東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月5日(土曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月5日(土曜日)

「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」も「5日」たちました。
早いです。早いものです。

木々の若葉のいろ。
緑がますますあざやかになり
深緑(ふかみどり)になりました。

まさしく空は
夏ばれの「空色」になってきました。
けれども。
朝暗いうちはミルクのはいったコバルトのような
カフエ・オレの空色です。

あさの03:30AMころは東の空
ほのかにあかるく
くらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
にうつろうように。
しらんできます。

野路はたにわらびのごと
ビロードの如し葉いずる
名知らぬしのぶしだありて
めずらしき
いざいまこそは
こころよき季節にあらん
ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に「日はたかくなり
葉木の樹木は「木」にかわり
ました。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のように
つみとりたくなる
ほどにきれいです。

街(まち)深緑にいろどりて
木々のわか葉かがやけり
星あおき夏のちかからむ
いまだみどりはやわらかし

道端の初夏の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

今年の初夏の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

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平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
チエンバロという楽器を「復活」させた
名ピアニスト。
そして
チエンバロ奏者かつチエンバロ製作者として
有名な。

そして
「ポール・モーリア」に「チエンバロ」
の奏者となる機会を与え。

(「ポールモーリア」の
「甘いメロデイ」には必ず「オーケストレーション」
にバックコーラスの如くチエンバロのメロディ
が登場する。)

1879年 - ワンダ・ランドフスカ、
チェンバロ奏者・ピアニスト(+ 1959年)
の生誕日です。
+++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカ(Wanda Landowska,
1879年7月5日:ワルシャワ - 1959年8月16日:
コネチカット州レイクヴィル)は。

ポーランド出身の
偉大なチェンバロ奏者、ピアニストです。

実にワンダ・ランドフスカは
彼女は忘れられた楽器となっていたチェンバロを、
20世紀に復活させた業績をもつ立役者です。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカの生涯

4歳のころからピアノを始めました。
その後、
ワルシャワ音楽院に進学しピアノの勉強を続けました。

13歳の時にバッハの作品を連ねた
リサイタルでデビュー致しました。

19歳の時にはベルリンで対位法の勉強を進める傍らで。
モーリッツ・モシュコフスキに師事し。
作曲の勉強も行いました。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカは
21歳の時、パリのスコラ・カントルムに招かれ教鞭をとります。

同年にヘブライ民族の音楽の研究者だった
アンリ・ルーと結婚し致しました。

彼の影響でチェンバロに関心を持つようになります。

やがてチェンバロの復活と普及に力を注ぐことになりました。

++++++++++++++++++++++

24歳になったワンダ・ランドフスカは
1903年にチェンバリストとしてデビュー
致します。

翌1904年にはチェンバロによるバッハ演奏会を開きました。
以後ワンダ・ランドフスカは
チェンバロでのバッハ演奏のスペシャリストとして
名を挙げることとなりました。

++++++++++++++++++++++

かねてから自分の理想とするチェンバロの構想を練っていた
ランドフスカは。

プレイエル社にその構想を持ち込みました。

1912年にこの「ランドフスカ設計の近代チェンバロ」

ブレスラウ音楽祭でお披露目され、
大反響を呼びました。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカは
1913年からはベルリン高等音楽院で教鞭をとりました。

けれども
間もなく起こった第一次世界大戦では民間人捕虜となり、
さらに大戦終結後には
夫アンリ・ルーを自動車事故で亡くすなど、
厳しい時期を過ごしました。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカ
1925年、パリ郊外
サン・ルー・ラ・フォレに古典音楽学校を開設しました。

バロック音楽に関する教育を幅広く行いました。

ワンダ・ランドフスカは
1923年にアメリカデビューを果たすなど。
その後もチェンバリストと教育者の両方で活躍致します。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカは
1939年の第二次世界大戦の影響により、
学校や楽器・楽譜などを残したまま
アメリカに脱出(脱出直後にドイツ軍にことごとく接収され
てしまいた)。

1941年にアメリカの市民権を取得致します。

++++++++++++++++++++++
ワンダ・ランドフスカは。

アメリカに移住後も演奏活動を続けました。

けれども。
老境に差し掛かっていたこともあり。

次第に演奏活動よりも
録音活動の方に活動の重きを置きました。

1954年にニューヨークでラストリサイタルを開いた後、
余生を個人レッスンに充て、
1959年8月16日にレイクヴィルの自宅で亡くなりました。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカは。

演奏スタイル、録音活動など
ランドフスカの演奏スタイルは、
現代のチェンバリストのそれと比べると。

現在の観点では幾分古めかしさを感じる部分があります。

それでもチェンバロの裾野を大きく広げた先
駆者の演奏として決して無視できないものが
あります。

チェンバロを使った
バッハの「平均律クラヴィーア曲集」や
「ゴルトベルク変奏曲」などの諸作品の録音は。

ランドフスカと入れ替わるように台頭してきた
グレン・グールドらの非常に名高いバッハ録音とは
趣が全く異なります。

けれどもそこには。
決して引けを取らないものがあります。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカは
また、バッハ以外でもハイドンやモーツァルト、
また当時の現代音楽の一員である
マヌエル・デ・ファリャやフ
ランシス・プーランクの作品演奏や録音でも
高い評価を得ていました。

ワンダ・ランドフスカは
モーツァルト演奏ではもちろんピアノを使用しました。

ピアニストとしても決して技術や表現が
劣ることがありませんでした。

またモーツァルトのピアノ協奏曲のために
カデンツァも何曲か作曲しています。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカ

もっとも、
音やわずかに残された映像では判断できないのですが。
実演では時々「派手なアクション」を披露していたということです。

それをたまたま見ていたアルトゥーロ・トスカニーニは。

ランドフスカの演奏自体は高く評価したものの
そのアクションを嫌いました。

ランドフスカから共演の申し込みがあったときに
は「魅惑的なマダム、共演なんて大それたことを言わず、
幸せに生きてください」
と丁重に共演を断ったエピソードもあるそうです。

++++++++++++++++++++++

ワンダ・ランドフスカは
録音は主に戦前の分はEMI、
戦後はRCAを中心に残しています。

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「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ワンダ・ランドフスカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB

ワンダ・ランドフスカ(Wanda Landowska,
1879年7月5日:ワルシャワ - 1959年8月16日:コネチカット州レイクヴィル)は、
ポーランド出身の偉大なチェンバロ奏者、ピアニスト。
彼女は忘れられた楽器となっていたチェンバロを、20世紀に復活させた立役者である。

生涯
4歳のころからピアノを始める。その後、ワルシャワ音楽院に進学し
ピアノの勉強を続ける。
13歳の時にバッハの作品を連ねたリサイタルでデビュー。
19歳の時にはベルリンで対位法の勉強を進める傍らで、
モーリッツ・モシュコフスキに師事し作曲の勉強も行う。

21歳の時、パリのスコラ・カントルムに招かれ教鞭をとる。
同年にヘブライ民族の音楽の研究者だったアンリ・ルーと結婚し、
彼の影響でチェンバロに関心を持つようになり、
やがてチェンバロの復活と普及に力を注ぐことになる。

24歳になった1903年にチェンバリストとしてデビュー。
翌1904年にはチェンバロによるバッハ演奏会を開き、
以後チェンバロでのバッハ演奏のスペシャリストとして名を挙げることとなる。

かねてから自分の理想とするチェンバロの構想を練っていたランドフスカは、
プレイエル社にその構想を持ち込む。
1912年、ランドフスカ設計の近代チェンバロが
ブレスラウ音楽祭でお披露目され、大反響を呼ぶ。
1913年からはベルリン高等音楽院で教鞭をとるが、
間もなく起こった第一次世界大戦では民間人捕虜となり、
さらに大戦終結後には夫アンリ・ルーを自動車事故で亡くすなど、
厳しい時期を過ごした。

1925年、パリ郊外サン・ルー・ラ・フォレに古典音楽学校を開設し、
バロック音楽に関する教育を幅広く行った。

1923年にアメリカデビューを果たすなど、
その後もチェンバリストと教育者の両方で活躍したが、
1939年の第二次世界大戦の影響により、
学校や楽器・楽譜などを残したままアメリカに脱出(脱出直後にドイツ軍にことごとく接収された)。
1941年にアメリカの市民権を取得する。

アメリカに移住後も演奏活動を続けたが、
老境に差し掛かっていたこともあり、次第に演奏活動よりも
録音活動の方に活動の重きを置いた。

1954年にニューヨークでラストリサイタルを開いた後、
余生を個人レッスンに充て、
1959年8月16日にレイクヴィルの自宅で亡くなった。

演奏スタイル、録音活動など
ランドフスカの演奏スタイルは、現代のチェンバリストのそれと比べると
現在の観点では幾分古めかしさを感じる部分があるが、
それでもチェンバロの裾野を広げた先駆者の演奏として決して無視できないものがある。

チェンバロを使ったバッハの「平均律クラヴィーア曲集」や
「ゴルトベルク変奏曲」などの諸作品の録音は、
ランドフスカと入れ替わるように台頭してきた

グレン・グールドらの非常に名高いバッハ録音とは趣が異なりつつ、
決して引けを取らないものである。

また、バッハ以外でもハイドンやモーツァルト、
また当時の現代音楽の一員である
マヌエル・デ・ファリャやフランシス・プーランクの作品演奏や録音でも高い評価を得ていた。

モーツァルト演奏ではもちろんピアノを使用したが、
ピアニストとしても決して技術や表現が劣ることがなく、
またモーツァルトのピアノ協奏曲のためにカデンツァも何曲か作曲している。

もっとも、音やわずかに残された映像では分からないことではあるが、
実演では時々派手なアクションを披露していたという。
それをたまたま見ていたアルトゥーロ・トスカニーニは
ランドフスカの演奏自体は高く評価したもののそのアクションを嫌い、
ランドフスカから共演の申し込みがあったときに
は「魅惑的なマダム、共演なんて大それたことを言わず、幸せに生きてください」
と丁重に共演を断ったエピソードもある。

録音は主に戦前の分はEMI、戦後はRCAを中心に残している。

参考文献
渡邊学而「ワンダ・ランドフスカ 埋もれていたチェンバロを今世紀に復権させバロック音楽演奏史に大きな足跡を残した」『続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年。
志鳥栄八郎「志鳥栄八郎のディスク手帖連載第39回」『レコード芸術 1998年4月号』音楽之友社、1998年。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月5日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%885%E6%97%A5

できごと
1610年 - ジョン・ガイが39人の入植者と共にニューファンドランド島へ向けてブリストルを出航。

1811年 - ベネズエラがスペインからの独立を宣言。1821年に承認される。

1884年 - カメルーン全土がドイツの勢力下に置かれる。

1886年 - 東京電燈会社が開業。

1924年 - 第8回夏季オリンピック、パリオリンピック大会が開幕、初めてオリンピック村を設置。

1935年 - アメリカで労働者の団結権・団体交渉権を保証する「ワグナー法」が成立。

1936年 - 陸軍軍法会議が磯部浅一ら二・二六事件の軍関係者17人に死刑判決。

1943年 - 第二次世界大戦: クルスクの戦い始まる。8月27日まで。

1946年 - ルイ・レアールが「世界一小さな水着」ビキニを発表。

1946年 - 原爆投下直後の写真3点が『夕刊ひろしま』に初掲載。

1949年 - 下山定則国鉄総裁が失踪、翌7月6日に死体発見(下山事件)

1950年 - 朝鮮戦争: 烏山の戦い。

1950年 - 萬代屋(現在のバンダイ)設立。

1962年 - アルジェリアがフランスより独立。

1963年 - 中華人民共和国の鄧小平総書記とソ連のフルシチョフ首相が会談
、イデオロギー論争で対立し7月20日に会談決裂。

1966年 - インドネシアのスカルノが終身大統領の称号を剥奪。
スハルト陸相が大統領代行に就任。

1972年 - 荒井由実(後の松任谷由実)がシングル
『返事はいらない/空と海の輝きに向けて』でデビュー。

1973年 - ジュベナール・ハビャリマナがルワンダの第3代大統領に就任。

1975年 - カーボベルデがポルトガルより独立。

1978年 - 農林省を農林水産省に改称。      

1986年 - 原動機付自転車にヘルメット着用を義務づけ。

1996年 - 世界初のクローン羊『ドリー』がスコットランドで生まれる。

2003年 - 沖縄中2集団リンチ殺害事件。中学3年生の4人グループが
後輩1人をリンチして死なせる。

2003年 - モスクワ郊外のコンサート会場でチェチェン独立派テロリストによる
爆破テロ事件発生。市民14人が死亡。

2003年 - 映画『バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】』公開

2005年 - 郵政民営化関連法案衆議院本会議で可決される。

2006年 - 北朝鮮から日本海に向けて
テポドン2号、ノドン、スカッドとみられるミサイルが午前3時過ぎから
午後5時過ぎの間にかけて計7発が発射される。

誕生日
1755年 - サラ・シドンズ、女優(+ 1831年)

1782年(天明2年5月25日)- 会沢正志斎、水戸藩士・儒学者・経世家(+ 1863年)

1793年 - パーヴェル・ペステリ、デカブリストの乱指導者(+ 1826年)

1810年 - P・T・バーナム、興行師(+ 1891年)

1853年 - セシル・ローズ、政治家(+ 1902年)

1879年 - ドワイト・フィリー・デイヴィス、第49代アメリカ合衆国陸軍長官(+ 1945年)

1879年 - ワンダ・ランドフスカ、チェンバロ奏者・ピアニスト(+ 1959年)

1884年 - 清瀬一郎、政治家、元衆議院議長(+ 1967年)

1889年 - ジャン・コクトー、作家・詩人(+ 1963年)

1900年 - 山階芳麿、鳥類学者(+ 1989年)

1904年 - エルンスト・マイヤー、生物学者(+ 2005年)

1907年 - エセル・スミス、陸上競技選手(+ 1979年)

1911年 - ジョルジュ・ポンピドゥ、フランス大統領(+ 1974年)

1929年 - 大塚周夫、俳優・声優

1929年 - 本間長世、政治学者・思想史家

1932年 - 寺瀬今日子、声優

1938年 - 金城哲夫、脚本家(+ 1976年)

1941年 - 仲本工事、コメディアン

1946年 - ゲラルド・トフーフト、物理学者

1947年 - 水戸岡鋭治、工業デザイナー・イラストレーター

1949年 - 川藤幸三、元プロ野球選手

1950年 - ヒューイ・ルイス、ミュージシャン
1951年 - 藤圭子、歌手
1956年 - リチャード・ランス、元プロ野球選手
1957年 - ジェームス・ティリス、プロボクサー
1961年 - 日渡早紀、漫画家
1963年 - 水野有平、作曲家
1963年 - 寺沢功一、ミュージシャン
1966年 - 江本晃一、元プロ野球選手
1967年 - 八神ひろき、漫画家
1967年 - 弓長起浩、元プロ野球選手
1968年 - 赤松健、漫画家
1968年 - アンディ先生、マジシャン
1972年 - ワッキー、ペナルティ
1973年 - 小杉竜一、ブラックマヨネーズ
1975年 - エルナン・クレスポ、サッカー選手
1975年 - 杉山愛、プロテニス選手
1975年 - 立川祐路、レーシングドライバー
1976年 - ヌーノ・ゴメス、サッカー選手
1977年 - 細川桃仁、女優
1977年 - ニコラス・キーファー、プロテニス選手
1977年 - 長浜之人、お笑い芸人(キャン×キャン)
1978年 - The石原、コメディアン
1978年 - 曽田雄志、サッカー選手
1978年 - 伊藤雅子、お笑い芸人
1979年 - アメリ・モレスモ、プロテニス選手
1979年 - ダビッド・ビスバル、歌手
1981年 - 将、ミュージシャン(アリス九號.)
1982年 - 一場靖弘、プロ野球選手
1982年 - アルベルト・ジラルディーノ、サッカー選手
1982年 - 伊東怜、元AV女優
1983年 - 鄭潔、中国の女子プロテニス選手
1984年 - 山田優、タレント
1985年 - 野田洋次郎、ミュージシャン(RADWIMPS)
1988年 - 植村祐介、プロ野球選手
1989年 - 唐川侑己、プロ野球選手
1992年 - 佐久間大介、ジャニーズJr.、Jr.BOYSのメンバー
1996年 - ドリー、クローン羊(+ 2003年)
生年不明 - 永野のりこ、漫画家
生年不明 - 瑠沢るか、漫画家

忌日
1795年(寛政7年5月19日) - 長谷川平蔵、火付盗賊改役(* 1745年)

1913年 - 有栖川宮威仁親王、日本の皇族・海軍軍人(* 1862年)

1969年 - ヴァルター・グロピウス、建築家(* 1883年)

1969年 - ヴィルヘルム・バックハウス、ピアニスト(* 1884年)

1985年 - 黒沼健、小説家(* 1902年)

1991年 - 中村伸郎、俳優(* 1908年)

1992年 - 近江俊郎、歌手(* 1918年)

1995年 - 福田赳夫、第67代内閣総理大臣(* 1905年)

2000年 - たかもちげん、漫画家(* 1949年)

2002年 - テッド・ウィリアムス、元メジャーリーガー(*1918年)

2003年 - 桜内義雄、第67代衆議院議長(* 1912年)

2006年 - 松村彦次郎、俳優(* 1927年)

2006年 - ドン・ラッシャー、ジャズトロンボーン奏者(* 1923年)

記念日・年中行事
独立調印記念日(ベネズエラ)

ビキニスタイルの日 - 1946年に世界で最初のビキニスタイルの
水着がフランスで発表されたことに由来