東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月13日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月13日(日曜日)

7月13日です。
堂々たる「7月」です。
3日前からせみの声も早朝にきkぉえました。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々になってきました。

街路樹のポプラも幹や枝葉の穂先がろうそくの
明かりのように「炎様」になってきました。
あたかも
ゴッホの絵画の「夜の糸杉」のように。
早朝はみえます

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が獰猛な気配を放つ。
初めて気づきました。

濃い緑の葉。
桜の木は木の下で。
心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹がすっかりみえません。
桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ。
この
桜の木の下で木陰で心安らかにやすもうという
気はおきません。

やはり桜の木は「菩提樹」ではない。

木々でもいちょうや。松や。杉などの針葉樹
は「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
針葉樹から常緑樹に「進化」しています。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。

硬ければ
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のよう
「冬も葉を持つ常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱから日の光を
さえぎれません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう
「ざっくり感」のリズムが
ありません。

木々の初夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな初夏の萌黄色です。
まるで大きな竹山の竹のうねりのようです。
今年は木々のわかばのめばえが非常に鮮烈
です。

街角の雑草も花は咲き終わり。
初夏の姿となり
「ほとけの座」やはこべが
ますます姿を大きくして。
夏草のたたずまいをしています。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
まだまだ。はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

日曜の朝晴れて
はじめて気づく
にわの小ささ

早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

きらきらラピス・ラズリの空(そら)
紺碧のジュースの空(そら)
ミルクをそそそいだ空(そら)
トルコいしのプリンの空(そら)
はるかにとほくたかい空(そら)
ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
プリンの上のクリームのような空(そら)
にわあじさい花(はな)はアイスクリーム空(そら)
あじさいのうえに空(そら)
空(そら)の向こうにまだ空(そら)

初夏のうららのこもれびに
緑木いらかはかぜはやみ
夏風ひるむやうつろひの
四季のつきひのはやいくとせ

椎木(しいのき)の枝高し
そらに吼える若葉が穂束
木にも地にもみどりがさける
初夏のあさ
陽はゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
いふこともなし

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。
泣く子も黙る「12音技法」の作曲家。

名作曲家のラヴェルや
ストラヴィンスキーに影響を与え。
ラヴェルが「マラルメによる3つの歌」を。
そしてストラヴィンスキーが
「紀貫之の短歌等による日本の3つの抒情詩」

作るきっかけとなった。

「12音技法」で有名な作曲家。
1951年 - アルノルト・シェーンベルク、
作曲家(* 1874年)

の没日です。
++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルク
(Arnold Schonberg, 1874年9月13日 -
1951年7月13日) はオーストリアの作曲家です。

調性を脱し無調音楽に入り
12音技法を創始したことで非常に有名です。
「ただし「12音技法」を操ることは極めて難解
です。
「調性」をしっかり身に付けた作曲技法を身に付けて
いなければならないことは言うまでもありません。
失敗すると「素人の前衛音楽より酷い」になって
しまいます。

++++++++++++++++++++++++++++
「12音技法」
重複しない12音を平等に使って並べた音列を、
半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。

次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り
同様に12個の音列を得る。

更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、
基本音列の逆行形から12個の音列を、
そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで。

計48個の音列を作ります。
=>
それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽です。
-------------------------------
「12音技法」では。

一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、
別の音列が混ざることは原則としてありません。

したがって、この12音音楽は基本となる音列が、
調性に代わるものであり、またテーマとなります。

そして音列で作っている限り。
音列で作っている限り。
音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっています。
++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクは。
アメリカに帰化した以降は、自らo-ウムラウトを
"oe"と表記したSchoenbergという綴りを用いました。

(なお、時として間違えられることがなくも
ありませんが。
『レ・ミゼラブル』、『ミス・サイゴン』などの
ミュージカル音楽を作曲した
クロード=ミッシェル・シェーンベルク
とは全く関係はありません。)
++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの経歴と音楽

出生
父シャームエル・シェーンベルク
(Samuel Schoenberg 1838年 - 1889年 [1])
は代々ハンガリーの
ノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で
、靴屋を営んでいました。

母パウリーネ・ナーホト(Pauline Nachod 1848年 - 1921年)
もプラハ出身のユダヤ人です。

アルノルト・シェーンベルクは
ウィーンにて生誕致しました。

初めはカトリックのキリスト教徒として育てられました。

アルノルト・シェーンベルクは
8歳よりヴァイオリンを習い始めます。
その後チェロを独学で学びました。

15歳の時、父が亡くなり
、経済的に立ち行かなくなった彼は、
地元の私立銀行に勤め始め、
夜間に音楽の勉強を続けていました。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクは
余りにも前衛的な態度のため
ウィーンを追い出されてしまいました。

ベルリン芸術大学の教授に任命される時、
プロテスタントに改宗致します。

その後ナチの
ユダヤ政策に反対して1933年、
ユダヤ教に再改宗しています。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの無調への試み

アルノルト・シェーンベルクは。
初期は「ペレアスとメリザンド」や「浄められた夜」など
後期ロマン主義の作品を書いていました。

その著しい半音階主義から
やがて調性の枠を超えた
新しい方法論を模索するようになります。

室内交響曲第1番は
後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて
室内オーケストラを選びました。

4度を基本とした和声を
主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっています。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの無調への試みは。
これ以降、彼の実験は更に深められました。

次第に調性の放棄=
無調による作品を志向するようになっていきます。

1900年から書き始められ1911年に完成した
『グレの歌』は、
巨大な編成と長大な演奏時間をもちます。

カンタータ、オペラ、連作歌曲集
などの要素が融合した大作です。

しかし、基本的な構想は
1901年までに書かれているため、
音楽的には「ペレアスとメリザンド」などと
同様後期ロマン派の様式となっています。

ある意味、
後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえます。

しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられます。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクは
若い頃の彼はブラームスに非常に傾倒していました。

のちツェムリンスキーに師事し、
師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚めました。

また、ツェムリンスキーとともに
マーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、
彼の交響曲について
好意的な論文を記述したこともありました。

ブラームスとヴァーグナーという
全く異なる傾向を結びつけるような
音楽を作曲された点は。
ツェムリンスキーと共通しています。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの
1909年に書かれた「3つのピアノ曲」Op.11や。

「5つの管弦楽のための小品」Op.16、
モノドラマ「期待」Op.17では。

多少調性の香りを残していました。

けれども
アルノルト・シェーンベルクは
無調へと大きく踏み出して、様々な実験を試みて。
いきましたた。

そして「6つの小さなピアノ曲」Op.19で、
調性をほぼ完全に「失う」に至っています。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクは
この実験から傑作歌曲集
「月に憑かれたピエロ」(ピエロ・リュネール)
が生まれました。

「月に憑かれたピエロ」は
「期待」の成果を更に推し進めて生み出されたと
言ってよいかも知れないのですが。

「12音技法」によるメロディの展開や
着想などは更にユニークであり驚くほどです。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクは
ラヴェルや
ストラヴィンスキーに影響を与え、
前者が「マラルメによる3つの歌」を、
そして後者が
「紀貫之の短歌等による日本の3つの抒情詩」
を作るきっかけとなりました。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの
「月に憑かれたピエロ」や
このころの作品群は。
そして後のブーレーズやファニホゥな
どにも影響を与えた傑作です。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルク
「月に憑かれたピエロ」は

「物語の朗唱を室内楽で伴奏」をするという方法が、
かつてなかったとは言えませんが。

これほどにまで高められた作品は皆無です。

またかつて無い効果をあげた
伴奏の書法も全くユニークな傑作でした。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの独創性の比較して。

ただ、時代は無調の音楽に対する準備が
出来ていたとは言えなかったのです。

ストラヴィンスキーの「春の祭典」ですら
大騒ぎとなるような時代でした。
アルノルト・シェーンベルクの
無調の音楽は一部のサークルの中だけのことであったのです。

ウィーンの私的演奏会で
聴衆が怒り出してパニックになったり
帰る人が続出したのは当然でした。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクの作品に対して。
しかし、指揮者のシェルヘンなどが
積極的にこれらの音楽を後押し致しました。

そして演奏してまわったことで、
シェーンベルクなどの音楽が受け入れられるようになってい
きました。

同じ頃、弟子のアルバン・ベルクは
「クラリネットとピアノのための4つの小品」Op.5や
「管弦楽のための3つの小品」Op.6などで、
無調(あるいは拡大された半音階主義)の作品を発表し、
アントン・ヴェーベルンも
師シェーンベルクにならって
「6つの小品」Op.6を書いていますが。

シェーンベルクはバランス感覚に優れています。
ベルク
はより劇的で標題性を持っています。

ヴェーベルンは官能的なまでの音色の豊穣さに特徴があり。
アルノルト・シェーンベルクの弟子達の。
明確な個性の違いがあるのは興味深いことです。

++++++++++++++++++++++

12音音楽の確立
1910年代後半、シェーンベルクは未完に終わった大作
「ヤコブの梯子」に挑みます。

同じ頃、弟子のベルクは歌劇
「ヴォツェック」Op.7を完成致しました。

シェーンベルクらと始めた無調主義による
傑作オペラの登場です。

無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に。

無調という方法に、
調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるように
なっていきました。

それが12音音楽であったのです。

++++++++++++++++++++++
重複しない12音を平等に使って並べた音列を、
半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。

次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り
同様に12個の音列を得る。

更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、
基本音列の逆行形から12個の音列を、
そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで。

計48個の音列を作ります。
=>
それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽です。

++++++++++++++++++++++
「12音技法」では。

一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、
別の音列が混ざることは原則としてありません。

したがって、この12音音楽は基本となる音列が、
調性に代わるものであり、またテーマとなります。

そして音列で作っている限り、
音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっています。

++++++++++++++++++++++

この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが
、「5つのピアノ曲」Op.23の第5曲「ワルツ」でした。

1920年から1923年にかけて書かれたこの作品は
、シェーンベルクの初めての12音音列による作品として
重要なものです。

「ワルツ」の完成は1923年2月とされていますが。
一説には全曲12音技法で書かれた
「ピアノ組曲」op.25(1921年 - 1923年)
の「プレリュード」が1921年7月に完成されているため。

こちらが最初の12音技法のよる作品であるとの説も
あります。

++++++++++++++++++++++

ヴェーベルンも1924年、
「子どものための小品」の中で12音音列を使った作品を書き
、ベルクもすぐにその技法を部分的にとり入れています。

ただし、
12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えません。

ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、
シェーンベルクより2年ほど前に。
トローペと言われる12音の音列による作曲法を考案しています。

1919年にハウアーが作曲した「ノモス」は、
最初の12音音楽と見なされています。

この年、
シェーンベルクはこの作品を自身の演奏会で紹介している
のですが。

ハウアーが「12音音楽の創始者」に固執したこともあり。
また
シェーンベルクと、
その理解者でベルクの弟子でもある哲学者・音楽学者の
テオドール・アドルノの2人から酷評されました。

また、1930年代のナチスの台頭により退廃音楽家として排斥され、
戦後に再評価されるまで全く忘却されてしまったこともあり、
ハウアーが1920年代に果たした役割が
過小評価されていることは否めないのです。

++++++++++++++++++++++

弟子のヴェーベルンが音楽をパラメータごとに分解して
トータル・セリエリズムへの道を開き、
形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、
シェーンベルクは
無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲しています。

また初期の無調音楽は部分的には
機能和声で説明できるものが多く。

マーラーやツェムリンスキーなど
高度に複雑化した和声により調性があいまいになっていた
後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置します。

++++++++++++++++++++++

アルノルト・シェーンベルクは
厳格でアカデミックな教育方針は古典作品の徹底的な
アナリーゼを基礎としていました。

12音技法の開拓後はリズム、形式面で古典回帰が顕著で、
彼自身も新古典主義との係わりを避けることは出来なかったのです。

美術をはじめとする芸術一般にも興味を持ち相互に影響しました。
シェーンベルクの描いた表現主義的な「自画像」は
(メンデルスゾーンなどと同じく)
画家としての才能も示しています。

ロシアの画家カンディンスキーは
シェーンベルクの
ピアノ曲演奏風景をそのまま
「印象・コンサート(1911年)」という作品にしています。

++++++++++++++++++++++

亡命と晩年
第二次世界大戦中、
ナチス・ドイツから逃れてアメリカに移住します。

移住後も南カリフォルニア大学(USC)と
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)
にて教育活動を精力的に行い、
弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソンなど、
アメリカ現代音楽を代表する作曲家も含まれます。

USCにはリサイタルホールを擁する
アーノルド・シェーンバーグ研究所
(Arnold Schoenberg Institute)があります。

UCLAには彼の生前の功績をたたえ、
記念講堂が建造されています。

移住後は、「室内交響曲第2番」「主題と変奏」
などの調性を用いた作品も作曲しています。

また、他界する直前まで合唱曲「現代詩篇」を作曲していたが、
未完に終りました。

++++++++++++++++++++++
アルノルト・シェーンベルクは
戦後始まった
第1回ダルムシュタット夏季現代音楽講習会からも講師として招待されましたが。

重い病気のためキャンセルしました。

1951年7月13日、喘息発作の為、
ロサンゼルスにて他界。享年77。

++++++++++++++++++++++
「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
アルノルト・シェーンベルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schonberg, 1874年9月13日 - 1951年7月13日) はオーストリアの作曲家。

調性を脱し無調音楽に入り12音技法を創始したことで知られる。 アメリカに帰化した以降は、自らo-ウムラウトを"oe"と表記したSchoenbergという綴りを用いた。

なお、『レ・ミゼラブル』、『ミス・サイゴン』などのミュージカル音楽を作曲したクロード=ミッシェル・シェーンベルクとは特に関係はない。

目次
1 経歴と音楽
1.1 出生
1.2 無調への試み
1.3 12音音楽の確立
1.4 亡命と晩年
2 主な作品
2.1 管弦楽曲
2.2 協奏曲
2.3 室内楽曲
2.4 ピアノ曲
2.5 独唱曲
2.6 合唱曲
2.7 歌劇
3 編曲
4 著作
5 関連項目
6 外部リンク

経歴と音楽

出生
父シャームエル・シェーンベルク(Samuel Schonberg 1838年 - 1889年 [1])は代々ハンガリーのノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で、靴屋を営んでいた。母パウリーネ・ナーホト(Pauline Nachod 1848年 - 1921年)もプラハ出身のユダヤ人。

ウィーンにて生誕。初めはカトリックのキリスト教徒として育てられる。8歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶ。15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。余りにも前衛的な態度のためウィーンを追い出され、ベルリン芸術大学の教授に任命される時、プロテスタントに改宗、その後ナチのユダヤ政策に反対して1933年、ユダヤ教に再改宗している。

無調への試み
初期は「ペレアスとメリザンド」や「浄められた夜」など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。室内交響曲第1番は後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。1900年から書き始められ1911年に完成した『グレの歌』は、巨大な編成と長大な演奏時間をもち、カンタータ、オペラ、連作歌曲集などの要素が融合した大作である。しかし、基本的な構想は1901年までに書かれているため、音楽的には「ペレアスとメリザンド」などと同様後期ロマン派の様式となっており、ある意味、後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえる。しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられる。

若い頃の彼はブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。ブラームスとヴァーグナーという異なる傾向を結びつけるような音楽を書いた点はツェムリンスキーと共通している。

1909年に書かれた「3つのピアノ曲」Op.11や「5つの管弦楽のための小品」Op.16、モノドラマ「期待」Op.17では、多少調性の香りを残していたが、無調へと大きく踏み出して、様々な実験を試みていった。そして「6つの小さなピアノ曲」Op.19で、調性をほぼ完全に放棄するに至った。この実験から傑作歌曲集「月に憑かれたピエロ」(ピエロ・リュネール)が生まれる。

「月に憑かれたピエロ」は「期待」の成果を更に推し進めて生み出されたと言ってよいかも知れないが、着想などは更にユニークである。ラヴェルやストラヴィンスキーに影響を与え、前者が「マラルメによる3つの歌」を、そして後者が「紀貫之の短歌等による日本の3つの抒情詩」を作るきっかけとなった。そして後のブーレーズやファニホゥなどにも影響を与えた傑作である。物語の朗唱を室内楽で伴奏をするという方法が、かつてなかったとは言えないまでも、これほどにまで高められた作品は皆無で、またかつて無い効果をあげた伴奏の書法も全くユニークな傑作であった。

ただ、時代は無調の音楽に対する準備が出来ていたとは言えなかった。ストラヴィンスキーの「春の祭典」で大騒ぎとなるような時代で、無調の音楽は一部のサークルの中だけのことであった。ウィーンの私的演奏会で聴衆が怒り出してパニックになったり帰る人が続出したのは当然であった。しかし、指揮者のシェルヘンなどが積極的にこれらの音楽を後押しし、演奏してまわったことで、シェーンベルクなどの音楽が受け入れられるようになっていく。

同じ頃、弟子のアルバン・ベルクは「クラリネットとピアノのための4つの小品」Op.5や「管弦楽のための3つの小品」Op.6などで、無調(あるいは拡大された半音階主義)の作品を発表し、アントン・ヴェーベルンも師シェーンベルクにならって「6つの小品」Op.6を書いているが、シェーンベルクはバランス感覚に優れ、ベルクはより劇的で標題性を持ち、ヴェーベルンは官能的なまでの音色の豊穣さに特徴があり、明確な個性の違いがあるのは興味深い。

12音音楽の確立
1910年代後半、シェーンベルクは未完に終わった大作「ヤコブの梯子」に挑む。同じ頃、弟子のベルクは歌劇「ヴォツェック」Op.7を完成する。シェーンベルクらと始めた無調主義による傑作オペラの登場である。無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に、無調という方法に、調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるようになっていった。それが12音音楽であった。

重複しない12音を平等に使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。

この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが、「5つのピアノ曲」Op.23の第5曲「ワルツ」であった。1920年から1923年にかけて書かれたこの作品は、シェーンベルクの初めての12音音列による作品として重要である。「ワルツ」の完成は1923年2月とされているが、一説には全曲12音技法で書かれた「ピアノ組曲」op.25(1921年 - 1923年)の「プレリュード」が1921年7月に完成されており、こちらが最初の12音技法のよる作品であるとの説もある。ヴェーベルンも1924年、「子どものための小品」の中で12音音列を使った作品を書き、ベルクもすぐにその技法を部分的にとり入れている。

ただし、12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えない。ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、シェーンベルクより2年ほど前にトローペと言われる12音の音列による作曲法を考案している。1919年にハウアーが作曲した「ノモス」は、最初の12音音楽と見なされている。この年、シェーンベルクはこの作品を自身の演奏会で紹介しているが、ハウアーが12音音楽の創始者に固執したこともあり、シェーンベルクと、その理解者でベルクの弟子でもある哲学者・音楽学者のテオドール・アドルノの2人から酷評される。また、1930年代のナチスの台頭により退廃音楽家として排斥され、戦後に再評価されるまで全く忘却されてしまったこともあり、ハウアーが1920年代に果たした役割が過小評価されていることは否めない。

弟子のヴェーベルンが音楽をパラメータごとに分解してトータル・セリエリズムへの道を開き、形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、シェーンベルクは無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲している。また初期の無調音楽は部分的には機能和声で説明できるものが多く、マーラーやツェムリンスキーなど高度に複雑化した和声により調性があいまいになっていた後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置する。

厳格でアカデミックな教育方針は古典作品の徹底的なアナリーゼを基礎としていた。12音技法の開拓後はリズム、形式面で古典回帰が顕著で、彼自身も新古典主義との係わりを避けることは出来なかった。

美術をはじめとする芸術一般にも興味を持ち相互に影響した。シェーンベルクの描いた表現主義的な「自画像」は(メンデルスゾーンなどと同じく)画家としての才能も示している。ロシアの画家カンディンスキーはシェーンベルクのピアノ曲演奏風景をそのまま「印象・コンサート(1911年)」という作品にしている。

亡命と晩年
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れてアメリカに移住する。移住後も南カリフォルニア大学(USC)とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて教育活動を精力的に行い、弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソンなど、アメリカ現代音楽を代表する作曲家も含まれる。 USCにはリサイタルホールを擁するアーノルド・シェーンバーグ研究所(Arnold Schoenberg Institute)があり、UCLAには彼の生前の功績をたたえ、記念講堂が建造されている。

移住後は、「室内交響曲第2番」「主題と変奏」などの調性を用いた作品も作曲している。

また、他界する直前まで合唱曲「現代詩篇」を作曲していたが、未完に終った。戦後始まった第1回ダルムシュタット夏季現代音楽講習会からも講師として招待されたが、重い病気のためキャンセルした。

1951年7月13日、喘息発作の為、ロサンゼルスにて他界。享年77。

主な作品

管弦楽曲
交響詩「ペレアスとメリザンド」 op.5(1903/1913、1918改訂)
室内交響曲第1番 op.9(1906/1923改訂/1914、1935管弦楽版)
室内交響曲第2番 op.38(1906-1916、1939-1040)
5つの管弦楽曲 op.16(1909/1922改訂/1949小管弦楽版)
浄められた夜 op.4 (1917、1943弦楽合奏版)
管弦楽のための変奏曲 op.31(1926-1928)
映画の一場面への伴奏音楽 op.33(1929-1930)
組曲ト長調(弦楽合奏)(1934)
主題と変奏 op.43a(吹奏楽版:1943)/op.43b(管弦楽版:1944)

協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 op.36(1934-1936)
ピアノ協奏曲 op.42(1942)

室内楽曲
浄められた夜 op.4(弦楽六重奏版:1899)
弦楽四重奏曲第1番 ニ短調 op.7(1905)
弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 op.10(1907-1908/1929弦楽合奏版) ※ソプラノ独唱付き
弦楽四重奏曲第3番 op.30(1927)
弦楽四重奏曲第4番 op.37(1936)
弦楽四重奏曲第5番(断片)
弦楽四重奏、五重奏、七重奏、三重奏の数々の断片
弦楽三重奏曲 op.45(1946)
鉄の旅団(1916)
セレナード op.24(1920-1923)
クリスマスの音楽(1921)
管楽五重奏曲 op.26(1923-24)
7楽器の組曲 op.29(1924-1926)
ヴァイオリンのためのピアノ独奏付き幻想曲 op.47(1949)

ピアノ曲
3つのピアノ曲 op.11(1909)
6つのピアノ小品 op.19(1911)
5つのピアノ曲 op.23(1920-1923)
ピアノ組曲 op.25(1921-1923)
ピアノ曲 op.33a(1928)
ピアノ曲 op.33b(1931)

独唱曲
月に憑かれたピエロ(ピエロ・リュネール) op.21(1912)
2つの歌 op.14(1907-1908)
架空庭園の書 op.15(1908-1909)
心のしげみ op.20(1911)
4つのオーケストラ歌曲 op.22(1913-1916)
ナポレオンへの頌歌 op.41(1942)

合唱曲
地上の平和 op.13(1907)
グレの歌 (1900-1911)
ヤコブの梯子(1917-1922、未完)
4つの混声合唱曲 op.27(1925)
3つの風刺 op.28(1925)
6つの無伴奏男声合唱曲 op.35(1929-1930)
コル・ニドレ op.39(1938)
ワルシャワの生き残り op.46(1947)
現代詩篇 op.50c(1950-1951、未完)

歌劇
期待 op.17(1909)
幸福な手 op.18(1908-1913)
今日から明日まで op.32(1928-1929)
モーゼとアロン (1930-1932、未完)

編曲
チェロ協奏曲ト短調(モンの協奏曲による)(1912)
チェロ協奏曲(モンのチェンバロ協奏曲による)(1932-1933)
弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(ヘンデルの合奏協奏曲op.6-7による)(1933)
バッハ:コラール前奏曲BWV631の管弦楽編曲(1922)
バッハ:コラール前奏曲BWV654の管弦楽編曲(1922)
ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の室内楽編曲(1925)
バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調BWV552「聖アン」の管弦楽編曲(1928)
ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(1937)

著作
ここでは日本で出版されたものを紹介する。

『和声学 第1巻』(山根銀二訳/「読者の為の翻訳」社/1929) 第2巻が出版されたかは不明。原著は下の『和声法』と同一と思われる。
『作曲法入門』(中村太郎訳/カワイ楽譜/1966)
『和声法』(上田昭訳/音楽之友社/1968;1982新版)
『作曲の基礎技法』(G.ストラング、L.スタイン編 山県茂太郎、鴫原真一訳/音楽之友社/1971)
『音楽の様式と思想』(上田昭訳/三一書房/1973) 1950年にアメリカで出版されたStyle and Ideaからの抄訳。
『対位法入門』(山県茂太郎、鴫原真一訳/音楽之友社/1978)
シェーンベルク、カンディンスキー著、J.ハール=コッホ編『出会い——書簡・写真・絵画・記録』(土肥美夫訳/みすず書房/1985)

関連項目
Category:シェーンベルクの楽曲

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、アルノルト・シェーンベルク に関連するマルチメディアがあります。Arnold Schoenberg Center in Vienna (英語)
List of Links (compiled by Schoenberg's grandson Randol) (英語)
Complete Schoenberg Discography (英語)
Schoenberg's Paintings and Drawings (英語)
Arnold Schonberg (英語)

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7月13日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8813%E6%97%A5

できごと
1553年 - イングランドでメアリー1世が即位。イングランド初の女王。

1765年 - ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン・ウェントワースがイギリス首相に就任。

1772年 - レゾリューション号およびアドヴェンチャー号がジェームズ・クック率いる
2度目の太平洋探検のためプリマスを出港。

1837年 - ヴィクトリア英女王がバッキンガム宮殿に移り住む。
これ以降バッキンガムが英王室の常住の場となる。

1863年 - ニューヨーク徴兵暴動(New York Draft Riots)勃発、
南北戦争中の米ニューヨークでアイルランド系移民の労働者が徴兵反対を訴えた。

1864年(元治元年6月10日)- 明保野亭事件。

1870年 - 普仏戦争の原因となったエムス電報事件が起こる。

1878年 - ベルリン条約が締結。

1886年 - 日本標準時の基準を1888年1月1日から
東経135度の子午線とする事が勅令により定められた。

1893年 - パークナム事件。

1911年 - 第3次日英同盟協約締結。

1919年 - アメリカ合衆国が金本位制に復帰。

1930年 - サッカーの第1回ワールドカップがウルグアイで開幕。

1948年 - 優生保護法公布。

1966年 - 東京都教育委員会が次年度の都立高校入試から学校群制度導入を決定。

1977年 - ニューヨーク大停電、ニューヨークで落雷が原因の停電が起こり、
復旧までの3日間に900万人が影響を受けた。

1978年 - アルジェで第3回アフリカ競技大会が開幕。(7月28日まで)

1989年 - 群発地震が発生していた伊東市沖合の海底が噴火。

1993年 - イチローが野茂英雄からプロ入り初ホームラン。

1996年 - 大阪府堺市の小学校33校の
児童約300人が食中毒症状を訴え、病原性大腸菌O-157が検出される。
学校給食が原因と見られ、7月15日には市立小学校と養護学校の全92校が休校に。

2001年 - モスクワで開かれていた国際オリンピック委員会(IOC)総会で
2008年夏季オリンピックの北京開催が決定。

2003年 - 東京小6女児4人監禁事件発生。犯人は自殺。

2003年 - イラクの暫定統治機関としてイラク統治評議会が設置される。

2004年 - 平成16年7月新潟・福島豪雨による大規模水害発生。
新潟県三条市、中之島町などを中心に甚大な被害。

2006年 - 青森県立美術館が開館。

誕生日
紀元前100年 - ユリウス・カエサル、政治家(+ 紀元前44年)

40年 - グナエウス・ユリウス・アグリコラ、ローマ帝国ブリタニア総督(+ 93年)

1791年 - アラン・カニンガム、植物学者(+ 1839年)

1808年 - パトリス・マクマオン、フランス第三共和政第2代大統領(+ 1893年)

1815年(文化12年6月7日)- 梅田雲浜、儒学者(+ 1859年)

1841年 - オットー・ワーグナー、建築家(+ 1918年)

1882年 - 青木繁、画家(+ 1911年)

1918年 - アルベルト・アスカーリ、F1レーサー(+ 1955年)

1933年 - ピエロ・マンゾーニ、美術家(+ 1963年)

1935年 - 堺屋太一、作家・元経済企画庁長官

1936年 - 佐藤公博、元プロ野球選手

1937年 - 水野忠夫、ロシア文学者、翻訳者

1942年 - ハリソン・フォード、俳優

1943年 - 関口宏、俳優・タレント

1943年 - 阪本敏三、元プロ野球選手

1948年 - 中山千夏、小説家・元タレント・元参議院議員

1951年 - 福間納、元プロ野球選手
1952年 - 三宅民夫、NHKアナウンサー
1952年 - 鵜沢達雄、元プロ野球選手
1955年 - 達川光男、プロ野球選手・監督(元広島東洋カープ)
1958年 - 山口二郎、政治学者
1959年 - ファンキー末吉、ミュージシャン(爆風スランプ)
1961年 - 大槻東巳、物理学者、大槻義彦の息子。
1963年 - エリック宮城、トランペット奏者
1963年 - 水野良、作家・ゲームデザイナー
1964年 - 村田晃嗣、政治学者・同志社大学助教授
1965年 - 中森明菜、歌手
1966年 - 石川秀美、元アイドル
1967年 - 北斗晶、元女子プロレスラー
1968年 - 南央美、声優
1970年 - 石毛博史、元プロ野球選手
1971年 - 遠藤章造、タレント(ココリコ)
1972年 - 大地洋介、お笑い芸人(ダイノジ)
1974年 - ヤルノ・トゥルーリ、F1レーサー
1974年 - 川本成、タレント(あさりど)
1975年 - はやのん、漫画家
1975年 - 長谷川崇夫、歌手
1977年 - 鈴木紗理奈、タレント
1979年 - 井川慶、プロ野球選手(ニューヨーク・ヤンキース)
1979年 - 飯山裕志、プロ野球選手
1980年 - 中孝介、歌手
1981年 - ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ、レーシングドライバー
1982年 - 中川英之、サッカー選手
1983年 - 陳鏞基、野球選手
1985年 - 内竜也、プロ野球選手
1985年 - 上野なつひ、女優
1987年 - 及川夕依、ローカルタレント
1988年 - 五嶋龍、ヴァイオリニスト
1988年 - 渋谷飛鳥、タレント・女優・美少女クラブ31リーダー
1988年 - 仁藤拓馬、プロ野球選手
1988年 - 王靖超、野球選手

忌日
982年 - ギュンター、マイセン辺境伯

998年(長徳4年6月12日)- 寛朝僧正、真言宗の僧(* 916年)

1205年 - ヒューバート・ウォルター、カンタベリー大司教・大法官

1380年 - ベルトラン・デュ・ゲクラン、百年戦争期のフランス軍人(* 1320年)

1611年(慶長16年6月4日)- 真田昌幸、戦国武将(* 1547年)

1645年 - ミハイル・ロマノフ、ロシア帝国のツァーリ(* 1596年)

1673年(寛文13年5月29日)- 板倉重矩、江戸幕府老中・烏山藩主(* 1617年)

1685年(貞享2年6月12日)- 八橋検校、近代箏曲の父とされる検校(* 1614年)

1755年 - エドワード・ブラドック、イギリス軍の将軍(* 1695年?)

1761年(宝暦11年6月12日) - 徳川家重、江戸幕府第9代征夷大将軍(* 1711年)

1762年 - ジェームズ・ブラッドリー、天文学者(* 1693年)

1793年 - ジャン=ポール・マラー、フランス革命ジャコバン派の指導者(* 1745年)

1807年 - ヘンリー・ベネディクト・ステュアート、
ジャコバイトが支持するイングランドの王位継承権者(* 1725年)

1832年(天保3年6月16日)- 堀田正敦、江戸幕府若年寄・佐野藩主(* 1755年)

1849年(嘉永2年5月24日)- 橘守部、国学者(* 1781年)

1882年 - リンゴ・キッド、西部開拓時代のガンマン・アウトロー(* 1850年)

1885年 - アウグスト・ヴェラ、哲学者(* 1813年)

1886年 - 山内豊範、第16代土佐藩主(* 1846年)

1896年 - フリードリヒ・ケクレ、化学者(* 1829年)

1921年 - ガブリエル・リップマン、物理学者(* 1845年)

1924年 - アルフレッド・マーシャル、経済学者(* 1842年)

1943年 - ルッツ・ロング、陸上競技選手(* 1913年)

1945年 - アラ・ナジモヴァ、女優・脚本家・映画プロデューサー(* 1879年)

1945年 - ロスコー・ディッキンソン、化学者(* 1894年)

1946年 - アルフレッド・スティーグリッツ、写真家(* 1864年)

1951年 - アルノルト・シェーンベルク、作曲家(* 1874年)

1954年 - フリーダ・カーロ、画家(* 1907年)

1967年 - 吉野秀雄、歌人(* 1902年)

1970年 - レズリー・グローヴス、アメリカ陸軍の中将・マンハッタン計画指導者(* 1896年)

1970年 - 盛世才、新疆省の指導者(* 1897年)

1974年 - パトリック・ブラケット、実験物理学者(* 1897年)

1976年 - ヨアヒム・パイパー、ナチス・ドイツ武装親衛隊の大佐(* 1915年)

1977年 - ヘルマン・ケンペル、発明家(* 1892年)

1978年 - 畠山麦、俳優(* 1944年)

1980年 - セレツェ・カーマ、ボツワナ初代大統領(* 1921年)

1986年 - 神田隆、俳優(* 1918年)

1995年 - マッティ・ペロンパー、俳優(* 1951年)

1996年 - シンザン(競走馬)、三冠馬、長寿記録(* 1961年)

2002年 - ユーサフ・カーシュ、写真家(* 1908年)

2002年 - 林美雄、TBSアナウンサー(* 1943年)

2003年 - 坂口祐三郎、俳優(* 1941年)

2004年 - 森嶋通夫、経済学者(* 1923年)

2004年 - カルロス・クライバー、指揮者(* 1930年)

2006年 - レッド・バトンズ、コメディアン(* 1919年)

2006年 - 小谷輝二、元公明党衆議院議員(* 1926年)

2006年 - 谷口徹次、俳優(* 1936年)

2006年 - 宮田征典、元プロ野球選手(* 1939年)

2006年 - 坪内滄明、日本画家(* 1939年)

2007年 - 太田省吾、劇作家・演出家(* 1939年)

記念日・年中行事
日本標準時制定記念日(日本)
1886年7月13日に、東経135度を日本標準時とし、
1888年1月1日よりこれを実施するという内容の勅令第51号
「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」が公布されたことに由来。
これによって兵庫県明石市の正午が全国のどの地域でも正午となるということに定められた。

オカルト記念日(日本)
1974年7月13日に、オカルトブームの火つけ役となった
映画「エクソシスト」が日本で初公開されたことに由来。

生命尊重の日(日本)
1984年に、生命尊重の日実行委員会
(医師、法律家、教育者、主婦等で構成)が、優生保護法(現:母体保護法)
公布にちなみ定めた。

盆迎え火(日本)
盆の初日。家門で火をたき、祖先の霊を迎える。