出雲眞知子
結婚しなかった・できなかった、かもしれないし、
フルタイムの仕事に就かなかった・就けなかった、かもしれないし、
子供を生まなかった・授からなかった、かもしれないし、
生まれた子どもが障害を持っていた、かもしれないし、
夫と早々と離別していた、かもしれないし、
(まだまだ増えそうなので、このへんで)

とまあ、いくつもの分岐点で、どっちに転んでたかわからない、といつも思う。
そしてそう思うことで、自分の現在の立ち居地を確かめるようにしている。

人がどうだかを気にすることより、自分の分岐点を忘れずにいることの方が、わたし自身にとっての大事な「比較」だよな、と思う。
【このトピックへのコメント】
  • 環和我話「Re:比較」ちゃんと書ききれていないことが気になっていたのだが、かといって、どう書けばすっきり書けるのか、定かでない。何が言いたいのだろうか、自分でもわからない。分岐点を忘れずにいる、というより、分岐点で別の方向に行って...(2004-01-19 23:01:19)
センター入試の試験監督というのは、言ってみれば、大学入試センターのロボットと化して、決められた台詞をそのまんま言うことが求められる。

言い忘れてはいけないし、余計なことを言ってもいけない。
想定される事態についても、こと細かいマニュアルがあって、それの通りに対応することが求められる。

公平さ、という観点からそうなっているのはわかるのだが、ま、言ってみれば、人間的な配慮とか現実的対応とか、そういう余計なことを、考えちゃいけない仕事なのだ。

初日の1時間目。
机の上に置いていいものの指示をしたあとで、やっぱり何人かティッシュを出している受験生がいて、フロアの担当者が注意をした。

中にひとり、ちょっと不服そうな受験生がいたので、わたしが直接出向いて確認。袋に広告の用紙が入っているものだったので、「具合が悪いようなら、袋から紙だけ出して机に置いていいですよ」と言ったら、その通りにしてくれたのだが、明らかにむっとした表情は直らず。

だってねえ、入試センターがそうしろ、と言ってるんだからしょうがないんだよね、ということばはもちろん言わずに業務を続ける。

2時間目の試験のために教室に戻ったら、教卓の上に、鼻をかんでよごれたティッシュが1枚丸めて置いてあった。
そんなことわざわざする奴が他にいるとは思えないので、おそらく先ほどのむっとした受験生だろう。

わたしに不快感をぶつけられてもなあ。
環和我話 2004-01-16 00:39「比較」へのコメント:

ちゃんと書ききれていないことが気になっていたのだが、かといって、どう書けばすっきり書けるのか、定かでない。何が言いたいのだろうか、自分でもわからない。

分岐点を忘れずにいる、というより、分岐点で別の方向に行っていた可能性が十分あるので、その別の方向に行った自分をある程度は想像できるようにしておく、ということかな。

そうすると、自分の中に実はいろいろな生き方が重なって存在していることに気づくわけで、今の時点の立ち居地だけを人と比較しても意味がないことになる。まあそんなとこか。

逆に見れば、他の人にだって、そういう多重な人生が埋め込まれているわけで、表面に見える姿だけ見て自分と比べてみても、意味がない、ということだ。

さらに、多重な人生というのは、過去だけでなく未来も含む、と考えた方がいいだろうし。だから当然、今だけを比べることに何の意味もない。
【このトピックへのコメント】
  • njin引っ張ってますね(注:誉め言葉)。先日、自分のところに書こうと思いつつ、やめてしまったのですが、「比較する人々」は、「比較そのもの」が目的ではないでしょう。その人々は、「現在不幸(といって言い過ぎなら幸せでない)」であり、「他の選択肢・可能性を攻撃すること」で、自分の安心・安定を得たい(自分はあれより幸せだ、だから満足)わけです。だから、「いろいろな生き方が重なって存在している」が故に(それは自分が持っていたの可能性の一つであるため)、より比較、攻撃が激しくなる、と。(「幸せな人」は、そもそも比べることに意味を見出せないでしょう。)(2004-01-20 05:32:22)
  • 環和我話「Re:Re:比較」いまだに自分が何を言いたいのかわかんないので、いただいたコメントにもうまく答えられない(ははは・・・。比較する人々はいるし、というか、人はたいてい比較するもんだと思う。比較する目的もその通りだと思う。違う...(2004-01-20 09:53:02)
環和我話 2004-01-19 23:01「Re:比較」へのコメント:

いまだに自分が何を言いたいのかわからないので、いただいたコメントにもうまく答えられない(ははは・・・すいません)。

比較する人々はいるし、というか、人はたいてい比較するもんだと思う。比較する目的もその通りだと思う。
(なので、比較されたことがない[少し文脈が違うけど]、という主旨の日記を読んだときは、わたしもちょっとあれ?と思ったよ。)

いただいたコメントと違うのは、後段かなあ。自分や他人の多重性がよく見えていれば、比較することが無意味だとわかるんじゃないか、と。

比較しないのは、幸せだから、だとも思わない。

わたしが幸せ?かもしれないが、32歳までは、お先真っ暗だったからこそ、今の自分があると思っている。かといって、これがベストの選択肢だったわけでもないし。

あの頃の、くらーい自分、もう研究室に行きたくないけど、行かないと就職諦めてないことの意思表示ができないと思って、這ってでも出て行った自分、その頃の感覚は忘れたくない。

何十回目かの公募で就職して1年後に、早くも思いがけないとこから引き抜き話が来たんだけど、さすがに1年で異動したら、採ってくれた人たちを裏切ることになると思って断ったこともある。あの時もし違う環境に行っていたらどうなっただろう、という想像もするさ。

今のわたしは、そういういろんな可能性の中のひとつ。確かなのはそれだけだ。

(ちょこちょこ書き直しました。)
【このトピックへのコメント】
  • 出雲眞知子あー、やっぱりあまりうまくないなあ。(2004-01-20 10:13:21)
  • njin付き合いますよー(自分のところに書けって?)。「幸せ」の部分、「満足」(あるいは「諦め」)と読み替えてもダメですかね。自分を振り返るに、人と比較したり、こうすればよかったとは、あまり思わない性質なのですが(落ち込んでいるときは、何でこんなことやってるんだろうになるけど)、それは、過去を振り返ると、「今(の知識、経験から)思うと違う選択もあっただろうけど、あの時点では妥当な判断だし、何度やり直しても同じ選択をするなー」、とか「納得いかない結果になったけど、まぁ、やるだけはやったし、しょうがないよなー」などと思うからではないかと。人生(ほぼ)終わっちゃってる身ですけどね。やるだけやってダメなら、まぁ、それいいじゃないかと。たたかうー、きみーのことをー♪(2004-01-21 08:16:49)
  • 雪見「多重な人生」ということ、すんなり共感しました。最初の日記「比較」を読んだときO・ヘンリーの短編を思い出しました。自分の前に3本の道があって、それぞれの道を選んだときのそれぞれの物語。選ぶ道によって違う出来事が起きるのだけれど結末は同じ(殺されるんだったかな?)。結末が同じというのはいかにも作り話っぽいけれど、要は分岐点はいろいろあって、違った可能性もあるけれど、ひとりの人生の質って同じじゃないかということ。(2004-01-21 08:17:18)
  • 雪見(途中までしかアップされなかったので続きを貼ります(^ ^;)この頃とみに思うのは人生の運不運とか吉凶とかと人生の質は関係ないんじゃないかということです。どういう道を選んで幸運な(あるいは不運な)人生になっても、その人がその人である限り、人生の質は同じじゃないかと思うんです。(だから他人と比較することはもちろん無意味。)眞知子さんは他人から見れば幸運な人生を送っているように見えるけれど、そうじゃない可能性もあったということを自覚し、そうじゃない道を選んだ場合の自分も心のどこかに存在するわけですが、どの眞知子さんも眞知子さんらしい人生を送るんじゃないかな。そう思いませんか?(変な感想ですみません。)(2004-01-21 08:20:09)
  • Mint Julep「振り返る(Re:Re:Re:比較)」時々、ふと自分の来た道を振り返ることはあります。「ああ、あのときああしていれば」と思うこともありますが、「あのときこうしていたから今があるんだなあ。別の道を選択していたらどうなっていただろう(想像)」みた...(2004-01-21 19:56:19)
  • njin違うな。現在の自分に満足・自信がある場合には、それを他人に押し付けたり、他人を否定したりという方向に走る可能性がありますね。多様性を認める、という別の基準に支配されることかもしれない。(2004-01-21 21:20:49)
  • あなたのサイト名「比較」「比較するのが無意味」なのは分かっていて、それでも比較せずにいられないのがヒトという生き物でしょう。...(2004-03-02 04:21:50)
環和我話 2004-01-14 13:25「Re:漬物石」へのコメント:

自分のためにメモしておくようなものだが、この件、結局「吉」と出た。

謝罪めいた言い訳のような手紙(メールじゃなく)がきたからだ。

でも、これで関係修復ができるかというと、そんなに単純でもなく。

仕事上のいい関係を維持していく、というのは、なかなかむずかしいものだと思う。

どう応答するか、今度こそ、本当に迷っている。
ウムイ 2004-01-30 20:33「人生観」へのコメント:

言ってることはまったくその通りだと思うし、わたしも「多重性」という表現で同じことを書いた。

そして、人は比較してしまうものだ、と言う人の多くも、舞さんの「人生観」は正しいし、あるべきものだということはわかっていると思うのよ。(もちろん、全然わからずに比較している人もたくさんいるとは思うけどね。)

問題は、それでもなお、やっぱり比較してしまう、比較することでしか自分を保てないことがある、ということなんだと思う。

実はわたしも比較してた。お先真っ暗の頃ね。

わたしよりずっと有能で業績を上げてる人たちだって、非常勤や下積みで苦労しているんだから、わたしがこういう状況にいるのも仕方ないさ、みたいな。

でもその後、その人たちは、ちゃんと有名大学のポストについたり、あるいはそれすら蹴って、海外でポストを得たりして立派に活躍してる。

つまり、わたしのやってた「比較」なんて、ほんとにばかみたいなもんだったってことだ。そんなことで自分を慰めてるより、やっぱり自分の進む道だけを考えた方がいい、とね。

でもこれは全部今になって言えることで、その当時は、そういう比較でもしなきゃ、やってられなかったわけ。

人生は多様であり、人さまざまだ、ということを言うならば、そういう「比較」をせずにはいられない状況や人々の存在というのも含めて受け容れていく、という「多様性」をもった「人生観」こそ本当に必要だと思う。

つまり、以前わたしの日記に西田さんがコメントしてくれたように、「比較」に意味がない、ということを一方的に主張するだけでは、
多様性を認める、という別の基準に支配されることかもしれない。
という罠にはまっている、ということになるのだよ。
【このトピックへのコメント】
  • ウムイ「Re:Re:人生観」人生とはてんでばらばらなものだということが理解できていてもなお他人をねたんでしまう人がそんなにいるとは正直夢にも思っていなかった。また、そうやって他人をねたんでしまう人たちが、ねたんでしまう自分のことに...(2004-01-31 23:28:13)