書きたいことはそんなことじゃなかったな、と思うことがいろいろあって、修正したり、削除したり。
別にそのままでもいいのだが、なんとなくしっくりこないものをそのままにしておきたくない。
仕事上の報告やら連絡ばかりのメールのやりとりなのだが、それが「こころ休まるひととき」になっている、という一言に、思わずこちらはにやりとする。
相手は多忙な人なので、うるさがられていやしないか、面倒だなあと思われてやしないか、とちょっと心配気味だっただけに、余計に。
ひとつ事が片付いたかと思うと、また難題が降って来る。
「折り入ってお話が」と呼ばれて、何かと思ったら、まったく予想も想像もしていなかった問題の相談。わたしもうろたえたが、一緒に呼ばれて話を聞いた同僚は、もっとショックを受けたに違いない。
その人の身近なところで起きていた問題で、一番にその人に相談がきてもよさそうなものなのに、実際にはそうではなかったのだから。
そのあと、他にも必要があって、事務的なメールのやりとり。その中に、例の相談事の件について、なぜ自分に話してくれなかったのだろうか、という疑問と当惑のことばがあった。
こういうことは、おそらくまったく無関係な人の方が話しやすいのでしょう、というような、気休めにしかならないことを、返信に加える。
思いがけず、次の返信に、「**さんのことですが、私の気持ちを聞いていただきありがとうございました。」と短いことばが添えてあった。
わたしが書いた気休めが、なにがしかの役に立ったのかもしれないと思うと、いくらかでもほっとする。その同僚との間に感じていた距離感が、以前より少し(いや、だいぶかな)縮まった。
うまく連携をとって、この難題に慎重に対処しようと思う。
娘はちゃんと毎日日記を書いている。
「日記を書くの、何で楽しいかわかる?」と聞かれて、「さあ、何でだろう、教えて。」と返すと、「今日の分を書き終わってほっとするでしょ、で、読み返すのが楽しい。」のだそうだ。
自分の日記の最初の読者は自分、ということを日々実践しているから、楽しいらしい。
小学校が給食終了、さらに春休み、ということで、今週は子供たちにお弁当を持たせている。
その初日。久しぶりのお弁当どうだったかな、と見ると、ふたりともきれいになめたように空っぽ。
やれやれよかった、と思っていたら、娘がなぜか「ごめんね」と言う。「学童の友だちがね、ママのおにぎりおいしい、っていうから、ふたつあげちゃって、ぼくひとつしか食べれなかった。」
「へえ、ママのおにぎりおいしいって?」と思わず聞き返したのは、そのおにぎりが、中に何も入っていない、白いご飯だけのプレーンなおにぎりだから。
「みんなもご飯持ってきてるんでしょ?」と聞くと、「うん、チキンライスとか、グラタンの人もいる。」
おー、なんて豪華な。それに引き換え、わたしのおにぎりは、ちょっと塩を多めにつけてはいるものの、白いご飯だけのおにぎりなのだ。
「でも、みんなおいしいって。」
そうかそうか。「じゃあ、あしたは少し多めににぎってあげる。余って残してもいいからね。」