東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月11日(金曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月11日(金曜日)

「7月」=夏です。もう「11日」経ちました。
あまりに時間の経つその早さに。
恐怖さえ感じます。

木々の若葉のいろは深緑に。
緑がますますあざやかになり。

空の色も。
まさしくも
夏の「空色」になってきました。
ミルクのはいったコバルトのような
空色です。

あさの04:00AMころは。
ほのかにくらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリからトルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

夏をまつ大気からは。
まぢかいけれども。
「まだ本物の夏ではない」ことが
良くわかります。

池面の水に小さき小さき若緑の水草
うきつあつまりつうかびうごく
水面(みずおも)にて風とあそびぬ
いざいまこそは
みどりよき季節にあらん
水面(みずおも)にふと空をみる

早朝(はやあさ)は
いまだはだのさむけれど
ぬくもりのあさ陽のありがたき
あゆむごと陽はたかくなりけり
葉木は樹木にかわりたり
そがみちをあかるくてらせ
夏をいだく花みどり

道端の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

うめの実うめの木たわわなり
みどりぎいらかにかぜはやみ
なつかぜひるむやうつろひの
ひとのつきひもはやいくとせ

地にも木にも
みどりの葉ひらき
みどり木ときわ木ひろがりて
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
ゆたかなりけり夏

今年の春初夏の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「夏はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

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平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機。
1962年 - 日本初の国産旅客機YS-11が完成
した日です。

機種名であるYS-11の「YS」は輸送機設計研究協会の
「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったものです。
「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補の番号。
実際に選定された「ダート10」の番号は「1」でした。
後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で
主翼の位置や面積によって数案が検討されていました。
「ワイエス・いちいち」が本名です。

++++++++++++++++++++++

運用状況:現役
表示YS-11は、日本航空機製造が製造した
双発ターボプロップエンジン方式の旅客機です。

第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機です。

正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、
一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」
と呼ばれることが多いです。

時刻表ではおもにYS1またはYSと表記されていました。
全日本空輸の便では
愛称『オリンピア』の頭文字Oで表記される場合が多かった
ものです。

++++++++++++++++++++++

名称
機種名であるYS-11の「YS」は輸送機設計研究協会の
「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったものです。

「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補の番号です。

実際に選定された「ダート10」の番号は「1」でした。

後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で
、主翼の位置や面積によって数案が検討されていました。
機体仕様案の中には第0案もあったとうです。

こうした命名の経緯もあって、
当初、関係者のあいだでは
「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、
いつしか、「ワイエス・じゅういち」と
呼ばれるようになりました。

++++++++++++++++++++++

木材で設計通りに作った飛行機(モックアップ)を展示して
一般の人々に紹介したことがありました。

そのときのキャッチフレーズが
「横浜・杉田で11日に会いましょう」。

これはYに横浜、Sに杉田、
11に合わせて公開日を11日にした
ジョークの一種であるが、これによって
名前の由来を誤解させてしまうことともなりました。

このモックアップを作るのにかかった費用は
5500万円(当時)で、
点滅ランプの機構が用意できなかったため、
担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていました。

++++++++++++++++++++++

国産旅客機計画

ダグラスDC-31952年(昭和27年)に
日本が連合国の占領下から再独立し、GHQ SCAPによる
日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、
日本の航空路線は、ダグラスDC-3やDC-4、コンベア440などの
アメリカ合衆国製やデハビランド DH.114 ヘロンなど
イギリス製の航空機が占めていました。

日本製の航空機を再び飛ばしたいというのは、
多くの航空関係者の望むところでした。

++++++++++++++++++++++

1957年(昭和32年)に
日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が
全面解除される事を見越し。
1956年(昭和31年)に通商産業省(現・経済産業省)の主導で
国産民間機計画が打ち出されました。

翌年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた
「財団法人 輸送機設計研究協会」
(通称「輸研」)が設立されて、
小型旅客輸送機の設計が始まりました。

++++++++++++++++++++++

輸研には、
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した
新三菱の堀越二郎、
中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、
川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した
新明和の菊原静男、
川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した
川崎の土井武夫といった、
戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭しました。

航空業界ではこれに航研機を設計した木村教授を加えて
「五人のサムライ」と
呼ばれています。

++++++++++++++++++++++

日航製設立
モックアップ公開後、
日本政府主導で設立された日本航空機製造 (NAMC)
に開発が引き継がれました。

「五人のサムライ」は
実機製作には携わらないと宣言したため。

1960年(昭和35年)からの実機製作は
三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられました。

東條は父親で陸軍大臣や首相を歴任した東條英機の勧めで
軍人ではなく技術者を目指し、
かつて
堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていました。

++++++++++++++++++++++
中型輸送機開発を正式に決定すると、
アメリカのコンベアやオランダのフォッカー、
イギリスのBACなど欧米の航空機メーカーが
自社との共同開発、もしくは
自社機のライセンス生産への参画
(つまり独自開発の計画中止)を求めて殺到しました。

これらの企業はみな
DC-3の後継となる機体の開発計画を持っており。
競合機種が増えることを望まなかったからです。

特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の
規模が競合するためにしつこく食い下がってきたが、
これらを通産省はすべて一蹴しました。

++++++++++++++++++++++

機体製造
機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように
真円部分を長く設計されましした。
主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている
時間が長くなる事を考え、
胴体の下に翼がつく低翼に。
また、地方空港を結ぶことを目的としたため、
1200m級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。

製造は新三菱重工(現三菱重工業)、
川崎航空機(現川崎重工業)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、
昭和飛行機、住友精密工業の7社が分担し、
最終組み立てを三菱の小牧工場が担当しました。

++++++++++++++++++++++
各社の分担内容は以下のとおりである。

三菱(分担率: 54.2 %) - 前部胴体、中部胴体、
川崎 (25.3 %) - 主翼、エンジンナセル(エンジンの覆い)
富士 (10.3 %) - 胴体先頭、圧力隔壁、垂直尾翼、水平尾翼
日飛 (4.9 %) - 床板、補助翼、フラップ
新明和 (4.7 %) - 後部胴体、翼端、ドーサルフィン(垂直尾翼前方の安定翼)
昭和 (0.5 %) - 操縦席、主翼前縁
住友 (0.1%) - 降着装置

++++++++++++++++++++++

エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため自国での開発を諦めました。
方式としては、当時主流になりつつあった
ターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、
プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、
当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)
電子機器もほぼ全て海外製品を輸入しました。

当時、国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材は
アメリカのアルコア社から購入しました。
++++++++++++++++++++++

記録
YS-11は以下の記録を持っています。

定時出発率
エアーニッポンで使用していたYS-11は、
1997年(平成9年)に定時離陸率99.6 - 99.8パーセント、
日本エアコミューターで運航されていた
YS-11も2004年(平成16年)に
定時出発率91.8パーセントを達成しています。

これは世界の最新鋭飛行機でもなかなか達成できない数字です。

飛行時間と飛行サイクル

YS-11 JA8717(2005年7月15日、鹿児島空港にて)
日本エアコミューターで使用されていた登録番号JA8717
(製造番号2092)の機体は、登録されたのが
1969年(昭和44年)2月で、
2006年(平成18年)9月11日までの総飛行時間は
71,220時間47分、
総飛行サイクルは72,359回と世界一の記録となっています。

このことからもYS-11の頑丈さがわかる。
またこの機体は一時日本航空にリースされて
唯一日本航空のフルカラーとなり、
福岡 - 釜山線の定期国際線運航経験を持つ唯一の機体です。

++++++++++++++++++++++
因みに。

2004年(平成16年)9月には、
台風により伊丹空港で
垂直尾翼の方向舵や補助翼が脱落するなどの被害を受け、
かなり大掛かりな修理が必要になりました。

これが他の機体であればそのまま
部品取りにしていたところでした。

8717の実績と歴史的価値によって修理が決行され、
ラインには同年10月に復帰しました。

この機体は2006年(平成18年)9月11日、
YS-11の日としている最後の日に、
奄美〜鹿児島線のチャーター便を最後に、
37年もの間一度の事故も起こすことなく
有終の美を飾りました。

後、9月12日に
羽田へフェリーされフィリピンの
アボイティズ航空へ売却され
ました。

++++++++++++++++++++++

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++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
YS-11
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/YS-11

NAMC YS-11

日本エアコミューター機、徳島空港にて

用途:旅客機
製造者:日本航空機製造
運用者:more
国土交通省航空局
航空自衛隊(運用中)
海上自衛隊(運用中)
海上保安庁(運用中)
全日本空輸
エアーニッポン
日本航空
東亜国内航空
南西航空
日本エアコミューター
大韓航空
ピードモント航空
オリンピック航空
VASP航空
ほか
初飛行:1962年8月30日
生産数:182機
運用開始:1965年3月30日
退役:2006年9月30日(日本国内)
運用状況:現役
表示YS-11は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機。第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。正式な読み方は「ワイエスいちいち」だが、一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれることが多い。時刻表ではおもにYS1またはYSと表記されていたが、全日本空輸の便では愛称『オリンピア』の頭文字Oで表記される場合が多かった。

目次
1 名称
2 歴史
2.1 国産旅客機計画
2.2 日航製設立
2.3 機体製造
2.4 試作機
2.5 問題と克服
2.6 デモ飛行
2.7 相次ぐ受注
2.8 生産終了
2.9 日本国内定期路線からの引退
3 機体
3.1 頑丈さと過大重量
3.2 客室設備
4 派生型
4.1 YS-11-100
4.2 YS-11A
4.3 YS-11A-200
4.4 YS-11A-300
4.5 YS-11A-400
4.6 YS-11A-500
4.7 YS-11A-600
4.8 YS-11A-500R
4.9 YS-11A-CARGO
4.10 計画機
5 運用
6 導入航空会社(リース含む)
6.1 日本
6.2 アジア
6.3 ヨーロッパ
6.4 南アメリカ
6.5 北アメリカ
6.6 カリブ海沿岸
6.7 アフリカ
7 採用官公庁
7.1 自衛隊
7.1.1 航空自衛隊
7.1.2 海上自衛隊
7.2 海上保安庁
7.3 航空局
7.4 後継機
8 記録
8.1 定時出発率
8.2 飛行時間と飛行サイクル
9 事故概略
10 屋外展示
11 大衆的評価
12 仕様
13 記録映画
14 出典・脚注
15 関連項目
16 参考文献
17 外部リンク

名称
機種名であるYS-11の「YS」は輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったもの。一方、「11」の最初の「1」は搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号は「1」であった。後ろの「1」は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されていた。機体仕様案の中には第0案もあった。

こうした命名の経緯もあって、当初、関係者のあいだでは「ワイエス・いちいち」と呼ばれていたが、いつしか、「ワイエス・じゅういち」と呼ばれるようになった。木材で設計通りに作った飛行機(モックアップ)を展示し、一般の人々に紹介したことがあった。そのときのキャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田、11に合わせて公開日を11日にしたジョークの一種であるが、これによって名前の由来を誤解させてしまうこととなった。このモックアップを作るのにかかった費用は5500万円(当時)で、点滅ランプの機構が用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた。

国産旅客機計画

ダグラスDC-31952年(昭和27年)に日本が連合国の占領下から再独立し、GHQ SCAPによる日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されて数年、日本の航空路線は、ダグラスDC-3やDC-4、コンベア440などのアメリカ合衆国製やデハビランド DH.114 ヘロンなどイギリス製の航空機が占めており、日本製の航空機を再び飛ばしたいというのは、多くの航空関係者の望むところであった。

1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通商産業省(現・経済産業省)の主導で国産民間機計画が打ち出された。翌年から専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。

輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機を設計した木村教授を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。

日航製設立
モックアップ公開後、日本政府主導で設立された日本航空機製造 (NAMC) に開発が引き継がれた。「五人のサムライ」は実機製作には携わらないと宣言したため、1960年(昭和35年)からの実機製作は三菱から技術部長として出向してきた東條輝雄に任せられた。東條は父親で陸軍大臣や首相を歴任した東條英機の勧めで軍人ではなく技術者を目指し、かつて堀越の元で「零戦」の設計にも携わっていた。

中型輸送機開発を正式に決定すると、アメリカのコンベアやオランダのフォッカー、イギリスのBACなど欧米の航空機メーカーが自社との共同開発、もしくは自社機のライセンス生産への参画(つまり独自開発の計画中止)を求めて殺到した。これらの企業はみなDC-3の後継となる機体の開発計画を持っており、競合機種が増えることを望まなかったからである。特にフォッカーは自社のF27 フレンドシップと日本の機体の規模が競合するためにしつこく食い下がってきたが、これらを通産省はすべて一蹴した。

機体製造
機体は中型とし、レイアウトに余裕が持てるように真円部分を長く設計した。主翼は、整備性の良さや着水時に機体が浮いている時間が長くなる事を考え、胴体の下に翼がつく低翼に。また、地方空港を結ぶことを目的としたため、1200m級の滑走路で離着陸が可能な性能をもたせることとした。製造は新三菱重工(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機、住友精密工業の7社が分担し、最終組み立てを三菱の小牧工場が担当した。

各社の分担内容は以下のとおりである。

三菱(分担率: 54.2 %) - 前部胴体、中部胴体、
川崎 (25.3 %) - 主翼、エンジンナセル(エンジンの覆い)
富士 (10.3 %) - 胴体先頭、圧力隔壁、垂直尾翼、水平尾翼
日飛 (4.9 %) - 床板、補助翼、フラップ
新明和 (4.7 %) - 後部胴体、翼端、ドーサルフィン(垂直尾翼前方の安定翼)
昭和 (0.5 %) - 操縦席、主翼前縁
住友 (0.1%) - 降着装置
エンジンは耐空証明の取得に困難が予想されたため自国での開発を諦めた。方式としては、当時主流になりつつあったターボプロップエンジンを使用し、イギリスのロールス・ロイス製ダート 10を採用、プロペラはダウティ・ロートル製の4翅、当時の日本に手が出せなかった(試作はしたが実用性は低かった)電子機器もほぼ全て海外製品を輸入した。当時、国内での調達が困難だった大型のジュラルミン部材はアメリカのアルコア社から購入した。

試作機
強度試験機01号機(静荷重試験用)・02号機(疲労試験用)は1962年(昭和37年)7月から試験が開始された。1965年(昭和40年)4月までに、世界でも例のない20万回を越える疲労試験が行われ、胴体は22万5000時間のうち9万時間まで、主翼は18万9000時間のうち6万4000時間まで全く無傷であり、その後のひび割れも伸びが遅かった。一般の旅客機の強度は2倍から4倍に設定され、合理的かつ効率的に設計・製造が行われる(バリューエンジニアリング)が、耐用3万時間を目標としたYS-11は、そのような合理的設計とは無縁であったゆえに、予想を上回る設計強度を持っていた(戦前に設計してきた戦闘機は耐用100時間程度[要出典]で、民間輸送機の目安というものが良くわからなかったこともある)。

飛行試作機1号機(1001)は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした。1ヶ月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、超短波(VHF)検査を経て、8月14日にエンジンに初点火し、8月25日からは滑走路での地上試験、ブレーキテストを行った。8月30日、日航製は200人以上のマスコミを招き、実況中継放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、テストパイロットとして正操縦士に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、名古屋飛行場から伊勢湾上空を56分間飛行し、各種試験およびマスコミへのデモンストレーションは成功裏に終了した。10月には全日本空輸との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。

問題と克服
しかし、すでにこのときから操縦性の悪さが露呈していた。12月18日には皇太子明仁親王(今上天皇)を招いての完成披露式典が羽田空港で開かれ、その数日後に試作機2号機(1002)が初飛行を実施、2機による本格的な飛行試験が開始されたが、空力特性が悪いために振動と騒音が発生し、性能にも重大な影響を与えていた。横方向への安定不足は特に深刻で、プロペラ後流によって右方向へ異常な力が働き、全ての舵が効きが悪く、操縦性は最悪の癖を抱え、試験中にきりもみを起こして墜落しそうになることもあった。いわゆる「三舵問題」である。

これらは、輸出に必要なアメリカ連邦航空局(FAA)の審査でも問題が指摘され、大規模な改修を余儀なくされた。この改修が予想以上に手間取ったため、マスコミからは「飛べない飛行機」などと散々にこき下ろされ、全日空は納入の遅れがはっきりしたため、宿敵フォッカーF27 フレンドシップを購入する有様であった。

初飛行を見届けて三菱に戻っていた東條も問題解決のため再び日航製に復帰し、改修作業に加わった。横安定については、主翼の上反角を4度19分から6度19分に持ち上げればよいと解明したが、再組み立てには1年かかるため、川崎の土井に教えを受けて主翼の付け根に2度のくさびを打ち込んで解決した。操縦性の悪さは方向舵と昇降舵のバランスタブを新考案のスプリングタブに変更、右偏向はエンジン取り付け部の後ろに三角形の突起(通称、三味線バチ)を取り付けることで解決、またステアリングの効きを良くするために、主脚を後方へ傾斜させ、車輪の位置を後退させた。

これらの大改修により、FAAの再審査で当時としては難しい片発離陸(離陸直後のエンジントラブルで片方のエンジンが停止しても安全に離陸できるかを試すテスト)を成功させ機体の性能の高さを立証、来日した審査官も大改修したYS-11が基準を満足している旨をコメントした。

全日空のYS-11(現行塗装)1964年(昭和39年)8月に運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始した。初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は540時間、2号機は460時間であった。9月9日には全日空にリースされた2号機が東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした。1965年(昭和40年)3月30日に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空会社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して輸出の体制が整った。

ところが、YS-11-100は運航が増えるたび、主脚の異常、脚開平扉の設計ミス、外板継ぎ目からの雨漏りによる電気系統不良など、問題を起こす欠陥モデルであり、日航製職員や航空会社の整備士は徹夜の連続であった。この経験が、1967年(昭和42年)からのYS-11A(2050以降)誕生へ繋がる。1968年(昭和43年)にはトラブルもほとんど解消し、1機あたりの飛行時間は月300時間以上、定時出発率99パーセントを誇る、高い信頼性を持つ航空機となった。

デモ飛行
無名で実績のない日航製が海外で販売するには実機を見せるほかに宣伝の手段はなく、YS-11は積極的に海外へ飛行し、デモンストレーションを行った。まず、1966年(昭和41年)9月15日から10月13日にかけて北米へ渡航、アメリカ合衆国のサンフランシスコ・デンバー・セントルイス・ワシントンD.C.・マイアミを飛び、近距離路線を運航する中堅航空会社であるピードモント航空やハワイアン航空からまとまった数の受注を得ることができた。

1967年(昭和42年)は1月25日から3月15日にかけて南アメリカのペルー・アルゼンチン・チリ・ブラジルをデモ、10月11日と12日にベネズエラ、12月2日から12日にカナダ、1968年(昭和43年)8月27日から10月28日にかけてはイギリス・西ドイツ・スウェーデン・イタリア・ユーゴスラビア・ギリシャ・サウジアラビア・パキスタン・ネパール・ビルマ・タイ・マレーシアを精力的に回ったが、アジアの多くの途上国では購入予算が無いため受注をほとんど得ることはできなかったが、その後ブラジルやアルゼンチン、ペルーでまとまった数の受注を獲得した。しかし、ヨーロッパでは競合機が多いため、ギリシャのみの受注となった。

1969年(昭和44年)にも2月27日から3月1日にメキシコ、12月3日から1970年(昭和45年)2月14日にかけてモロッコ・セネガル・カメルーン・ガボン・ザイール・中央アフリカ・ザンビアを飛行、同時に1月18日から22日にシンガポール、6月20日から7月9日にかけてエジプト・ケニア・スーダン・南アフリカ、7月28日から8月3日に南ベトナムのサイゴン(ベトナム戦争中)へ飛行し、いくつかの受注を獲得することができた。

相次ぐ受注
アメリカを中心に知名度が高いピードモント航空の発注により信頼を得たことも手伝って、アメリカやブラジルを中心として海外からの受注が相次いだ。生産数は徐々に伸び、1967年(昭和42年)末には小牧工場は月産1.5機から2機に増産した。1968年(昭和43年)末に確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注、1969年(昭和44年)には7カ国15社に納入した。小牧工場は月産3.5機となり、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあった。

生産終了

日本エアシステムのYS-11総勢182機が生産されたが、販売網がうまく構築できないままで、予想より売上が伸びず、また第二次世界大戦後の日本では初めて作った機体のために実績がないため、足元を見られて値下げを続け、原価を割った価格で販売することもめずらしくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。

赤字は積み重なり、国会においてこのことを追及されると、1971年(昭和46年)12月28日の国会で政府(佐藤栄作内閣)はYS-11生産中止と日航製の解散を決定、1972年(昭和47年)末に販売を終了した。この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカー・シドレー HS748は118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。YSは昭和47年度末(1973年3月)を以って生産終了となったが、欧米の競合機は生産が続いた。技術を伝える後継機計画が進まないまま、1982年(昭和57年)9月に日本航空機製造は解散した。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。現在でもこの決定は批判が多く、日本から新たな国産飛行機が生まれない一番の要因であると言われている[要出典]。

日本国内定期路線からの引退

引退間際に扉に塗装されたキャンペーンマーク
引退間近の日本エアコミューター機。旧種子島空港にて定期運行に処する航空機体への空中衝突防止装置(TCAS)の装備を義務づけた航空法改正により、改修経費の関係で2006年(平成18年)9月30日のラストフライトをもって日本国内の民間定期路線より引退した。

日本国内の民間定期路線のYS-11の最終便は、日本エアコミューターが2006年(平成18年)9月30日に同社が最初にYS-11を飛ばしたのと同じ沖永良部空港〜鹿児島空港でのフライトが、沖永良部発15:55に行われ就航以来無事故での運航完了となった。なお、9月30日の引退の時まで運航していたのは、日本エアコミューターの福岡〜松山、高知、徳島、鹿児島の4路線であり、松山、高知の2路線は9月29日の福岡行きが最終運航となった。徳島、鹿児島線は30日が最終運航で、徳島-福岡便は10:00徳島発、鹿児島線は同日12:10福岡発の便であった。なお、YSの初就航から最終就航まで一度も空港を撤退しなかったのは全国で徳島空港だけである。

沖永良部空港では地元の踊り子によるエイサーで最終便を送り出し、鹿児島空港到着時には空港消防団によるウォーターアーチと、ファイナルフライトの到着後に引退記念セレモニーが行われ、多くのパイロット、整備士、客室乗務員をはじめとする日本エアコミューターの社員、元日航製の社員などが多数出席し引退を惜しんだ。セレモニーには日本中のテレビや新聞、雑誌の取材が殺到し、ファイナルフライトと引退セレモニーの記事が多くの新聞の一面を飾った。

これらの9月30日のファイナルフライトに使用された機体はJA8766とJA8768。JA8768は徳島から福岡への飛行後に鹿児島へ、JA8766が最後の沖永良部への最後フライトを行った(ちなみにこの機体は「レッド&グリーン塗装時代」には「とくのしま」(つまり隣の島)の愛称がついていた)。保存の声も根強かったものの、機体性能には問題なく、十分に現役で飛べるため、二機ともフィリピンへ売却された。

民間定期路線のYS-11最終便となった、日本エアコミューターの沖永良部空港発鹿児島空港行は2006年7月30日の発売開始から3分で完売した、しかしその後インターネットオークションに『2006年9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券』1枚が出品されるという出来事があった。インターネットオークション運営会社と航空会社側が協力してインターネットオークションから「強制削除」され、出品された搭乗券は「無効扱い」とされた。なお出品時の価格は「10万円」だったと言われている。

引退後の2007年8月には新幹線0系電車などと共に機械遺産に制定されている。

機体
機体の設計者たちは戦前に軍用機づくりに携わってはいたが、旅客機の設計をしたことのない(乗ったこともない)者がほとんどであった。このために機体には軍用機の影響が強く、運動性重視で操縦者には扱いにくい機体でもあった。安定性と保守性が重視される民間輸送機としては不満があり、運用する航空会社側からは、非常に扱いにくいという厳しい評価を受けた。

それでも日本の航空業界側も「日本の空は日本の翼で」という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体となったとも言える。やがて東亜国内航空では海外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。

頑丈さと過大重量
YS-11開発初期の軍用機的性格が良い方に働いた例として、機体の頑丈さが挙げられる。航空先進国であった欧米では、民間輸送機開発に際してすでに耐用年数などを踏まえた合理的な機体設計を行うようになっていたが、YS-11は戦後日本で初の本格的旅客機であるため、安全率を過大なまでに確保していた。主翼については約19万飛行時間、胴体は約22万5千時間に相当する疲労強度試験を行っている。東京・調布市にある航空宇宙技術研究所(NAL, 現JAXA)では26ヶ月にわたり大きな水槽の中に胴体を沈め、内圧をかけたり抜いたりを繰り返す胴体強度試験を行った(コメット連続墜落事故の検証で使われたものと、ほぼ同じやり方である)が、9万時間までどこも損傷することはなかった(最終的に試験装置の方が損傷し、終了した)。

だが頑丈さは重量増加という欠点にもなって跳ね返ってきた。近代旅客機の常道通りに総ジュラルミン製のモノコック構造であるが、強度重視で重量過大となり、出力の限られたエンジンに対しては重すぎる機体となった。元テストパイロットの沼口正彦は退役後のインタビューにおいて「YS-11はパワー不足が目立った」とも語っている。YSの出力不足は、沼口に限らず多くのパイロットから指摘されている弱点である。全日空の機長としてYS-11に乗務したことがある内田幹樹はその著書『機長からのアナウンス』で「最初はあまりのパワーのなさに驚いた」「飛行機マニアに今でも人気が高いようだが、これはまったく理解できない」と酷評しており、後述するようにオートパイロットが無いことなども含めて、実際に操縦したパイロットからの評価は決して高いものではない。

操舵系統には戦後主流になりつつあった油圧を使わず、操縦桿と動翼をケーブルにより直接つなげており、自動操縦装置もなく(後に一部機体にはオートパイロット装備)、ほとんどを人力で動かしているために、沼口雅彦はYSを「世界最大の人力飛行機」と評している。当然だがこのために操縦に力を要した。

保存機のうちで量産1号機にあたるJA8610は国立科学博物館によって羽田空港の全日空東京第一格納庫に保存されているが、YS-11の保存機のなかでも唯一の動態保存で、現在展示こそされていないものの、定期的にエンジンを動かし「YSの頑丈さを証明し、100年先も飛べるYSとして保存する」と言ったコメントを出している[1]。

機齢が40年を超えた機体も現れ始めたが、自衛隊や海外のエアライン等では現在も使用され続けている。航空大国アメリカでは「日本製の飛行機」「ロールス・ロイス製エンジンを搭載した飛行機」「ピードモンド航空が使っていた飛行機」という形で知られている。

日本

日本エアコミューターのYS-11 大阪国際空港
エアーニッポンのYS-11(JA8772、大島空港)日本国内航空・東亜航空→東亜国内航空→日本エアシステム(現日本航空ジャパン):後に日本エアコミューターへ転籍した機体がある。
日本航空(ウェットリース)
全日空:後にエアーニッポンへ転籍した機体がある。
南西航空(現日本トランスオーシャン航空)
中日本航空(試作2号機を運用:定期旅客輸送業務については全日本空輸や中日本エアラインサービス(現・エアーセントラル)に移管)

アジア
大韓航空(大韓民国、新造機導入)
中華航空(中華民国、新造機導入)
オリエント・フィリピナス航空(フィリピン、新造機導入)
エアー・フィリピン(フィリピン、新造機導入)
フィリピン航空(フィリピン)
アボイティス航空(フィリピン)
アジアン・スピリット航空(:en:)(フィリピン)
サウス・フェニックス航空(フィリピン)
ピラミッド航空(フィリピン)
プーケット航空(タイ王国)
エア・フェニックス(タイ王国)
ブーラク航空(インドネシア、新造機導入)
マンダラ航空(インドネシア、新造機導入)
メルパチ・ヌサンタラ航空(インドネシア、新造機導入)
ぺリタ・エアサービス(インドネシア、新造機導入)

ヨーロッパ
オリンピック航空(ギリシア、新造機導入)

南アメリカ
VASP航空(ブラジル、新造機導入)
クルゼイロ航空(ブラジル、新造機導入)
ヴァリグ・ブラジル航空(ブラジル)
アルゼンチン航空(アルゼンチン、新造機導入)
アラ航空(アルゼンチン、新造機導入)
オーストラル航空(アルゼンチン)
LANSA航空(ペルー、新造機導入)
アエロダン(メキシコ)
アエロシエラ・デ・デュランゴ(メキシコ)

北アメリカ
ピードモント航空(アメリカ、新造機導入)
ハワイアン航空(アメリカ、新造機導入)
リーブ・アリューシャン航空(アメリカ、新造機導入)
ミッドパシフィック航空(アメリカ)
エアボーン・エクスプレス航空(アメリカ)
パシフィック・サウスウェスト航空(アメリカ)
プロビンスタウン-ボストン航空(アメリカ、新造機導入)
コンチネンタル・エクスプレス(アメリカ、運航はプロビンスタウン-ボストン航空)
シモンズ航空(アメリカ)
アメリカン・イーグル航空(アメリカ、運航はシモンズ航空)
トランス・セントラル航空(アメリカ)
フォートワース・エア(アメリカ)
カナダトランス航空(カナダ、新造機)

カリブ海沿岸
エア・カリビアン(トリニダード・トバゴ)
アルバ航空(オランダ領アルバ)

アフリカ
エール・アフリック航空(コートジボアール、セネガルなど、新造機導入)
ソシエテ・ジェネラル・アリマンタシオン航空(ガボン、新造機導入)
ガンビア航空(ガンビア)

採用官公庁

自衛隊
自衛隊では1965年(昭和40年)から1973年(昭和46年)までにYS-11を23機導入した。内訳は航空自衛隊13機、海上自衛隊10機であった。この採用には、世界への信頼誇示のため、防衛庁に進んで採用してほしいとの強い要望が通産省から寄せられたという裏話もある(軍用に使用できる航空機を、製造国の軍隊が採用しなければ、それは信頼に値しないと言うのが、世界の航空業界の常識である)。空自の一部の機体はジェネラル・エレクトリック社製 T64-IHI-10J を搭載し、プロペラを3枚に変更した「スーパーYS-11」となっている。航空法改正により、日本の航空機は空中衝突防止装置の設置が義務付けられたが、自衛隊機は対象外であり、かつ民間機より飛行時間が短い為、民間YS-11が引退した後も運用されている。

後継機
海外機を導入した国土交通省航空局・海上保安庁に対し、防衛省では機体年齢40年を迎えるYS-11の後継機計画について、ほとんど公表していない。海上自衛隊は一時期、後継機としてATR 72、DHC-8 Q400、C-130J等が挙げられたが、その後白紙になった。

三菱重工業と経済産業省は、両者が開発を推進している新型航空機(環境適応型高性能小型航空機:当時MJ、現MRJ)の採用を目指しており、2006年(平成18年)5月31日に開催された、経済産業省主催の民間機開発推進関係省庁協議会において、三菱はMJ開発状況についての説明を行ったが、この時点でYS-11を業務運用している防衛庁・国土交通省・海上保安庁に対して、MJの採用を要望した。これに対して各省庁は「ニーズが合えば購入する」との認識を示したことから、官公庁ではMRJの開発経過を観察しながら、後継機選定を行うものと思われる。なお、防衛省航空幕僚監部では4機のYS-11EBの後継として、次期輸送機かC-130輸送機の改造型も検討している。一方、海上保安庁は2006年(平成18年)11月に後継としてDHC-8 Q300を3機発注、航空局では同年12月にすべて海外機に置き換えられた。

記録
YS-11は以下の記録を持っている。

定時出発率
エアーニッポンで使用していたYS-11は、
1997年(平成9年)に定時離陸率99.6 - 99.8パーセント、
日本エアコミューターで運航されていたYS-11も2004年(平成16年)に
定時出発率91.8パーセントを達成している。

これは世界の最新鋭飛行機でもなかなか達成できないものである。

飛行時間と飛行サイクル

YS-11 JA8717(2005年7月15日、鹿児島空港にて)
日本エアコミューターで使用されていた登録番号JA8717
(製造番号2092)の機体は、登録されたのが
1969年(昭和44年)2月で、2006年(平成18年)9月11日までの総飛行時間は
71,220時間47分、総飛行サイクルは72,359回と世界一の記録となっており、
このことからもYS-11の頑丈さがわかる。
またこの機体は一時日本航空にリースされて唯一日本航空のフルカラーとなり、
福岡 - 釜山線の定期国際線運航経験を持つ唯一の機体である。

2004年(平成16年)9月には、
台風により伊丹空港で垂直尾翼の方向舵や補助翼が脱落するなどの被害を受け、
かなり大掛かりな修理が必要になった。

これが他の機体であればそのまま部品取りにしていたところであるが、
8717の実績と歴史的価値によって修理が決行され、
ラインには同年10月に復帰した。

この機体は2006年(平成18年)9月11日、YS-11の日としている最後の日に、
奄美〜鹿児島線のチャーター便を最後に、37年もの間一度の事故も起こすことなく
有終の美を飾った後、9月12日に羽田へフェリーされフィリピンのアボイティズ航空へ売却された。

大衆的評価
総生産数は決して多くはないが、日本の高度経済成長期を象徴する存在の一つとしてのノスタルジーや、武骨な構造・独特のエンジン音などを持つ個性的な機体として、日本には多くのファンがいる。

日本国内の航空専門誌では「日本の名機」「日本初の名国産機」などとも評しているが、「重量過大や操縦性の問題を抱えていたことを考慮すると未熟さは否めず、『名機』と呼ぶのは過剰評価である」という批判的意見もある。

また、鉄道雑誌では同じ東京オリンピック関連の乗り物として陸の新幹線0系電車と対をなす存在としても語られることがあるが、両者にはかつて軍用機製造に携わっていた人々によって作られた、という共通点があるためである[2]。

仕様
以下のスペックに関する文献などの情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。
諸元
乗員: 2名
定員: 64名
全長: 26.3 m ()
全高: 8.9 m ()
翼幅: 32.0 m ()
翼面積: 94.8 m2 ()
空虚重量: 14,600 kg ()
有効搭載量: 5,400 kg
最大離陸重量: 23,500 kg
動力: ロールス・ロイス ダート ターボプロップエンジン, (3,060 shp) × 2
性能
最大速度: 454 km/h (245 kt)
航続距離: 2,200 km
実用上昇限度: 6100 m
使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

記録映画
日本航空機製造により、3本の記録映画が製作されている。現在フィルムは製作プロダクション等が所蔵しているが、目にする機会はきわめて少ない。作品中では「わいえすじゅういち」の呼称が使われている。 なお、『YS-11 新しい日本の翼』『YS-11 そのすぐれた性能』は2004年9月にチャンネルNECOで放送されている。 この項目ではそれらと、その一部を使用し、現在入手可能なANAのドキュメンタリーも紹介する。

YS-11の誕生
1962年・日本映画新社製作・カラー・10分。YS-11の製造から、試作1号機の初飛行までを描いた作品。
YS-11 新しい日本の翼
1963年・日本映画新社製作・カラー・32分。YS-11の製造から、試作1号機の初飛行までを描いた作品。『YS-11の誕生』に新たな映像素材を加えて再編集したもの。初飛行をしたYSの上反角の小ささがこの映像からもわかる。
YS-11 そのすぐれた性能
1966年・日本映画新社製作・カラー・22分。日本貿易振興会(JETRO)と共同で、YS-11の海外プロモーションを兼ねて製作された作品。片発離着陸の様子や、海外向け機体の製造の様子も見ることができる。
BLUE ON BLUE THE WORLD OF ANA サヨナラ YS-11オリンピア
1992年・SPE ビジュアルワークス製作・カラー・43分。ANAが運用していたYS-11オリンピアの飛行映像、メカニズム紹介、および前記映像の一部を使用。ワイパーの稼動状況もみることができる。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月11日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8811%E6%97%A5

できごと
1804年 - アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが
決闘を行う。

1848年 - ロンドンのウォータールー駅が開業する。

1859年 - チャールズ・ディケンズ作の小説『二都物語』が発売される。

1887年 - 東海道本線、神奈川駅(現在廃止)〜国府津駅間開業。

1893年 - 御木本幸吉が真珠の養殖に成功。

1921年 - モンゴル人民政府(現モンゴル国)が成立し、中華民国から実質的に独立。

1950年 - 日本労働組合総評議会(総評)結成。

1950年 - パキスタンが国際通貨基金(IMF)に加盟。

1957年 - 升田幸三王将・九段が大山康晴名人を破り棋界初の三冠に。

1960年 - 東京ディズニーランドなどを経営するオリエンタルランド設立。

1961年 - フィラデルフィア発デンバー行きのユナイテッド航空859便DC-8型機が
デンバーのステープルトン国際空港への着陸に失敗、18名の死亡者と44名の重軽傷者を出す。

1962年 - 日本初の国産旅客機YS-11が完成。

1962年 - 創価学会が参議院院内交渉団体公明会(後の公明党)を結成。

1962年 - アメリカとイギリス・フランス間で初の大陸間衛星中継が成功する。

1966年 - 広島市議会が原爆ドームの永久保存を決議。

1968年 - 『週刊少年ジャンプ』創刊。

1971年 - チリ議会が国内銅山国有化を決定。

1971年 - 北陸鉄道動橋線が全線廃止。

1973年 - リオデジャネイロ発パリ行きの
ヴァリグ・ブラジル航空820便ボーイング707型機でパリのオルリー空港への
着陸進入中火災が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し
乗員乗客135名中124名が死亡。

1975年 - 私立学校振興助成法が公布される。

1979年 - 東名高速道路・日本坂トンネル内で玉突き事故。173台が炎上し死者7人。

1982年 - カンボジアで反ベトナム3派による民主カンボジア連合政府が発足。

1991年 - カナダのノリス・エアチャーター便
DC-8型機がサウジアラビアのジッダ・キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を離陸直後に墜落、
乗員乗客261名全員が死亡。

2002年 - 欧州人権裁判所大法廷の裁判官17名全員が
イギリスの性転換者の出生証明書の性別訂正の訴えを認める判断をくだす。

2004年 - 第20回参議院議員通常選挙投開票。

2006年 - インドのムンバイで列車爆破テロ起こる。

2006年 - マイクロソフト社がWindows 98とWindows Meのサポートを停止。

誕生日
1274年 - ロバート1世 (スコットランド王)(+ 1329年)

1628年(寛永5年6月10日) - 徳川光圀、第2代水戸藩主(+ 1700年)

1767年 - ジョン・クィンシー・アダムズ、第6代アメリカ合衆国大統領(+ 1848年)

1836年 - カルロス・ゴメス、作曲家(+ 1896年)

1866年 - リヒャルト・ベーア=ホフマン、小説家・詩人・劇作家(+ 1945年)

1912年(ユリウス暦6月28日)- セルジュ・チェリビダッケ、指揮者(+ 1996年)

1934年 - ジョルジオ・アルマーニ、ファッションデザイナー

1934年 - 妹尾美幸、女性タレント

1946年 - 木の実ナナ、女優

1949年 - 沢田雅美、女優

1951年 - 山本正之、作詞家・作曲家・歌手

1956年 - 谷田部勝義、アニメーション監督、脚本家、演出家、音響監督
1958年 - カーク・ウェイラム、音楽家
1959年 - リッチー・サンボラ、ボン・ジョヴィのリードギタリスト
1962年 - 藤井フミヤ、歌手
1964年 - 今野隆裕、元プロ野球選手
1965年 - アーネスト・ホースト、キックボクサー
1968年 - 近藤サト、アナウンサー
1970年 - 長沢美樹、声優
1973年 - 水田章雄、プロ野球選手
1974年 - 小野公誠、プロ野球選手
1975年 - 葉月里緒奈、女優
1976年 - 相川亮二、プロ野球選手
1976年 - エドアルド・ナヘラ、バスケットボール選手
1980年 - 鈴江奈々、日本テレビアナウンサー
1981年 - 槙ようこ、漫画家
1982年 - 稲村優奈、声優・女優
1983年 - 井ノ上奈々、声優、クローバーのメンバー
1984年 - 日向瞳、女優
1984年 - 橋本直子、バレーボール選手
1985年 - 高杉さと美、歌手
1985年 - 前田亜季、女優・アイドル
1985年 - 沢村洋奈、グラビアアイドル
1986年 - 東野峻、プロ野球選手
1987年 - 加藤成亮、タレント、NEWSのメンバー
1987年 - 山口俊、プロ野球選手
1988年 - 井口裕香、声優
1988年 - 戸島花、AKB48
1989年 - 田中直乃、タレント
1989年 - 村上愛里、グラビアアイドル
1989年 - 伊藤歩惟、グラビアアイドル
1990年 - 落合扶樹、俳優
1992年 - 船越英里子、女優

忌日
645年(大化元年6月13日) - 蘇我蝦夷、豪族(生年不詳)

969年 - オリガ、キエフ大公イーゴリ1世の妃

1382年 - ニコル・オレーム、哲学者・天文学者(* 1325年頃)

1510年(永正7年6月6日)- 猪苗代兼載、連歌師(* 1452年)

1535年 - ヨアヒム1世、ブランデンブルク選帝侯(* 1484年)

1593年 - ジュゼッペ・アルチンボルド、画家(* 1527年)

1674年(延宝2年6月8日)- 鷹司孝子、
江戸幕府第3代将軍徳川家光の正室(* 1602年)

1688年 - ナーラーイ、タイ王(* 1629年)

1745年(延享2年6月12日)- 前田吉徳、第6代加賀藩主(* 1690年)

1766年 - エリザベッタ・ファルネーゼ、スペイン王フェリペ5世の妃(* 1692年)

1831年 - ヴァーシリー・ゴローニン、ロシア海軍の軍人・探検家(* 1776年)

1840年(天保11年6月13日)- 島田元旦、絵師・鳥取藩士(* 1787年)

1855年 - パーヴェル・ナヒーモフ、ロシア海軍の提督(* 1802年)

1863年(文久3年5月26日)-
田中新兵衛、幕末四大人斬りの一人として知られる薩摩藩士(* 1832年)

1906年 - 2代目三遊亭圓橘、落語家(* 1811年)

1909年 - サイモン・ニューカム、天文学者・数学者(* 1835年)

1919年 - 鈴木三樹三郎、新選組9番隊隊長・御陵衛士(* 1837年)

1920年 - ウジェニー・ド・モンティジョ、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后(* 1826年)

1930年 - 小川正孝、化学者(* 1865年)

1937年 - ジョージ・ガーシュウィン、作曲家(* 1898年)

1941年 - アーサー・エヴァンズ、考古学者(* 1851年)

1946年 - ポール・ナッシュ、画家(* 1889年)

1947年 - リヒャルト・ヘーニヒスヴァルト、哲学者(* 1875年)

1953年 - オリバー・キャンベル、テニス選手(* 1871年)

1966年 - アルフレット・ベルガー、フィギュアスケート選手(* 1894年)

1971年 - ジョン・W・キャンベル、小説家(* 1910年)

1971年 - ペドロ・ロドリゲス、F1ドライバー(* 1940年)

1973年 - 3代目三遊亭小圓朝、落語家(* 1892年)

1973年 - 吉屋信子、小説家(* 1896年)

1974年 - ペール・ラーゲルクヴィスト、小説家(* 1891年)

1983年 - ロス・マクドナルド、推理作家(* 1915年)

1989年 - ローレンス・オリヴィエ、俳優(* 1907年)

1991年 - 五十嵐一、中東・イスラーム学者・小説「悪魔の詩」邦訳者(* 1947年)

1992年 - 鄧穎超、中国首相周恩来の妻(* 1904年)

1994年 - ゲイリー・キルドール、デジタルリサーチ社の創業者(* 1942年)

2003年 - 小松方正、俳優(* 1926年)

2004年 - 原田泰夫、将棋棋士(* 1923年)

2005年 - 橋本真也、プロレスラー(* 1965年)

2007年 - レディ・バード・ジョンソン、リンドン・ジョンソン第36代米大統領の妻(* 1912年)

記念日・年中行事
真珠記念日
1893年7月11日に、御木本幸吉夫妻が初めて真珠の養殖に成功したことに由来。

世界人口デー
1989年、国連人口基金が制定。1987年のこの日、
世界の人口が50億を超えたとされることから。

セブン-イレブンの日