東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年6月7日(土曜日)

「6月」=「夏の始まり」です。
「7日」たちました。

木々の若葉のいろ。
緑がますますあざやかになり
深緑(ふかみどり)です。

まさしく空は
初夏ばれの「空色」になってきました。
けれども。
朝暗いうちはミルクのはいったコバルトのような
カフエ・オレの空色です。

あさの04:00AMころはほのかに
くらくあおく
しだいに
空はラピズラズリからトルコ石にうつろうように。
しらんできます。

野路はたに
黄色く咲ける
ちいさき花ありてめずらしき
いざいまこそは
みどりよき季節にあらん
ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に「日はたかくなり
葉木の樹木は「木」にかわり
ました。

外路樹の若葉は
御茶の葉のわかばのように
つみとりたくなる
ほどにきれいです。

木々萌黄まちをいろどる
みどり葉わか葉かがやけり
あやにしきのわかは(葉)
いざ夏ちかからむ
いまだみどりやわらかし

道端の初夏の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

今年の初夏の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

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平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
7月21(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

『われわれはどこから来たのか 
われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
1897-1898年(ボストン美術館)
で有名な。
そしてはじめは株式仲買人(証券会社の社員)であり。
サラリーマンあり。
まともな絵画の教育は全くうけなかった。

「御自分」の死後にその作品が「偉大な評価を受ける」
とは夢だに思わず19035月9日に亡くなられた。
ポン=タヴェン派の
特徴的な様式はクロワソニズム
(フランス語で「区切る」という意味)の「中心人物」
である。

大天才画家
1848年 - ポール・ゴーギャン、画家(+ 1903年)
の生誕日です。

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ポール・ゴーギャン
(Eugene Henri Paul Gauguin,
1848年6月7日 - 1903年5月9日)は、
フランスのポスト印象派の
最も重要かつ独創的な画家の一人です。

「ゴーガン」とも表記・発音されます。

++++++++++++++++++++++
ポール・ゴーギャンは

1848年、二月革命の年にパリに生まれました。
父は共和系のジャーナリスでした。

ポールが生まれてまもなく、
一家は革命後の新政府による弾圧を
恐れて南米ペルーのリマに亡命しました。

しかし父はポールが1歳になる前に急死。
残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、
1855年、フランスに帰国した。

こうした生い立ちは、
後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと
想像されると今の私は考えます。

++++++++++++++++++++++
ポール・ゴーギャンは
フランスに帰国後、
ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、
1865年、17歳の時には航海士となりました。

南米やインドを訪れています。

1868年から1871年までは海軍に在籍し、
普仏戦争にも参加しなした。

その後ゴーギャンは
株式仲買人(証券会社の社員)となり、
デンマーク出身の女性メットと結婚。

ごく普通の勤め人として、
趣味で絵を描いていたのです。

印象派展には1880年の第5回展から
出品しているものの、
この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎませんでした。

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ポール・ゴーギャンが

勤めを辞め、
画業に専心するのは1883年のことでした。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作
致しました。

この頃ポン=タヴェンで制作していた
ベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループを
ポン=タヴェン派といいます。

ゴーギャンはその中心人物と見なされています。

++++++++++++++++++++++
ポール・ゴーギャンが中心であった。

ポン=タヴェン派の
特徴的な様式はクロワソニズム
(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれます。

単純な輪郭線で区切られた
色面によって画面を構成するのが特色です。

1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みました。
けれども2人の強烈な個性は衝突を繰り返します。

ついには
ゴッホの「耳切り事件」をもって
共同生活は完全に破綻しました。

++++++++++++++++++++++

ポール・ゴーギャンは

タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館
蔵西洋文明に絶望致しました。

ゴーギャンが楽園を求め、
南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・
タヒチに渡ったのは
1891年4月のことでした。

++++++++++++++++++++++
ポール・ゴーギャンにとっては。

タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった
ようです。

タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、
1893年フランスに戻ります。

叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、
絵は売れませんでした。
(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。)

一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、
同棲していた女性にも逃げられ、
パリに居場所を失ったゴーギャンは、
1895年にはふたたびタヒチに渡航しました。

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ポール・ゴーギャンの。

『われわれはどこから来たのか 
われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
1897-1898年(ボストン美術館)

3人のタヒチ人(1899年)

タヒチに戻っては来たものの、
相変わらずの貧困と病苦に加え、
妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、
死を決意しました。

こうして1897年、貧困と絶望のなかで、
遺書代わりに畢生の大作

『われわれはどこから来たのか 
われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
を仕上げました
。しかし自殺は未遂に終わります。
++++++++++++++++++++++
ポール・ゴーギャンは

最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、
地域の政治論争に関わったりもしていました。

1903年に死去しました。

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ポール・ゴーギャンは

ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、
当時の画家たちからの受けは悪かったのです。

けれども
ポール・ゴーギャンの
死後、西洋と西洋絵画に深
い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、
次第に名声と尊敬を獲得するようになり今現在
にいたっています。

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ポール・ゴーギャン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3

ポール・ゴーギャン(Eugene Henri Paul Gauguin, 1848年6月7日 - 1903年5月9日)は、
フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。

「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命の年にパリに生まれた。
父は共和系のジャーナリストであった。

ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を
恐れて南米ペルーのリマに亡命した。

しかし父はポールが1歳になる前に急死。
残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、
1855年、フランスに帰国した。

こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、
ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、
1865年、17歳の時には航海士となり、
南米やインドを訪れている。

1868年から1871年までは海軍に在籍し、
普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは
株式仲買人(証券会社の社員)となり、
デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、
趣味で絵を描いていた。

印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、
この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。

勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。
この頃ポン=タヴェンで制作していた
ベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループを
ポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。

ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム
(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、
単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。
が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、
ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。

タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館
蔵西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、
南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは
1891年4月のことであった。