東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月4日(金曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月4日(金曜日)

「7月」=夏です。もう「4日」経ちました。
あまりに時間の経つその早さに。
恐怖さえ感じます。

木々の若葉のいろ
緑がますますあざやかになり。
空の色も。
まさしくも
夏の「空色」になってきました。
ミルクのはいったコバルトのような
空色です。

あさの04:00AMころは。
ほのかにくらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリからトルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

夏をまつ大気からは。
「まだ本物の夏ではない」ことが
良くわかります。

池面の水にうきあつまりし
小さきかわいい若緑の水草あり
水面(みずおも)にうかび風にうきうごく
いざいまこそは
みどりよき季節にあらん
ふと空をみる

早朝(はやあさ)は
いまだはだのさむけれど
ぬくもりのあさ陽はありがたし
あゆむごと陽はたかくなりけり
葉木は樹木にかわりたり
そがみちをあかるくてらせ
あじさい花(はな)

あじさいの花にバトンタッチ。

道端の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

うめの実うめの木たわわなり
みどりぎいらかにかぜはやみ
なつかぜひるむやうつろひの
ひとのつきひもはやいくとせ

地にも木にも
みどりの葉ひらき
みどり木ときわ木ひろがりて
いふことのなし
いふことがなし
ゆたかなりけり夏

今年の春初夏の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「夏はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

-------------------------------

平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。

けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

「おおスザンナ」やその他有名な。
19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。
古きよき「合衆国USA」であった時期の作曲家。

1826年 - スティーブン・フォスター、
作曲家(+ 1864年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスター
(Stephen Collins Foster,
1826年7月4日〜1864年1月13日)は、
ヘンリ・クレイ・ワークと並んで。

19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する
歌曲作曲家です。

「アメリカ音楽の父」とも称されます。

++++++++++++++++++++++
スティーヴン・フォスターは
ペンシルヴァニア州ピッツバーグの隣町
ルイスヴィルで。

比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育ちました。

音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、
二十歳になるまでに
すでにいくつか歌曲を出版していました。

++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスターは
1846年にオハイオ州シンシナティに転居し
兄の蒸気船会社で簿記を務めました。

シンシナティ在住中に、
最初のヒット曲《おおスザンナ》を発表致しました。

これは1848年〜9年の
カリフォルニアのゴールド・ラッシュの
賛歌となりました。

1849年に出版された曲集
『フォスターのミンストレル・ソング集
Foster's Ethiopian Melodies』には。

「クリスティ・ミンストレルズ」
によってヒットした
《やさしいネリー" Nelly Was A Lady"》
が収録されています。

++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスターは
同年フォスターはペンシルヴァニアに戻って
コンサートを開きました。

クリスティ・ミンストレルズと共演致しました。
最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなりました。

1862年にニューヨーク市に転出致しました。

++++++++++++++++++++++
スティーヴン・フォスターの歌曲。

フォスター歌曲の多くは、
ミンストレル・ショーの伝統に則り、
時流に乗りました。
アフロ・アメリカンの音楽を単に「編曲」
してみせたというよりも。

白人向けに書かれた当時の楽曲には珍しいと
思いますが。

黒人奴隷の苦しみに共感を示した音楽の旋律を
かいてています。

白人作曲家として最初に
睦み合う黒人夫婦を描き出したのが
フォスターです。

++++++++++++++++++++++

これゆえにフォスターは、
とりわけフレデリック・ダグラスの称賛を
勝ち得ることになりました。

フォスターの歌曲はほとんどが
南部における日常を扱っているにもかかわらず、
フォスター自身は1852年に
新婚旅行でニューオーリンズを訪れたのを別とすれば。

南部で直接的な「合衆国USA」南部の生活経験
をしていないのです。

++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスターは。
フォスターは
プロの歌曲作家として生計を立てようとしており、
プロの作曲家と見なしてよいのですが・・。

当時は現代的な意味で
「作曲家」という職業分野は
「合衆国USA」では確立されてはいませんでした。

その結果、部分的には、
音楽著作権や作曲家の印税に対する配給の乏しさのため、
フォスターは自分の出版譜がもたらした利潤を
ほとんど受け取ることができませんでした。

複数の出版社がしばしば競合してフォスター作品の
独自の版を出しながら、
フォスターには報酬を与えなかったのです。

++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスター。

1862年初頭にフォスターの運は下降線をたどり始め
ました。
そうなると彼の新作歌曲の質も落ち始めました。

これは。
作詞を引き受けるようになったジョージ・クーパーとの
チームワークのせいでもあったかもしれません。

戦時経済も。
出版に向けてのフォスターの努力に災いしました。

++++++++++++++++++++++

フォスターはマンハッタンの
ノース・アメリカン・ホテルに滞在中に。

落ちぶれ果てて(所持金38セントしかない状態で)、
37歳で死去しました。

なきがらはペンシルヴァニア州ピッツバーグの
アレゲーニー墓地に埋葬されています。
生家は今でも解体されずに残っています。

++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスターの後世への影響

フォスター自身はクラシックの器楽曲を
ほとんど作曲していなせん。

後に
フォスターの歌曲は、ドヴォルザークによって
編曲されたり。
チャドウィックやアイヴズ、
NHK室内管弦楽団らの管弦楽曲に引用されるなど、
クラシック音楽の作曲家にも影響を及ぼしました。

++++++++++++++++++++++

スティーヴン・フォスターの
主な作品
おおスザンナ Oh, Susanna(1848年)
草競馬 Camptown Races (1850年)
ネリー・ブライ Nelly Bly (1850年)
故郷の人々(スワニー河)" Old Folks at Home (Swanee River) (1851年)
主は冷たい土の中に Massa's in De Cold Ground(1852年)
ケンタッキーのわが家 My Old Kentucky Home(1853年)
金髪のジェニー Jeannie With the Light Brown Hair (1854年)
すべては終わりぬ (厳しい時代はもうやって来ない)Hard Times Come Again No More (1854年)
オールド・ブラック・ジョー Old Black Joe (1860年)
夢路より(夢見る人) Beautiful Dreamer (1862年)
++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
スティーブン・フォスター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

スティーヴン・フォスター(Stephen Collins Foster, 1826年7月4日〜1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。「アメリカ音楽の父」とも称される。

ペンシルヴァニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育つ。音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していた。

1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船会社で簿記を務める。シンシナティ在住中に、最初のヒット曲《おおスザンナ》を発表。これは1848年〜9年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となった。1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集Foster's Ethiopian Melodies』には、「クリスティ・ミンストレルズ」によってヒットした《やさしいネリー" Nelly Was A Lady"》が収録されている。

同年フォスターはペンシルヴァニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなった。1862年にニューヨーク市に転出。

フォスター歌曲の多くは、ミンストレル・ショーの伝統に則り、時流に乗ったが、アフロ・アメリカンの音楽を単にカリカチュアしてみせたというよりも、白人向けに書かれた当時の楽曲には珍しく、黒人奴隷の苦しみに共感を示してみせている。白人作曲家として最初に、睦み合う黒人夫婦を描き出したのがフォスターである。これゆえにフォスターは、とりわけフレデリック・ダグラスの称賛を勝ち得ることになった。フォスターの歌曲はほとんどが南部における日常を扱っているにもかかわらず、フォスター自身は1852年に新婚旅行でニューオーリンズを訪れたのを別とすれば、南部で直接的な経験をしていない。

フォスターはプロの歌曲作家として生計を立てようとしており、プロの作曲家と見なしてよいのだが、当時は現代的な意味で「作曲家」という職業分野は確立されてはいなかった。その結果、部分的には、音楽著作権や作曲家の印税に対する配給の乏しさのため、フォスターは自分の出版譜がもたらした利潤をほとんど受け取ることができなかった。複数の出版社がしばしば競合してフォスター作品の独自の版を出しながら、フォスターには報酬を与えなかったのである。1862年初頭にフォスターの運は下降線をたどり始め、そうなると彼の新作歌曲の質も落ち始めた。これは、作詞を引き受けるようになったジョージ・クーパーとのチームワークのせいでもあったかもしれない。戦時経済も出版に向けてのフォスターの努力に災いした。

フォスターはマンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中に、落ちぶれ果てて(所持金38セントしかない状態で)、37歳で死去した。なきがらはペンシルヴァニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。

後世への影響
フォスター自身はクラシックの器楽曲をほとんど作曲していないが、
後にフォスターの歌曲は、ドヴォルザークによって編曲されたり、
チャドウィックやアイヴズ、NHK室内管弦楽団らの管弦楽曲に引用されるなど、
クラシック音楽の作曲家にも影響を及ぼした。

生家は今でも解体されずに残っている。

主な作品
おおスザンナ Oh, Susanna(1848年)
草競馬 Camptown Races (1850年)
ネリー・ブライ Nelly Bly (1850年)
故郷の人々(スワニー河)" Old Folks at Home (Swanee River) (1851年)
主は冷たい土の中に Massa's in De Cold Ground(1852年)
ケンタッキーのわが家 My Old Kentucky Home(1853年)
金髪のジェニー Jeannie With the Light Brown Hair (1854年)
すべては終わりぬ (厳しい時代はもうやって来ない)Hard Times Come Again No More (1854年)
オールド・ブラック・ジョー Old Black Joe (1860年)
夢路より(夢見る人) Beautiful Dreamer (1862年)

外部リンク
Stephen Collins Foster(英語)
フォスターの生涯・家族(日本語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: アメリカ合衆国の作曲家 | ピッツバーグ | 1826年生 | 1864年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月4日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%884%E6%97%A5

できごと
993年 - 聖ウルリッヒ列聖。

1054年 - 超新星の出現が観測される。
数カ月にわたり、日中でも確認できるほどの光を放った。その残滓が現在のかに星雲。

1187年 - ハッティンの戦い。サラーフッディーンによりエルサレム王国の十字軍が壊滅。

1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) -
鎌倉幕府が滅亡。新田義貞が鎌倉に攻め込み北条高時ら一族約800人が自刃。

1695年(元禄8年10月29日) -
徳川綱吉により生類憐れみの令の一環として大久保・四谷に犬小屋が作られ、
同時に住民が強制退去となる。

1776年 - アメリカ独立宣言公布。アメリカ合衆国がイギリスからの独立を宣言。1783年に承認される。
1802年 - ニューヨーク州ウェストポイントにアメリカ合衆国陸軍士官学校開校。
1818年 - インディアナ州・オハイオ州・テネシー州・ミシシッピ州・ルイジアナ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が20個に増やされる。
1819年 - イリノイ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が21個に増やされる。
1820年 - アラバマ州・メイン州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が23個に増やされる。
1822年 - ミズーリ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が24個に増やされる。
1836年 - アーカンソー州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が25個に増やされる。
1837年 - ミシガン州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が26個に増やされる。
1845年 - フロリダ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が27個に増やされる。
1846年 - テキサス州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が28個に増やされる。
1847年 - アイオワ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が29個に増やされる。
1848年 - ウィスコンシン州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が30個に増やされる。
1851年 - カリフォルニア州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が31個に増やされる。
1858年 - ミネソタ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が32個に増やされる。
1859年 - オレゴン州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が33個に増やされる。
1861年 - カンザス州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が34個に増やされる。
1862年 - チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)がヘンリー・ジョージ・リデルの娘三人と川遊びをする。その時にリデルの次女アリスの求めに応じドジソンの話した話が、後に手書き本『地下の国のアリス』(『不思議の国のアリス』の原型)となる。
1863年 - ウェストバージニア州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が35個に増やされる。
1865年 - ネバダ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が36個に増やされる。
1863年 - ネブラスカ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が37個に増やされる。
1877年 - コロラド州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が38個に増やされる。
1890年 - アイダホ州・サウスダコタ州・ノースダコタ州・モンタナ州・ワシントン州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が43個に増やされる。
1891年 - ワイオミング州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が44個に増やされる。
1896年 - ユタ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が45個に増やされる。
1908年 - オクラホマ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が46個に増やされる。
1912年 - アリゾナ州・ニューメキシコ州の合衆国加入を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が48個に増やされる。
1927年 - インドネシアでスカルノらがインドネシア国民同盟を結成する。
1927年 - ロッキード ベガが初飛行。
1934年 - ヘビー級プロボクサージョー・ルイスがプロデビュー。
1944年 - 太平洋戦争で、大本営が「インパール作戦」の中止を命令。日本軍10万人がほぼ全滅し撤退。
1946年 - 第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立。
1949年 - 物価統制令・銀行法違反の容疑で金融業『光クラブ』を手入れ。経営者の山崎晃嗣を逮捕。
1954年 - サッカー・ワールドカップで、西ドイツがハンガリーを3-2で下し初優勝。オハイオ州クリーブランドで、のちにドラマ「逃亡者」の原案となる、シェパード夫人殺害事件。
1960年 - アラスカ州の州昇格を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が49個に増やされる。
1960年 - ハワイ州の州昇格を受けてアメリカ国旗(星条旗)の星の数が50個に増やされる。
1970年 - トンガがイギリスより独立。
1991年 - 「T-2ブルーインパルス」が2機が宮城県金華山沖に墜落。
2000年 - 「T-4ブルーインパルス」が2機が宮城県牡鹿半島山中に墜落。
2007年 - グアテマラシティで開かれていた第119次IOC総会において2014年冬季オリンピックの開催地がロシアのソチに決定。

誕生日
1330年(元徳2年6月18日) - 足利義詮、室町幕府将軍(+ 1367年)

1767年(明和4年6月9日) - 曲亭馬琴、読本作者(+ 1848年)

1789年 - ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック、画家(+ 1869年)

1799年 - オスカル1世、スウェーデン王(+ 1859年)

1790年 - ジョージ・エベレスト、測地学者(+ 1886年)

1804年 - ナサニエル・ホーソーン、作家(+ 1864年)

1807年 - ジュゼッペ・ガリバルディ、イタリア王国の英雄(+ 1882年)

1810年(文化7年6月13日) - 徳川斉荘、田安家当主・尾張藩主(+ 1845年)

1826年 - スティーブン・フォスター、作曲家(+ 1864年)

1858年(安政5年5月24日)- 徳川義宜、第16代尾張藩主(+ 1875年)

1872年 - カルビン・クーリッジ、アメリカ合衆国大統領(+ 1933年)

1900年 - 中谷宇吉郎、物理学者・随筆家(+ 1962年)

1902年 - マイヤー・ランスキー、ギャング(+ 1983年)

1910年 - グロリア・スチュアート、アメリカの女優

1916年 - アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノ、アナウンサー

1926年 - アルフレッド・ディ・ステファノ、サッカー選手

1927年 - ニール・サイモン、劇作家・脚本家

1930年 - 岩崎寛弥、実業家

1930年 - ジョニー・サクストン、プロボクサー

1938年 - ビル・ウィザース、シンガーソングライター

1950年 - 竹田和史、元プロ野球選手
1953年 - おりも政夫、フォーリーブス
1957年 - 真野あずさ、女優
1960年 - みず谷なおき、漫画家(+ 1999年)
1963年 - 大杉君枝、アナウンサー(+ 2007年)
1963年 - ウテ・レンパー、シャンソン歌手
1964年 - 西川浩幸、俳優
1969年 - ヒロコ・グレース、女優
1971年 - 中原果南、女優
1972年 - ケンドーコバヤシ、お笑いタレント
1973年 - 井原慶子、レーサー
1973年 - アンジェリカ・クリロワ、フィギュアスケート選手
1974年 - 佐ノ山親方、元小結闘牙
1975年 - 中川貴志、お笑いタレント(ランディーズ)
1976年 - 加藤大治郎、レーサー(+ 2003年)
1976年 - 伊澤一葉、ミュージシャン
1978年 - 村田雄介、漫画家
1978年 - ユーキあきら、漫画家
1980年 - 新井里美、声優
1981年 - 石井裕也、プロ野球選手(横浜ベイスターズ)
1983年 - アーニャ・スパソイエビッチ、バレーボール選手
1984年 - 赤西仁、KAT-TUN
1984年 - 吉田圭、プロ野球選手(広島東洋カープ)
1984年 - 仲川希良、ファッションモデル
1985年 - 扇愛奈、シンガーソングライター
1986年 - 増田貴久、NEWS
1986年 - あびる優、アイドル
1987年 - 松井絵里奈、グラビアアイドル
1988年 - 中島唯、タレント
1989年 - 石田良輔、サッカー選手(大分トリニータ)
1990年 - 清浦夏実、女優
1991年 - 倉田みな、アイドル・歌手
1992年 - 前野るみえ、芸能人女子フットサル選手(FANTASISTA)
非公開 - 中村由利、アーティスト(GARNET CROW)
非公開 - Gackt、ミュージシャン、俳優(公称1540年生まれ)

忌日
966年 - ベネディクトゥス5世、第132代ローマ教皇

1187年 - ルノー・ド・シャティヨン、十字軍の騎士(* 1125年頃)

1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) -
北条基時、鎌倉幕府第13代執権(* 1286年)

1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) -
北条高時、鎌倉幕府第14代執権(* 1303年)

1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) -
北条貞顕、鎌倉幕府第15代執権(* 1278年)

1336年(建武3年/延元元年5月25日) - 楠木正成、武将(* 1294年)

1336年(建武3年/延元元年5月25日) - 楠木正季、武将

1541年 - ペドロ・デ・アルバラード、探検家(* 1485年)

1582年(天正10年6月15日)- 明智秀満、戦国武将(* 1536年?)

1603年 - フィリップ・デ・モンテ、作曲家(* 1521年)

1623年 - ウィリアム・バード、作曲家(* 1540年?)

1696年(元禄9年6月6日)- 稲葉正則、江戸幕府老中・小田原藩主(* 1623年)

1755年(宝暦5年5月25日)- 平田靱負、薩摩藩家老(* 1704年)

1761年 - サミュエル・リチャードソン、小説家(* 1689年)

1780年 - カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン、
スペイン領ネーデルラント総督(* 1712年)

1826年 - ジョン・アダムズ、第2代アメリカ合衆国大統領(* 1735年)

1826年 - トーマス・ジェファーソン、第3代アメリカ合衆国大統領(* 1743年)

1831年 - ジェームズ・モンロー、第5代アメリカ合衆国大統領(* 1758年)

1831年(天保2年5月25日)- 井伊直中、第14代彦根藩主(* 1766年)

1841年(天保12年5月16日)- 池田斉訓、第9代鳥取藩主(* 1820年)

1848年 - フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、作家・政治家(* 1768年)

1861年(文久元年5月27日)- 阿部正教、第8代備後福山藩主(* 1840年)

1888年 - テオドール・シュトルム、小説家(* 1817年)

1891年 - ハンニバル・ハムリン、第15代アメリカ合衆国副大統領(* 1809年)

1901年 - ヨハネス・シュミット、言語学者(* 1843年)

1902年 - エルヴェ・フェイ、天文学者(* 1814年)

1902年 - ヴィヴェーカーナンダ、ヨーガ・ヴェーダーンタ学派指導者(* 1862年)

1903年 - 響舛市太郎、元大相撲力士、関脇(* 1859年)

1910年 - ジョヴァンニ・スキアパレッリ、天文学者(* 1835年)

1922年 - ロタール・フォン・リヒトホーフェン、エース・パイロット(* 1894年)

1926年 - シャルル・ルルー、作曲家(* 1851年)

1931年 - エマヌエーレ・フィリベルト (アオスタ公)(* 1869年)

1934年 - マリ・キュリー、化学者(* 1867年)

1934年 - ハイム・ナフマン・ビアリク、ヘブライ語詩人(* 1873年)

1938年 - スザンヌ・ランラン、テニス選手(* 1899年)

1939年 - ルイス・ウェイン、画家(* 1860年)

1943年 - ヴワディスワフ・シコルスキ、ポーランド亡命政府首相(* 1881年)

1956年 - 三木武吉、政治家(* 1884年)

1956年 - 佐藤垢石、随筆家(* 1888年)

1962年 - トーマス・シー、天文学者(* 1866年)

1969年 - アーウィン・ブルーメンフェルド、写真家(* 1897年)

1970年 - バーネット・ニューマン、美術家(* 1905年)

1971年 - オーガスト・ダーレス、小説家(* 1909年)

1976年 - 石原謙、キリスト教神学者(* 1882年)

1980年 - グレゴリー・ベイトソン、
人類学・言語学・社会学・サイバネティックス研究者(* 1904年)

1981年 - 木村功、俳優(* 1923年)

1987年 - ベンクト・ストレームグレン、天体物理学者(* 1908年)

1988年 - アドリアン・アドニス、プロレスラー(* 1953年)

1992年 - アストル・ピアソラ、バンドネオン奏者(* 1921年)

1993年 - ロマン・カチャーノフ、アニメーション監督(* 1921年)

1995年 - ボブ・ロス、アメリカの画家(* 1942年)

1999年 - 土田國保、元警視総監(* 1922年)

2000年 - 植田正治、写真家(* 1913年)

2001年 - 江川卓、ロシア文学者(* 1927年)

2002年 - ローラン・シュワルツ、数学者(* 1915年)

2002年 - 伊東一雄(パンチョ伊東)、
パシフィック・リーグ元広報部長・野球解説者(* 1934年)

2003年 - アルミン・モーラー、評論家・思想史家(* 1920年)

2003年 - バリー・ホワイト、ソウルミュージック歌手・音楽プロデューサー(* 1944年)

2005年 - トーマス・カクシュカ、ヴィオラ奏者(* 1940年)

2006年 - 和田耕作、政治家(* 1907年)

2006年 - ラーシュ・コルヴァール、元ノルウェー首相(* 1916年)

2007年 - 飯田深雪、料理研究家(* 1903年)

2007年 - 児玉幸多、歴史学者(* 1909年)

記念日・年中行事
アメリカ合衆国独立記念日
ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権 -
毎年アメリカ独立記念日にちなんで開催されるホットドッグの早食い大会。

梨の日