時のグループとは違った印象を受けた。コケおどしの銃器も持たず、砂漠にそぐわぬ迷彩服も着ていない。日本語と英語で淡々と要求をしゃべらせる。これまで外国人の人質が無残に殺された時のグループと同様の本格派の雰囲気が漂っていた。今までで一番危険な状態かもしれない。

しかし、なぜ今イラク入り? しかも、たまたま同宿したベテラン記者が止めたにもかかわず「むこうで知人を作って世話になる」「なんとかなるでしょ」と言い放ったという。わずか100ドルしか持たず、観光目的で単独行動した挙句、人質となり「日本に帰りたい」…。大バカ極まれりである。

危険をナメるのもいいかんげんにせいよ! 何かに書いてあったが「そっちは地雷が埋まっているから行っちゃダメだよ」と言われているのに「大丈夫、なんとかなるでしょ」と踏み込んだ挙句、のっぴきならなくなって「恐いよ〜、帰してよ〜」とほざいているのと同じである。これじゃまさしく平和ボケの状況判断能力ゼロの恥さらしそのものだろうが!

同じ日に奇跡とバカの両方を見た。感涙と憤怒の両方を味わった。

今日、45歳の若さで逝ってしまったPOOBメンバーしばやんの御焼香に名古屋に行ってきた。通夜、告別式に参列できなかった5名が自宅を訪ね、奥様とひとときの思い出話を語り合った。祭壇の遺影は癌治療から何度も雄々しく蘇って我々の前に現れた時の笑顔そのままだった。改めてご冥福を祈りたい。

彼は最後の入院中のベッドでもHPに書いてきたDiary「Positive Life」の原稿をWordに書いていて、文字色も付けてあり、後はコピペで更新できるまでになっていた。HP上では最後のUp Dateは7月下旬だったが、亡くなる10月までの分がそこにあった。それを彼の会社貸与のノートPCからなんとか自宅のPCに移し、PCの苦手な奥様の目にやっとそれが見られるまでになった。

POOBメンバーの4名が駅で合流し、名古屋駅周辺に戻り、お清め兼夕食の飲み会に突入。都ホテル跡をトヨタが再構築したビルの一角のしゃれた和風居酒屋がその会場となった。刺身や焼魚はいいが、ラーメンサラダやらエビフリャー、みそ串カツといった名古屋ならではのメニューが出る頃には、OYAJIの一部(私としげドンです)はビールから日本酒に移り、都合7合を飲み干していた。16時半過ぎに始まった飲み会も大いに盛り上がったのだが、買っていた新幹線に乗り遅れぬよう、いそいそと地下道を駅に向かうだけの意識はまだ残っていた。次回3月頃のしばやんお墓参り兼知多半島フグ三昧オフの約束をしてそれぞれ別れた。

ひとつ気になった事があった。焼香の後、名古屋駅へ戻る道中、私は冠婚葬祭用に3年前に買った靴を履いてきたのだが、その右足のかかと部分の外側のゴムが裂け、名古屋駅に着く頃にはウラが剥がれ落ちてしまった。右足がブヨブヨした感触になったが、歩行にはさほど差し支えなく東京まで帰って来たが、今思うとしばやん、君が引き留めたのかな。

久しぶりじゃないか、もっとゆっくりしていけよ、と。