出雲眞知子
地震の噂、実は、わたしは10日に聞いた。

その日、娘の小学校つながりのお母さんたち6人で集まったのだが、主な用件が終わった頃、その中のひとりが、「全然関係ない話なんだけど・・・」と切り出して、「15日に地震が来るんだって。」

「夫の友だちがT大の天文の教官で、その人から聞いたんだけどね。その人の知り合いが地震予知のチームにいて、データからみて確実なんだって。15日に来なくても、向こう2ヶ月の間には必ず来るって。」とまあ、こんな感じ。

で、それを聞いて、わたしが何かしたか、と言えば、特に何もしていない。あ、ひとつだけしたな。

子どもに、「万一大きな地震が来るようなことがあっても、心配したり慌てたりしないでね。あなたたちがパパとママを探す必要はないからね。パパとママの方から、必ずあなたたちを迎えに行くからね。」と言った。

それだけ。
【このトピックへのコメント】
  • [URL]噂話、踊らされると大変ですよね。(2003-09-20 00:33:09)
  • 出雲眞知子ブチャ猫さん、コメントありがとうございます。そうなんですよね、とある企業が、地震の話を真に受けて、セミナーを中止にしたとか。笑えません。(2003-09-21 01:24:48)
  • 出雲眞知子でまあ、今日(あ、昨日か)ゆれたんですが、これだって、噂があろうがなかろうが、この程度の地震が来る可能性はいつだってあるわけで。(2003-09-21 01:26:35)
最近一緒に仕事をした、わたしよりはずっと若い人から、
「(この研究領域で、)<先頭に立つ>意気込みで頑張っていきたいと思います。」
という、実に勇ましいメールを受け取ったので、
「わたしはその10メートル後ろくらいを、必死に走ってついていきたいと思います。」
と返信したら、
「そんなあ、一緒に走ってください。」
と言われてしまった。

無理無理。気力体力ともに、もうぜえぜえ。
あれ?動揺してたのか。

そもそも元データの根拠に偏りがありそうなこととか、的確に書いてあったから、そうは見えなかったけど。
あとそうだ、こういう時、2ちゃんが一番情報源になることとか、情報は、善意だからといって信用できるわけじゃない、てこととか。

で、備えうんぬんについては、確かにわたし自身、地震に対する備えをしているかと言われると、ほとんどしていないと言った方がいいな。

日々の生活を回転させる中で、ある程度余分に確保してある物があって、そのうちの一部は、いざという時にも役に立つんじゃないか、くらいの感覚かな。

大地震はいつか来るに違いない、という意識はあるんだけどもね。

熱を帯びているせいか、言葉がするすると馴染んでくる。

例えば、

一生は一回限りであるというのは、肉体の生活はただ一回限りだということだ。論理を考えることなら、子供も大人も老人もできるだろう。しかし肉体は成長し、成熟し、老衰して死んでゆく。ただ一回だけ。だから本当の愛も唯一つしかない。それにすべてを注ぎつくすことのできた人は幸福である。唯一つと僕は言ったが、本当の人生を生きる人間にとって、愛は一つ以上あっては、かえって余計で、愛そのものを破壊してしまうのだ。しかしその唯一つはどうしてもなければ、その人の全人生は、他に何があっても、「無意味」なのだ。その代り、それ一つがあれば、他は何もなくても、全部的に充実しているのだ。そしてそこから広大な精神の世界がひらけてくるのだ。そしてこの愛は、肉体の直接的感覚からはじまることが多い。だからそこに偶然性が入ってくる。殆どすべての人はそれに苦しんでいる。(森有正「バビロンの流れのほとりにて」p.61)
あるいは、
僕はしかし、僕の中に何かがすぎ去ってゆくのを感ぜざるをえなかった。若い日、青春、それが僕の中から決定的に去ってゆくのを、その喜びもかなしみも、不安も、希望も。そうして僕の中には、今、新しい歳月が、もう今度は、希望や憧れではなく、忍耐と、単調な仕事のリズムをもって、入って来る。僕はそれを両手を拡げて迎える。これを迎え損なってはならない。これを逸してはならない。一度しかない人生の、一度しかない青春は、もう決定的に去った。それは僕の中に、僕自身と、仕事と、そして愛とを残して行った。僕はもう別の新しい僕自身も、新しい仕事も、新しい愛も、求めて右往左往はしないだろう。青春が一度しかないように、忍耐と仕事の歳月も二度とはくり返されないからだ。僕の青春は、僕の中に、背負い切れないほどの重荷をのこして去った。去るべきものは去って行った。僕の中に残ってはならないものは出て行った。そして僕の歩みは、大きい圏を描きながら上ってゆく。僕の中に残されたものをできるだけ深く分析し、分析された一つ一つの中にある意味と意味とを計り、思索し、おもむろに再び結晶させてゆく。それだけが僕の今後数十年の歩みである。この再びかえらない激しい流れの中では、立ち止まり、ふり返り、躊躇するものは、悉く、洗い流されてしまう。(同上、p.67)
後段の文章の日付は1954年1月5日。森有正は当時おそらく42才。しまった、読み返すのが、ちょっと遅かったか。が、一回限りの人生で、4、5年くらいの差は、どうってことあるまい。

この深い藍色に銀の背文字というシンプルな装丁の本の感触は相変わらずだ。

そうだ、眠るのだった。この眠りから目覚めたら、わたしは自分の単調な仕事に、嬉々として取り組むだろう。そして「愛」もまた、いつもわたしに寄り添って在るだろう。

【このトピックへのコメント】
  • M森有正引用文に余分な文字が入っています。
    一番目の引用の、下から三行目。
    「そしてのこの愛は、」
    読まされる側としてちょっと恥ずかしかったです。
    (2006-01-09 16:42:38)
  • 出雲眞知子ご指摘ありがとうございます。おばかなミスでお恥ずかしい限りです。さっそく直しておきました。(2006-01-09 23:44:37)
早朝北海道東部で大きな地震があって(よりによって北海道だよ)、朝からテレビはどの局もその話題ばかりだ。

給油所などで火災が続いていたり、交通に障害が出たりはしているものの、今のところ大きな被害があったという報告はないようで、規模のわりに被害が少なくほっとしている。

がしかし、こういうことがあると、やっぱり、とか、次は、とかいう不安が人々の間に蔓延するのはもはや食い止めようがない。もちろんまだ報道の中では誰も表立ってそういうことは言っていないようなのだが。

朝の各局の伝え方を見る限り、メディアが煽っているというより、もうメディアそのものが(根拠の是非はともかくとして)噂に煽られて浮き足立っているのがよくわかる。
【このトピックへのコメント】
  • 出雲眞知子実は相当に被害があったことを後で知った。上のわたしの書き方は、少し軽率だったと思う。(2003-09-27 14:51:07)
初対面の若い学生が、自分の将来の関心の方向について語るのに、「障害児には興味はないので・・・・」という言い方をするのを聞いて、どきっとする。

同席していた同僚が、「君はまだ若いからだとは思うけれど。**について興味がある、という言い方はいいけれど、**について興味がない、という言い方は、してはいけないよ。」と優しく諭してくれた。

学生はその助言の意味を深く理解した様子だった。たぶん、そのことだけで、今日彼女はここに来た意味があったのではないかと思う。
たぶんもうわたしの日記は読んでないだろうなあ、と思いつつも、悦ばしい近況を知ったので、久しぶりにメールを送った人から、ほどなく返信。

「もう誰の日記を読むことも少なくなりました。・・・私自身にもう日記を書く必要性がなくなったからだと思います。」

ということばは、その人の今の心の状態をとてもよく表わしていると思った。

以前、「愛されている確信」なんてものは求めなさんな、というようなことを言ってしまったのだけれど、きっとその人は、その確信を得ることができたのだろう。

一度でもそういう確信を持つことができた人は、きっとその幸せの重みを計り間違えることはないだろう。