東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月25日(金曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月25日(金曜日)

「7月」=夏です。
もう「25日」たちました。

あまりに時間のたつその速さに。
恐怖さえ感じます。

木々の若葉のいろは深緑に。
緑がますますあざやかになり。

空の色も。
まさしくも
夏の「空色」になってきました。
ミルクのはいったコバルトのような
空色です。

あさの04:00AMころは。
ほのかにくらくあおく
しだいに
そらがラピズラズリから
トルコ石にうつろうように。
そらがしらんできます。

夏をまつ大気からは。

まぢかいけれども。
「まだ本物の夏ではない」ことが
良くわかります。

池面の水面(みずおも)に
小さきみどり
なもしらぬ小さき若緑の浮き草
若草色にうきつあつまり
うかびうごきながれてとまりたり
水面(みずおも)にて
風とあそぶがごとし
わらべの如し

いざいまこそは
みどりよき季節にあらむ
水面(みずおも)なるそら
ふと空をみる

早朝(はやあさ)は
いまだはだのさむけれど
ぬくもりのあさ
陽のありがたき
あゆむごと陽はたかくなりけり
葉木は樹木にかわりたり
わがみちをあかるくてらせ
夏をいだく木みどり木

道端の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

うめの実うめの木たわわなり
みどりぎいらかをかぜはやみ
なつかぜひるむやうつろひの
ひとのつきひもはやいくとせ

地にも木にも
みどりの葉ひらき
みどり木ときわ木
ひろがりて
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
ゆたかなりけり夏

今年の春初夏の早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は寒いです。
「毎朝寒い」。
寒いと首都高の自動車も
「寒そうな運転の車」が多いです。

それでも「夏はきぬ」。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

-------------------------------

平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。

梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼に青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

「あまたある発明家」のなかで。
「本物の発明家」である。

メリカ海軍の士官、発明家。
モーター、電気鉄道、電気式エレベーター
の開発に貢献した人物。

彼の発明は、コンセプトが明確です。

交通機関の改善を通じて
都市の規模を拡大することを考え可能にした人物。

エレベーターを利用して
超高層建築物を建設することにより
商業の集積を可能にすることを考え可能にした
都市の発展に大きく貢献した人物。

このため、彼は「電気駆動の父」
(Father of Electric Traction)と呼ばれてる人物。

私は
フランク・スプレイグは。

「あまたある発明家」のなかで。
「本物の発明家」であると考えています。

1857年 - フランク・スプレイグ、発明家(+ 1934年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

フランク・ジュリアン・スプレイグ
(Frank Julian Sprague、1857年7月25日 -
1934年10月25日)は。
アメリカ海軍の士官、発明家です。

日本語ではSpragueを
「スプレーグ」と表記することもあります。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグの幼少期と教育
スプレイグは、コネチカット州ミルフォード
(Milford)で1857年に生まれました。

ドゥルーリー高校(Drury High School)に進学し、
数学に優いでていました。

1874年、
メリーランド州アナポリス(Annapolis)にある
アメリカ海軍兵学校への入学許可を得ました。

1878年にクラスで7番目の成績で卒業しています。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグのアメリカ海軍、発明家

彼はアメリカ海軍に少尉として任官しました。

海軍在籍期間中に
彼は最初にリッチモンド(USS Richmond)に乗り込み、
続いてミネソタ(USS Minnesota)に乗り込みました。

フランク・スプレイグの乗艦がロードアイランド州ニューポート(Newport)にいた
1881年新型の発電機を発明しました。

ヨーロッパ戦隊(European Squadron)の旗艦である
ランカスター(USS Lancaster)に異動した後
フランク・スプレイグ
は海軍の船に最初の電気式呼鈴を設置しました。

スプレイグは、1881年の
パリ電気博覧会(Paris Electrical Exhibition)と
1882年のイギリスシドナム(Sydenham)の水晶宮での博覧会に
出席するために休暇を取得しました。

水晶宮では、内燃機関や発電機、
照明器具に関する賞の審査員を務めました。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグの発展する電気産業への参入

1883年、トーマス・エジソンの同僚の
エドワード・ジョンソン(Edward H. Johnson)は
スプレイグに。
海軍を辞めてエジソンの研究所に来るように説得しました。

ニュージャージー州メンロパーク(Menlo Park)の
エジソン研究所での彼の貢献の一つに
数学的手法の導入が挙げられます。

彼が参加するまで、エジソンは費用の掛かる
実験の試行錯誤をかなりの数で実施していました。

スプレイグの方法では、数学を用いて最適な設定を計算し、
不必要な繰り返し実験を大幅に省略することができました。

また、エジソンが開発した中央変電所からの
送配電システムの修正など、
エジソン自身のために重要な貢献を行いました。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグは
1884年、彼は電気の他の分野に関心を移します。

スプレイグ電気鉄道・モーター会社
(Sprague Electric Railway & Motor Company)
を設立するためにエジソン研究所を離れました。

1886年までにスプレイグの会社は
-------------------------------
1・
固定ブラシで火花の出ない
定速回転モーターと。
2・
電気モーターで駆動される装置から
電力系統へ電力を返す回生技術。
(今現在ハイブリッド・カーで応用されている
「テクニック」です)
-------------------------------
という
2つの重要な発明を行いました。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグの
1・
彼の新しいモーターは負荷の変動に関わらず
定速で回転する初めてのものであったのです。

このモーターをみたエジソンから
唯一の実用的な電気モーターであると保証されました。
このモーターは直ちに普及しました。

2・
また回生技術は
電気鉄道や電気式エレベーターの開発にとって重要なもので
もあったのです。

++++++++++++++++++++++
フランク・スプレイグの
リッチモンドでのトロリーポールの発明

スプレイグはまた、
路面電車用の架線から集電する方式も発明しました。

ばねの力を利用した
トロリーポールは1880年に発明され[1]、
架線に沿って動かすために車輪を用いていました。
++++++++++++++++++++++

1887年後半から1888年初期にかけて、
このトロリーポールを用いてスプレイグは、
最初に成功を収めた路面電車システムである
リッチモンド・ユニオン旅客鉄道(Richmond Union Passenger Railway)
をバージニア州リッチモンド(Richmond)に敷設致します。

長らく交通の障害となってきた、リッチモンドの
10%を超える勾配のある丘は、
彼の新技術を他の都市に普及させるために
優れた実証場所となりました。

++++++++++++++++++++++
フランク・スプレイグは
その年内に、多くの都市でコストの掛かる
馬車鉄道から電気鉄道への置き換えが進みました。

1889年までに、各大陸でスプレイグの設備を備えた110もの
電気鉄道が運行を開始致しました。
あるいは計画されていました。

1890年に、スプレイグの発明に必要な設備のほとんどを
生産していたエジソンは彼の会社を買い取りました。

直ちに
スプレイグは次の関心を電気式エレベーターへ向けました。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグの
電気式エレベーター
リッチモンドの路面電車での
旅客輸送量の増大と高速化の経験を通じて。

スプレイグは同じような輸送の改善を電気式エレベーターにより
垂直方向の輸送でも達成できると考えるようになりました。

エレベーターの単位シャフトあたりの輸送能力を向上することで、
所要時間を短縮して乗客にとって利点となるばかりでなく。

水圧駆動式の遅く能力の低いエレベーターのために
フロア面積の広い部分をエレベーターシャフトが占めて、
結果としてビルの高さを制限していたことを改善すれば。

高いビルの収益を改善することもできると考えたのです。

++++++++++++++++++++++
1892年、スプレイグはスプレイグ電気式昇降機会社
(Sprague Electric Elevator Company)を設立し
、チャールズ・プラット(Charles R. Pratt)と共に
スプレイグ・プラット式電気エレベーターを開発しました。

階床制御の自動式エレベーターや
安全上のかごの加速度制御、
多くの貨物エレベーターなどを開発しました。

スプレイグ・プラット式エレベーターは
従来の水圧式や蒸気式のエレベーターに
比べて速く動作し搭載能力も大きく。

世界中で584台のエレベーターが設置されました。

スプレイグは1895年に会社を
オーチス・エレベータ・カンパニーに売却しました。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグの電気鉄道の総括制御

エレベーター制御に関する経験から。

スプレイグは電気駆動の開発をさらに進展させることになる、
電気鉄道の総括制御システムの開発に取り組みました。

総括制御システムでは
列車の各車両がモーターを搭載しています。

制御伝送線を通じてリレーを動作させることにより、
運転士は列車の全ての駆動モーターを
協調して操作することができます。

機関車を使用しない鉄道では、
全ての車両に乗客を乗せて収入を上げることができます。

また機関車を使用する鉄道でも、
1人の機関士が複数の機関車を同時に制御することができました。

++++++++++++++++++++++

スプレイグの総括制御システムへの最初の注文は、
イリノイ州シカゴのサウス・サイド高架鉄道
(South Side Elevated Railroad)からのものでした。

この鉄道は現在シカゴ・Lとして知られる
高架鉄道の一部でもあります。

シカゴでの成功により、ブルックリンやボストンで
総括制御システムの契約を獲得することができ
ました。

++++++++++++++++++++++

グランド・セントラル駅と高層ビルのエレベーター
1896年から1900年まで、
スプレイグはニューヨーク・セントラル鉄道(New York Central Railroad)
のターミナル電化委員会に加わりました。

この仕事には路側信号機に列車が従うことを保証する
運転保安装置を設計した
ニューヨークグランド・セントラル駅が含まれています。

彼はスプレイグ保安制御・信号会社
(Sprague Safety Control & Signal Corporation)を
設立してこのシステムを開発・製作致します。

++++++++++++++++++++++

第一次世界大戦の期間中、
スプレイグは海軍顧問委員会の仕事を致します。

続いて、1920年代に、彼はフロア面積を節約するために
1つのエレベーターシャフトで2つの独立したエレベーター、
各停用かごと急行用かごを安全に動かす方法を開発しました。

彼はこのシステムを、
エレベーターの加速度や速度が過大になったときに
自動的に動作するエレベーター保安システムと共に
ウェスティングハウス・エレクトリックに売却しました。

++++++++++++++++++++++

影響と表彰
スプレイグの電気駆動に関する開発の影響により、
都市規模の拡大が可能になると共に、
エレベータの開発が商業の更なる集積を可能にし
商業ビルの収益性を改善しました。

100年以上前のスプレイグの数々の発明が
現代のライトレールや地下鉄を可能にし、そ
れは今でも基本的に同じ原理で動いているのです。

スプレイグは1889年の
パリ電気博覧会(Paris Electrical Exhibition)で金賞、
1904年のセントルイス博覧会(St. Louis Exhibition)で大賞、
同年エリオット・クレッソンメダル(Elliott-Cresson Medal)、
1910年に「電気科学・電気工学・電気技術に対する賞賛に値する業績」で
アメリカ電気技術者協会
(American Institute of Electrical Engineers)
(後のIEEE)のエジソンメダル、1921年にフランクリンメダル(Franklin Medal)、
1935年にジョン・フリッツ・ゴールドメダル(John Fritz Gold Medal)
(死後贈呈)を、それぞれ受賞しました。

++++++++++++++++++++++

フランク・スプレイグ - ハリエット・スプレイグ
(Harriet Sprague)夫妻には、
ロバート(Robert)とジュリアン(Julian)
の2人の息子がいました。

ロバートは1935年に「フランク・スプレイグの生涯を通じて、
最後まで彼は驚くべき仕事の才能を発揮した」と書いています。
=>
「そして一度新しい発明や仕事に取り組むと、彼は疲れ知らずで
常に改良に取り組み続けました。彼
は素晴らしく注意深く、
中途半端に妥協することに我慢がならなかったのです。

仕事に対する彼の情熱は決して衰えず、
亡くなるほんの数時間前にも新しく設計した
彼の最新の発明品をベッドの脇に持ってくるように頼んだ。」

++++++++++++++++++++++

1934年のスプレイグの死後、彼の未亡人のハリエットは、
彼の集積した膨大な量の文献をニューヨーク公共図書館に寄贈し、
それは現在でも稀覯本部門で閲覧可能です。

彼はバージニア州アーリントン(Arlington)の
アーリントン国立墓地に葬られ、
ハリエットもまた1969年に亡くなった後その脇に葬られました。

++++++++++++++++++++++

1959年、ハリエット・スプレイグは、
ミルフォードにあるスプレイグの生家に近い、
コネチカット州イーストヘイブン(East Haven)にある
ショア・ライン路面電車博物館(Shore Line Trolley Museum
)にスプレイグ棟のための基金を寄贈しました。

この博物館は、アメリカ合衆国で
最も古い動態保存の路面電車の博物館であり、
また路面電車関連の製品を最も多く集めています。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
フランク・スプレイグ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B0

フランク・ジュリアン・スプレイグ(Frank Julian Sprague、1857年7月25日 - 1934年10月25日)は、アメリカ海軍の士官、発明家で、モーター、電気鉄道、電気式エレベーターの開発に貢献した人物である。彼の発明は、交通機関の改善を通じて都市の規模を拡大することを可能にし、エレベーターを利用して超高層建築物を建設することにより商業の集積を可能にしたという点で、都市の発展に大きく貢献した。このため、彼は「電気駆動の父」(Father of Electric Traction)と呼ばれている。

日本語ではSpragueを「スプレーグ」と表記することもある。

目次
1 幼少期と教育
2 アメリカ海軍、発明家
3 発展する電気産業への参入
4 リッチモンドでのトロリーポールの発明
5 電気式エレベーター
6 電気鉄道の総括制御
7 グランド・セントラル駅と高層ビルのエレベーター
8 影響と表彰
9 脚注
10 外部リンク

幼少期と教育
スプレイグは、コネチカット州ミルフォード(Milford)で1857年に生まれた。ドゥルーリー高校(Drury High School)に進学し、数学に優れていた。1874年、メリーランド州アナポリス(Annapolis)にあるアメリカ海軍兵学校への入学許可を得た。1878年にクラスで7番目の成績で卒業している。

アメリカ海軍、発明家
彼はアメリカ海軍に少尉として任官した。海軍在籍期間中、彼は最初にリッチモンド(USS Richmond)に乗り込み、続いてミネソタ(USS Minnesota)に乗り込んだ。彼の乗艦がロードアイランド州ニューポート(Newport)にいた1881年、彼は新型の発電機を発明した。ヨーロッパ戦隊(European Squadron)の旗艦であるランカスター(USS Lancaster)に異動した後、彼は海軍の船に最初の電気式呼鈴を設置した。スプレイグは、1881年のパリ電気博覧会(Paris Electrical Exhibition)と1882年のイギリスシドナム(Sydenham)の水晶宮での博覧会に出席するために休暇を取得した。水晶宮では、内燃機関や発電機、照明器具に関する賞の審査員を務めた。

発展する電気産業への参入
1883年、トーマス・エジソンの同僚のエドワード・ジョンソン(Edward H. Johnson)がスプレイグを、海軍を辞めてエジソンの研究所に来るように説得した。ニュージャージー州メンロパーク(Menlo Park)のエジソン研究所での彼の貢献の一つに、数学的手法の導入が挙げられる。彼が参加するまで、エジソンは費用の掛かる実験の試行錯誤をかなりの数で実施していた。スプレイグの方法では、数学を用いて最適な設定を計算し、不必要な繰り返し実験を大幅に省略することができた。また、エジソンが開発した中央変電所からの送配電システムの修正など、エジソンのために重要な貢献を行った。1884年、彼は電気の他の分野に関心を移し、スプレイグ電気鉄道・モーター会社(Sprague Electric Railway & Motor Company)を設立するためにエジソン研究所を離れた。

1886年までにスプレイグの会社は、固定ブラシで火花の出ない定速回転モーターと、電気モーターで駆動される装置から電力系統へ電力を返す回生技術という、2つの重要な発明を行った。彼の新しいモーターは、負荷の変動に関わらず定速で回転する初めてのものであった。このモーターは、エジソンに唯一の実用的な電気モーターであると保証され、直ちに普及した。また回生技術は、電気鉄道や電気式エレベーターの開発にとって重要なものであった。

リッチモンドでのトロリーポールの発明

1920年代のバージニア州リッチモンドの電気駆動路面電車。画像の電車は当時北米各地で使用されていたパーリー・トーマス社製の量産型。写っているのは8thストリートとブロードストリートの交差点。スプレイグはまた、路面電車用の架線から集電する方式も発明した。ばねの力を利用したトロリーポールは1880年に発明され[1]、架線に沿って動かすために車輪を用いていた。1887年後半から1888年初期にかけて、このトロリーポールを用いてスプレイグは、最初に成功を収めた路面電車システムであるリッチモンド・ユニオン旅客鉄道(Richmond Union Passenger Railway)をバージニア州リッチモンド(Richmond)に敷設した。長らく交通の障害となってきた、リッチモンドの10%を超える勾配のある丘は、彼の新技術を他の都市に普及させるために優れた実証場所となった。

その年内に、多くの都市でコストの掛かる馬車鉄道から電気鉄道への置き換えが進んだ。1889年までに、各大陸でスプレイグの設備を備えた110もの電気鉄道が運行を開始したか、あるいは計画されていた。1890年に、スプレイグの発明に必要な設備のほとんどを生産していたエジソンは彼の会社を買い取り、スプレイグは次の関心を電気式エレベーターへ向けた。

電気式エレベーター
リッチモンドの路面電車での旅客輸送量の増大と高速化の経験を通じて、スプレイグは同じような輸送の改善を電気式エレベーターにより垂直方向の輸送でも達成できると考えるようになった。彼は、エレベーターの単位シャフトあたりの輸送能力を向上することで、所要時間を短縮して乗客にとって利点となるばかりでなく、水圧駆動式の遅く能力の低いエレベーターのためにフロア面積の広い部分をエレベーターシャフトが占めて、結果としてビルの高さを制限していたことを改善して、高いビルの収益を改善することもできると考えた。

1892年、スプレイグはスプレイグ電気式昇降機会社(Sprague Electric Elevator Company)を設立し、チャールズ・プラット(Charles R. Pratt)と共にスプレイグ・プラット式電気エレベーターを開発した。彼の会社では、階床制御の自動式エレベーターや安全上のかごの加速度制御、多くの貨物エレベーターなどを開発した。スプレイグ・プラット式エレベーターは従来の水圧式や蒸気式のエレベーターに比べて速く動作し搭載能力も大きく、世界中で584台のエレベーターが設置された。スプレイグは1895年に会社をオーチス・エレベータ・カンパニーに売却した。

電気鉄道の総括制御
エレベーター制御に関する経験から、スプレイグは電気駆動の開発をさらに進展させることになる、電気鉄道の総括制御システムの開発に取り組んだ。総括制御システムでは、列車の各車両がモーターを搭載している。制御伝送線を通じてリレーを動作させることにより、運転士は列車の全ての駆動モーターを協調して操作することができる。機関車を使用しない鉄道では、全ての車両に乗客を乗せて収入を上げることができる。また機関車を使用する鉄道でも、1人の機関士が複数の機関車を同時に制御することができる。

スプレイグの総括制御システムへの最初の注文は、イリノイ州シカゴのサウス・サイド高架鉄道(South Side Elevated Railroad)からのものであった。この鉄道は現在シカゴ・Lとして知られる高架鉄道の一部である。シカゴでの成功により、ブルックリンやボストンで総括制御システムの契約を獲得することができ

グランド・セントラル駅と高層ビルのエレベーター
1896年から1900年まで、スプレイグはニューヨーク・セントラル鉄道(New York Central Railroad)のターミナル電化委員会に加わった。この仕事には、彼が路側信号機に列車が従うことを保証する運転保安装置を設計した、ニューヨークグランド・セントラル駅が含まれている。彼はスプレイグ保安制御・信号会社(Sprague Safety Control & Signal Corporation)を設立してこのシステムを開発・製作した。

第一次世界大戦の期間中、スプレイグは海軍顧問委員会の仕事をした。続いて、1920年代に、彼はフロア面積を節約するために1つのエレベーターシャフトで2つの独立したエレベーター、各停用かごと急行用かごを安全に動かす方法を開発した。彼はこのシステムを、エレベーターの加速度や速度が過大になったときに自動的に動作するエレベーター保安システムと共にウェスティングハウス・エレクトリックに売却した。

影響と表彰
スプレイグの電気駆動に関する開発の影響により、都市規模の拡大が可能になると共に、エレベータの開発が商業の更なる集積を可能にし商業ビルの収益性を改善した。100年以上前のスプレイグの数々の発明が現代のライトレールや地下鉄を可能にし、それは今でも基本的に同じ原理で動いている。

スプレイグは1889年のパリ電気博覧会(Paris Electrical Exhibition)で金賞、1904年のセントルイス博覧会(St. Louis Exhibition)で大賞、同年エリオット・クレッソンメダル(Elliott-Cresson Medal)、1910年に「電気科学・電気工学・電気技術に対する賞賛に値する業績」でアメリカ電気技術者協会(American Institute of Electrical Engineers)(後のIEEE)のエジソンメダル、1921年にフランクリンメダル(Franklin Medal)、1935年にジョン・フリッツ・ゴールドメダル(John Fritz Gold Medal)(死後贈呈)を、それぞれ受賞した。

フランク・スプレイグ - ハリエット・スプレイグ(Harriet Sprague)夫妻には、ロバート(Robert)とジュリアン(Julian)の2人の息子がいた。

ロバートは1935年に「フランク・スプレイグの生涯を通じて、最後まで彼は驚くべき仕事の才能を発揮した」と書いている。「そして一度新しい発明や仕事に取り組むと、彼は疲れ知らずで常に改良に取り組み続けた。彼は素晴らしく注意深く、中途半端に妥協することに我慢がならなかった。仕事に対する彼の情熱は決して衰えず、亡くなるほんの数時間前にも新しく設計した彼の最新の発明品をベッドの脇に持ってくるように頼んだ。」

1934年のスプレイグの死後、彼の未亡人のハリエットは、彼の集積した膨大な量の文献をニューヨーク公共図書館に寄贈し、それは現在でも稀覯本部門で閲覧可能である。彼はバージニア州アーリントン(Arlington)のアーリントン国立墓地に葬られ、ハリエットもまた1969年に亡くなった後その脇に葬られた。

1959年、ハリエット・スプレイグは、ミルフォードにあるスプレイグの生家に近い、コネチカット州イーストヘイブン(East Haven)にあるショア・ライン路面電車博物館(Shore Line Trolley Museum)にスプレイグ棟のための基金を寄贈した。この博物館は、アメリカ合衆国で最も古い動態保存の路面電車の博物館であり、また路面電車関連の製品を最も多く集めている。

1999年に、フランクとハリエットの孫のうちの2人、ジョン・L・スプレイグ(John L. Sprague)とピーター・スプレイグ(Peter Sprague)がテープカットを行い、ショア・ライン路面電車博物館の新しい展示品である1884年のスプレイグのモーターの運転を開始した。そこでは新しい常設展示として、「フランク・J・スプレイグ: 発明家・科学者・技術者」というコーナーが、電気が都市の発展に果たした役割と電気駆動の父が果たした役割を説明している。

脚注
[ヘルプ]
^ Boston Transit Milestones

外部リンク
アーリントン国立墓地のサイトの解説記事 (英語)
フランク・スプレイグに関する伝記記事 (英語)
ショア・ライン路面電車博物館 スプレイグに関する記事 (英語)
電気鉄道の始まり -蓄電池車から本格的市外電車まで- (日本語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B0" より作成
カテゴリ: 1857年生 | 1934年没 | コネチカット州の人物 | 工学者 | アメリカ合衆国の技術者 | アメリカ合衆国の発明家 | アメリカ海軍の軍人 | 鉄道技術者

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月25日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8825%E6%97%A5

できごと
306年 - コンスタンティヌス1世がローマ皇帝になる。

1261年 - ニカイア帝国がラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回し、
東ローマ帝国が復活(ユリウス暦)。

1581年 - オランダがスペインから独立。

1894年 - 朝鮮半島の豊島沖で日本軍と清軍による海戦が行われる。日清戦争の始まり。

1933年 - 山形市で気温摂氏40.8度を記録。
2007年8月16日までの日本の公式記録における最高記録。

1934年 - オーストリアのナチス党員がウィーンの首相官邸を襲撃して、ドルフス首相を暗殺。

1940年 - スイスの最高指導者であったアンリ・ギザン将軍の
「リュトリ演説」(スイスの自由と独立を守るための武装中立を宣言)。

1946年 - 史上5回目の核爆発(クロスロード作戦)。

1992年 - 第25回夏季オリンピック、バルセロナオリンピック開催。8月9日まで。

1998年 - 「和歌山毒物カレー事件」発生。和歌山市園部地区で、
夏祭りのため自治会の主婦らが作っていたカレーにヒ素化合物が混入される。
それを食べた住人らが腹痛などを訴え、4名が死亡。

1998年 - Microsoftから「Windows 98 日本語版」が発売された。

2000年 - コンコルド墜落事故。

2007年 - 朝青龍が、ケガをしているにもかかわらず、モンゴルでサッカーをし、
謹慎処分を受けた。その後、朝青龍は精神的な苦痛を訴えた。

誕生日
1562年(永禄5年6月24日) - 加藤清正、安土桃山時代の武将、大名(+ 1611年)

1857年 - フランク・スプレイグ、発明家(+ 1934年)

1903年 - 小磯良平、画家(+ 1988年)

1920年 - 林忠四郎、宇宙物理学者

1934年 - たてかべ和也、声優

1944年 - 中村紘子、ピアニスト

1948年 - ト字たかお、俳優

1951年 - 坂村健、TRONプロジェクト提唱者・東京大学教授

1952年 - 大北敏博、元プロ野球選手
1960年 - KONTA、俳優、声優、ミュージシャン
1960年 - 片山圭司、歌手、作曲家、ボイストレーナー(元BLUEW、spAed)
1961年 - ジャガー横田、プロレスラー
1964年 - 高島礼子、女優
1966年 - 高木渉、声優
1966年 - 原田明広、元プロ野球選手
1967年 - 若井伸之、レーサー(+ 1993年)
1969年 - 落合英二、元プロ野球選手
1970年 - 樫山圭、ミュージシャン(MOON CHILD)
1971年 - 井上一樹、プロ野球選手中日ドラゴンズ
1971年 - 椎木匠、元プロ野球選手
1972年 - 岡野雅行、サッカー選手
1973年 - 土肥洋一、サッカー選手
1973年 - 松戸直樹、レーサー
1974年 - 鈴木健想、プロレスラー
1974年 - 増田裕之、お笑いタレント(ルート33)
1977年 - 西尾由佳理、日本テレビアナウンサー
1977年 - 鈴木飛雄、俳優
1978年 - 山崎哲也、サッカー選手
1978年 - タケシタツヨシ、ミュージシャン(メレンゲ)
1978年 - 吉野真治、テレビ朝日アナウンサー
1979年 - 井上昌己、競輪選手・自転車競技選手
1981年 - 駒野友一、サッカー選手
1984年 - 成迫健児、陸上選手
1985年 - 松岡理穂、AV女優
1987年 - alan、歌手
1988年 - 朱大衛、プロ野球選手
1988年 - 西洋亮、俳優
1989年 - 藤村大介、野球選手

忌日
306年 - コンスタンティウス・クロルス、西ローマ帝国皇帝、
コンスタンティヌス朝の創始者(*250年)

1409年 - マルティーノ1世、シチリア王(* 1374年頃)

1492年 - インノケンティウス8世、第213代ローマ教皇(* 1432年)

1794年 - アンドレ・シェニエ、詩人(* 1762年)

1834年 - サミュエル・テイラー・コールリッジ、詩人(* 1772年)

1934年 - ネストル・マフノ、アナキズム活動家(* 1888年)

1934年 - エンゲルバート・ドルフス、オーストリア首相(* 1892年)

1944年 - ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、生物学者(* 1864年)

1974年 - 花菱アチャコ、漫才師(* 1897年)

1978年 - 古賀政男、作曲家(* 1904年)

1980年 - ヴラジーミル・ヴィソツキー、詩人・俳優・シンガーソングライター(* 1938年)

1984年 - 平田昭彦、俳優(* 1927年)

1986年 - ヴィンセント・ミネリ、映画監督(* 1903年)

1988年 - 箱崎晋一朗、歌手(* 1945年)

1995年 - 公文公、数学研究者(* 1914年)

1997年 - ベン・ホーガン、プロゴルファー(* 1912年)

2004年 - 下條正巳、俳優(* 1915年)

2005年 - ジョン・シュレシンジャー、映画監督(* 1926年)

2005年 - アルベルト・マンゲルスドルフ、ジャズトロンボーン奏者(* 1928年)

記念日・年中行事
最高気温記念日(日本)
1933年7月25日に、
山形県で当時日本最高記録である40.8度の気温が観測されたことに由来。

夏氷の日(日本)
夏氷(なつごおり)とはかき氷のこと。
7月25日の「725」が「ナツゴ」と読めること及びこの日が
最高気温記念日であることから、かき氷にふさわしいとして日本かき氷協会が制定。

共和国誕生記念日(チュニジア)
1957年7月25日に共和国宣言をし、共和国になったことに由来。
独立は1956年3月20日、フランスから。

聖ヤコブの祭日