東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年6月24日(火曜日)
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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年6月24日(火曜日)
もう「6月24日」です。
6月になりました。24日たちました。
夏至もすぎ陽は短くなり始めます。
6月=初夏になりました。
梅雨いりしたようです。
私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
昨今。
早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しも強いはず。
けれども空には
「雲がいっぱい」=「空はくもりそら」
です。ふしぎな六月のひざしです。
ふとかんがえれば・・。
夏至もちかい。
真夏の太陽から若葉をまもる
「ソフトフイルター」の役目の
「おぼろくもりそら」。
自然とは・。
よくできたものです。
大気に漂う霞がごとし。
深い山の奥に住むという
仙人の心境がとてもよくわかる。
街路樹もそうそうたる。
羽振りのよい木々になってきました。
街路樹は「落葉樹」がよいです。
街路樹が「松や杉」のような「常緑樹」では
冬はうっそうとして。
夏場は枝ぶり葉っぱから日の光を
さえぎれない。
四季のリズムがあいません。
ヴイバルデイの「四季」や
フランツ・シューベルトの「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。
強いからといって「からまつ」をうえられても
困ります。
私の「大好き」な北原白秋の「からまつの詩」
の「からまつ」は
街路樹にはそぐいません。
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北原白秋
「水墨集」より
落葉松
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一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
きりさめ
霧雨のかかる道なり。
やまかぜ
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
あさま ね
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
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木々の若葉の房が早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで大きな里山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばのめばえがとてもとても
鮮烈です。
街角の雑草も花はおわり。
6月の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
ますます姿を大きくしています。
雑草も。
同じく夏草へと変貌しつつある。
朝暗いうちは。
まだまだ。はださむい気が致します。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。
クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。
うめのみ(実)うめのき(木)
たわわなり
みどりぎいらかにかぜはやみ
なつかぜひるむやうつろひの
けふのつきひもはやいくとせ
地にも空にも
みどり葉ひらきたり
みどり木ときわ木ひろがりけり
いふことのなし
いふことがなし
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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
-------------------------------
平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------
平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
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2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。
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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。
「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。
人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。
昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。
難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。
私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。
「良くなられていく」笑顔に。
心より感謝・感謝。
「今日は何の日」は
画家であり
1867年、レイタン、ポーランドの没落
(Rejtan、第一次ポーランド分割に反対した愛国者)
がパリ万国博覧会で金賞を受賞し。
フランスからは
ヨーロッパにおける歴史絵画の
最も傑出した典型な画家であると
激賞された。
ポーランドの愛国画家である。
1838年 - ヤン・マテイコ、画家(+ 1893年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコ
(Jan Matejko、Jan Mateykoとも。1838年6月24日 -
1893年11月1日)は、ポーランドの画家。
ポーランド史に残る政治・軍事の出来事を主題にしたこと
で知られます 。
彼の最も有名な作品群には
油彩の「グルンヴァルトの戦い」
のような多くの戦闘や。
宮廷の光景を描いた作品、
歴代ポーランド国王の肖像などが含まれます 。
++++++++++++++++++++++
幼年時代のマテイコは。
近眼のため他の教科で非常に
悪戦苦闘していたにもかかわらず。
、
進級に次ぐ進級を許されるほどの
突出した芸術的天性をを見せていました。
少年のマテイコは外国語を身につけることができ
ませんでした。
母国語であるポーランド語ですら
チェコ語の訛りのせいで、巧みとは言えなかった
ようです。
++++++++++++++++++++++
幼いマテイコは。
「1846年のクラクフ反乱」と
「1848年のオーストリア軍によるクラクフ包囲戦」
を目撃しています。
2つの事件は自由都市クラクフの成立で終わりました。
彼の2人の兄、
次兄エドムントと三兄ジグムントは兵士として、
2度の事件においてポーランド側の
「ユーゼフ・ベム(en:Jozef Bem)将軍」のもとで戦い、
ジグムントが亡くなっています。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコは
彼は聖アンナ校(en:Bart?omiej Nowodworski High School)
へ入学致しました。
1851年に成績が悪いせいで退学致しました。
「矛盾」していますが。
それにもかかわらず、彼の飛び抜けた才能のために。
1852年からクラクフ美術学校
(当時はヤギェウォ大学の芸術専門学校。
現在はヤン・マテイコ美術学校)
で学ぶことになり。
ヴォイチェフ・コルネリ・スタットレルと
ヴワディスワフ・ウシュチュキェヴィチ
(W?adys?aw ?uszczkiewicz)
から指導を受けました。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコは
この頃、彼は芸術友好協会に歴史上の事件を
題材とした絵を発表し始めました。
政府から奨学金を受け、
1858年にミュンヘン美術アカデミーで歴史画家
「ヘルマン・アンシュッツ(Hermann Anschutz)」
の元で学んだ後
(ここでマテイコは男性の裸体像を描いた作品で
銅メダルを獲得している)。
1859年から1860年にかけウィーン美術アカデミーで
学びました。
彼はクラクフへ帰郷しました。
以降彼は生涯をクラクフで過ごし、
1873年にヤギェウォ大学から独立した母校、
クラクフ美術学校の初代校長と
なりました。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコは
1863年の一月蜂起の間、
彼は健康が優れなかったことから蜂起に加わることは
できなかったのです。
マテイコは金銭上の援助を与えられ、
Goszczaにある反対分子収容所へ
鉄砲・火薬類の密輸をしました。
1864年に
テオドラ・ギェプトフスカ(Teodor? Giebu?towsk?)と結婚し、
ベアタ、ヘレナ、タデウシュ、イェジー、の4子をもうけました。
同じ年、彼はクラクフ科学協会のメンバーとなっています。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコの世界的評価
この時、マテイコは国際的な評価を獲得し始めました。
文学的に言えば
『定職を持たない芸術家』であった若い時期の1865年、
作品スカルガの説教がパリのサロンで金賞を受賞したのです。
この絵はその結果として、10,000ギルダーで
「マウリツィ・ポトツキ伯(Maurycy Potocki)」
が買い上げました。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコは
1867年、レイタン、ポーランドの没落
(Rejtan、第一次ポーランド分割に反対した愛国者)
がパリ万国博覧会で金賞を受賞しました。
ヨーロッパにおける歴史絵画の
最も傑出した典型にマテイコも含まれていると。
フランス人は批評しました。
彼の作品を通して、政治的な実在性にもかかわらず。
いまだ分割されたポーランドが存在していることを。
彼はヨーロッパの他諸国に気づかせることに成功致しました。
そして
これらの作品が高い評価を受けたことで、
彼は絵画製作に集中できる安定した暮らしを
得ることができました。
++++++++++++++++++++++
ヤン・マテイコ
マテイコは亡くなるまで
クラクフ美術学校の校長職についており、
ラコヴィツキ墓地(pl:Cmentarz Rakowicki)にある
『功績者の小路』中央部に埋葬されました。
彼が生まれたクラクフ、フロリアンスカ通りの生家は、
現在マテイコ博物館となっています。
++++++++++++++++++++++
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Wapedia - Wiki: ヤン・マテイコ
http://wapedia.mobi/ja/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A4%E3%82%B3
ヤン・マテイコ
(Jan Matejko、Jan Mateykoとも。1838年6月24日 -
1893年11月1日)は、ポーランドの画家。
ポーランド史に残る政治・軍事の出来事を主題にしたことで知られる [1] [2] 。
彼の最も有名な作品群には、油彩のグルンヴァルトの戦いのような多くの戦闘や、
宮廷の光景を描いた作品、歴代ポーランド国王の肖像などが含まれる [1] [2] 。
生涯ポーランド分割のさなか
、オーストリアによって併合されていたポーランド領の一部自由都市クラクフで、マテイコは生まれた。父フランチシェク(Franciszek Ksawery Matejko)はフラデツ・クラーロヴェーにルーツを持つ、カトリックのチェコ人だった。フランチシェクは家庭教師として働き、最初はKo?cielnikiのWodzicki家の元で音楽教師をした。クラクフへ移ってから、彼はドイツ人とポーランド人の両親を持つプロテスタントの女性、ヨアンナ・ロスベルク(Joanna Rosberg)と結婚した。ヤンは11人兄弟の9番目の子であった。ヤンはカトリック教徒として育てられた。1846年に母が亡くなると、マテイコと兄弟たちは叔母アンナ・ザモイスカが世話をした。
宮廷の光景を描いた作品、歴代ポーランド国王の肖像などが含まれる [1] [2] 。
幼年時代のマテイコは、近眼のため他の教科で非常に悪戦苦闘していたにもかかわらず、進級に次ぐ進級を許されるほどの突出した芸術的天性をを見せていた。少年のマテイコは外国語を身につけることができず、母国語であるポーランド語ですらチェコ語の訛りのせいで、巧みとは言えなかった。
幼いマテイコは、1846年のクラクフ反乱と1848年のオーストリア軍によるクラクフ包囲戦を目撃している。2つの事件は自由都市クラクフの成立で終わった。彼の2人の兄、次兄エドムントと三兄ジグムントは兵士として、2度の事件においてポーランド側のユーゼフ・ベム(en:Jozef Bem)将軍のもとで戦い、ジグムントが亡くなっている。
彼は聖アンナ校(en:Bart?omiej Nowodworski High School)へ入学するが、1851年に成績が悪いせいで退学した。それにもかかわらず、彼の飛び抜けた才能のために1852年からクラクフ美術学校(当時はヤギェウォ大学の芸術専門学校。現在はヤン・マテイコ美術学校)で学ぶことになり、ヴォイチェフ・コルネリ・スタットレルとヴワディスワフ・ウシュチュキェヴィチ(W?adys?aw ?uszczkiewicz)から指導を受けた。
この頃、彼は芸術友好協会に歴史上の事件を題材とした絵を発表し始めた。
政府から奨学金を受け、1858年にミュンヘン美術アカデミーで歴史画家ヘルマン・アンシュッツ(Hermann Anschutz)の元で学んだ後(ここでマテイコは男性の裸体像を描いた作品で銅メダルを獲得している)、1859年から1860年にかけウィーン美術アカデミーで学び、彼はクラクフへ帰郷した。以降彼は生涯をクラクフで過ごし、1873年にヤギェウォ大学から独立した母校、クラクフ美術学校の初代校長となった。
1863年の一月蜂起の間、彼は健康が優れなかったことから蜂起に加わることはできなかった。マテイコは金銭上の援助を与えられ、Goszczaにある反対分子収容所へ鉄砲・火薬類の密輸をした。1864年にテオドラ・ギェプトフスカ(Teodor? Giebu?towsk?)と結婚し、ベアタ、ヘレナ、タデウシュ、イェジー、の4子をもうけた。同じ年、彼はクラクフ科学協会のメンバーとなった。
この時、マテイコは国際的な評価を獲得し始めた。文学的に言えば『定職を持たない芸術家』であった若い時期の1865年、作品スカルガの説教が、パリのサロンで金賞を受賞したのである。この絵はその結果として、10,000ギルダーでマウリツィ・ポトツキ伯(Maurycy Potocki)が買い上げた。
1867年、レイタン、ポーランドの没落(Rejtan、第一次ポーランド分割に反対した愛国者)がパリ万国博覧会で金賞を受賞した。ヨーロッパにおける歴史絵画の最も傑出した典型にマテイコも含まれていると、フランス人は批評した。彼の作品を通して、政治的な実在性にもかかわらず、いまだ分割されたポーランドが存在していることを、彼はヨーロッパの他諸国に気づかせることに成功した。これらの作品が高い評価を受けたことで、彼は絵画製作に集中できる安定した暮らしを得た。
マテイコは亡くなるまでクラクフ美術学校の校長職についており、ラコヴィツキ墓地(pl:Cmentarz Rakowicki)にある『功績者の小路』中央部に埋葬された。彼が生まれたクラクフ、フロリアンスカ通りの生家は、現在マテイコ博物館となっている。
1860年、マテイコは画集ポーランドにおける衣服
(Ubiory w Polsce)を出版した。
あらゆる種類の歴史的記録における彼の熱烈な関心と
、愛国感情を強めるための努力においてポーランド国民に愛国心をひこうとする
彼の願望を反映した企画であった。
1861年、彼はワルシャワのZach?ta美術館で
王妃ボナの毒殺(Otrucie krolowej Bony)を展示した。
愛国的な挫折感情が、彼に宗教画を断念させた。
彼は、自分の職業と、歴史画へほぼ専門的に自身を捧げることを信じていた。
事実、我々が科学者の絶えることのない批評法を無視してもそれらから解放されることのない、
ポーランドの歴史の一光景を彼は創造したのである。
マテイコはしばしば、史実にはその当時居合わせなかった人々を作品中に登場させている
(例として、ラツワヴィツェの戦いにおけるHugo Ko???tajと
将軍ユーゼフ・ヴォドジツキ)。
彼は事実に基づく事件を表現することに興味を持たなかったが、
歴史的・哲学的合成の描写には関心を抱いていた。
マテイコの作品は芸術的用語だけでなく、
機能主義用語(現在も行われ続けている)の見方で見られなければならなかった。
彼は歴史を現在と未来の機能として考えていた。
彼の絵画は歴史を描いた挿絵ではなく、
むしろ、画家の精神の力強い表現であり、世界に対する彼の姿勢である。
++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
6月24日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8824%E6%97%A5
できごと
79年 - ウェスパシアヌスの息子ティトゥスがローマ皇帝に即位。
109年 - トラヤヌス水道の完成。
1024年 - ギドー・ダレッツオがドレミの音階を定める。
1314年 - バノックバーンの戦いで、ロバート・ザ・ブルース
(ロバート1世)に率いられたスコットランド軍が、エドワード2世のイングランド軍を破る。
1497年 - ジョヴァンニ・ガボット、カナダ東海岸に上陸。
1509年 - ヘンリー8世がイングランド王に即位。
1522年 - オスマン艦隊、ロードス島上陸。
1534年 - ジャック・カルティエがヨーロッパ人として初めてプリンス・エドワード島を発見。
1535年 -ミュンスター陥落。
1571年 - レガスピがマニラに市役所を設置。
1605年(慶長10年5月8日) - 織田秀信が高野山から追放される。
1597年 - 東インドへの航海に向かったオランダ船がジャワ島のバンタムに到達。
1645年 - クロムウェル率いる議会軍がネイズビーの戦いで国王軍を壊滅。
1662年 - オランダがマカオの獲得に失敗する。
1664年 - ニュージャージーの植民地設立。
1793年 - フランスで共和政初となる1793年憲法(ジャコバン憲法)が採択される。
1812年 - ナポレオンによるロシア遠征が始まる。
1859年 - アンリ・デュナンが北イタリアで赤十字活動を開始。
1885年 - 坪内逍遥が『当世書生気質』を刊行。
1894年 - 国際オリンピック委員会(IOC)がオリンピックの開催周期を4年とすることに決定。
1910年 - 日本政府が韓国の警察権を剥奪。
1913年 - ギリシャとセルビアがブルガリアとの同盟を破棄(バルカン戦争)。
1918年 - 第一次世界大戦:ドイツの巨砲ビッグ・バーサ(パリ砲)がパリへの砲撃を開始。
1922年 - ドイツ外相のラーテナウがテロにより暗殺される。
1932年 - シャム(現在のタイ)で人民党及び軍部による立憲革命。
1935年 - 逓信省電気試験所が世界初のテレビ電話の実験に成功する。
1937年 - 帝国芸術院完成。
1940年 - フランスとイタリアが休戦協定を締結。
1941年 - ナチス・ドイツ軍がビルニュス、ブレスト=リトフスク、カウナスを占領。
1947年 - アメリカの実業家ケネス・アーノルドが自家用機を操縦中に空飛ぶ円盤を目撃。
1948年 - ベルリン封鎖始まる。ソ連が西ベルリンへの通行を禁止。
1950年 - 第4回サッカー・ワールドカップ開催。7月16日まで。
1963年 - ザンジバルの自主政府がイギリスにより承認される。
1983年 - PLO議長ヤーセル・アラファートがダマスカスから追放される。
1988年 - 営団地下鉄有楽町線池袋〜和光市間開通
1991年 - 株式会社アスキー設立
1992年 - イスラエル総選挙で15年ぶりに左派勢力圧勝。
1994年 - ハイアットリージェンシーオーサカが大阪市住之江区に開業。
2001年 - 京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(勝山市)。
前年の12月17日に起こった事故に引き続いて2回目となり、業務改善命令が出される。
2004年 - 田園調布駅大韓民国武装スリ集団事件
誕生日
1725年 - ジョン・ニュートン、作詞家(+ 1807年)
1770年 - アルプレヒト・ベルブリンガー、発明家・航空研究家(+ 1829年)
1793年(寛政5年5月16日)- 山内豊興、第11代土佐藩主(+ 1809年)
1838年 - ヤン・マテイコ、画家(+ 1893年)
1842年 - アンブローズ・ビアス、作家(+ 1914年(推測))
1895年 - ジャック・デンプシー、プロボクサー(+ 1983年)
1910年 - 千葉泰樹、映画監督(+ 1985年)
1911年 - ファン・マヌエル・ファンジオ、F1レーサー(+ 1995年)
1915年 - バスター・アダムズ、野球選手(+ 1990年)
1919年 - 中村覚之助、元調教師
1925年 - 与那嶺要、元プロ野球選手・監督
1940年 - ヴィットリオ・ストラーロ、映画カメラマン
1940年 - 加賀美幸子、元NHKアナウンサー
1940年 - 野崎靖博、元日刊スポーツ編集委員
1944年 - ジェフ・ベック、ギタリスト
1945年 - 西田健、俳優
1946年 - エリソン・オニヅカ、宇宙飛行士(+ 1986年)
1950年 - ナンシー・アレン、女優
1952年 - パルト小石、マジシャン
1953年 - 康珍化、作詞家
1958年 - 塩屋翼、声優
1960年 - 岡野玲子、漫画家
1960年 - 犬童一心、映画監督
1961年 - 井上由美子 (脚本家)
1961年 - 清水圭、タレント
1962年 - 六角精児、俳優
1964年 - 野々村真、タレント
1965年 - 八木亜希子、フリーアナウンサー
1965年 - 椎名高志、漫画家
1970年 - 岩永哲哉、声優
1971年 - 野口寿浩、プロ野球選手(阪神タイガース)
1976年 - 大塚由美、DJ・ラジオパーソナリティ
1976年 - 高橋薫、元プロ野球選手
1978年 - 中村俊輔、サッカー選手
1978年 - フアン・ロマン・リケルメ、サッカー選手
1978年 - エンプ・ヴオリネン、ギタリスト(ナイトウィッシュ)
1979年 - 清水清人、元プロ野球選手
1980年 - 中山功太、お笑い芸人
1981年 - 土倉有貴、俳優
1982年 - 伊織、グラビアアイドル
1985年 - 浜口順子、タレント
1985年 - 白川ゆきな、グラビアアイドル
1985年 - 高崎健太郎、プロ野球選手(横浜ベイスターズ)
1987年 - リオネル・メッシ、サッカー選手
1988年 - 後藤静香、タレント
1988年 - マイカ・リチャーズ、サッカー選手
1989年 - 安部友裕、プロ野球選手(広島東洋カープ)
1990年 - 朝木智美、ジュニアアイドル
1991年 - 山口百恵 (フットサル選手)
生年不明 - 沙我、ミュージシャン(アリス九號.)
忌日
970年(天禄元年5月18日) - 藤原実頼、公卿、関白(* 900年)
1398年 - 朱元璋(洪武帝)、明の太祖(* 1328年)
1520年(永正17年6月10日) - 細川澄元、武将(* 1489年)
1605年(慶長10年5月8日) - 織田秀信、織田信長の孫(* 1580年)
1615年(元和元年5月28日) - 片桐且元、賤ヶ岳の七本槍の一人(* 1556年)
1815年 - チャールズ・リー、第3代アメリカ合衆国司法長官(* 1758年)
1890年 - 日霑、僧侶(* 1817年)
1894年 - マリー・フランソワ・サディ・カルノー、
フランス第三共和政第4代大統領(* 1837年)
1908年 - グロバー・クリーブランド、第22代・24代アメリカ合衆国大統領(* 1837年)
1935年 - カルロス・ガルデル、歌手(* 1890年)
1950年 - 松方幸次郎、実業家・川崎造船所初代社長(* 1866年)
1966年 - 長谷川繁雄、元プロ野球選手(* 1932年)
1969年 - 高野悦子、遺稿『二十歳の原点』で知られる立命館大生(* 1949年)
1980年 - 早川徳次、早川電機工業(現・シャープ)創業者(* 1893年)
1989年 - 美空ひばり、歌手(* 1937年)
1999年 - 村下孝蔵、フォークシンガー(* 1953年)
1999年 - 別所毅彦、元プロ野球選手・監督(* 1922年)
2003年 - 名古屋章、俳優(* 1930年)
2003年 - 山根赤鬼、漫画家(* 1935年)
2003年 - 久保亘、政治家(* 1929年)
2004年 - 李在田、韓国の軍人(* 1926年)
2006年 - 川合伸旺、俳優、声優(* 1932年)
2007年 - 桶谷顕、脚本家(* 1959年)
記念日・年中行事
聖ヨハネ祭
林檎忌/麦の日
歌手美空ひばりの忌日。
革命記念日(タイ)
カラボボ戦勝記念日(ベネズエラ)
UFOの日
1947年、アメリカの実業家
ケネス・アーノルドがワシントン州レニアサン付近で強い閃光を目撃。
これが初のUFOの目撃談とされている。