東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月3日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月3日(木曜日)

ひなまつりがおわり。
春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
そして
「5月」もおわりました。
6月に・「夏」になりました。
6月も終わりました。
今年も「半分」終わりました。
セミしぐれの
8月まであと四週間たらず。
夏至も過ぎました。

これからは次第に陽は短くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議な安堵感があります。

朝空は
陽ははるかに天高く空色はミルク色です。
クリームのかかったような雲空です。

「つつじ」の「花」がおわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

若々しい草色の葉を木一面に広げ。
若葉の潅木としてとてもとても奇麗です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。
「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろうか。
ふと考える。
あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかなあ。
ふと思った。

私は森山を分け入ると。
木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花さく
「やまつつじ」が「大好き」です。
「くさぼけ」もかわいらしく「大好き」
です。

四季の歩みの春夏秋冬の
メトロノームのような「あゆみ」を
感じます。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお確実な「リズム」を感じます。
ここに「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
が。くわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じ・。

草花や草木につつまれた自然は「音楽」と同じように
ひびきそして聴こえます。
自然は
自然の
「ヴィルトオーゾ・ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」*です。

古代より芸術家が
「この自然」を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判る。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる成分ではありません。

また音楽であるために。
三要素が絶対必要という意味
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つ。

大和の国の自然は。
「音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。
「ため息」がでるほど木々の「若葉」の
「たば」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から「みどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎える葉束」になりました。

「若葉」の「新緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり初夏のおとずれを
伝えています。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうな青葉。

明らかなる。
「冬から春」とは全く違う
「春から夏」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

里山(さとやま)をあるき
昔のおがわでメダカでもとり
たい季節です。

けれども
まだ早朝ははだ寒いです。

やま中もり中分けいらば
若木の根元に隠れさく
あけぼの色のちひさき花あり
みつけたりやまの花 
草ぼけ花。

くさぼけの
花かくしてや
やまつつじ

たかくひろくなりけり空(そら)
さとやまに木々のみどり木
こもれびうけて燃えるがごとし
みどりの炎(ほのほ)
かがやきてあざやかなりけり 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな春みつけた」
から
「春が来て初夏間近い」
「小さな夏みつけた・。」

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
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7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
チエコの「反骨」の作曲家。
「田舎もの」あつかいをドイツでされて
ドイツ語を全く話さなかったチエコの音楽家。

当時の「チエコ」では
「上流階級」は「ドイツ語」を話すのをならわしとしました。
けれども
「ドイツ語」を一切話さなかった音楽家。

そのために「音楽の世界」からは
マイナーな存在と思われる結果に
今現在もいたっている音楽家。

1854年 - レオシュ・ヤナーチェク、作曲家(+ 1928年)
の生誕日です。
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レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček,
発音(ヘルプ・ファイル),
1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、
モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家です。

モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された。
チェコ語のリズムや旋律を
活かした独自の音楽語法を用いて。
朗唱風のオペラをはじめ、
管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に
多くの傑作を残しました。

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20世紀前半では、
祖国を除き、まだごく限られたレパートリーのみが知られる
マイナーな存在でした。

けれども
ピアニストのルドルフ・フィルクスニーや
指揮者のチャールズ・マッケラスらの
優れた演奏および録音をきっかけに
広く知られるようになりました。

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生涯

レオシュ・ヤナーチェクの少年期

1854年7月3日、
モラヴィア北部の寒村フクヴァルディ において、
学校教師の父イルジーと母アマリアの10番目の子供として
誕生しました。

11歳のときモラヴィアの首都ブルノに連れて行かれ、
アウグスティノ会修道院の少年聖歌隊員となりました。

聖歌隊で彼に音楽教育を施した指揮者、
パヴェル・クルジージュコフスキー
はチェコ国民楽派の始祖とされるスメタナと同世代にあたり。

ブルノ・ベセダというアマチュア音楽家グループの
中心人物として。
モラヴィアの民俗音楽の豊かさを認識させる運動を行っていた
音楽家でした。

その後のヤナーチェクの音楽に対して影響を及ぼしました。

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ヤナーチェクは。
1872年、
アウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に。

1873年にはスヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任しました。

無伴奏男声合唱のための作品が
ヤナーチェクの初期作品にいくつか見られますが。

それらはこのスヴァトプルク合唱協会
のために書かれたものと考えられます。

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レオシュ・ヤナーチェクの青年期1

1874年、ヤナーチェクは
オルガン学校で学ぶためにプラハに移り、
主に教会音楽を中心とした1年間の課程を
「極めて優れている」成績で修了しました。

プラハ時代にはドヴォルザークとの出会いがありました。

ヤナーチェクはその音楽を深く愛するようになっています。

プラハからブルノに戻ったヤナーチェクは、
修道院での聖歌隊の指揮や
スヴァトプルク合唱協会の指揮に復帰しました。

さらにブルノ・ベセダの聖歌隊指揮者にも就任しました。

多忙となったためスヴァトプルク合唱協会の指揮者を
辞任しました。

++++++++++++++++++++++

レオシュ・ヤナーチェクの青年期2

こうして実践的な場で音楽経験を積むにつれて。

基本的な音楽技法の不足を感じたヤナーチェクは再
び勉強し直すことを決意しました。

交際していた女性、
ズデンカ・シュルゾヴァーの実家の勧めもあり、
1879年10月にヤナーチェクは
ライプツィヒの音楽院に入学しました。

しかし彼はそこでの教育に満足できず、
翌年の2月末にウィーンに向かいました。

このとき、ヤナーチェク本人はフランスで
サン=サーンスに学ぶことを考えていました。

けれども
恋人ズデンカの反対によりウィーンへ行くことにしたのです。

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レオシュ・ヤナーチェクの青年期3

この当時、ウィーン音楽院では
ヨゼフ・ヘルメスベルガー、
ロベルト・フックス、アントン・ブルックナーなどが
教師として名を連ねていました。

ヤナーチェクが作曲の指導を受けたのは
マーラーの師であったフランツ・クレンでした。

しかし彼はウィーンの音楽教育にも飽き足らず、
その年のうちにブルノに帰りました。

クレンといえば、
マーラーの伝記では厳格な教師として知られている方です。
けれども
ヤナーチェクは彼を理論的ではないと感じ、
不満を募らせたのだということです。

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レオシュ・ヤナーチェクの青年期4

レオシュ・ヤナーチェクが本当に不満を感じたのは
音楽教育に対してではない。
辺境出身者として大都会で感じた疎外感では
なかったかとの見方もなされています。

多分にそうでしょう。

ブルノに帰ってから後のヤナーチェクは
民族主義運動に共感し
ドイツ語での会話を拒否するようになっています。

結局、この頃の正規の音楽教育への失望が。

このあと自国の言語と民俗音楽からその独特の音楽語法を
身につける道の
選択へとつながりました。

++++++++++++++++++++++

レオシュ・ヤナーチェクの壮年期1

ヤナーチェクとズデンカ・シュルゾヴァー(1881年)ブルノに帰った
翌1881年にヤナーチェクは、ズデンカ・シュルゾヴァーと結婚し、
岳父エミリアン・シュルツの助けで
1882年にオルガン学校を開校しました。

この学校は、1919年に国立音楽院となった、
現在のヤナーチェク音楽院です。

また、同じ年にブ
ルノ・ベセダに歌とヴァイオリンの学校も開設しています。

さらにヤナーチェクは
ブルノに設立されたチェコ人劇場のための音楽雑誌
「フデブニー・リスティ」の創刊者となり、
1884年11月にその第1号を発刊しました。

この頃のヤナーチェクは2つの音楽学校の教師、
2つの合唱団の指揮者、音楽雑誌の編集者と多忙を極め、
作曲をほとんど行っていません。

++++++++++++++++++++++
レオシュ・ヤナーチェクの壮年期2

1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた
民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、
協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を
行うことになりました。

ヤナーチェクはこの作業に没頭したが、
これがモラヴィアの音楽を
その血肉とする最後の仕上げとなりました。

ヤナーチェクは1889年の
「ラシュスコ舞曲」において、
初めて民俗音楽をはっきりと意識した作品を発表しました。

民俗音楽の直截な引用は1891年のオペラ
「物語の始まり」で頂点に達し
その後はほとんど見られなくなります。

こうして独自の音楽語法を
手にしたヤナーチェクが1894年から1903年の
9年間をかけて完成させたのが。

彼の代表作の一つであるオペラ「イェヌーファ」です。

++++++++++++++++++++++
レオシュ・ヤナーチェクの壮年期3

彼の民族主義運動への共感は深まっていました。

1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための
大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し
一人の労働者が死亡する事件が起こるが、
この事件に怒ったヤナーチェクは
ピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」を作曲しました。

また1915-1918年には、コサック首領の物語に
祖国独立の想いを
仮託した管弦楽曲の代表作、
交響的狂詩曲「タラス・ブーリバ」を作曲し、
チェコスロヴァキア共和国軍に捧げています。

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レオシュ・ヤナーチェクの壮年期4

私生活では、ズデンカ・シュルゾヴァーとの結婚生活は
当初から不安定な状態が続き、妻の実家であるシュルツ家との
関係も悪化しました。

ヤナーチェクは結婚の前後から、
民族主義的な傾向を強めドイツ語の使用を避けるようになります。

それが
「当時の上流階級の常としてドイツ語でドイツの習慣に従って
生活していた」
シュルツ家の人々との距離を離れさせる
一因にもなりました。

1890年に長男が亡くなった後は、
ヤナーチェクの死まで結婚関係こそ
解消されなかったものの、
結婚生活は事実上崩壊していました。

1903年には、ヤナーチェクは
娘オルガも亡くしました。
この頃にはピアノ曲集「草陰の小径」や「霧の中で」
といった内省的な作品が書かれています。

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レオシュ・ヤナーチェクの晩年
1917年、63歳になったヤナーチェクは、
運命の女性カミラ・シュテスロヴァーと出会いました。

この出会いが彼の創作意欲に刺激を与えました。

1917年から1919年に歌曲集「消えた男の日記」、
1919年から1921年にオペラ「カーチャ・カバノヴァー」、
次いで1921年から1923年にかけて
オペラ「利口な女狐の物語」、
1923年には弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」、
1924年に木管六重奏のための「青春」、
1926年に「シンフォニエッタ」、「グラゴル・ミサ」、
1927年から1928年に最後のオペラ「死者の家から」、
1928年に弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」と。

それぞれの分野での代表作となる
傑作を立て続けに書き上げていきました。

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1928年7月30日、ヤナーチェクは、
カミラとその夫デイヴィッド、
そして11歳になるカミラの息子の三人を招待して、
故郷フクヴァルディに出かけました。

カミラの夫デイヴィッドは商用のため数日で帰宅したため、
ヤナーチェクはカミラとその息子の三人で休暇を過ごしていたが、
この滞在中ヤナーチェクは死に至る肺炎に罹ってしまいました。

原因はカミラの息子が帰らないのを心配して
雨の中を森に探しに出かけせいとも、
ハイキングで雨に降られたせいとも言われています。

++++++++++++++++++++++

8月12日、ヤナーチェクは
肺炎によりオストラヴァで息を引き取りました。

彼自身の指示で、
妻ズデンカへの連絡は亡くなるまで行われませんでした。
棺はブルノの聖アウグスティヌ修道院の聖堂に安置され、
葬儀は8月15日にブルノ劇場で行われました。

葬儀では作曲家の生前の希望通りオペラ
「利口な女狐の物語」から森番のエピローグが演奏されました。

オペラの中でヤナーチェク自身が台本を書き起こした
部分で演奏される曲は、
流れてゆく時間の中で循環し繰り返される
生命・大いなる自然の営みへの感動と敬意を歌う楽曲であり。

自身の死を前にした
ヤナーチェクの死生観を示しています。

++++++++++++++++++++++

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レオシュ・ヤナーチェク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%AF

レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček, 発音(ヘルプ・ファイル), 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。

モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された、チェコ語のリズムや旋律を活かした独自の音楽語法を用い、朗唱風のオペラをはじめ、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの傑作を残した。

20世紀前半では、祖国を除き、まだごく限られたレパートリーのみが知られるマイナーな存在であったが、ピアニストのルドルフ・フィルクスニーや指揮者のチャールズ・マッケラスらの優れた演奏および録音をきっかけに広く知られるようになった。
++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月3日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%883%E6%97%A5

できごと
324年 - アドリアノープルの戦いでコンスタンティヌス1世が
リキニウスを打ち破りビザンチウムへ追い込む。

1848年 - デンマーク領西インド諸島(現アメリカ領ヴァージン諸島)
総督ペーター・ヴァン・ショルテンが奴隷解放宣言。

1866年 - 普墺戦争: ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍に大勝をおさめる。

1890年 - アイダホ州がアメリカ合衆国に加入。43番目の州となる。

1898年 - 米西戦争: サンティアゴ・デ・クーバの戦い、
アメリカ海軍がスペイン艦隊を撃破しキューバ近海の制海権を獲得する。

1938年 - フォルクスワーゲン・タイプ1が発表。

1947年 - GHQが財閥解体の一環として三井物産・三菱商事の解体を要求。

1950年 - 朝鮮戦争: 緒戦の敗北の責任をとって蔡秉徳韓国軍参謀総長が解任、
丁一権が後任となる。

1962年 - プラハで開催されていた第15回世界体操競技選手権で
日本の男子団体が初優勝を飾る。

1970年 - マンチェスターからバルセロナに向かって飛行中の
ダン・エア・サービスのDH106 コメットがバルセロナ近郊に墜落、乗員乗客112名全員が死亡。

1971年 - ばんだい号墜落事故、北海道横津岳に
東亜国内航空(現・日本航空インターナショナル)のYS-11ばんだい号が墜落。

1976年 - イスラエル軍がウガンダのエンデベ空港を奇襲、ハイジャックされた
エールフランス機の乗客を救出。

1985年 - 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がアメリカで劇場公開。

1988年 - アメリカ海軍のミサイル巡洋艦『ヴィンセンス』がホルムズ海峡で
イラン航空のエアバスA300B2型機を撃墜、乗員乗客290名が死亡。

1990年 - ベラルーシがソビエト連邦からの独立を宣言。1991年に承認される。

2003年 - 名古屋鉄道バス(現:名鉄バス)の岡崎営業所の無免許運転隠蔽事件発生。

2004年 - タイ王国初の地下鉄、バンコク・メトロが開通。

2005年 - 競馬のアメリカンオークスで、
日本のシーザリオがレースレコードタイムで優勝。日本調教馬が初の米国G1レース制覇

2006年- サッカー日本代表として活躍した中田英寿選手が
自身の公式サイトにて現役引退を発表した。

誕生日
1423年 - ルイ11世、フランス王(+ 1483年)

1442年(嘉吉2年5月25日) - 後土御門天皇、第103代天皇(+ 1500年)

1846年(弘化3年閏5月10日)-
和宮親子内親王、孝明天皇の妹・徳川家茂の正室(+ 1877年)

1854年 - レオシュ・ヤナーチェク、作曲家(+ 1928年)

1880年 - カール・シューリヒト、指揮者(+ 1967年)

1883年 - フランツ・カフカ、小説家(+ 1924年)

1887年 - 中村彝、洋画家(+ 1924年)

1924年 - S・R・ナザン、シンガポール大統領

1930年 - カルロス・クライバー、指揮者(+ 2004年)

1930年 - 深作欣二、映画監督(+ 2003年)

1934年 - 初代引田天功、奇術師(+ 1979年)

1935年 - 皆川睦雄、元プロ野球選手(+ 2005年)

1936年 - つのだじろう、漫画家

1943年 - 池乃めだか、お笑いタレント

1944年 - 浜中裕徳、官僚

1947年 - リエコ・イングリッシュ、プレイメイト

1950年 - ロザンナ・ザンボン(ヒデとロザンナ)、タレント
1954年 - 鈴木孝政、元プロ野球選手、野球解説者
1961年 - 石川浩司、ミュージシャン(元たま)
1962年 - トム・クルーズ、俳優
1963年 - 水沢めぐみ、漫画家
1964年 - 筒井巧、俳優、声優
1964年 - 吉田たかよし、元NHKアナウンサー、元自民党幹事長加藤紘一衆議院議員公設第一秘書、医学博士、ラジオパーソナリティ、コラムニスト、タレント
1965年 - 橋本真也、プロレスラー(+ 2005年)
1966年 - モイゼス・アルー、メジャーリーグ、野球選手
1969年 - 林家彦いち、落語家
1969年 - 大久保秀昭、元プロ野球選手
1970年 - 岡村隆史、お笑いタレント(ナインティナイン)
1970年 - 志倉千代丸、作曲家
1970年 - 永島由子、声優
1970年 - ショウニー・スミス、女優
1973年 - パトリック・ウィルソン、俳優
1976年 - つのだりょうこ、タレント
1976年 - ヴァンダレイ・シウバ、総合格闘家
1977年 - 勝杏里、声優
1978年 - 野口みずき、マラソン選手
1978年 - 大倉智之、歌手INSPiメンバー
1978年 - 柳沼愛子、アナウンサー
1979年 - 魁将龍邦昭、大相撲力士  
1979年 - 片山さゆり、歌手、女優
1979年 - 大沼幸二、プロ野球選手
1980年 - 中嶋譲、サッカー選手
1980年 - 西野亮廣、お笑いタレント(キングコング)
1980年 - ローランド・スクーマン、水泳選手、南アフリカ共和国
1981年 - 小林陽広、NHKアナウンサー
1981年 - 多田葵、声優
1981年 - 武田裕光、俳優
1982年 - 藤田一也、プロ野球選手
1982年 - 山下浩宜、元プロ野球選手
1983年 - 森靖隆、ファッションモデル
1984年 - 松本哲也、プロ野球選手
1984年 - 花村怜美、声優
1985年 - 大蔵淳子、女優
1985年 - 小林賢司、プロ野球選手
1986年 - 稀勢の里寛、大相撲力士 
1987年 - 原幹恵、美少女クラブ31
1987年 - セバスチャン・ベッテル、F1ドライバー
1988年 - チェ・ミョンホ、サッカー選手
1990年 - 伊藤涼太、ゴルファー 
1991年 - 板野友美、アイドル、AKB48(Aチーム)所属
1992年 - 須藤茉麻、アイドル、ハロー!プロジェクト(Berryz工房)所属
生年不詳 - 朝倉栄介、声優

忌日
1090年 - エクベルト2世、マイセン辺境伯(* 1059年頃)

1275年(建治元年6月9日)- 九条忠家、鎌倉時代の公卿(* 1229年)

1486年(文明18年6月2日)- 雪江宗深、臨済宗の僧(* 1408年)

1614年(慶長19年5月26日)- 松浦鎮信 (法印)、初代平戸藩主(* 1549年)

1642年 - マリー・ド・メディシス、フランス王アンリ4世の妃(* 1573年)

1704年(宝永元年6月2日)- 上杉綱憲、第4代米沢藩主(* 1663年)

1731年(享保16年5月29日)- 亀井茲親、第3代津和野藩主(* 1669年)

1753年(宝暦3年6月3日)- 閑院宮直仁親王、江戸時代の皇族(* 1704年)

1778年 - アンナ・マリア・モーツァルト、
作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの母(* 1720年)

1795年 - アントニョ・デ・ウリョーア、探検家・天文学者(* 1716年)

1837年(天保8年6月1日)- 生田万、国学者(* 1801年)

1856年(安政3年6月2日)- 戸田忠明、第5代宇都宮藩主(* 1839年)

1865年(慶応元年閏5月11日) - 武市瑞山、土佐勤王党盟主(* 1829年)

1887年 - クレー・アリソン、西部開拓時代の無法者(* 1840年)

1904年 - テーオドール・ヘルツル、シオニズム運動指導者(* 1860年)

1907年 - ハインリヒ・クロイツ、天文学者(* 1854年)

1908年 - ジョーエル・チャンドラー・ハリス、ジャーナリスト(* 1848年)

1910年 - 徳川昭武、第11代水戸藩主(* 1853年)

1914年 - ヘンリー・デニソン、外交官・お雇い外国人(* 1846年)

1916年 - ヘティ・グリーン、実業家・投資家(* 1834年)

1918年 - メフメト5世、第35代オスマン帝国スルタン(* 1844年)

1934年 - ハインリヒ・ツー・メクレンブルク、オランダ女王ヴィルヘルミナの王配(* 1876年)

1935年 - アンドレ・シトロエン、実業家・シトロエン社創業者(* 1878年)

1936年 - 相沢三郎、日本陸軍の中佐(* 1889年)

1939年 - 喜田貞吉、歴史学者(* 1871年)

1969年 - ブライアン・ジョーンズ、ミュージシャン(* 1942年)

1971年 - ジム・モリソン、ロック・ミュージシャン(* 1943年)

1973年 - カレル・アンチェル、指揮者(* 1908年)

1975年 - 前田陳爾、囲碁棋士(* 1907年)

1979年 - ルイ・デュレ、作曲家(* 1888年)

1984年 - 平井道子、女優・声優(* 1935年)

1993年 - 加藤楸邨、俳人(* 1905年)

1993年 - ドン・ドライスデール、メジャーリーグのプロ野球選手(* 1936年)

1994年 - ペティ・サロン、プロボクサー(* 1906年)

1994年 - ルー・ホード、テニス選手(* 1934年)

1995年 - 橘右近、落語家(* 1903年)

1995年 - パンチョ・ゴンザレス、テニス選手(* 1928年)

1996年 - 倉成正、元外務大臣(* 1918年)

1998年 - ジョージ・ロイド、作曲家(* 1913年)

2000年 - カツラギエース、競走馬(* 1980年)

2002年 - ミシェル・アンリ、思想家(* 1922年)

2003年 - ユーリ・シチェコチヒン、ジャーナリスト(* 1950年)

2006年 - 戸崎誠喜、実業家(* 1910年)

2006年 - 池田修一、将棋棋士(* 1945年)

2007年 - ブーツ・ランドルフ、サクソフォーン奏者(* 1927年)

記念日・年中行事
独立記念日(ベラルーシ)