自分はどんどん、つまらない日記を書くようになってゆくなあ、と思う。もともとネタ日記なわけじゃないから笑わせる必要はないわけだけど、あたしが書くことの中で一番人を惹きつけているのって──自分で言うのもなんだけど、痛々しさだと思ってて、そういう意味での“おもしろさ”はどんどんどんどん、なくなっていってると思う。
実際、「リンク貼られてるんじゃないか(本家に)」と思うことは多くなったけど、ここも本家も読み手の数は確実に減っている……ような気がする。そして、以前だったら読み手をつなぎとめようという気持ちによって何らかのアクションを起こしていたと思う。や、そういう気持ちがまったくないわけじゃないけど、まあいいや、的な気持ちの方が今は大きかったりする。
なんでかっていうとたぶん──1ヶ月前か2ヶ月前に人様の日記を読んでてふと思ったんだけど、「痛さ」が売りのおもしろい日記って、つまらなくなってもいいんじゃないだろうか。というか、むしろ「つまらなくなった方がいい」んじゃないだろうか。
「痛さ」っていうのはつまり吐き出さずにはいられない心の傷みであって、それが切羽詰まったものであればあるほど強く訴えてくるものがあり、心を揺さぶり動かし、こういう言い方はあれだが、おもしろい。そしてそういう日記がつまらなくなるのは切迫感がなくなるがゆえで、それはつまり、その人自身の抱える問題が解消に向かいつつあるということであり(可能性も含む)、「書き手自身の心の問題」を考えた場合、つまらなくなる方が全然いい。
あたしは基本的にほとんどの日記を「人柄に惹かれて」読む。その人自身に惹かれるから読むのであって、おもしろいおもしろくないはあまり関係ない(おもしろいに越したことはないけど)。なので「痛いゆえにおもしろかった日記」が「痛みをなくしたつまらない日記」になることは、多少残念に思う気持ちがなくもないが、あたしにとって喜ばしいことなのだ。
たぶん、「文章は好きだけど書き手自身には興味がない」という人は、そういう“つまらなくなった”日記にさっさと見切りをつけ、読むのをやめるのだろう。だがあたしはその人自身に心惹かれるところがなければ読み続けようなんて気はおきないし、そして実際、あたしの求める痛みが文章からなくなったとしても読み続けている。
web日記を読む人の中にあたしと同じような人がどれくらいいるのかはわからないけど、それほど少なくもないんじゃないか、と思っている。そして、あたしの書くことを長い間読んでくれているのはそういう人達が多いんじゃないか、とも期待している。それはつまり、あたしという人間に惹かれている人が存在する、ということだ。
あたしは人をおもしろがらせるために書いているわけじゃない。けれど“つまらなくなってゆく”日記を読み続けてくれる人はいる。あたしの心の問題が解消されてゆくのを受け入れてくれる人がいる。だからそれでいい、そうじゃない人を無理矢理につなぎとめようとしなくてもいいじゃん、と思う。
文章がどんどん無神経なものになってゆく、ということについてはちょっとだけ反省しているし、どうにかしなきゃとも思っているけど、自分が書くのは“つまらない”日記でいいんだ、と思う。
実際、「リンク貼られてるんじゃないか(本家に)」と思うことは多くなったけど、ここも本家も読み手の数は確実に減っている……ような気がする。そして、以前だったら読み手をつなぎとめようという気持ちによって何らかのアクションを起こしていたと思う。や、そういう気持ちがまったくないわけじゃないけど、まあいいや、的な気持ちの方が今は大きかったりする。
なんでかっていうとたぶん──1ヶ月前か2ヶ月前に人様の日記を読んでてふと思ったんだけど、「痛さ」が売りのおもしろい日記って、つまらなくなってもいいんじゃないだろうか。というか、むしろ「つまらなくなった方がいい」んじゃないだろうか。
「痛さ」っていうのはつまり吐き出さずにはいられない心の傷みであって、それが切羽詰まったものであればあるほど強く訴えてくるものがあり、心を揺さぶり動かし、こういう言い方はあれだが、おもしろい。そしてそういう日記がつまらなくなるのは切迫感がなくなるがゆえで、それはつまり、その人自身の抱える問題が解消に向かいつつあるということであり(可能性も含む)、「書き手自身の心の問題」を考えた場合、つまらなくなる方が全然いい。
あたしは基本的にほとんどの日記を「人柄に惹かれて」読む。その人自身に惹かれるから読むのであって、おもしろいおもしろくないはあまり関係ない(おもしろいに越したことはないけど)。なので「痛いゆえにおもしろかった日記」が「痛みをなくしたつまらない日記」になることは、多少残念に思う気持ちがなくもないが、あたしにとって喜ばしいことなのだ。
たぶん、「文章は好きだけど書き手自身には興味がない」という人は、そういう“つまらなくなった”日記にさっさと見切りをつけ、読むのをやめるのだろう。だがあたしはその人自身に心惹かれるところがなければ読み続けようなんて気はおきないし、そして実際、あたしの求める痛みが文章からなくなったとしても読み続けている。
web日記を読む人の中にあたしと同じような人がどれくらいいるのかはわからないけど、それほど少なくもないんじゃないか、と思っている。そして、あたしの書くことを長い間読んでくれているのはそういう人達が多いんじゃないか、とも期待している。それはつまり、あたしという人間に惹かれている人が存在する、ということだ。
あたしは人をおもしろがらせるために書いているわけじゃない。けれど“つまらなくなってゆく”日記を読み続けてくれる人はいる。あたしの心の問題が解消されてゆくのを受け入れてくれる人がいる。だからそれでいい、そうじゃない人を無理矢理につなぎとめようとしなくてもいいじゃん、と思う。
文章がどんどん無神経なものになってゆく、ということについてはちょっとだけ反省しているし、どうにかしなきゃとも思っているけど、自分が書くのは“つまらない”日記でいいんだ、と思う。
自分ですごく納得してしまいました。(2005-04-04 23:57:57)