東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月2日(水曜日)

今朝晴れて。

真夏のかおりが。
ただよいはじめています。

すでに五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
7月の初夏の気配から真夏の気配が
次第に強くなるように。

感じられるような気がします。
空があせをかいているような感じです。「7月」になりました。
盛夏間近い。

木々のめぶきの夏の息吹を力強く感じます。
けれども早朝はまだまだ「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。
百姓のうまれなので「冷夏」が心配ですが。
やはり夏。あつくなるでしょう。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏の「木」にかわりました。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
若葉にそだち。
若枝は天高くすこやかにのび。
ますますに
山椒(さんしょう)木はみどり葉
がとても奇麗です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる
夏来る(きたる)るらし
そらあおくみどりなり

さんしょう木
もえぎほのほは芽葉(めは)
かば葉はいずるは花ならむ
夏(なつ)まつ枝は幹まらむ
いざいまこそは
空(そら)にもえたたむ
さんしょう木

けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。

小さななつみつけたから
しだいに大きな夏みつけた
大きな大きな夏みつけたはまだ
小さい夏みつけた・は。

ちょっと「怖い気」がする
もう初夏です

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
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7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

ロスアラモスの研究所にて
「原子爆弾」の開発に携わり。

そしてまた
「自ら失敗を望みながら」時の大統領
ハリー・S・トルーマン
から「水素爆弾」の研究の「ボス」にも抜擢され。

優れた物理学者でありながら「第二次世界大戦」の
「恐怖の秘密兵器開発」に翻弄された。

1967年、「原子核反応理論への貢献、
特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見」
によってノーベル物理学賞を受賞。

1906年 - ハンス・ベーテ、物理学者(+ 2005年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ハンス・アルプレヒト・ベーテ
(Hans Albrecht Bethe、1906年7月2日 - 2005年3月6日)。
アメリカの物理学者です。
シュトラスブルク
(当時ドイツの一部、現在フランスのストラスブール)
の御出身です。

++++++++++++++++++++++
ハンス・ベーテは
フランクフルト・アム・マインで
物理学を学びました。
ミュンヘン大学で博士号を得ました。

彼はナチスが政権を握った1933年に。
ドイツからイギリスに逃れます。

1935年にはアメリカのコーネル大学の教授となりました。

++++++++++++++++++++++

ハンス・ベーテは
第二次世界大戦の間はオッペンハイマーに招かれて。
カリフォルニア大学バークレー校での
特別夏季会議に参加しました。

特別夏季会議とは
原子爆弾の最初の概略を説明したものであったのです。

++++++++++++++++++++++

オッペンハイマーが
ロスアラモスで秘密兵器研究所を開設すると同時に。
ベーテは理論部門の監督に任命されました。

すなわち「原子爆弾」の開発でした。

ハンス・ベーテは
1948年〜1949年までコロンビア大学に客員教授として招かれました。

++++++++++++++++++++++

戦後ハンス・ベーテは水素爆弾の開発計画が持ち出された時
猛烈に反対したのです。

しかしながら
トルーマン大統領が開発計画を宣言致しました。

朝鮮戦争が勃発したとき
ハンス・ベーテは計画に参加しはからずも
開発に重要な役割を果たしました。

彼は計画の終了まで関わりました。
個人的には水素爆弾の製造が
不可能であること失敗することを望んでいました。

++++++++++++++++++++++

ハンス・ベーテは
1967年、「原子核反応理論への貢献、
特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見」
によってノーベル物理学賞を受賞しました。

++++++++++++++++++++++

なおハリー・S・トルーマン大統領は日本に
「8−12発」の原子爆弾を投下する予定でした。

「広島」の原子爆弾=「リトルボーイ」
は「エノラゲイ」により広島上空に「予定通り」投下されました。

莫大な破壊力であったにもかかわらず
それはハンス・ベーテの計算から
「五十分の一」の「エネルギー」
であり「失敗」であるとみなされました。

破壊力がハンス・ベーテの計算の
「五十分の一」であったからです。

++++++++++++++++++++++

ハリー・S・トルーマンは長崎に
「フアットマン」=「プウトニウム爆弾」を投下致しました。

ハリー・S・トルーマン自体さすがに「報告と航空写真」を
みて「自室にとじこもり」1時間もでてこなかった。

そして
日本への「核爆弾投下」は「2発で十分だ」
ともらしました。

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ハリー・S・トルーマンはけれども
朝鮮戦争での「核爆弾」は「一発」はぜひ投下したい
とのべ。

周囲から「とめられて」考え。
中止になりました。

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「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ハンス・ベーテ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%86

ハンス・アルプレヒト・ベーテ
(Hans Albrecht Bethe、1906年7月2日 - 2005年3月6日)は、
アメリカの物理学者。
シュトラスブルク(当時ドイツの一部、現在フランスのストラスブール)出身。

ベーテはフランクフルト・アム・マインで
物理学を学び、ミュンヘン大学で博士号を得る。

彼はナチスが政権を握った1933年にドイツからイギリスに逃れ、
1935年にはアメリカのコーネル大学の教授となる。

第二次世界大戦の間、彼はオッペンハイマーに招かれ
カリフォルニア大学バークレー校での特別夏季会議に参加した。
それは原子爆弾の最初の概略を説明したものであった。

オッペンハイマーがロスアラモスで秘密兵器研究所を開設したとき、
ベーテは理論部門の監督に任命された。

1948年〜1949年までコロンビア大学に客員教授として招かれた。
戦後ベーテは水素爆弾の開発計画に反対したが、
トルーマン大統領が開発計画を宣言し、
朝鮮戦争が勃発したときベーテは計画に参加し開発に重要な役割を果たした。

彼は計画の終了まで関わったが、
個人的には水素爆弾の製造が不可能であることを望んだ。

1967年、「原子核反応理論への貢献、特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見」
によってノーベル物理学賞を受賞した。

外部リンク
Hans Bethe at Nobel lectures
Hans Bethe at World of Science
Hans Bethe at Britannica Nobel Prizes
Text of the Eddington Medal award speech
Bruce Medal page
Three Lectures by Hans Bethe
Obituary

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月2日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%882%E6%97%A5

できごと
1578年 - マーティン・フロビッシャーがバフィン島を発見。

1582年(天正10年6月13日) -
山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破る。光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。

1644年 - クロムウェル率いる鉄騎隊がマーストン・ムーアの戦いで
ルパートの騎兵を潰走させて武名をあげた。

1777年 - バーモント州がアメリカで最初に奴隷制を廃止。

1839年 - アミスタッド号事件。奴隷船に収容されていたアフリカ人奴隷53名が
キューバ沖で反乱を起こし、船を乗っ取る。

1881年 - ガーフィールド大統領暗殺事件

1883年 - 官報が創刊される。

1900年 - ドイツのフリードリッヒシャフェンで飛行船ツェッペリン号が初飛行。

1929年 - 浜口雄幸内閣発足

1937年 - 世界一周飛行の途上、アメリア・イアハートが南太平洋で消息を絶つ。

1941年 - 対ソ戦準備・フランス領インドシナ侵攻を御前会議で決定。

1950年 - 金閣寺放火事件。

1964年 - リンドン・ジョンソン米大統領が公民権法に署名。

1973年 - ジェームズ・シュレジンガーがアメリカ国防長官に就任。

1976年 - 北ベトナムと南ベトナムが統一し、国名をベトナム社会主義共和国に改称。

1985年 - 欧州宇宙機関 (ESA) により、ハレー彗星探査機ジオット打ち上げ。

1995年 - 都営地下鉄浅草線・5000形車両がこの日の運用を最後に現役を引退する。

1997年 - タイ政府によるタイバーツの変動相場制導入を契機としてアジア通貨危機が始まる。

2000年 - 小林雅英がプロ野球史上初の打者0人で勝利投手となる。

2003年 - プラハで開かれた第115回IOC総会で
2010年の冬季オリンピックの開催地がバンクーバーに決定。

2005年 - アフリカ救済のチャリティ・コンサート「Live 8」を
幕張メッセなど世界10都市で公演。

誕生日
419年 - ウァレンティニアヌス3世(+ 455年)

1698年 - フランチェスコ3世・デステ、モデナ公(+ 1780年)

1819年 - トーマス・アンダーソン、化学者(+ 1874年)

1877年 - ヘルマン・ヘッセ、小説家(+ 1962年)

1891年 - 恩地孝四郎、版画家(+ 1955年)

1898年 - 岡鹿之助、洋画家(+ 1978年)

1903年 - アレック・ダグラス=ヒューム、元イギリス首相(+ 1995年)

1904年 - ルネ・ラコステ、テニス選手(+ 1996年)

1905年 - 石川達三、作家(+ 1985年)

1906年 - ハンス・ベーテ、物理学者(+ 2005年)

1920年 - 竹内均、地球物理学者(+ 2004年)

1922年 - 藤原彰、歴史学者(+ 2003年)

1923年 - 野崎泰一、元プロ野球選手

1937年 - オレグ・シェーニン、政治家

1940年 - 浅丘ルリ子、女優

1942年 - ビセンテ・フォックス・ケサーダ、第63代メキシコ大統領

1946年 - リチャード・アクセル、科学者・医学博士

1946年 - 西川きよし、お笑いタレント・政治家

1952年 - 小柳ルミ子、歌手
1954年 - 南沙織、歌手
1954年 - タイロン橋本、シンガーソングライター・音楽プロデューサー
1955年 - スティーヴン・ウォルト、大学教授
1964年 - カンケ、ミュージシャン
1964年 - ホセ・カンセコ、元メジャーリーガー
1964年 - オジー・カンセコ、野球選手
1969年 - 田口壮、プロ野球選手
1969年 - 亀山つとむ、プロ野球選手
1969年 - 山田勝彦、プロ野球選手
1971年 - 大西崇之、プロ野球選手
1971年 - 高橋功一、元プロ野球選手
1973年 - 小坂誠、プロ野球選手
1974年 - 渋川清彦、俳優
1974年 - 片石貴子、タレント、レースクイーン
1978年 - 加藤康介、プロ野球選手
1978年 - 伊藤洋一(GOING UNDER GROUND)、ミュージシャン
1979年 - 三宅健、V6
1979年 - 相川みさお、グラビアアイドル
1980年 - マシュー・ケント、野球選手
1983年 - ミシェル・ブランチ、シンガーソングライター
1984年 - ジョニー・ウィアー、フィギュアスケート選手
1984年 - 持田あき、漫画家
1986年 - nangi、シンガーソングライター
1987年 - 山内明日、女優
1988年 - 大抜亮祐、プロ野球選手
1988年 - 曽我部慶太、サッカー選手
1990年 - 松本夏空、ファッションモデル、タレント

忌日
1566年 - ノストラダムス、医師・占星術師(* 1503年)

1582年(天正10年6月13日) - 明智光秀、武将(* 1528年?)

1778年 - ジャン=ジャック・ルソー、哲学者・思想家(* 1712年)

1786年(天明6年6月7日) - 中川淳庵、蘭方医・本草学者(* 1739年)

1833年(天保4年5月15日) - 青木木米、絵師・陶工(* 1767年)

1924年 - 松方正義、第4代・6代内閣総理大臣(* 1835年)

1944年 - 山梨半造、軍人・政治家(* 1864年)

1949年 - ゲオルギ・ディミトロフ、ブルガリアの指導者(* 1882年)

1961年 - アーネスト・ヘミングウェイ、作家(* 1899年)

1969年 - 成瀬巳喜男、映画監督(* 1905年)

1977年 - ウラジーミル・ナボコフ、作家(* 1899年)

1988年 - 荻昌弘、映画評論家(* 1925年)

2000年 - 青江三奈、歌手

2006年 - 原田昇左右、政治家(* 1923年)

2006年 - 七尾伶子、女優・声優(* 1925年)

記念日・年中行事
半夏生(はんげしょう、日本、2002年・2005年)
雑節の一つ。