東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年6月29日(日曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年6月29日(日曜日)

6月29日です。
あさってから「7月」です。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々になってきました。

街路樹のポプラも穂先がろうそくの
明かりのように「様」になってきました。
あたかも
ゴッホの絵画の「夜の糸杉」のように。
早朝はみえます

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が獰猛な気配を放つ。
初めて気づきました。

濃い緑の葉。
桜の木は木の下で。
心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹がすっかりみえません。
桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ。
この
桜の木の下で木陰で心安らかにやすもうという
気はおきません。

木々でもいちょうや。松や。杉などの針葉樹
は「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
針葉樹から常緑樹に「進化」のはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い」です。
硬ければ
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。
街路樹が「松や杉」のような「常緑樹」では
冬はうっそうとして道端では
暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱから日の光を
さえぎれません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう
「ざっくり感」のリズムが
ありません。

木々の初夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
木や植物はすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな初夏の萌黄色です。
まるで大きな竹山の竹のうねりのようです。
今年は木々のわかばのめばえが非常に鮮烈
です。

街角の雑草も花は咲き終わり。
初夏の姿よなり
「ほとけの座」やはこべが
ますます姿を大きくして。
夏草のたたずまいをしています。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
まだまだ。はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

日曜の朝晴れて
はじめて気づく
にわの小ささ

早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

きらきらラピス・ラズリの空(そら)
紺碧のジュースの空(そら)
ミルクをそそそいだ空(そら)
トルコ石のプリンの空(そら)
はるかにとほくたかく空(そら)
ぽかぽか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
プリンの上のクリームの空(そら)
にわあじさい花(はな)はアイスクリーム空(そら)
あじさいのうえに空(そら)

初夏のうららのこもれびに
緑木いらかはかぜはやみ
夏風ひるむやうつろひの
四季のつきひのはやいくとせ

椎木(しいのき)の枝高し
そらに吼える若葉が穂束
木にも地にもみどりがさける
初夏のあさ
陽はゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
星の王子さま(Le Petit Prince、1943年4月)
で有名な。
飛行機操縦士。
(といってもパイロットとしての「テクニック」は
うまくなかったかかなり下手であったようです)
世界中また戦時中も敵国の「ドイツ」ですら
「信奉者」は多く。
神様のような存在の
「星の王子様」

1900年 -
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、
作家・パイロット(+ 1944年)
の生誕日です。
読者からは、サンテックス
の愛称で親しまれています。
++++++++++++++++++++++

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
(Antoine de Saint-Exupery, 1900年6月29日 -
1944年7月31日、リヨン生まれ)は、
フランスの作家・飛行機乗りです。

郵便輸送のためのパイロットとして、
欧州-南米間の飛行航路開拓
などにも携わりました。

読者からは、サンテックス
の愛称で親しまれています。

++++++++++++++++++++++

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの人物

イエズス会の
ノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、
スイスのフリブールにある
聖ヨハネ学院では文学にいそしみました。

兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属致します。

尋常ならざる経歴がものをいい。
軍用機操縦士(士官)となりました。

理由不明で退役し、
士官なので
自動的に予備役(陸軍予備役少尉)になりました。

自動車販売員などに就業した後、
民間航空界に入ります。

++++++++++++++++++++++
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは。

1926年、26歳で作家として本格的にデビュー。

極めて寡作ながら以後、
自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表致します。

著作は世界中で読まれました。
このような意味では「有名パイロット」
の仲間入りをしました。

けれども
仲間のパイロットの間では反感も多かったようです。

後に敵となるドイツ空軍にすら
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの信奉者がいました。
「信奉者」です。

サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと
語ったドイツ人空軍飛行士もいたということです。

++++++++++++++++++++++
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは。

1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、
トゥールーズで飛行教官を務めました。

前線への転属を希望し、
コネを使って多くの反対を押し切り実現致しました。
けれども
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは
「戦闘機」のパイロットとしては
「戦闘隊」は希望せず、「能力的にも無理」でした。

爆撃隊も忌避したので、1939年11月9日、
オルコントに駐屯する
偵察隊(II/33 部隊)に配属されました。

部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、
ヴィシー政権がドイツと講和。

動員解除でフランス本土へ戻った後、
アメリカへ亡命致します。
1940年12月21日リスボン出航。
12月31日ニューヨーク着。

++++++++++++++++++++++
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは。

第二次世界大戦中、
亡命先のニューヨークから、
自ら志願して
再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へでかけます。

原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)への復帰を
1943年6月に果たしました。

新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置された
のですが。

すぐに着陸失敗による機体破損事故を起こして、
1943年8月、飛行禁止処分を受け事実上の除隊になります。

++++++++++++++++++++++

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは
あれこれ必死に画策して、復帰を果たしました。

爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視して
サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していた
古巣のII/33 部隊に
1944年5月にもぐり込みました。

部隊は後にコルシカ島に進出。
1944年7月31日、
フランス内陸部グルノーブル・シャンベリー・アヌシーを
写真偵察のため、
単座双発双胴のロッキード F-5B
(戦闘機 P-38 ライトニングの偵察機型)
を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃。

そして消息を絶ちました。
最終階級は少佐でした。

++++++++++++++++++++++

サン=テグジュペリ 「未帰還・行方不明」の報は、
無線を傍受していたと思われる、ドイツ空軍にも伝わりました。
なんと「ドイツ軍」も。
彼等も独自に捜索を開始しました。
驚くべきことです。

サン=テグジュペリの存在は。

国境・民族を越えて、
空に憧れを抱く当時の若者にとって、
それほどまでに、かけがえの無いものだった
のです。

++++++++++++++++++++++

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの
乗機の引き揚げ

行方は永らく不明とされていました。
ところがある日のこと。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの名と、
妻コンスエロの名(括弧書き)、
および連絡先(c/o)として
アメリカの出版社名・所在地が刻まれた、
ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって
1998年9月7日に発見されました。

1944年7月31日に消息を絶ってから「44年後」
の出来事でした。

++++++++++++++++++++++
実は
同海域には沈船や墜落機の残骸が多数ある海域でした。

そして
問題の P-38 型機の残骸
(車輪を含む左エンジンナセル)は、
地中海のマルセイユ沖リュウ島近くで
地元のダイバーにより発見され、
1950年代に存在を目視されていました。

1982年、複数機種の残骸混在状態で写真撮影。

しかし、この海域はサンテックス機の墜落現場候補
とは思われておらず、
詳しく調査されることはなかったのです。

++++++++++++++++++++++
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
のものに間違いのない
ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって
1998年9月7日に発見されました。

上記ブレスレットの発見を受けて、
精力的かつ広範囲な探索が行われた結果。

2000年5月24日上記残骸を再度調査・撮影して
F-5B 型機であることを確認。

2000年5月26日マスメディアに「軍」が
意図的に漏洩したため
フランスでは大騒ぎになりました。
世界中に知られるところとなりました。

++++++++++++++++++++++

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの
「墜落機体」は。
遺産相続者の反対や
その他の事情で引き揚げは禁止されていました。

2003年になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで
正式な回収許可が下り、
前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、
さらに、広い海域に散乱していた
多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められました。

回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、
左エンジンカウリングに刻まれた
ロッキード社の製造番号により
彼の乗機であることが間違いなく明らかとなりました。

++++++++++++++++++++++

2008年3月15日付La Provence(電子版)に、
当時のドイツ軍操縦士ホルスト・リッパートが
サン=テグジュペリの
偵察機を撃墜したとする証言が公開されました。

この操縦士自身もサン=テグジュペリ作品の愛読者だといい
「長い間、あの操縦士が彼では無い事を願い続けた・

彼だと知っていたら撃たなかった」と話していたそうです。

++++++++++++++++++++++

作品リスト
南方郵便機(Courrier Sud、1929年6月)
夜間飛行(Vol de Nuit、1931年10月)
人間の土地(Terre des Hommes、1939年3月)
戦う操縦士(Pilot de Guerre、1942年)
ある人質への手紙(Lettre a un Otage、1943年2月または6月)
星の王子さま(Le Petit Prince、1943年4月)
以降は死後に編集して出版された作品です。

城砦(Citadelle、1948年。未完)
若き日の手紙1923-1931(Lettres de Jeunesse(1923-1931)、1953年)
手帳(Carnets、1953年)
母への手紙(Lettres a sa Mere、1955年)
人生に意味を(Un Sens a la Vie、1956年)
戦時の記録(Ecrits de Guerre、1982年)
踊り子マノン・他(全4巻 ; I:Manon, denseuse suive de L'Aviateur., II:Autour de Courrier Sud et de Vol de nuit., III:Je suis alle voir mon avion ce soir suive de Le pilote et de On peut croire aux hommes., IV:Sept lettres a Nathalie Paley.、2007年)(和訳の刊行は未定)
なお、日本語訳の著作集はみすず書房より刊行されている。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupery, 1900年6月29日 - 1944年7月31日、リヨン生まれ)は、フランスの作家・飛行機乗り。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは、サンテックスの愛称で親しまれる。

目次
1 人物
1.1 乗機の引き揚げ
2 作品
2.1 作品リスト
3 脚注
4 関連書
5 関連項目
6 外部リンク

人物
イエズス会のノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。

兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属。尋常ならざる経歴で軍用機操縦士(士官)となる。退役し、士官なので自動的に予備役(陸軍予備役少尉)に。自動車販売員などに就業した後、民間航空界に入る。

1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、極めて寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も多かった。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語ったドイツ人もいたという。

1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望し、コネを使って多くの反対を押し切り実現。戦闘隊は希望せず、能力的にも無理だった。爆撃隊も忌避したので、1939年11月9日、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33 部隊)に配属された。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。

第二次世界大戦中、亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)への復帰を1943年6月に果たす。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、すぐに着陸失敗による機体破損事故を起こして、1943年8月、飛行禁止処分を受け事実上の除隊。あれこれ必死に画策して、復帰を果たした。爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視して、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していた古巣のII/33 部隊に1944年5月にもぐり込む。部隊は後にコルシカ島に進出。1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブル・シャンベリー・アヌシーを写真偵察のため、単座双発双胴のロッキード F-5B(戦闘機 P-38 ライトニングの偵察機型) を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃、消息を絶った。最終階級は少佐。

サン=テグジュペリ 未帰還・行方不明の報は、無線を傍受していたと思われる、ドイツ空軍にも伝わり、彼等も独自に捜索を開始した。サン=テグジュペリの存在は、国境・民族を越えて、空に憧れを抱く当時の若者にとって、それほどまでに、かけがえの無いものだった。

乗機の引き揚げ
行方は永らく不明とされていたが、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名(括弧書き)、および連絡先(c/o)としてアメリカの出版社名・所在地が刻まれた、ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって1998年9月7日に発見された。

同海域には沈船や墜落機の残骸が多数あるが、問題の P-38 型機の残骸(車輪を含む左エンジンナセル)は、地中海のマルセイユ沖リュウ島近くで地元のダイバーにより発見され、1950年代に存在を目視されていた。1982年、複数機種の残骸混在状態で写真撮影。しかし、この海域はサンテックス機の墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。上記ブレスレットの発見を受けて、精力的かつ広範囲な探索が行われた結果、2000年5月24日上記残骸を再度調査・撮影して F-5B 型機であることを確認。2000年5月26日マスメディアに意図的に漏洩したためフランスでは大騒ぎになり、世界中に知られるところとなった。

遺産相続者の反対その他の事情で引き揚げは禁止されていたが、2003年になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで正式な回収許可が下り、前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、さらに、広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左エンジンカウリングに刻まれたロッキード社の製造番号により彼の乗機であることが明らかとなった[1]。

2008年3月15日付La Provence(電子版)に、当時のドイツ軍操縦士ホルスト・リッパートがサン=テグジュペリの偵察機を撃墜したとする証言が公開された。この操縦士自身もサン=テグジュペリ作品の愛読者だといい「長い間、あの操縦士が彼では無い事を願い続けた。彼だと知っていたら撃たなかった」と話していた。[2]。

作品
デビュー作『南方郵便機』(Courrier Sud、1929年、小説)は、男女間の恋愛を描いた唯一の作品である。構成技法その他の理由から、あまり高く評価されていない。

『夜間飛行』(Vol de Nuit、1931年、小説)と『人間の土地』(Terre des Hommes、1939年、既発表の体験記や随筆の寄せ集め)はベストセラーとなり、彼の代表作として高く評価され、現在でも世界中で広く愛読されている。伝統ある、フランスの植民地文学の香気を伝えるものとしても名高い。

『戦う操縦士』(Pilot de Guerre、1942年)は、書かれた時代背景が、その存在意義と評価を決めた。ヒトラーの『我が闘争』に対する「民主主義の側からする返答」として高く評価され、米国で先に出版された英語訳『アラスへの飛行』(Flight to Arras、1942年)はベストセラーとなった。占領下の祖国フランスでも制限付き(初版発行部数2000部余り)で発売されたが、すぐに発行禁止となり、地下出版物(リヨン版)として反ナチ派の間で読み継がれた。

『星の王子さま』はニューヨークでは1943年4月にレイナル・ヒチコック社から英語訳 The Little Prince とフランス語版 Le Petit Prince が、祖国フランスでは死後の1945年11月にガリマール社から Le Petit Prince が出版された。実際に発売されたのは1946年になってからだと出版社は主張している。多くの誤植と原画に忠実とは言えない挿絵だった。1999年になってガリマール社が誤りを認め、誤植や挿絵を修正した。自身で描いた素朴な挿絵も長く愛されている。

アニメーション作家の宮崎駿はサン=テグジュペリから影響を受けているそうで、新潮文庫出版の『夜間飛行』『人間の土地』にそれぞれカバーの画を描いている。しかし、宮崎のウエットな筆致が、作品の持つ、リリカルで硬質な世界観をミスリードしているという指摘もある[要出典]。

作品リスト
南方郵便機(Courrier Sud、1929年6月)
夜間飛行(Vol de Nuit、1931年10月)
人間の土地(Terre des Hommes、1939年3月)
戦う操縦士(Pilot de Guerre、1942年)
ある人質への手紙(Lettre a un Otage、1943年2月または6月)
星の王子さま(Le Petit Prince、1943年4月)
以降は死後に編集して出版された作品である。

城砦(Citadelle、1948年。未完)
若き日の手紙1923-1931(Lettres de Jeunesse(1923-1931)、1953年)
手帳(Carnets、1953年)
母への手紙(Lettres a sa Mere、1955年)
人生に意味を(Un Sens a la Vie、1956年)
戦時の記録(Ecrits de Guerre、1982年)
踊り子マノン・他(全4巻 ; I:Manon, denseuse suive de L'Aviateur., II:Autour de Courrier Sud et de Vol de nuit., III:Je suis alle voir mon avion ce soir suive de Le pilote et de On peut croire aux hommes., IV:Sept lettres a Nathalie Paley.、2007年)(和訳の刊行は未定)
なお、日本語訳の著作集はみすず書房より刊行されている。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
6月29日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8829%E6%97%A5

できごと
1575年(天正3年5月21日 ) - 長篠の戦い

1613年 - ロンドンのグローブ座焼失。

1797年 - ナポレオン・ボナパルトがチザルピーナ共和国を建国。

1880年 - タヒチ島がフランスの領土となる。

1913年 - セルビア・ギリシャなどとブルガリアの間で第二次バルカン戦争が勃発。

1928年 - 治安維持法改正、反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加。

1932年 - 警視庁、特別高等警察(特高)課を部に昇格。

1933年 - イタリアのプロボクサープリモ・カルネラがジャック・シャーキーに6RKO勝ちを果たし、
世界ヘビー級王者となる。

1945年 - 岡山空襲で岡山城が焼失。

1950年 - FIFAワールドカップで、アメリカがイングランドに1-0で勝利。

1954年 - 水爆製造に反対したロバート・オッペンハイマーを原子力委員長から解任。

1956年 - アメリカ合衆国で連邦補助高速道路法が施行される。

1958年 - FIFAワールドカップスウェーデン大会の決勝戦で
ブラジルがスウェーデンを5-2で破り初優勝。

1961年 - 甲子園阪神パークにレオポンが3頭誕生。
「ジョニー」「チェリー」「ディジー」と名づけられる。

1962年 - 北海道の十勝岳が噴火。

1966年 - ビートルズが初来日。

1976年 - セーシェルがイギリスから独立。

1981年 - 中国共産党第11期6中総会で文化大革命を全面否定する「歴史決議」を採択。

1982年 - 米ソ首脳が戦略兵器削減交渉(START)を開始。

1990年 - 礼宮文仁親王が川嶋紀子と結婚、秋篠宮家を創設。

1995年 - 韓国ソウルの三豊百貨店がほぼ全壊で512人が死亡。

誕生日
1227年(安貞元年5月14日) - 北条時頼、鎌倉幕府第5代執権(+ 1263年)

1596年(慶長元年6月4日)- 後水尾天皇、第108代天皇(+ 1680年)

1815年(文化12年5月22日) - 浅田宗伯、漢方医(+ 1894年)

1868年(慶応4年5月10日) - 瀬戸口藤吉、音楽家(+ 1941年)

1897年 - 土浦亀城、建築家(+ 1996年)

1900年 - アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、作家・パイロット(+ 1944年)

1905年 - 入江相政、侍従長・エッセイスト(+ 1985年)

1908年 - ルロイ・アンダーソン、作曲家(+ 1975年)

1911年 - バーナード・ハーマン、作曲家(+ 1975年)

1914年 - ラファエル・クーベリック、指揮者・作曲家(+ 1996年)

1915年 - 柳宗理、インダストリアルデザイナー

1916年 - 小山正孝、詩人(+ 2002年)

1922年 - 清岡卓行、詩人・小説家(+ 2006年)

1928年 - 松尾浩也、法学者

1930年 - 左幸子、女優(+ 2001年)

1933年 - 冲永荘一、帝京大学創設者

1935年 - 野村克也、東北楽天ゴールデンイーグルス監督

1936年 - ハーモン・キルブルー、元メジャーリーガー

1941年 - 倍賞千恵子、女優・歌手

1948年 - イアン・ペイス、ミュージシャン

1948年 - 成田春男、調教師
1949年 - 中田カウス、漫才師
1954年 - 清水アキラ、お笑いタレント・ものまねタレント
1955年 - 森マリア、元歌手、元女優
1958年 - ロザ・モタ、女子マラソン選手
1959年 - 二代目引田天功(プリンセス・テンコー)、奇術師
1960年 - 清水よし子、お笑いタレント
1965年 - 大森はじめ(東京スカパラダイスオーケストラ)、ミュージシャン
1965年 - 藤原英昭、調教師
1966年 - 神尾葉子、漫画家
1966年 - パパイヤ鈴木、振り付け師・タレント
1967年 - さいとうちほ、漫画家
1968年 - 中村良二、元プロ野球選手
1969年 - 松本志のぶ、日本テレビアナウンサー
1969年 - 橋下徹、弁護士大阪府知事
1970年 - 渡邉博幸、元プロ野球選手
1971年 - 野田順子、声優
1973年 - 塩崎真、プロ野球選手
1973年 - 福嶋晃子、プロゴルファー
1975年 - 高木郁乃、ミュージシャン・ボーカリスト
1976年 - 井川遥、女優・タレント
1976年 - 松田直樹、プロボクサー
1978年 - 吉川昌宏、プロ野球選手
1979年 - 酒井友之、サッカー選手
1979年 - 美元、女優、モデル
1979年 - 平川博晶、俳優
1980年 - キャサリン・ジェンキンス、メッゾ・ソプラノ歌手
1981年 - 咲人、ミュージシャン(ナイトメア)
1982年 - 矢嶋佑、演出家
1983年 - HIROKI、ミュージシャン(ORANGE RANGE)
1983年 - あじゃ、タレント
1983年 - 小川摩起、女優
1984年 - 大引啓次、プロ野球選手
1984年 - 西京舞、グラビアアイドル
1985年 - 西野翔、AV女優
1986年 - 塚田祥雄、騎手
1987年 - 齋藤ヤスカ、俳優
1988年 - エベル・バネガ、サッカー選手
1988年 - 村井良大、俳優
1989年 - 梅田尚通、プロ野球選手
1990年 - 坂本真里亜、美少女クラブ31
1990年 - 木村昴、声優

忌日
970年(天禄元年5月18日)- 藤原実頼、平安時代の公卿(* 900年)

1252年 - アーベル、デンマーク王(* 1218年)

1418年(応永25年5月14日)- 足利満詮、室町時代の武将・権大納言(* 1364年)

1575年(天正3年5月21日) - 内藤昌豊、武将(* 1522年)

1575年(天正3年5月21日) - 馬場信春、武将(* 1515年)

1575年(天正3年5月21日) - 土屋昌次、武将(* 1544年)

1724年(享保9年5月9日)- 前田綱紀、第5代加賀藩主(* 1643年)

1725年(享保10年5月19日) -
新井白石、江戸幕府老中・儒学者(* 1657年)

1744年 - アンドレ・カンプラ、作曲家(* 1660年)

1875年 - フェルディナント1世、オーストリア皇帝(* 1793年)

1895年 - トマス・ヘンリー・ハクスリー、生物学者(* 1825年)

1903年 - 滝廉太郎、作曲家(* 1879年)

1929年 - 内田魯庵、小説家・文芸評論家・翻訳家(* 1868年)

1933年 - ロスコー・アーバックル、俳優(* 1887年)

1935年 - 橘ノ圓 (初代)、落語家(* 1868年)

1935年 - 長谷川海太郎、小説家(* 1900年)

1940年 - パウル・クレー、画家(* 1879年)

1941年 - イグナツィ・パデレフスキ、
ピアニスト・作曲家・ポーランド第二共和制第3代首相(* 1860年)

1951年 - 遠藤新、建築家(* 1889年)

1953年 - 幣原坦、歴史学者・教育者・官僚(* 1870年)

1957年 - 橋本欣五郎、日本の軍人・右翼活動家・衆議院議員(* 1890年)

1964年 - エリック・ドルフィー、ジャズミュージシャン(* 1928年)

1965年 - 沢本頼雄、元日本海軍大将(* 1886年)

1967年 - プリモ・カルネラ、プロボクサー(* 1906年)

1994年 - クルト・アイヒホルン、指揮者(* 1908年)

1995年 - ラナ・ターナー、女優(* 1921年)

1997年 - 大村雅朗、作曲家・アレンジャー(* 1951年)

2000年 - ヴィットリオ・ガスマン、俳優(* 1922年)

2002年 - オルヨハン・ダール、計算機科学者(* 1931年)

2003年 - キャサリン・ヘプバーン、女優(* 1907年)

2006年 - ロイド・リチャーズ、俳優(* 1919年)

2006年 - 松本きょうじ、俳優(* 1954年)

2006年 - ファビアン・ビーリンスキー、映画監督(* 1959年)

2007年 - フレッド・セイバーヘーゲン、SF作家(* 1930年)

2007年 - エドワード・ヤン、映画監督(* 1947年)

記念日・年中行事
佃煮の日

八千代松陰学園創立記念日