東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月29日(火曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月29日(火曜日)

「7月29日」です。
いよいよ8月です。
「夏」も三分の二が終わりました。

夏至も6月にすぎました。

だから。
今陽は短くなり始めます
明らかに短くなり始めています。
朝の04:00amにはふたたび「真っ暗」
になりました。

これからは太陽は「秋」「冬」に向かいます。

8月=真夏に近くなります。
猛暑が心配です。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しも強いはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな7月おわりのひざしです。

ふとかんがえれば・・。
夏至もおわり。

真夏の太陽から若葉をまもる
「ソフトフイルター」の役目の
「おぼろくもりそら」。

自然とは・。
よくできたものです。
大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

街路樹もそうそうたる。
羽振りのよい木々になってきました。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような「常緑樹」では
冬はうっそうとして。
夏場は枝ぶり葉っぱから日の光を
さえぎれない。
とどのつまり
四季のリズムがあいません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」には木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉針葉樹で
強いからといって「からまつ」をうえられても
困ります。
私の「大好き」な北原白秋の「からまつの詩」
の「からまつ」は
街路樹にはそぐいません。

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北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
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      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

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木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで。
大きな里山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばのめばえがとてもとても
鮮烈です。

街角の雑草も花はおわり。
7月の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
ますます姿を大きくしています。

雑草も。
同じく夏草へと変貌しつつある。

朝暗いうちは。
まだまだ。はださむい気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。真夏竹。
とおくからもみえます。

風にうかれる夏竹(なつたけ)の
みどりのいらかのかぜはやみ
なつの陽ひるむやうつろひの
竹(たけ)のつきひもはやいくとせ

地にも空にも
みどり葉ひらき
みどり木夏空
ひろがりけり
ゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
夏ゆたかなりけり

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

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平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
今現在
知名度の高い作曲家ではありませんが。
今後に楽曲の演奏される機会はふえて
いくと私は考える作曲家。
1929年 - アーヴェト・テルテリャーン、作曲家(+ 1994年)
の生誕日です。
アヴェト・テルテリアンとも表記されます。
++++++++++++++++++++++

アーヴェト・テルテリャーン
(Avet Terterian aka Alfred Roubenovich Terterian
or Terteryan,
1929年7月29日 アゼルバイジャン、バクー -
1994年12月11日 ロシア、エカテリンブルク)は。

アルメニアの作曲家、ピアニスですト。

++++++++++++++++++++++

コンラート・アデナウアー*賞受賞。
(*参照)
ギヤ・カンチェリとは友人であり仲間でした。
アヴェト・テルテリアンとも表記されます。

テルテリャーンは8つの交響曲、
オペラ、いくつかの室内楽曲を作曲致しました。

交響曲の何曲かはレコーディングされています。

++++++++++++++++++++++

アーヴェト・テルテリャーンは
エカテリンブルクの国際音楽祭
「Avet Terterian's Lines」は
テルテリャーンの名前にちなんでいます。

++++++++++++++++++++++
アーヴェト・テルテリャーンの作品

作品リスト
チェロ・ソナタ(1956年初演)
弦楽四重奏曲第1番(1963年、2楽章)
オペラ『Ring of Fire』(1967年/1977年改訂、2幕) -
Boris Lavrenyovの小説他に基づく。
交響曲第1番(1969年、4楽章)
交響曲第2番(1972年、3楽章)
交響曲第3番(1975年、3楽章)
交響曲第4番(1976年、単一楽章)
交響曲第5番(1978年、単一楽章)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーに献呈。
バレエ『The Monologues of Richard III』(1979年、2幕) -
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲に基づく。
交響曲第6番(1981年、単一楽章)
オペラ『地震』(1984年、2幕)
ハインリヒ・フォン・クライストの『チリの地震』に基づく。
交響曲第7番(1987年、単一楽章)
交響曲第8番(1989年、単一楽章)
弦楽四重奏曲第2番(1991年)
交響曲第9番(1994年、未完)

++++++++++++++++++++++


コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー
(Konrad Hermann Joseph Adenauer,
1876年1月5日 - 1967年4月19日)は、
ドイツの政治家。西ドイツの初代連邦首相を
1949年から1963年に渡って務めたかたです。

また1951年から1955年には外相を兼任致します。

戦前はドイツ中央党に属し、戦後は
キリスト教民主同盟(CDU)の初代党首
になりました。

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アーヴェト・テルテリャーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%B3

アーヴェト・テルテリャーン(Avet Terterian aka Alfred Roubenovich Terterian or Terteryan, 1929年7月29日 アゼルバイジャン、バクー - 1994年12月11日 ロシア、エカテリンブルク)は、アルメニアの作曲家、ピアニスト。コンラート・アデナウアー賞受賞[1]。ギヤ・カンチェリとは友人であり仲間であった。アヴェト・テルテリアンとも表記される。

テルテリャーンは8つの交響曲、オペラ、いくつかの室内楽曲を作曲した。交響曲の何曲かはレコーディングされている[2]。

エカテリンブルクの国際音楽祭「Avet Terterian's Lines」はテルテリャーンの名前にちなんでいる[3]。

作品リスト
チェロ・ソナタ(1956年初演)
弦楽四重奏曲第1番(1963年、2楽章)
オペラ『Ring of Fire』(1967年/1977年改訂、2幕) - Boris Lavrenyovの小説他に基づく。
交響曲第1番(1969年、4楽章)
交響曲第2番(1972年、3楽章)
交響曲第3番(1975年、3楽章)
交響曲第4番(1976年、単一楽章)
交響曲第5番(1978年、単一楽章)ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーに献呈。
バレエ『The Monologues of Richard III』(1979年、2幕) - ウィリアム・シェイクスピアの戯曲に基づく。
交響曲第6番(1981年、単一楽章)
オペラ『地震』(1984年、2幕)ハインリヒ・フォン・クライストの『チリの地震』に基づく。
交響曲第7番(1987年、単一楽章)
交響曲第8番(1989年、単一楽章)
弦楽四重奏曲第2番(1991年)
交響曲第9番(1994年、未完)

脚注
^ [1]Петр Поспелов, "Не надо преувеличивать свое значение на этой земле", Коммерсантъ-Daily, 16.12.1994 г.
^ 『Terterian: Symphony Nos. 3 & 4』Loris Tjeknavorian指揮、アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団(Asv Living Era、1997年)、『Terterian: Symphonies 7 & 8』Dmitry Liss指揮、ウラル・フィルハーモニー管弦楽団(Megadisc、2000年)、『Terterian: Symphonies Nos. 3 & 6』(Bmg、1999年)、『Music from Tajikistan, Georgia, Azerbaijan, Armenia』(第3番を収録)
^ Avet Terterian's Lines

外部リンク
Sikorski - 詳細な作品リスト(PDF形式)
TERTERIAN.ORG, dedicated to the great composer Avet Terterian
Avet Terterian (from the Soviet Composers Web page)
Description of Symphonies 3 and 6, Review of Melodiya CD
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%B3" より作成

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
コンラート・アデナウアー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC

コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー[1](Konrad Hermann Joseph Adenauer, 1876年1月5日 - 1967年4月19日)は、ドイツの政治家。西ドイツの初代連邦首相を1949年から1963年に渡って務めた。また1951年から1955年には外相を兼任した。戦前はドイツ中央党に属し、戦後はキリスト教民主同盟(CDU)の初代党首。

目次
1 経歴
1.1 ケルン市長
1.2 初代連邦首相
1.3 アデナウアー外交
1.4 退陣と余生
2 表彰
3 人物
4 注

経歴

ケルン市長
父はケルンの控訴審裁判所の書記官ヨハン・コンラート・アデナウアー、母はヘレーネ(旧姓シャルフェンベルク)。五人兄弟の三番目として生まれた。宗派はカトリックである。1894年3月5日にケルンのアポステルギムナジウムでアビトゥーアを取得。1894年から1897年までフライブルク大学、ミュンヘン大学、ボン大学で法学と経済学を学ぶ。1897年に第一次、1901年に第二次法曹国家資格試験に合格し、ケルンで公務員として試補採用された。1903年から1905年までケルン上級裁判所に判事として勤務する。1904年にエンマ・ヴァイヤーと結婚し、三人の子どもをもうけた。1906年にドイツ中央党へ入党した。1909年にケルン市助役。エンマは1916年10月6日に死亡し、1919年にアウグステ・ツィンサーと再婚して五児をもうける。

中央党の政治家として1917年から1933年までケルン市長。就任当時は41歳と、ドイツの大都市では最も若い市長だった。1918年にはプロイセン枢密院終身議員に選出される。しかしその年11月の第一次世界大戦の敗北でその称号は有名無実になった。敗戦直後の混乱期、中央党はラインラント地方の分離運動をしたためアデナウアーもその一味として攻撃されたが、これは濡れ衣である。1922年から1933年にはプロイセン枢密院議長を務める。ヴァイマール共和国時代には何度か首相候補として取りざたされたが、彼はケルン市長の座に満足しておりこれを固辞していた。ケルン市長としては、戦後の混乱期に食糧確保に意を砕いたり、古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードやシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興したなどの功績がある[2]。

彼はナチ党の台頭を苦々しく思っており、1931年にその支持者が勝手に橋に党旗を掲げた時は撤去させた。しかし1933年にナチスは政権を掌握。その年アデナウアーはケルンを訪問したヒトラーとの握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン枢密院議長の座を追われた。翌年ヒトラーが反対派を粛清した「長いナイフの夜」の直後には二日間拘留された。アデナウアーは引退して年金生活に追い込まれたが、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件の直後にも、かつて彼が作ったメッセの跡地に置かれた強制収容所に入れられた。病気を理由に病院へ移され、そこから脱走して再び逮捕されるも、11月に釈放された。

初代連邦首相
第二次世界大戦後、進駐したアメリカ軍はアデナウアーを再びケルン市長に任命したが、代わって進駐したイギリス軍により食糧供給の不備を理由に更迭された。さらには占領軍に禁止されていた政党活動の咎で、再び引退生活に追い込まれる。これはアデナウアーがフランスと組んでラインラントに独立国を作るのを防ぐ目的があったという。引退中もアデナウアーはドイツキリスト教民主同盟(CDU)の設立に尽力する。アデナウアーが戦前所属した中央党はカトリック政党であったが、戦後、プロテスタントとともにキリスト教に基づいた政治を目指し、キリスト教民主同盟として生まれ変わり、その創設者のひとりとなった。

西ドイツ(西側連合国占領地)で行われた1949年8月の第一回ドイツ連邦議会選挙に出馬し当選、CDUの連邦幹事長となり、9月15日の議会での投票でドイツ社会民主党(SPD)候補のクルト・シューマッハーに競り勝って初代連邦首相に選出され、翌日初代連邦大統領テオドール・ホイスにより正式に任命された。当時はまだ西ドイツに防衛・外交の自主権はなく、連合国が管掌していた。同年西ドイツの首都がフランクフルト・アム・マインでなくボンになったことに、アデナウアーは大きく影響を与えている。1950年にはCDUが全国組織として発足し、アデナウアーは初代党首に就任する。

アデナウアーは1953年、1957年、1961年の連邦議会選挙を勝ち抜き、14年に渡って連邦首相を務めることになった[3]。とりわけ1957年の選挙ではCDUとキリスト教社会同盟(CDUのバイエルン地域政党)CSUが連邦議会議席の半数を獲得した。西ドイツの再建を指導し、ルートヴィヒ・エアハルトを重用して経済成長に寄与した。

ベルリンにある独仏関係修復記念碑。右がアデナウアー、左がドゴール

アデナウアー外交
1951年に西ドイツの外交主権が回復されると、外務大臣を兼任したアデナウアーはフランスをはじめとする旧連合国との和解に強力な指導力を発揮し、1955年5月5日に連合国とパリ条約を締結して主権を正式に回復、1963年ドイツとフランスはエリゼー条約(ドイツ・フランス友好条約)に調印した。この条約にはフランス大統領シャルル・ド・ゴールとの個人的友好関係が大きく寄与したといわれる[4]。経済的にもマーシャル・プランを基に経済復興を進め、欧州石炭鉄鋼共同体、欧州経済共同体、欧州原子力共同体に加盟。この外交関係は現在の欧州連合へと発展していく。1954年には、ヨーロッパの理念と平和に貢献した人を称えるカール賞(シャルルマーニュ賞)をアーヘン市から受賞した。

アデナウアー政権下で西ドイツは再軍備を許され[5]、北大西洋条約機構(NATO)に加入した。一方でアデナウアーは、ソビエト連邦や東側諸国との国交を結んだ。1955年にはモスクワを訪問しソ連に残っていたドイツ人戦争捕虜の帰国を実現した。但しハルシュタイン原則を掲げ、ソ連軍占領地に誕生した東ドイツは承認せず、また1955年にBNDを創設し、翌年にはドイツ共産党を非合法化するなど、共産主義に心を許していたわけではない。

1952年3月27日、ミュンヘン警察署でアデナウアー宛の小包が爆発し、警官一人が死亡した。捜査の結果この犯行にはイスラエルのユダヤ人テロ組織イルグンやその指導者メナヘム・ベギン(のち同国首相)の関与が明らかとなったが、ナチスによるホロコーストの記憶も生々しい当時、両国の間で外交問題に発展することを避けるため、事件背景は発表はされず容疑者はイスラエルに国外追放された。この措置にイスラエル初代首相ダヴィド・ベン=グリオンは感謝したといわれる。1955年にはイスラエルとルクセンブルク協定を結び、ホロコースト生存者に対して一人当たり3000マルク、総計34億5000万マルクを支払った。1960年にはニューヨークのウォルドルフ=アストリアホテルでベン=グリオンと初会談し、巨額の借款を実現した。さらに、1966年にはドイツの重鎮政治家として初めてイスラエルを訪問している。但しニュルンベルク法制定に関わった人物(ハンス・グロプケ)を激しい批判にも関わらず連邦首相府長官として重用し続けるなど、その姿勢は批判を受けた。

2ドイツマルク硬貨の裏面にあしらわれたアデナウアーの横顔(1969年発行)

退陣と余生
1959年ごろから、アデナウアーの威信は低下し始める。この年、連邦大統領を2期勤め引退するテオドール・ホイスの後任大統領としてエアハルトを据えようとしたが、これは「経済の奇跡」の立役者として人気を博し、アデナウアーの後継者と目されていたエアハルトを棚上げして自身の政権の延命を図るためだった。当時83歳[6]だった老宰相のこの態度が周囲の猛反対を受けると、アデナウアーは今度は「大統領が首相の職務に介入できる」ことを条件に自らが大統領になろうとするが、これも猛反発を受けて撤回。結局、ハインリッヒ・リュプケを候補者とすることで落ち着いた。

1961年、ベルリンの壁が建設された際、アデナウアーはベルリンに赴かず強い批判を受ける。当時西ベルリン市長であったヴィリー・ブラントが事態をよく把握し西ドイツ国民の支持を集める一方、アデナウアーは「首相はどこに行った」と批判を受けた。アデナウアー自身、ブラントの人気に「西ドイツの首相は誰だ」と強く嫉妬心を抱いたといわれる。政府の意のままにならないドイツ公共放送連盟(ARD)に対抗する国営放送創設の企ても、連邦憲法裁判所に違憲とされ失敗した。1962年には雑誌『デア・シュピーゲル』の編集者および記者が国家反逆罪のかどで警察に逮捕されるスキャンダルがあり、この逮捕をアデナウアーが承認したことが明らかになり、フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国防相の首を差し出して切り抜けたものの、指導力の低下は覆うべくもなかった。この年には初めての心臓発作を起こし健康不安も重なり、翌年連邦首相辞任・エアハルトへの禅譲を余儀なくされた。

しかしアデナウアーはなおもCDU党首の座に1966年まで留まった。更に連邦議会議員も辞任せずその死去まで務めたが、当時の91歳という年齢はドイツ連邦議会史上最高齢である。1967年4月19日午後1時21分、インフルエンザに心臓発作を併発したアデナウアーは自宅で死去した。最後の言葉は"Da jitt et nix zo kriesche!"(泣くことなど何も無い!)だった。故郷のケルン大聖堂で国葬が行われ、その棺はドイツ連邦軍の高速艇でライン河を運ばれ、自宅近くの墓地に埋葬された。

メルセデス・ベンツ300D「アデナウアー」
表彰
1919年、自らが再建したケルン大学から名誉博士号を与えられる。その後も同大学の各学部に三度に渡って名誉博士号を授与され、哲学、政治学、医学、法学などその名誉博士号は多岐にわたる。1955年にはローマ教皇ピウス12世から、教会に馬で乗り入れる特権(Ritter vom Goldenen Sporn)を与えられた。またアデナウアーはケルンの名誉市民ともなっている。

ケルン・ボン空港には彼の名が冠されている。またドイツの各都市では例外なく彼の名を冠した大通りや橋、建築物を目にすることができる。その名を冠した財団もある。メルセデス・ベンツにも彼の名を愛称に持つ型がある。

2003年11月、ドイツのテレビ局ZDFの番組「偉大なドイツ人」の視聴者投票で、アデナウアーはドイツの歴史を通じて最も偉大な人物に選ばれた。タブーであるヒトラーは言うに及ばず、侵略主義的なビスマルクへの忌避感も強い現在のドイツでは、まずまず順当な選出と言える。

コンラート・アデナウアー薔薇

人物
二度の結婚で8人の子供をもうけた。最初の妻エンマは画廊主の娘で、1916年に36歳で病死。二番目の妻アウグステ(「グッシー」)はゲシュタポに逮捕された時に体調を崩し、1948年に死去している。孫の一人がノルトライン=ヴェストファーレン州ギュータースローの郡議会で議員を務めている。

政治家の傍ら、発明家としても活動した。第一次世界大戦時の食糧難に対応して大麦の加工食品や大豆製ソーセージを発明(特許をとったのは一件のみ)。ナチスにより引退生活に追い込まれていた時には「害虫防止ブラシ」「車のライトに幻惑されないメガネ」など珍発明を連発し出願したが、いずれも特許権は認められなかった。庭いじりが好きでバラの新種を開発し「アデナウアーのバラ」と名付けられた。

晩年よく休暇を過ごした北イタリアのスポーツ、ボッチャにはまり、自宅や首相官邸に競技場を作ったほどだった。

経済再建の目標として日本の教育勅語のドイツ語訳を執務室の壁に掲げていた[要出典]。在任時期・敗戦からの復興という時代背景・外交方針・剛腕という共通点から、日本の吉田茂首相と比較するむきも多い。2歳違いの二人は、没年も同じである。


^ ドイツ語での発音に従えば「アーデナウア」と表記したほうが正確だが、日本では慣用的に「アデナウアー」と表記されている。
^ 一方でカトリック中央党の政治家として反キリスト教的・「反道徳的」な芸術には厳しく臨み、ブレヒトの劇「三文オペラ」のセリフを変更させたり、バルトークの「中国の不思議な役人」の上演を禁止したり、印象派画家オットー・ディクスの作品を美術館から撤去させたりした。
^ ヘルムート・コールが1982年から1998年まで5期16年務めるまで、ドイツの民選宰相としては最長記録だった。
^ 但し政治に容喙してナチスの台頭を許した元軍人の大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクを引き合いに出して、軍人が大統領になることには懸念をもっていたという。
^ アデナウアーは1949年に既に西ドイツの再軍備を主張していたが、表面上はNATO諸国の要望によるものという形式をとっていた。1950年、再軍備に抗議してCDUの重鎮グスタフ・ハイネマン内相が辞任している。1951年に連邦国境警備隊が、1955年11月12日にドイツ連邦軍が創設され、アデナウアーの主張が実現した。
^ アデナウアーは首相就任時にすでに73歳だった。ドイツ政治では円熟は求めても「活きの良さ」を重視する傾向があり、アデナウアー以外に70代の人物が連邦首相を務めたことはない。

先代:
— ドイツ連邦共和国首相
初代: 1949 - 1963 次代:
ルートヴィヒ・エアハルト
先代:
— ドイツ連邦共和国外務大臣
初代: 1951 - 1955 次代:
ハインリッヒ・フォン・ブレンターノ
先代:
— キリスト教民主同盟党首
初代: 1950 - 1966 次代:
ルートヴィヒ・エアハルト

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カテゴリ: 出典を必要とする記事 | ドイツの政治家 | 1876年生 | 1967年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

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7月29日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8829%E6%97%A5

できごと
1659年 - コノトプの戦い

1858年(安政5年6月19日)- 日米修好通商条約締結。

1921年 - ヒトラーがナチス党党首に就任。

1937年 - 通州事件

1948年 - 第14回夏季オリンピック、ロンドンオリンピック開催。8月14日まで。

1966年 - ボブ・ディラン、
ニューヨーク州ウッドストック近郊でオートバイ転倒事故を起こし、重傷を負う。

1967年 - アメリカ海軍・航空母艦『フォレスタル』が
北ベトナム攻撃中のトンキン湾上で爆発事故を起こし乗員死者132名、負傷者62名
を出す大惨事が発生、艦後部を大破する。

1969年 - エルサルバドル軍、ホンジュラス領内から撤退。サッカー戦争が終結。

1981年 - ダイアナ妃、チャールズ・マウントバッテン=ウィンザー(イギリス皇太子)と結婚。

1989年 - 映画「魔女の宅急便」(宮崎駿監督)が劇場公開。

2001年 - 第19回参議院議員通常選挙投票日。
小泉ブームの影響を受け、自民党だけで改選64議席、与党で78議席の大勝。

2007年 - 第21回参議院議員通常選挙投票日。
自民党が改選37議席の大敗、与党の過半数割れ。

誕生日
1166年 - アンリ2世、シャンパーニュ伯(+1197年)

1655年(明暦元年6月26日)- 京極高豊、第2代丸亀藩主(+ 1694年)

1794年 - トマス・コーウィン、アメリカ合衆国財務長官(+ 1865年)

1883年 - ベニート・ムッソリーニ、ファシズム創始者として知られる政治家(+ 1945年)

1887年 - 重光葵、外交官・政治家(+ 1957年)

1907年 - 江田三郎、政治家(+ 1977年)

1920年 - ヘルベルト・ケーゲル、指揮者(+ 1990年)

1929年 - アーヴェト・テルテリャーン、作曲家(+ 1994年)

1937年 - 橋本龍太郎、第82・83代内閣総理大臣(+ 2006年)

1947年 - せんだみつお、タレント

1948年 - 山際淳司(犬塚進)、作家(+ 1995年)

1948年 - 山田久志、元プロ野球選手、元中日ドラゴンズコーチ・監督、野球解説者

1951年 - 片山善博、政治家
1951年 - ゲーリー・トマソン、元プロ野球選手
1953年 - 大滝進矢、声優
1954年 - 秋吉久美子、女優
1954年 - 志位和夫、政治家
1955年 - ジャン=ユーグ・アングラード、映画俳優
1957年 - 岸田文雄、政治家
1958年 - 三屋裕子、元バレーボール選手
1959年 - ジョン・サイクス、ギタリスト
1960年 - 飯泉嘉門、徳島県知事
1960年 - 下村健一、市民メディア・アドバイザー
1962年 - だいもん孝之、放送作家
1962年 - 高木美保、女優
1965年 - チャンネ・リー、小説家
1965年 - 林部直樹、ギタリスト(米米CLUB)
1967年 - 羽田雄一郎、政治家
1967年 - 小野塚晃、フュージョンミュージシャン(DIMENSION)
1970年 - 鳥居千穂、バレーボール選手
1971年 - 吉岡雄二、プロ野球選手
1971年 - 村田渚、お笑いタレント(+ 2006年)
1972年 - 脇阪寿一、レーシングドライバー
1973年 - 門倉健、プロ野球選手
1973年 - 啄木鳥しんき、漫画家
1974年 - 泉健太、政治家
1974年 - 武雄山喬義、大相撲力士・大鳴戸親方
1974年 - 坂上香織、女優
1974年 - 石川雅之、漫画家
1974年 - 衣川幸夫、元プロ野球選手
1975年 - 秋山成勲、格闘家
1975年 - 日暮茶坊、小説家、シナリオライター
1975年 - セス・グライシンガー、プロ野球選手
1976年 - 朝山東洋、元プロ野球選手
1977年 - 姫川きらら、漫画家
1977年 - 星野智樹、プロ野球選手
1978年 - 遠山卓也、ミュージシャン(ケイタク)
1979年 - 瀬下豊、お笑いタレント(天竺鼠)
1979年 - 吉川元浩、プロ野球選手
1981年 - フェルナンド・アロンソ、レーシングドライバー
1982年 - 香葉村多望(シュノーケル)、ミュージシャン
1982年 - 松家卓弘、プロ野球選手
1982年 - 大廣翔治、プロ野球選手
1982年 - 葉山エレーヌ、アナウンサー
1983年 - 石渡ひろみ、女優、タレント
1981年 - 日日日、小説家
1986年 - 森福允彦、プロ野球選手
1988年 - とみ、オレスカバンド
1990年 - 今井龍世、ジャニーズJr.
1999年 - 甲地夏波、子役女優・モデル
生年不明 - 谷沢直、漫画家
生年不明 - AZUKI七、作詞家(GARNET CROW)
生年不明 - 石上裕一、声優
生年不明 - 喜多修平、歌手

忌日
238年 - プピエヌスとバルビヌス、ローマ皇帝

1095年 - ラースロー1世、ハンガリー王(* 1040年)

1099年 - ウルバヌス2世、第159代ローマ教皇(* 1042年)

1108年 - フィリップ1世、フランス王(* 1052年)

1230年(寛喜2年6月18日)- 北条時氏、鎌倉幕府六波羅探題北方(* 1203年)

1236年 - インゲボルグ、フランス王フィリップ2世の妃(* 1175年)

1644年 - ウルバヌス8世、第235代ローマ教皇(* 1568年)

1688年(貞享5年7月3日)- 堀田正英、江戸幕府若年寄・北条藩主(* 1638年)

1811年 - リチャード・バチェ、第2代アメリカ合衆国郵政長官(* 1737年)

1813年 - ジャン=アンドシュ・ジュノー、ナポレオン戦争期のフランス軍人(* 1771年)

1833年 - ウィリアム・ウィルバーフォース、イギリスの政治家・奴隷制廃止論者(* 1759年)

1844年 - フランツ・クサーヴァー・モーツァルト、作曲家(* 1791年)

1850年 - リュシアン・ボナパルト、フランス内相・カニノ公(* 1775年)

1856年 - ロベルト・シューマン、作曲家(* 1810年)

1890年 - フィンセント・ファン・ゴッホ、画家(* 1853年)

1894年 - 白神源次郎、日本陸軍の喇叭手(* 1868年)

1894年 - 木口小平、日本陸軍の喇叭手(* 1872年)

1895年 - ジョゼフ・ドランブール、言語学者(* 1811年)

1898年 - ジョン・ニューランズ、化学者(* 1837年)

1900年 - ウンベルト1世、第2代イタリア王(* 1844年)

1906年 - アレクサンドル・ルイジーニ、作曲家(* 1850年)

1913年 - トビアス・アッセル、法律家(* 1838年)

1921年 - ヘルマン・バーフィンク、神学者・牧師(* 1854年)

1924年 - 西村天囚、ジャーナリスト(* 1865年)

1934年 - 久米桂一郎、画家(* 1866年)

1938年 - ヤン・ベルジン、ソ連軍参謀本部情報総局長(* 1889年)

1944年 - 上原敏、歌手(* 1908年)

1953年 - リチャード・ピアース、航空工学者(* 1877年)

1956年 - ルートヴィヒ・クラーゲス、哲学者・心理学者(* 1872年)

1962年 - ロナルド・フィッシャー、遺伝学者・優生学者・統計学者(* 1890年)

1969年 - 村上武次郎、冶金学者(* 1882年)

1970年 - ジョン・バルビローリ、指揮者(* 1899年)

1973年 - ロジャー・ウィリアムソン、F1ドライバー(* 1948年)

1973年 - セシル・グリフィス、陸上競技選手(* 1901年)

1974年 - 神田茂、天文学者(* 1894年)

1974年 - エーリッヒ・ケストナー、作家(* 1899年)

1975年 - ジェイムズ・ブリッシュ、SF作家(* 1921年)

1976年 - ミッキー・コーエン、ギャング(* 1913年)

1978年 - ウンベルト・ノビレ、探検家(* 1885年)

1979年 - ヘルベルト・マルクーゼ、哲学者(* 1898年)

1981年 - 加藤喜美枝、美空ひばりの母(* 1913年)

1983年 - ルイス・ブニュエル、映画監督(* 1900年)

1983年 - デヴィッド・ニーヴン、俳優(* 1910年)

1989年 - 辰巳柳太郎、俳優(* 1905年)

1990年 - ブルーノ・クライスキー、元オーストリア首相(* 1911年)

1990年 - 天野公義、政治家(* 1921年)

1990年 - 稲村佐近四郎、政治家(* 1917年)

1993年 - アナトリー・ヴェデルニコフ、ピアニスト(* 1920年)

1994年 - ドロシー・ホジキン、化学者(* 1910年)

1994年 - 木田三千雄、俳優(* 1912年)

2003年 - アハメド・フォディ・サンコー、シエラレオネの反政府組織指導者(* 1937年)

2005年 - カールハインツ・ツェラー、フルート奏者(* 1928年)

2006年 - 長谷川良平、元プロ野球選手(* 1930年)

2006年 - 網干善教、考古学者(* 1927年)

2007年 - ミシェル・セロー、俳優(* 1928年)

2007年 - 高橋直、元調教師(* 1925年)

記念日・年中行事
アマチュア無線の日(日本)
1954年のこの日に、電波法改正されたことに伴う
アマチュア無線電波開放を記念して、
1973年に日本アマチュア無線連盟が制定。
アマチュア無線の健全な発達と、知識の普及を目的とする。

バッファローチキンウイングデー(バッファローチキンウイングの日)