東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月30日(水曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月30日(水曜日)

今朝晴れて。

そろそろと静かながらに。
真夏のかおりが。
ただよいはじめています。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
七月もうすぐおわりです。
あさってかた「8月」
夏が三分のニおわりました。

そして。
「今年も半分+一ヶ月」おわりました。

7月の初夏の気配から真夏の気配が
次第に強くなるように。

感じられるような気がします。

日中の空高くはは。
「夏の大気」でひそみ。
みちあふれ。
吐息が雨になりおちてくるような感じです。

「8月まじか」になりました。
盛夏間近い。

木々のめぶきは
夏の息吹を力強く感じます。

けれども早朝はまだまだ「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。
百姓のうまれなので「冷夏」が心配ですが。

やはり夏。あつくなるでしょう。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏の青い「木」にかわりました。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
若葉にそだち。
若葉は若枝となり。
若枝は天高くすこやかにのび。
ますますに
山椒(さんしょう)木のみどり葉
がとても奇麗です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる
夏来る(きたる)らむ
あおくそら
みどりにさんしょう
かがやけり

さんしょう木
もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
わかば葉はいずるは花ならむ
夏(なつ)まつ枝は幹ならむ
いざいまこそは
空(そら)たかくもえたたむ
さんしょう木
さんしょうの木

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

夏浮き草の水面(おも)に
めだかのむれははしりたり
むれおよがむめだか
ちいさきめだかに
おおきないのち
夏のいのちはぐくまむ

けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。

小さななつみつけたから
しだいに大きな夏みつけた
大きな大きな夏みつけたはまだ
小さい夏みつけた・は。

ちょっと「怖い気」がする
まもなく夏深しです

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
は終わりました。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
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7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
=>
は終わりました。

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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

その作品の人体は穴が開いているか、
空洞を含んでいることが特徴的で有名な彫刻家。

大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力により。
報酬は豊でありその生涯の後半には。
美術家としては
並外れて財力豊かになっつた
「英国:United Kingdom UK」の彫刻家。

けれども質素な生活を死ぬまで送った彫刻家。

そして
その富のほぼすべてを「財団」の基金として寄付された彫刻家。

すべからくの報酬を。
美術教育や普及の支援のために使った彫刻家。

1898年 - ヘンリー・ムーア、彫刻家(+ 1986年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore、
1898年7月30日〜1986年8月31日)は
20世紀のイギリスを代表する高名な芸術家・彫刻家です。

炭鉱夫の息子としてヨークシャーの
キャッスルフォードで生まれました。

++++++++++++++++++++++

ヘンリー・ムーアは
大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られます。
イギリスの美術界から大いに援助を受けてきた彼は。

イギリスにモダニズム美術を紹介するのに
大きな役割を果たしました。
そして結果
イギリス美術を国際的なものにすることに
大きく貢献するに致しました。

++++++++++++++++++++++

ヘンリー・ムーアは。
大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力が
ありました

彼はその生涯の後半に美術家としては
並外れて財力豊かになりました。

しかし、
彼は質素な生活を死ぬまで送りました。

その富のほぼすべてが
「ヘンリー・ムーア財団」の基金として寄付されました。

美術教育や普及の支援のために使われています。

++++++++++++++++++++++

ヘンリー・ムーアの
彼の特徴的な作品は。
「穴が貫通している横たわる像(横たわる人体)」
が特徴であり有名です。

当初はオルメカ文明、
トルテカ文明やマヤ文明などの石像、
とりわけ1925年にパリで見た、
チチェン・イッツアから出土した
チャック・モールの石膏模型から大きな影響を受けました。

++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアの
最初の「横たわる像」は
体の横でひじを付いて曲げた腕が
空洞をかたち作るものでした。

後の「横たわる像」では、
凹凸のある表面のある量塊を探求するかのように、
胴体に直接穴があけられた抽象的な形態になっています。

これらの極端な穴は、
同時代の優れたイギリス人彫刻家バーバラ・ヘップワースの作品と
同時並行で試みられたものでした。

ヘップワースは、ヘンリー・ムーアの
初期の個展の展覧会評を誤読して、
ためしにトルソに穴を開けてみたといわれます。

++++++++++++++++++++++

彫刻
ムーアは、パブリック・アートとして
世界中にたくさん設置されている
ブロンズ製の抽象的なモニュメントで
世間によく知られています。

その題材はふつう抽象化された人体像
とりわけ「母と子」や「横たわる像」です。

興味深いことに、1950年代に家族群像に少し手を出した以外、
その題材はほとんどいつも女性の体でした。

ムーアのつくる人体は穴が開いているか、
空洞を含んでいることが特徴的です。

多くの人々は、横たわる人体の起伏にとんだ形を
ムーアの生まれたヨークシャーの。

丘の連なる風景から参照されたものだと
解釈しています。

++++++++++++++++++++++

ヘンリー・ムーア
彼の姪が「なぜそんな簡単な題名なのか?」と
尋ねたとき。

「芸術というものは種のミステリーと観客を引きつける
要素をもっているべきである。はじめから謎を明かすような、
あまりに直接的なタイトルを付けると
観客がその意味を深く考える間もなく
次の作品に目を移してしまうであろう。
まぁ見ていることには違いないが
実際は見てはいないのと同じである。」
と答えたということです。

++++++++++++++++++++++

ムーアの初期の作品は
模型を作らず直接作品を彫ること
(ダイレクト・カーヴィング)に
焦点を置いています。

ムーアが木や石の塊を何度も彫る事で彫刻の形が
次第にできあがってくるものでした。

++++++++++++++++++++++

ヘンリー・ムーアは
1930年代にムーアはハムステッドで供に暮らしながら、
お互いに新しい考え方に共感するヘップワースや
他の数人の芸術家とモダニズムへ移行していきます。

ムーアはおのおのの彫刻をする準備として多くのスケッチや素描を描きました。

これらのスケッチは現存しており、
彼の創作に対する方向性をかいま見ることができます。

1940年代の終わり頃には粘土や石膏を使った
模型(マケット)を作ってから、
蝋型法(Lost wax technique)でブロンズ像の鋳造の
仕上げに入るようになっていきました。

++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは
第二次世界大戦後、ムーアのブロンズ像は、
特にパブリック・アート制作の注文に応えて
、モニュメント並みの規模になっていきました。

その作業をこなすため直彫りをあきらめ雛形を作るため
助手を何人か雇い入れることになりました。

++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは
ハートフォードシャーのマッチ・ハダム
(Much Hadham)の町に買った農家の住まいには、
自然のオブジェ
(頭蓋骨、流木、小石、貝殻)がコレクションされ、
そういった有機体の形からインスピレーションを得ていたと
考えられます。

特に大規模な作品の場合、
まず半分のサイズの模型を造ってから
スケールアップしていくという手法をちりました。
鋳造の前に
実物大の石膏模型が作られることも多かったのです。

最終的な形の調整、チェックを行っていたのです。

++++++++++++++++++++++
遺産

二つの部分からなるナイフ・エッジ ? (1962)
ブロンズ、ロンドン、ウエストミンスターの
国会議事堂近く晩年にいたる
30年間も同様なものであったのです。

その間何回かの大きな回顧展が世界中で開かれました。

1970年の終わりまでに年間約40回の展覧会が行われました。

とりわけ1972年フィレンツェを見下ろす
ベルベデーレ砦の広場での展覧会は大きなものでした。

仕事の量は増え続け、
1962年にはロンドンの国会議事堂のそばの敷地に
「2つの部分からなるナイフ・エッジ」を完成させました。
++++++++++++++++++++++

ムーアは次のようにコメントしています。

「上院の近くの敷地を示されたとき、
そこが非常に気に入りハイドパークの
代替地はわざわざ見に行かなかった。
大きな公園の中にぽつんと置かれた彫刻は見失われがちになる。
上院の方はそうではなく、人通りのある通りのそばで歩きながらでも、
あるいはベンチに腰掛けてゆっくり考えながら眺めることもできる。」

++++++++++++++++++++++
彼は自分の資産が劇的に増えていくにつれて、
自身の生活は相変わらずだったが、
遺産については心配しはじめました。

1972年娘のメアリーの支援もあり相続税対策とし
てヘンリー・ムーア・トラストを作りました。
1977年まで彼は年間約100万ポンドの税を払っていたが
その負担を軽減するためイリーナ、メアリーを受託者として
チャリティ事業組織としてヘンリー・ムーア財団を設立しました。

財団は大衆への芸術教育とムーアの彫刻の保存を活動目的としており、
現在ギャラリーとムーアの工房の博物館であるホグランド(Hoglands)を運営しています。

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ヘンリー・ムーアは
1951年にナイトの称号を与えらえようとしたが
辞退しています。

その後1955年コンパニオンオブオーナ勲位と
1963年にメリット勲位を受けています。

1986年8月31日、
ハートフォードシャーの自宅で永眠、88才でした。

遺体はセントポール寺院の芸術家のコーナーに葬られています。

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ヘンリー・ムーア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2

ヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore、1898年7月30日〜1986年8月31日)は20世紀のイギリスを代表する高名な芸術家・彫刻家であった。 炭鉱夫の息子としてヨークシャーのキャッスルフォードで生まれ、大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られる。イギリスの美術界から大いに援助を受けてきた彼は、イギリスにモダニズム美術を紹介するのに大きな役割を果たし、イギリス美術を国際的なものにすることに大きく貢献した。

大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力により、彼はその生涯の後半に美術家としては並外れて財力豊かになった。しかし、彼は質素な生活を死ぬまで送り、その富のほぼすべてが「ヘンリー・ムーア財団」の基金として寄付され、美術教育や普及の支援のために使われている。

彼の特徴的な作品は、穴が貫通している横たわる像(横たわる人体)である。当初はオルメカ文明、トルテカ文明やマヤ文明などの石像、とりわけ1925年にパリで見た、チチェン・イッツアから出土したチャック・モールの石膏模型から大きな影響を受けた。最初の「横たわる像」は体の横でひじを付いて曲げた腕が空洞をかたち作るものだった。後の「横たわる像」では、凹凸のある表面のある量塊を探求するかのように、胴体に直接穴があけられた抽象的な形態になっている。これらの極端な穴は、同時代の優れたイギリス人彫刻家バーバラ・ヘップワースの作品と同時並行で試みられたものだった。ヘップワースは、ヘンリー・ムーアの初期の個展の展覧会評を誤読して、ためしにトルソに穴を開けてみたといわれる。

衣装をまとって横たわる三つに分かれた人体(Three Piece Reclining Figure Draped、1976年、マサチューセッツ工科大学内目次 [非表示]
1 彫刻
2 伝記
2.1 幼年、少年期
2.2 大学時代
2.3 ハムステッドでの生活
2.4 戦争画家
2.5 国際的な認知
2.6 遺産
3 常設展示

彫刻
ムーアは、パブリック・アートとして世界中にたくさん設置されているブロンズ製の抽象的なモニュメントで世間によく知られている。その題材はふつう抽象化された人体像、とりわけ「母と子」や「横たわる像」である。興味深いことに、1950年代に家族群像に少し手を出した以外、その題材はほとんどいつも女性の体だった。ムーアのつくる人体は穴が開いているか、空洞を含んでいることが特徴的である。多くの人々は、横たわる人体の起伏にとんだ形を、ムーアの生まれたヨークシャーの、丘の連なる風景から参照されたものだと解釈している。

彼の姪が「なぜそんな簡単な題名なのか?」と尋ねたとき「芸術というものは種のミステリーと観客を引きつける要素をもっているべきである。はじめから謎を明かすような、あまりに直接的なタイトルを付けると観客がその意味を深く考える間もなく次の作品に目を移してしまうであろう。まぁ見ていることには違いないが実際は見てはいないのと同じである。」と答えたという。

ムーアの初期の作品は模型を作らず直接作品を彫ること(ダイレクト・カーヴィング)に焦点を置いており、ムーアが木や石の塊を何度も彫る事で彫刻の形が次第にできあがってくるものだった。(たとえば、1932年のハーフ・フィギュア(Half-figure)を参照。 1930年代にムーアはハムステッドで供に暮らしながら、お互いに新しい考え方に共感するヘップワースや他の数人の芸術家とモダニズムへ移行していく。ムーアはおのおのの彫刻をする準備として多くのスケッチや素描を描いた。これらのスケッチは現存しており、彼の創作に対する方向性をかいま見ることができる。1940年代の終わり頃には粘土や石膏を使った模型(マケット)を作ってから、蝋型法(Lost wax technique)でブロンズ像の鋳造の仕上げに入るようになっていった。

第二次世界大戦後、ムーアのブロンズ像は、特にパブリック・アート制作の注文に応えて、モニュメント並みの規模になっていった。その作業をこなすため直彫りをあきらめ雛形を作るため助手を何人か雇い入れることになる。

ハートフォードシャーのマッチ・ハダム(Much Hadham)の町に買った農家の住まいには、自然のオブジェ(頭蓋骨、流木、小石、貝殻)がコレクションされ、そういった有機体の形からインスピレーションを得ていた。特に大規模な作品の場合、まず半分のサイズの模型を造ってからスケールアップしていくという手法をとった。鋳造の前に実物大の石膏模型が作られることも多く最終的な形の調整、チェックを行っていた。

伝記

Three Way Piece No. 2 (The Archer) (1964-65) ブロンズ, トロント 市役所プラザ

幼年、少年期
ムーアはイギリスのウエスト・ヨークシャーのキャッスルフォードで、レイモンド・スペンサー・ムーアとメアリー・ベイカーの8人の子供の7人目として生まれた。彼の父親はキャッスルフォードのWhekdale炭坑の下級のマネージャーから鉱山技師になった人物である。 彼は音楽や文学に関心を持っていたが独学であったため、子供らには公的な教育を受けさせ上達させるよう腐心した。

ムーアはわずか11才の時、中学校で粘土や木による造形を美術教師に褒められたのをきっかけに彫刻家になることを決心した。早くから前途有望であったにもかかわらず、両親は彫刻を手工業的な労働として認めなかった。

1917年、18歳になると第一次世界大戦を戦うために徴兵された。彼は所属するライフル部隊の中で最も若かった。その後の戦いの中で毒ガスにより傷害を受けてしまうが回復は早く戦争の残りの期間、体育インストラクターとして過ごすことになる。同時代の平均的な人に比べ彼の戦争体験はおだやかなものであった。彼は当時を回顧して「私にとって戦争体験は漠然と英雄になろうと夢見ていたように思う。」と言っている。

戦後、退役軍人の手当を受け取ったあとリーズ芸術学校の彫刻の最初の生徒となった。学校は彼のために彫刻のアトリエを作らねばならなかった。

大学時代

大きな四つの部分からなら横たわる像 (1973) ブロンズ, サンフランシスコ、ルイス・デイビス・シンフォニーホールリーズ学校で、ムーアは長年の友となるバーバラ・ヘップワースと出会った。 さらに幸運にも副学長であったマイケル・サドラー卿の紹介によるアフリカの民俗彫刻にも出あうことになる。

1921年にはロンドンの王立芸術大学(Royal Collage of Art:RCA)で学ぶための奨学金を得る。 ロンドンで過ごす間、彼はヴィクトリア&アルバート美術館と大英博物館で民俗学資料の収集を行い原始的な美術、彫刻についての知識を蓄積していった。 ムーアとヘップワースの初期の彫刻はロマン主義のビクトリア朝スタイルに従ったものであり主題は自然のかたちや風景、象徴的な動物のモデリングであった。ムーアは古典的な考え方をだんだん不快に感じるようになっていった。プリミティブ主義に対する関心とコンスタンティン・ブランクーシ、ヤコブ・エプスタイン、フランク・ドブスンなど他の彫刻家などの影響もあり彼は直彫り(ダイレクト・カーヴィング)のスタイルを開拓していく。 完成した直彫り彫刻には材料の欠点や工具の削り痕などが残ったものとなる。 そういった現代風の方法を評価しない学校の指導教官との争いも起こった。

ハムステッドでの生活

ムーアの最初の公共の仕事Moore' 西の風 (1928-29) は8個の風のレリーフの一つで他の彫刻は同時代の彫刻家の作品であるロンドンへ戻るとすぐに RCAで教育する側になり7年間にわたり講義をおこなった。講義は週2日でよかったため自分の仕事に多くの時間を使うことができた。1929年7月には絵の学生であったイリーナと結婚した。イリーナは1907年3月26日にキエフでポーランド系ロシア人の両親から生まれた。ロシア革命の中で彼女の父親は行方不明となり母はイギリスの陸軍士官と再婚しパリへ避難した。 イリーナはその1年後にパリへ密入国し16才になるまでパリの学校で学んだ。その後、継父の親戚と住むため彼の故郷であるバッキンガムシャーへ行くことになる。このような問題の多い幼年期を過ごしたため彼女は多少内向的な性格であったとのことである。しかしムーアとの結婚生活が彼女の心に安らぎもたらし明るく振舞うようになった。

結婚してすぐに二人はハムステッドに移り住んだ。そこは前衛的な芸術家たちが小さな集団を作りそこを根城に活動を始めている場所であった。ほどなくヘップワースと彼女のパートナー、ベン・ニコルソンが引っ越してきた。ナウム・ガボや美術評論家のハーバート・リードもまたその地区に住んでいた。このことはアイデアのさかんな交流をもたらすとともにリードによるムーアの知名度の向上をもたらした。

1930年代の初めムーアはチェルシー芸術学校の彫刻学科の責任者となった。ムーアとヘップワース他のメンバーはフランスへ度々旅行しピカソやアルプ、ジャコメッティなどフランスの芸術家と会うことで影響を受け、より抽象的な作品を生み出すようになった。1933年、ムーアはポール・ナッシュとともシュルレアリスムにも手を出しそのグループであるユニット・ワンに入った。

二つの部分からなる横たわる像 No. 5, Bronze (1963?64), ケンウッドハウスのグランド, ロンドン

戦争画家
この創造的で生産的な期間は第二次世界大戦の勃発で終わってしまう。チェルシー芸術学校はノーサンプトンへと疎開させられムーアは教職を辞すことになった。戦争中ムーアは戦争画家に任じられ、空襲を避けロンドン地下鉄や防空壕などで寝泊まりするロンドンっ子の絵を力強くたくさん描いた。[1] その成果は彼の国際的、特にアメリカでの評判を高めることになった。

ハムステッドの彼らの家は爆撃で破壊されたためムーアとイリーナはロンドンを脱出しハートフォードシャーのマッチ・ハダムという小さな村の農家に移った。そこは彼にとって最後の作業場、そして安住の地となった。その後の人生で大きな富も得ていくがより広いところへ引っ越ししようとも、たくさん建て増ししようともせず、作業場をわずかに変更する程度であった。

国際的な認知
戦後、数回の流産ののちイリーナは娘メアリーを出産した。1946年3月7日のことであった。 この子は数年前に亡くなったムーアの母親の名前を譲り受けた。ムーアは母の死と娘の誕生で家族への思いやりの心を一層強くし、母と子供の像の増産に拍車がかかった。もっとも依然として横たわる像もポピュラーではあったのだが。 同じ年、ニューヨーク近代美術館の自分の回顧展の為アメリカへ最初の訪問をした。また1948年にはヴェネツィア・ビエンナーレ展で国際彫刻賞を受賞している。

家族 (1950) ブロンズ, バークレイ学校、大戦後の最初の大きな依頼案件戦争の終わりごろ、州立大学の教育を改善しようとしていたヘンリー・モーリスが接触してきた。 ケンブリッジ近くに2番目の大学を建てるにあたりヴァルター・グロピウスに建物を、ムーアに大規模な公共彫刻を依頼してきた。残念ながら州議会はグロピウスの設計の全体像を認可する余裕がなく当人がアメリカ移住してしまったこともあり計画を縮小してしまった。ムーアへの彫刻依頼も資金難からキャンセルされ計画は初期段階でストップしてしまった。幸い1950年、スティビニッジに作られたニュータウンの中学校のためにその時のデザインを再利用することができムーアにとってのプロジェクトは完了した。このとき制作した「家族」は最初の大きな公共の場所のブロンズ像となった。

1950年代にムーアはパリのユネスコの建物(1957年)を含めますます重要な依頼を受けるようになった。多数の公共の彫刻の依頼でムーアの作品はますますスケールアップしてゆき、アンソニー・カロを含め多数の助手を雇うようになった。

シカゴ大学のキャンパスでは、1967年12月2日午後3時36分、エンリコ・フェルミの率いる物理学者のチームが史上初の自立的核分裂連鎖反応を起こすことに成功してからちょうど25年経ったその時刻に、かって大学のフットボールグラウンドであった場所、すなわち核実験がその地下で行われた場所の真上で、ムーアの像「核エネルギー」(アトム・ピース)が公開された。広場の真ん中にある12フィートの像の上部は象の頭蓋骨のデッサンからインスピレーションを受けたきのこ雲を連想させるフォルムから成立つ。しかしムーアの解釈は異なり、「まわりの広いスペースにも目をむけ、その周りを巡りながら教会の中にいるような気持ちになってほしい」と友人に語ったという。 [2]

1968年、エラスムス賞受賞

遺産

二つの部分からなるナイフ・エッジ ? (1962) ブロンズ、ロンドン、ウエストミンスターの国会議事堂近く晩年にいたる30年間も同様なものであった。その間何回かの大きな回顧展が世界中で開かれた。1970年の終わりまでに年間約40回の展覧会が行われた。とりわけ1972年フィレンツェを見下ろすベルベデーレ砦の広場での展覧会は大きなものであった。

仕事の量は増え続け、1962年にはロンドンの国会議事堂のそばの敷地に「2つの部分からなるナイフ・エッジ」を完成させた。ムーアは次のようにコメントしている。

「上院の近くの敷地を示されたとき、そこが非常に気に入りハイドパークの代替地はわざわざ見に行かなかった。大きな公園の中にぽつんと置かれた彫刻は見失われがちになる。上院の方はそうではなく、人通りのある通りのそばで歩きながらでも、あるいはベンチに腰掛けてゆっくり考えながら眺めることもできる。」

彼は自分の資産が劇的に増えていくにつれて、自身の生活は相変わらずだったが、遺産については心配しはじめた。1972年娘のメアリーの支援もあり相続税対策としてヘンリー・ムーア・トラストを作った。1977年まで彼は年間約100万ポンドの税を払っていたがその負担を軽減するためイリーナ、メアリーを受託者としてチャリティ事業組織としてヘンリー・ムーア財団を設立した。財団は大衆への芸術教育とムーアの彫刻の保存を活動目的としており、現在ギャラリーとムーアの工房の博物館であるホグランド(Hoglands)を運営している。

1951年にナイトの称号を与えらえようとしたが辞退している。その後1955年コンパニオンオブオーナ勲位と1963年にメリット勲位を受けている。

1986年8月31日、ハートフォードシャーの自宅で永眠、88才であった。遺体はセントポール寺院の芸術家のコーナーに葬られている。

常設展示

オンタリオ・アート・ギャラリーのムーアコレクション、公共のものとしては世界最大のもの
ネルソン・アトキンズ美術館
ヘンリー・ムーア財団(英語)
ヘンリー・ムーア研究所(イギリス)
テート・ギャラリー、(イギリス、ロンドン)
オンタリオ美術館(カナダ)
ヨークシャー・スカルプチャー・パーク(イギリス)
オールブライト=ノックス美術館、バッファロー(ニューヨーク)
ウェークフィールド市画廊(イギリス)
国立国際美術館
兵庫県立美術館
大分県立芸術会館
広島市現代美術館
広島県立美術館
静岡県立美術館
富山県立近代美術館
福島県立美術館
山梨県立美術館
大原美術館
徳島県立近代美術館
彫刻の森美術館
長島美術館(鹿児島)

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カテゴリ: イギリスの彫刻家 | エラスムス賞 | 1898年生 | 1986年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

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7月30日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8830%E6%97%A5

できごと
1281年 - 元軍再来して博多湾に暴風雨が吹く。

1419年 - 一回目のプラハの窓外放出事件起こる。

1609年 - タイコンデロガ(現在のニューヨーク州)でサ
ミュエル・ド・シャンプランがイロコイ連邦の2人の族長を射殺。
その後のフランス・イロコイ関係を方向づける。

1629年 - イタリア・ナポリで地震。1万人が死亡。

1733年 - 最初のフリーメイソンのロッジが現在のアメリカでオープン。

1756年 - バルトロメオ・ラストレッリがロシア皇帝エリザヴェータに新築のエカテリーナ宮殿を贈る。

1825年 - ライン諸島のマルデン島が発見される。

1912年 - 元号を明治から大正に改元。

1930年 - モンテビデオでの決勝で、ウルグアイ代表が
最初のサッカー・ワールドカップ優勝を決める。

1932年 - 第10回夏季オリンピック・ロサンゼルスオリンピック大会開催。8月14日まで。

1945年 - 日本の伊号第五八潜水艦が
アメリカの巡洋艦インディアナポリスを撃沈させる。乗員883人が死亡。

1953年 - 力道山が日本プロレスの設立を発表するセレモニーを開催。

1954年 - エルヴィス・プレスリーが初めて公の場でパフォーマンス。

1966年 - ウェンブレー・スタジアムで、
ホスト国イングランドがドイツを破りサッカー・ワールドカップ優勝。

1969年 - ヴェトナム戦争中、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が
南ヴェトナムを突然訪問。グエン・バン・チュー大統領と会談。

1971年 - 岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突。
162人が死亡(全日空機雫石衝突事故)。

1971年 - アポロ15号が月面着陸。初めて月面車が使われる。

1974年 - アメリカのリチャード・ニクソン大統領が、
最高裁判所で命じられていたホワイトハウスの録音テープを公表。(ウォーターゲート事件)

1976年 - 日本共産党が自由と民主主義の宣言を採択

1978年 - 730、沖縄県交通方法変更。(自動車右側通行から左側通行に)

1980年 - バヌアツがイギリス・フランス両国より独立。

1987年 - 赤道ギニアでテオドロ・オビアン・ンゲマが赤道ギニア民主党結成。

1988年 - 北陸自動車道が全線開通(計画路線延伸前の新潟黒埼IC〜米原JCT間)

1990年 - 最初のサターン車が出荷。

1991年 - ルチアーノ・パヴァロッティがロンドンのハイド・パークで
フリーコンサートを開催。15万人を動員。

1992年 - TWA843便大破事故

1995年 - 八王子スーパー強盗殺人事件

1997年 - イェルサレムで14人が死亡する同時自爆テロ。

1997年 - オーストラリア・スレドボで地滑り発生。18人死亡。

1998年 - 小渕恵三内閣発足。

2002年 - 上場企業会計改革および投資家保護法(サーベンス・オクスリー法)が成立。

2003年 - 最後の「旧式」フォルクスワーゲン・ビートルがメキシコで出荷される。

2004年 - 参議院議員・扇千景が女性初の参議院議長に就任。

2004年 - ベルギーのガス爆発で16人が死亡。

2006年 - 42年間続いたBBCの音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」が最終回を迎える。

2006年 - レバノン侵攻: イスラエルによってカナ空爆が行われる。

誕生日
1511年 - ジョルジョ・ヴァザーリ、画家・建築家(+ 1574年)

1579年(天正7年7月7日)- 徳川秀忠、江戸幕府第2代征夷大将軍(+ 1632年)

1698年(元禄11年6月23日)- 立花貞俶、第5代柳河藩主(+ 1744年)

1786年 - ゲオルク・アンドレアス・ガプラー、哲学者(+ 1853年)

1818年 - エミリー・ブロンテ、小説家(+ 1848年)

1857年 - ソースティン・ヴェブレン、社会学者・経済学者(+ 1929年)

1863年 - ヘンリー・フォード、フォード社設立者(+ 1947年)

1868年 - アルフレッド・ヴェーバー、社会学者・経済学者(+ 1958年)

1876年 - 三島霜川、作家(+ 1934年)

1884年 - 東條英機、陸軍軍人、政治家(+ 1948年)

1890年 - ケーシー・ステンゲル、元メジャーリーガー(+ 1975年)

1898年 - ヘンリー・ムーア、彫刻家(+ 1986年)

1899年 - 木内信胤、経済評論家(+ 1993年)

1899年 - ジェラルド・ムーア、ピアニスト(+ 1987年)

1913年 - 新美南吉、児童文学作家 (+ 1943年)

1914年 - キラニン卿、 IOC第6代会長(+ 1999年)

1914年 - 立原道造、詩人(+ 1939年)

1928年 - 荒井注、タレント(+ 2000年)

1934年 - バド・セリグ、MLBコミッショナー

1934年 - ウーヴェ・ヨーンゾン、小説家(+ 1984年)

1934年 - 西村公佑、元競輪選手

1936年 - バディ・ガイ、ギタリスト・歌手

1940年 - 斎藤晴彦、俳優

1941年 - ポール・アンカ、歌手・作曲家

1945年 - デイヴィッド・サンボーン、ミュージシャン

1947年 - アーノルド・シュワルツェネッガー、俳優・カリフォルニア州知事

1947年 - 西岸良平、漫画家

1948年 - ジャン・レノ、俳優

1956年 - 松本奈代子、棋士
1957年 - 堀内賢雄、声優
1958年 - ケイト・ブッシュ、ミュージシャン
1958年 - デイリー・トンプソン、陸上選手
1958年 - 日垣隆、ジャーナリスト・ノンフィクションライター
1960年 - 石田登星、俳優
1961年 - ローレンス・フィッシュバーン、俳優
1962年 - 境川親方、元小結両国
1963年 - リサ・クドロー、女優
1964年 - ユルゲン・クリンスマン、サッカー選手・監督
1966年 - 阿部義晴、ミュージシャン・音楽プロデューサー
1966年 - 柴田善臣、JRA騎手
1966年 - 野咲たみこ、元アイドル
1966年 - 熊沢秀浩、元プロ野球選手
1968年 - 清原久美子、フリーアナウンサー
1968年 - ショーン・ムーア、ミュージシャン
1968年 - 七月鏡一、漫画原作者
1970年 - クリストファー・ノーラン、映画監督
1970年 - 古今亭今輔(6代目)、落語家
1974年 - 大竹奈美、サッカー選手・解説者
1974年 - 大竹由美、元サッカー選手
1974年 - ヒラリー・スワンク、俳優
1977年 - 永山尚太、歌手
1979年 - 小林千恵、NHKアナウンサー
1983年 - 藤本つかさ、女優
1985年 - 徳満真紀子(サンフラワー)、ローカルアイドル
1985年 - 片岡信和、俳優
1986年 - 安藤絵里菜、タレント
1986年 - 千葉直人、騎手
1986年 - 丸木唯、プロ野球選手
1987年 - 矢澤利枝香、タレント・声優
1987年 - 大田原隆太、プロ野球選手
1988年 - 山田大樹、プロ野球選手
1993年 - 黒崎美穂、ジュニアアイドル
1993年 - 宮崎美穂、AKB48

忌日
1062年(康平5年6月22日)- 藤原茂子、後三条天皇の皇太子時代の妃

1569年(永禄12年6月17日)- 黄梅院、北条氏政の正室(* 1543年)

1683年 - マリー・テレーズ・ドートリッシュ、フランス王ルイ14世王妃(* 1638年)

1718年 - ウィリアム・ペン、ペンシルバニア州創立者(* 1644年)

1811年 - ミゲル・イダルゴ、メキシコ独立革命の指導者(* 1753年)

1826年(文政9年6月26日)- 松平乗保、江戸幕府老中・岩村藩主(* 1748年)

1833年(天保4年6月14日)- 津軽寧親、第9代弘前藩主(* 1765年)

1852年(嘉永5年6月14日)- 帆足万里、儒学者(* 1778年)

1898年 - オットー・フォン・ビスマルク、ドイツ宰相(* 1815年)

1898年 - ジョン・ケアード、哲学者(* 1820年)

1900年 - アルフレート、第3代ザクセン=コーブルク=ゴータ公(* 1844年)

1912年 - 明治天皇、第122代天皇(* 1852年)

1913年 - 伊藤左千夫、歌人(* 1864年)

1927年 - 村井弦斎、ジャーナリスト(* 1864年)

1947年 - 幸田露伴、作家(* 1867年)

1965年 - 谷崎潤一郎、作家 (* 1886年)

1970年 - ジョージ・セル、指揮者(* 1897年)

1976年 - ルドルフ・カール・ブルトマン、聖書学者(* 1884年)

1976年 - 衣笠十四三、映画監督(* 1900年)

1984年 - 今日出海、小説家(* 1903年)

1996年 - クローデット・コルベール、女優(* 1903年)

1996年 - 長谷有洋、声優(* 1965年)

1997年 - バオ・ダイ、ベトナム阮朝最後の皇帝(* 1913年)

2000年 - 寺田瀧雄、作曲家(* 1931年)

2002年 - 岡田正泰、ヤクルトスワローズの私設応援団「ツバメ軍団」団長(* 1931年)

2003年 - 石本雅男、法学者(* 1902年)

2003年 - サム・フィリップス、音楽プロデューサー(* 1923年)

2005年 - 初村滝一郎、元労働大臣(* 1913年)

2005年 - ジョン・ガラン、スーダン副大統領・スーダン人民解放軍最高司令官(* 1945年)

2006年 - 森三平太、俳優(* 1927年)

2007年 - ミケランジェロ・アントニオーニ、映画監督(* 1912年)

2007年 - 渡辺護、音楽学者・クラシック音楽評論家(* 1915年)

2007年 - イングマール・ベルイマン、映画監督 (* 1918年)

2007年 - 小田実、作家・市民運動家(* 1932年)

記念日・年中行事
プロレス記念日(日本)
1953年7月30日に力道山が日本プロレスリング協会を結成したことに由来。

独立記念日(バヌアツ)
1980年7月30日に独立。

システム管理者の日(7月最終金曜日、2004年)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月31日(木曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年7月31日(木曜日)

ひなまつりがおわり。
春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
そして
「5月」もおわりました。
6月に・「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月も31日。
そして明日から8月になります。
秋まで「ひと月」。

今年も「半分以上」終わりました。
毎朝ににせみが「何匹かないています」
芭蕉の句

「しずかさやいわにしみいるせみのこえ」*。

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
 閑さや岩にしみ入蝉の声

まさに
1−2匹の遠くでなく「にいにいせみ」のこえは。
「硬き巌(いわお)にしみいるようです」。

せみしぐれになると岩に反射してしまうでは
ないでしょうか。

このセミしぐれの
8月がもうすぐに来ています。

これからは次第に陽は短くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議な安堵感があります。

朝空は
陽ははるかに天高く空色はミルク色です。
クリームのかかったような雲空です。

「つつじ」の「花」がおわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

若々しい草色の葉を木一面に広げ。
若葉の潅木としてとてもとても奇麗です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。

「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。

あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。

ふと思う。

考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物はあじさいです。

私は森山を分け入ると。
木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花さく
「やまつつじ」が「大好き」です。
「くさぼけ」もかわいらしく「大好き」
です。
けれども
時期はすぎました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームのように「あゆみ」を
感じさせます。
この「あゆみ」の質量は高いです。
重力のように。
リズムにひっぱられる感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいて
なお確実な「リズム」を感じます。
ここに「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
が。くわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じ・。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきそして聴こえます。
自然は
自然の
「ヴィルトオーゾ・ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」*です。
この自然のフイルハーモニーの
指揮者は太陽なのか大地なのか人なのか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。
古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判る。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる成分ではありません。

また音楽であるために。
三要素が絶対必要という意味
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つ。

大和の国の自然は。
「音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。
「ため息」がでるほど木々の「若葉」の
「たば」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から「みどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎える葉束」になりました。

「若葉」の「新緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり初夏のおとずれを
伝えています。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうな青葉。

明らかなる。
「冬から春」とは全く違う
「春から夏」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

里山(さとやま)をさまよう。
里山(さとやま)をあるきたい季節。
昔々里山(さとやま)であそび。
そして里山(さとやま)でおぼえた。
昔々のその日々の思い出が
黄金あるいは鉛のような重さとなり
心の奥深くに感じられます。

けれども
まだ早朝ははだ寒いです。

やま中木々中分けいらば
若木の根元に隠れさけり
あけぼの色のちひさき花
みつけたりやまの花 
草ぼけの花。

くさぼけの
花かくしてや
やまつつじ

たかくひろくなりけり空(そら)
さとやまに木々のみどり木
こもれびうけて燃えるがごとし
みどりの炎(ほのほ)
ほのほうちけすあおきかすみ
いずれもただよひて
かがやきて
あざやかなりけり 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな春みつけた」
から
「春がすぎてて真夏間近い」
「小さな真夏みつけた・。」

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++

平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
40歳にて画家を志す「遅咲き」の鬼才。

従来の西洋美術の洗練された技法や様式、
巨匠の名人芸といったものに価値を認めず。
「アンフオルメ」=「非定型的」の画家。
作風の特徴は「厚ぬり」。

非常に特異な画家といえますが。

「芸術性の根底にある原子のようなもの」を
見抜いた「天才」です。1901年 - ジャン・デュビュッフェ、画家(+ 1985年)
の生誕日です。
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ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet,
1901年7月31日 - 1985年5月12日)は、
20世紀のフランスの画家です。

アンフォルメルの先駆者と見なされます。
従来の西洋美術の伝統的価値観を否定致します。
そして
「生(なま)の芸術」を提唱しました。
「生(なま)の芸術」という用語はとても理解し難い
ことばですが「無添加」「純度100%」
と考えると理解しやすいかもしれません。

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デュビュッフェは。
フォートリエ、ヴォルスらとともに。

アンフォルメル
(「非定形」の意。1950年代に盛んになった前衛美術運動)の
先駆者と見なされます)
20世紀美術の流れをたどる上で重要な画家の一人です。

彼は、若い頃にパリで絵画を学びました。
やがてワイン商をしていた父の仕事を継ぎました。

本格的に画家として立つことを決意したのはかなり遅く
40歳を過ぎてからのことであったのです。

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ジャン・デュビュッフェは。
彼は1946年、パリの
ルネ・ドゥルーアン画廊で
「ミロボリュス・マカダム商会、厚塗り」
という奇妙な題名の個展を開きまそた。

マカダムとは
道路のアスファルト舗装工法の基礎を築いた
人物の名前です。

実際この個展に展示された作品群は。
砂、アスファルト、ガラス片などを混入した、
まるで道路の表面のような
厚塗り(オート・パート)の画面に
子供の落書きのような筆致で描かれたもので、
見る人を困惑させました。

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ジャン・デュビュッフェの「厚塗り」

この「厚塗り」展は。
同じ頃にドゥルーアン画廊で
相次いで開かれたフォートリエの
「人質(オタージュ)」展(1945年)や。

ヴォルスの個展(1947年)とともに。
第二次大戦後の西洋美術の新たな出発を告げるとともに、
アンフォルメルなどの
1950年以降の新たな美術の流れの原点に位置するものと言える
ものです。

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デュビュッフェは
従来の西洋美術の洗練された技法や様式、
巨匠の名人芸といったものに価値を認めませんでした。

それどころか
西洋文明そのものを痛烈に批判し、
子供、「未開」人、精神障害者などによる絵画を
アール・ブリュット=生(き)の
芸術と呼んで賛美しました。

彼は精神障害者らの絵画を収集して。
展示したこともあるのです。

このことは大変に重要なことであり。
ジャン・デュビュッフェの「芸術性と感受性」
の鋭さを示しています。

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私の尊敬する
宮城まり子氏の「ねむの木学園」は障害児の
お子様の「施設」です。

その昔障害児のお子様に宮城まり子氏が
「絵をかかせた」。
この絵を「ねむの木学園」の紹介もかねて
フランスで公開をした。

そのとき絵画をみたフランスの
高名な画家やそして画廊のかたたちが
非常に驚愕仰天したそうです。

宮城まり子氏に
「このなかの絵には大変な価値のつけられる絵画
があるから用心しなさい」
と高名な画家から異口同音にいわれたそうです。

そして
フランスでの「ねむの木学園」の障害児のお子様
の絵画は「案の定」「盗難」にあいまいた。

宮城まり子氏は
「どうかかえしてください」という
メッセージをされました。

今現在超一流といわれている画家が
「はだしで逃げる」ほどのとてつもない絵画。

「ねむの木学園」の障害児のお子様が
何枚もかかれています。

「ねむの木学園」
http://www.nemunoki.or.jp/

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代表作
(日本で見られるおもな作品)

『愉快な夜』 (1949年)国立国際美術館
『ご婦人のからだ』(1950)国立西洋美術館
『作品』(1948)大原美術館
『二人の脱走兵』(1953)愛知県美術館
『はばたき』(1961)福岡市美術館

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ジャン・デュビュッフェ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7

ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet, 1901年7月31日 - 1985年5月12日)は、20世紀のフランスの画家。アンフォルメルの先駆者と見なされ、従来の西洋美術の伝統的価値観を否定して、「生(なま)の芸術」を提唱した。

デュビュッフェはフォートリエ、ヴォルスらとともに、アンフォルメル(「非定形」の意。1950年代に盛んになった前衛美術運動)の先駆者と見なされ、20世紀美術の流れをたどる上で重要な画家の一人である。彼は、若い頃にパリで絵画を学んだこともあったが、やがてワイン商をしていた父の仕事を継いだ。本格的に画家として立つことを決意したのはかなり遅く、40歳を過ぎてからのことであった。

彼は1946年、パリのルネ・ドゥルーアン画廊で「ミロボリュス・マカダム商会、厚塗り」という奇妙な題名の個展を開く。マカダムとは、道路のアスファルト舗装工法の基礎を築いた人物の名前である。実際、この個展に展示された作品群は、砂、アスファルト、ガラス片などを混入した、まるで道路の表面のような厚塗り(オート・パート)の画面に子供の落書きのような筆致で描かれたもので、見る人を困惑させた。この「厚塗り」展は、同じ頃にドゥルーアン画廊で相次いで開かれたフォートリエの「人質(オタージュ)」展(1945年)やヴォルスの個展(1947年)とともに、第二次大戦後の西洋美術の新たな出発を告げるとともに、アンフォルメルなどの1950年以降の新たな美術の流れの原点に位置するものと言える。

デュビュッフェは従来の西洋美術の洗練された技法や様式、巨匠の名人芸といったものに価値を認めなかったばかりか、西洋文明そのものを痛烈に批判し、子供、「未開」人、精神障害者などによる絵画をアール・ブリュット=生(き)の芸術と呼んで賛美した。彼は精神障害者らの絵画を収集し、展示したこともある。

代表作
ウィキメディア・コモンズには、ジャン・デュビュッフェ に関連するカテゴリがあります。(日本で見られるおもな作品)

『愉快な夜』 (1949年)国立国際美術館
『ご婦人のからだ』(1950)国立西洋美術館
『作品』(1948)大原美術館
『二人の脱走兵』(1953)愛知県美術館
『はばたき』(1961)福岡市美術館
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7" より作成
カテゴリ: フランスの画家 | 1901年生 | 1985年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
7月31日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8831%E6%97%A5

できごと
781年 - 富士山噴火の最古の記録(旧暦7月6日)

1009年 - ピエトロ・ボッカペコーラがローマ教皇セルギウス4世に即位。

1110年(天永元年7月13日)- 天仁から天永に改元。

1703年 - イギリスの作家ダニエル・デフォーが政治的な扇動を目的とした
パンフレットを作成した廉でさらし台に上げられる。

1893年 - ダブリンでゲール語連盟が設立される。

1905年 - 日露戦争: 日本軍が樺太全島を占領下に置く。

1919年 - ドイツ議会がヴァイマル憲法を採択。

1932年 - ドイツ議会の選挙が行なわれ
その結果国家社会主義ドイツ労働者党が230議席を獲得、第一党となる。

1936年 - ベルリンで開かれていたIOC総会で
1940年の夏季オリンピックの東京開催が決定。
(日中戦争の影響で日本は1938年に開催権を返上)

1937年 - 三井造船創業。

1948年 - ニューヨークでアイドルワイルド空港
(現ジョン・F・ケネディ国際空港)が国際空港として開港。

1954年 - イタリアのアルディト・デシオ隊がK2初登頂を果たす。

1970年 - イギリス海軍が兵士へのラム酒支給を打ち切る。

1970年 - 山手線に冷房車が初登場

1973年 - バーモント州バーリントン発ボストン行きの
デルタ航空723便DC-9型機がボストン・ローガン国際空港への着陸に失敗、
乗員乗客89名全員が死亡。

1982年 - 豊橋鉄道東田本線・井原〜運動公園前が延長開業。
日本国内の路面電車の路線延長は1968年の長崎電気軌道以来。

1986年 - 大井競馬場が日本の公営競技場として
初のナイター競走(愛称:トゥインクルレース)を開始。

1992年 - バンコク発カトマンズ行きのタイ国際航空311便エアバスA310型機が
カトマンズ近郊の山中に墜落、乗員乗客113名全員が死亡。

1992年 - 南京発アモイ行きの中国通用航空7522便Yak-42型機が
離陸直後に墜落、乗員乗客126名中109名が死亡。

1999年 - GLAYが
「MAKUHARI MESSE 10TH ANNIVERSARY GLAY EXPO’99 SURVIVAL」を開催。
幕張メッセに20万人を動員、国内史上最大、有料ライブの観客動員数としては世界記録。

2005年 - この日をもってORANGE RANGEのドラマー、KATCHANこと北尾一人が脱退。

2006年 - レバノン侵攻: イスラエルが48時間の空爆停止を了承。

2006年 - キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長が腸からの出血、
手術のため権限が一時的に弟のラウル国家評議会第一副議長に委譲される。

2007年 - 兵庫県豊岡市で野生のコウノトリが日本で46年ぶりに巣立ちをする。

誕生日
1800年 - フリードリヒ・ヴェーラー、化学者(+ 1882年)

1826年 - ウイリアム・S・クラーク、教育者(+ 1886年)

1875年 - 柳田國男、民俗学者(+ 1962年)

1901年 - ジャン・デュビュッフェ、画家(+ 1985年)

1912年 - ミルトン・フリードマン、経済学者(+ 2006年)

1921年 - ピーター・ベネンソン、アムネスティ・インターナショナル創立者(+ 2005年)

1921年 - 藤原弘達、政治学者・評論家(+ 1999年)

1932年 - 堂本暁子、千葉県知事

1932年 - ジョン・サール、哲学者

1934年 - 福田昌久、元プロ野球選手(+ 1988年)

1942年 - 石立鉄男、俳優(+ 2007年)

1944年 - ロバート・マートン、経済学者

1947年 - 和泉雅子、女優

1950年 - 中村美律子、演歌歌手

1951年 - 大竹憲治、元プロ野球選手

1953年 - 古谷徹、声優

1953年 - 岡崎友紀、女優

1957年 - 杉村繁、元プロ野球選手
1957年 - 木下智裕、元プロ野球選手
1959年 - 平田勝男、元プロ野球選手
1961年 - 服部真澄、小説家
1962年 - ウェズリー・スナイプス、俳優
1962年 - 利重剛、俳優・映画監督
1962年 - 黛まどか、俳人
1965年 - J・K・ローリング、作家
1967年 - 岩田光央、声優
1967年 - 中山秀征、タレント
1967年 - 本田美奈子.、歌手(+ 2005年)
1968年 - 島田律子、タレント・エッセイスト
1976年 - 小室りりか、AV女優・ストリッパー
1979年 - J.J.ファーマニアック、プロ野球選手(横浜ベイスターズ)
1980年 - 愛内里菜、歌手
1981年 - 糸井嘉男、プロ野球選手(北海道日本ハムファイターズ)
1981年 - アダム・バス、プロ野球選手
1982年 - 中島裕之、プロ野球選手(埼玉西武ライオンズ)
1982年 - 田中隼磨、サッカー選手
1983年 - 水島愛、レースクイーン
1984年 - 栗原恵、バレーボール選手
1984年 - 岡村麻純、女優
1987年 - 高瀬友規奈、女優
1988年 - 遠藤舞、女性タレント(アイドリング!!!3号)
1988年 - 崔暁、元プロ野球選手
1989年 - ビクトリア・アザレンカ、テニス選手
生年不詳 - Nao、ミュージシャン(アリス九號.)
生年不詳 - ZERO、ミュージシャン(D'espairsRay)

忌日
1556年 - イグナチオ・デ・ロヨラ、イエズス会創立者(* 1491年)

1784年 - ドゥニ・ディドロ、哲学者・作家(*1713年)

1875年 - アンドリュー・ジョンソン、アメリカ合衆国第17代大統領(* 1808年)

1886年 - フランツ・リスト、作曲家・ピアニスト(* 1811年)

1944年 - アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、作家(* 1900年)

1952年 - ワルデマル・ボンゼルス、児童文学作家(* 1880年)

1966年 - バド・パウエル、ピアニスト・作曲家(* 1924年)

1973年 - 東富士欽壹、大相撲第40代横綱(* 1921年)

1975年 - 加東大介、俳優(* 1911年)

1986年 - 杉原千畝、外交官(* 1900年)

1993年 - ボードゥアン1世、ベルギー第5代国王(* 1930年)

1997年 - 料治直矢、ニュースキャスター(* 1935年)

1997年 - 浅野賢澄、実業家(* 1916年)

2001年 - ポール・アンダースン、SF作家(* 1926年)

2006年 - 吉村昭、小説家(* 1927年)

2006年 - 高橋明、プロ野球選手(* 1942年)

2006年 - 鶴見和子、社会学者(* 1918年)

2007年 - R・D・ウィングフィールド、放送作家(* 1928年)

記念日・年中行事
何もない