ノートPCにしたので、買った電機店に使えなくなったDELLのハーフタワーとキーボード、5年以上も前に名古屋で買ったNECのデスクトップ機(Win98!)とキーボードを下取りというより処分するために出した。もともと買取りなど期待できる状態じゃないし、引き取ってもらえるだけでも有難い。結局全部で200円と相成った。それで十分である。

双方に付いていた液晶モニターは、14インチの方は実家に買ってやったデスクトップ機のブラウン管モニターと交換するために残し、DELLのセットだったイーヤマの17インチは、会社のノートPCを持ち帰った時のために残した。そして今のノートPC用にとコンパクトな外付けキーボードを買って帰った。

気がつくと、1Fの部屋を占領していたデスクトップ機が2台もいっぺんに消えたので、部屋が広くなった感じがした。同じく1Fの納戸に永く眠っている2台分のダンボールケースもすぐ処分できるので、部屋と納戸が大幅に片付く。万一の修理のためにPCが入っていた巨大なダンボールケースを保存する習慣もこれでおしまいだ。ノートPCのダンボールは極めて小さいし、直接持ち運べるので取っておく必要もない。

夕方、複数のページがタブで開ける機能が付いたIE7へバージョンアップしてみた。IEの複数起動がいらなくなってかなり便利になったと実感。それと、このWebsiteの作成ソフトである「ホームページNinja」もいつの間にか9版を重ねていた。これもさっそく乗り換えパッケージを注文してバージョンアップする事にした。

やはり、時代はわずかな時の間でさえも着実に変わってきている。

リバウンドさせないダイエットのために封印したものに「とんかつ」がある。カツ丼も含め、もう2年近く食べていない・・・あそこの店以外では。そう、何事にも多少の例外はつきものなのだ。

久しぶりにカミさんを連れてその店へ昼飯に行った。実はこの店、私は20年以上前から通っていた店なのだ。場所は新宿区戸山町の国立国際医療センターの斜め前にある。私がまだ若造だった頃、この病院を担当する際に前任者が教えてくれた店である。

看板には、とんかつの店「かどや」と書かれてはいるが、どっこい創業者が帝国ホテルでの修行経験を持つリッパな洋食屋である。トンカツもいわゆる純和風ではなく、どちらかと言えば洋風のカツレツ風である。だが、キャベツとキュウリとトマト、ナポリタンならぬ平打ちパスタが添えられていて、それだけでも食欲がそそられる取り合わせだ。昔は別料金だったご飯やトン汁風味噌汁も変わらずにウマい。実はこれを食べたいがために、この病院へ熱心に通ったと言ってもいいほどだった。

この店のスゴさはそれだけじゃない。少なくとも通い始めた時期から今日まで、小さな店の内外装もイステーブルもカウンターの中の料理人達もそのままなのである! 経営は家族が主体だが、あの頃からでも勤続25年という料理人がいる。野球選手の江本氏そっくりだったので覚えているが、さすがに顔の彫りは深くなっていた。それでも他のスタッフも含めて定着率抜群の店である。

当時1000円でお釣りの来たロースカツ定食も、この20年以上の間に1300円ほどに値上がりしたが、スパイス風味の衣とほんのりバター風味の揚げ上がりの食感共々、見事に味は変わっていない。創業者から息子の時代になり、3代目は出前を頑張っているようだ。変わらぬ店で変わらぬ味を作り続けてゆく・・・食べに行く方の私はいろいろ変わってしまった。

食事が終わり、買い物がてらにイトーヨーカドー木場店へ。ついでにジャスコにも寄ろうとしたが、迷っていつしか豊洲へ。目の前に広がる広大な埋立地にマンション群。そして今話題の「ららぽーと豊洲」が見えた。けがの功名とばかりに駐車場の行列に並んだが、日曜日なのに20分ほどで入れた。

中は文字通り人でごった返していた。巨大ショッピングモールだけでも吹き抜け3階で南北に伸びている。建物をつなぐ中庭のような公園は、目の前にIHIドック跡と海。ちょうど真っ赤な夕日が沈んでゆくところだった。遠くにレインボーブリッジのシルエットが浮かんでいる。

印象に残ったのは、センターポート3Fにある「フードサーカス」という店。アジア、イタリア、アメリカなどの7店舗が一体になったフードコートである。入り口でICカードのようなものを渡され、それがオーダーチェッカーになっていて注文時に渡すと料金が記録される。最後に出口で精算して退場する仕組みだ。今風のシステムで新しいが、値段は高めだった。

あまりの人の多さに危うく人あたりしそうになりつつも、ざっと一廻りだけして帰路につく事にした。よくよく見れば、店から出てくる人たちはなぜかショップの袋を持っている人が少なかった。見には来るけど買わない姿がここにもある。バブルの頃の大量消費天国など、実感すら沸かずに未だに遠い昔話のままなのだろう。景気回復など数字のマジックにしか過ぎない。

テレビ番組の「豊洲は文字通り東京の新しい中心だ」という言葉も素直に頷けるほどの開発ぶりである。これからここに、いったいいくつの超高層マンションが建つことやら・・・でも大地震が来たら液状化と津波直撃は必至だな(笑)

「みっともない」と「もったいない」パート2。

ニュースを見ていると、またぞろ物事の決着を自殺で図ろうとする輩が出てきた。

まずは高校の必修科目未履修問題で。

先月30日、履修単位不足が発覚した茨城県立佐竹高校の高久裕一郎校長(58)が首吊り自殺したことについて、「履修単位不足問題が自殺の間違いない要因の一つと思う」と話し、関連を認めた。

愛媛県立新居浜西高校の政岡博校長(60)が6日、自宅で首を吊って死んでいるのが見つかった。同校は「履修漏れはないが、校長はその関連の問題で悩んでいたようだ」としている。

なんでこんな事で死を選択するのか。あなた方が首を吊ったところで問題解決には全くならないのは明白でしょう。管理者として責任の重さを感じるのは当然だとしても、教職員の長としてもっとやるべき事があっただろうに。第一、これを知ったあなた方の生徒達への影響を考えてみなさいな。教師でありながらそんな想像力すら失っていたのか。敢えて言う。あんたらはバカモノだ。

みっともない。

・・・・・・・

続いていじめが原因の自殺が相次いでいるが、一連の事件の連鎖反応としてのものや実名入りの遺書を残すなど意趣返しの激情に駆られたものもあると思われる。

いじめを自分の力で覆せなければ、抱え込まずに親に相談し先生に相談する勇気ぐらいは持っていてくれ。それだけでいい。そもそもいじめなんて卒業すればそれまで、そこまで待てなければ転校して逃げればいい。理不尽なところからはいくらでも逃げなさい。ちっとも恥ずかしい事じゃない。家族にとっても死なれるよりは遥かにマシだろう。でも、自らの生からは決して逃げちゃいけないんだ。

あなたが死を選んだ直後は、相手や世間にそれなりの衝撃や影響が出るかもしれない。でもそんなものはすぐに風化していくのだ。いつしか忘れられてしまう運命なのだ。逆にあなたの家族や友人など、あなたを決して忘れられない人々にははかり知れない傷を残したままで。

生きてさえいれば、あなたはいつの日か世の一員として何かをしていたはずだ。そこではきっと素敵な家族や友人や仲間に囲まれているあなたがいるだろう。いじめだって笑い話になっている事だろう。

明けぬ夜はない。止まぬ雨もない。春の来ない冬もない。だが自ら命を切って落としてしまったら、もうそれでお終いだよ。朝も晴れも春も、もう永久にやっては来ない。

もったいない。

FA宣言をして小久保(35)が古巣ソフトバンクへ帰る事が確実視されている。請われて行った巨人で何があったかは知らないが、主軸であるにもかかわらず残留しないのには何かワケがあっての事だろう。

金に飽かせてあれほど四番ばかりをかき集めてきた巨人だが、4年連続でリーグ優勝すらできない。「巨人は球界の盟主だ」などとホザいて、節操のない選手買いをしてきたナベツネ巨人。古くはドラフト制度以前の契約金制度時代に金の力で獲った長嶋、王を始めとするV9戦士。そんなの強くて当たり前だ。だから私にはホームラン世界記録のかかった王が打って巨人が負ける試合が最高だった。

彼らが全員引退したので、ようやく地元ファンの一人になってもいいかと思った矢先、今度は「空白の一日」で紳士協定横紙破りの江川事件。桑田の早大進学宣言茶番劇。もはや決定的なアンチ巨人になった私は、そんなナベツネ戦略が破綻するたびに溜飲を下げてきた。金にモノを言わせたチームが見事にコケる姿は快感でさえあった。

ここまで来たら、さぞや体たらくを反省し、少しは自分のところで選手を育て上げるのかと思いきや、今日のスポーツニュースにまたまた愕然とさせられた。

FAを行使せず、ファンの熱い思いに広島残留を決めた黒田にアテがはずれつつも、彼の獲得資金が浮いた巨人は、日ハムでFA宣言した小笠原(33)を4年契約26億円で獲りに行くという。今季年俸の約4倍の6億5000万円で4年契約をした李承ヨプ(30)並みである。返す刀でオリックスの谷(33)もトレードで獲る。またまた「何でもほしがるナベツネ」の復活だ。

その一方で、原との折り合いが悪く移籍の意思表示をしていたとはいえ「いぶし銀」仁志をトレードで横浜に出す。「巨人としては若返りが急務。プロ野球界は感傷は許されない世界だ。生え抜きの長い選手も、血の入れ替えをする必要がある」と清武球団社長。おい、じゃあ去年までのベテラン買い漁り補強は何だったんだ? それに仁志だってまだ35歳だろが!

自他共に認めるアンチ巨人の私だが、この仁志には好感を持っていた。ゴールデングラブ賞4度の華麗な守備に、パンチ力と小技を備えたバッティング。171センチと小柄ながら、社会人を経て豊富な練習で築いた「1番セカンド」の地位だった。私はこういう選手が好きだ。巨人以外のチームだったら間違いなく今でもスター選手の一人であり続けただろう。

まあいい。これでますます巨人嫌いに拍車がかかるってモンだ。

この2、3日、不思議に穏やかな時が流れている。あれほど忙しかった日々が、まるで嘘のように収まっている。まあ、この歳にもなればこれくらいがちょうどいいわな。

という事で、ネットで見たニュースをいくつか・・・。

まずは懐かしい「あの人は今」ニュース。20世紀末、かなり世間をお騒がせした元女流名人の林葉直子が自己破産したと。失踪事件、中原誠との不倫、ヘアヌード写真集ときて2004年にインド料理店を開店したものの1年持たずに閉店。いつの間にかタロット占い師に転身してたのには笑った。「つるされた女」のカードはなかったのか? ああ、貧すれば鈍す。

続いて日米野球で野村ジャパンが全敗。なんと全米チームにベーブ・ルースらが参加していた1934年以来72年ぶりだとか。そうなればノムさんのボヤキに期待!
「25人の辞退者が出たのが残念。彼らが出ていれば結果は変わっていた」
「古田が選手会長をやってる頃から、非協力的というか。何をやるにしても協力心がないよ。世のため人のためという奉仕の精神がない」と恨み節は止まらなかったそうな。

このイベント、いつ始まりいつ終わったかもよくわからないほどWBCの時より遥かに盛り上がらなかったな。総大将野村御大の神通力も失せ、もう彼に憧れ尊敬し神聖視してくれる現役も少なくなったという事なのかな?

最後は 「現代用語の基礎知識2007」に「はてなダイアリーキーワード」が95語掲載されたというニュース。だが、一覧を見てもネット用語やオタク系の言葉が目立ち、半分以上が意味不明だった。これって日本語? これが「現代用語」なら、私はとても現代人とは言えんわ。

いっときの流行で終わるこんな言葉をあげつらうより、昨日のNHK「クローズアップ現代」のテーマだった「どうする 若者の“日本語力”」の方が心配だ。

大学生の語彙力を調べた調査によれば、5人に1人が中学生レベルだったという。語彙力のない学生ほど携帯メールをよく使う傾向にあり、デジタル機器ばかり使っていると脳は部分的にしか動かず、様々な部位の連携が必要な読み書きの力が養われない可能性がある事が分かってきたという。

要するに本を読まない、手で書かない、話し言葉メールに没頭して育った世代に顕著なのだ。ウチの社員でも専門知識や英語の能力はあるのに、日本語の言葉を知らない、漢字を知らない、敬語が使えない、きちんとした文章が書けないなど日本語力がまるで無い連中が多い。これまで何度「お前ら、仮にも日本の最高学府を卒業した日本人だろうが!」と怒鳴ってきた事か。やはり全国的な問題になっていたのだ。

すでに古典的純文学や評論などに使われている表現や言葉の意味が分からないという世代は増えている。

やがて話し言葉から次々にまともな表現の言葉が死語となり、それが書き言葉に波及し、代わってワケの分からない言葉が日常語として認知され固定化されてゆく。果ては美しさのカケラも無い言葉を日本語と呼ばざるを得ない日がやってくるに違いない。

政府が今週中に成立を図っている改正教育基本法に盛り込まれている「愛国心教育」で教育現場が揺れているというテーマをNHK「クローズアップ現代」が取り上げていた。

改めて「愛国心」とは何かを考えてみる。私の答えはこうだ。

愛国心は「自然を愛する心」「人を愛する心」「文化を愛する心」に集約されると思うのである。

「自然を愛する心」は、四季を始めとする日本の多彩な自然に畏怖を抱き愛する心であり、その行き着く先には「故郷」がある。

「人を愛する心」は、自分はもちろんのこと、自分を取り巻く人々に感謝し愛する心であり、その行き着く先には「家族」がある。

「文化を愛する心」は、歴史によって育まれた伝統や文化を敬い愛する心であり、その行き着く先には「魂」がある。

「故郷」を愛し、「家族」を愛し、「魂」を愛するという事は、即ち自らの「ルーツ」を愛するという事に他ならない。そしてそれが愛「国」心を形作る事につながるのだと思う。人は愛するものは自然と守りたくなるものだから。そしてそんな自分に誇りを持てるから。

では「愛する」とはどんな事だろうか?

一言で言えば、「良さを知り、受け入れ、慈しむ事」と言えるのではないだろうか。それは自分の場合もあり他人の場合もある。自分の国の場合もあり他国の場合もある。差別や損得などで決して分け隔てされる事のない、それが真に「愛する」という事だと思う。

「愛国心」と言うと戦前の思想統制、軍国主義を懸念する意見が必ず出るが、愛国心の本来の心とは、そんな為政者の目論見のレベルで左右されたり存在したりするものではないはずだ。今、改めて大上段に「教育」と言わざるを得ないのは嘆くべき事だが、この国にもその教育が必要とされる事態が訪れたのだと認めるべきだろう。

この心をしっかり教育し、この心を育む事で、どれだけの悲惨な事件を起こさせずに済むかを考えてみたらいい。社会ルール違反やマナーの欠如、私利私欲、暴力・殺人事件、いじめや自殺、虐待に至るまで、最近の社会問題はこれらの心の欠如からもたらされているとは言えないだろうか。

心の教育はいついかなる時代の人間にも必要である。