昨日から、目がかゆくて痛くて、充血して涙ぽろぽろ。もう駄目だ。
これまで、くしゃみが出ようが鼻がむずかゆかろうが、絶対にわたしは花粉症じゃないぞ、と自己暗示にかけてしのいできたが、もはやこれまで。
先日、雪見さんと久々のオフをしたのだが、そのときの話題の一つが階段。
雪見さんが、地下鉄の駅の階段をたったか登っている、という話を聞いて、とても真似できない、と思った。
・・・のだが、昨日、久能山で、1100段(だったかな?)登った。まあ、いちご狩りのついでに久能山に来るのは年に一度のことなので、たいして効果はなし。
ここにきて、職場での居場所感のなさが、頂点に達している。
この3月で、身近な同僚がふたりやめるのだが、そのやめる理由が痛いほどよくわかる。そのふたりと先日一緒に飲んで、なんだかわたしも一緒にこの職場をやめるような気になってしまった。
このままここに居ても、たいして報われない。しかもその無念さが、誰にも伝わらない。やめるふたりはわたしの無念さがよくわかる人たちだったのだが、その彼らが結局意を決してやめるわけだから。
もう自分をだましだまし生きるのは嫌になったな。なんかこう、思い切った転機を自分で切り開くべきかもしれない。
先週は卒業式週間。
1週間の間に、職場の学部と院の卒業式と謝恩会、息子の卒業式と謝恩会、とあれば、ただ流れに任せていただけであっても、あわただしい。
小学校の謝恩会は、係のお母さんたちが、ずいぶん前から綿密に準備しただけあって、いろいろと工夫された謝恩会だった。
本当はわたしも「係」の一員なのだが、何も連絡が来ないなあと思ってこちらから問い合わせたときには、分担から何からすべて決まったあとで、当日ちょっと手伝えばよいくらいの役目しか残っていなくて助かった。
で、感じたこと。お母さんたちは、とても有能なのだ。その有能な人たちが集まって綿密に計画を立てて謝恩会を行うのである。司会もあいさつも、何もかもが見事である。
で、ここから先は、面と向かってはとてもいえないことなのだが、わたしがつくづく思うに、とてももったいない。彼女たちは専業主婦で、その能力を家庭のため、子供たちのために注いでいる。そういう能力の使い方もあるだろうが、わたしから見ると、実にもったいない。もっと社会に出て活躍できるだろうに。
なぜか、今の日本の社会は、そういうもったいない仕組みになっているのである。
その数字の前にはかすんでしまうけれど、今日もこれから96段の永田町の階段をのぼってきます。(2005-03-22 07:30:59)
が、どちらにしても、日々着実に精進している方を尊敬します。今日もわたしはすぐエスカレータ。
(2005-03-22 16:00:30)