東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月30日(水曜日)
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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年7月30日(水曜日)
今朝晴れて。
そろそろと静かながらに。
真夏のかおりが。
ただよいはじめています。
五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
七月もうすぐおわりです。
あさってかた「8月」
夏が三分のニおわりました。
そして。
「今年も半分+一ヶ月」おわりました。
7月の初夏の気配から真夏の気配が
次第に強くなるように。
感じられるような気がします。
日中の空高くはは。
「夏の大気」でひそみ。
みちあふれ。
吐息が雨になりおちてくるような感じです。
「8月まじか」になりました。
盛夏間近い。
木々のめぶきは
夏の息吹を力強く感じます。
けれども早朝はまだまだ「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。
百姓のうまれなので「冷夏」が心配ですが。
やはり夏。あつくなるでしょう。
街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏の青い「木」にかわりました。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。
山椒(さんしょう)の木の芽が
若葉にそだち。
若葉は若枝となり。
若枝は天高くすこやかにのび。
ますますに
山椒(さんしょう)木のみどり葉
がとても奇麗です。
さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる
夏来る(きたる)らむ
あおくそら
みどりにさんしょう
かがやけり
さんしょう木
もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
わかば葉はいずるは花ならむ
夏(なつ)まつ枝は幹ならむ
いざいまこそは
空(そら)たかくもえたたむ
さんしょう木
さんしょうの木
山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。
夏浮き草の水面(おも)に
めだかのむれははしりたり
むれおよがむめだか
ちいさきめだかに
おおきないのち
夏のいのちはぐくまむ
けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。
小さななつみつけたから
しだいに大きな夏みつけた
大きな大きな夏みつけたはまだ
小さい夏みつけた・は。
ちょっと「怖い気」がする
まもなく夏深しです
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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)
は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>
平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
は終わりました。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
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7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
=>
は終わりました。
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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
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2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。
「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。
人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。
昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。
難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。
私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。
「良くなられていく」笑顔に。
心より感謝・感謝。
「今日は何の日」は
その作品の人体は穴が開いているか、
空洞を含んでいることが特徴的で有名な彫刻家。
大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力により。
報酬は豊でありその生涯の後半には。
美術家としては
並外れて財力豊かになっつた
「英国:United Kingdom UK」の彫刻家。
けれども質素な生活を死ぬまで送った彫刻家。
そして
その富のほぼすべてを「財団」の基金として寄付された彫刻家。
すべからくの報酬を。
美術教育や普及の支援のために使った彫刻家。
1898年 - ヘンリー・ムーア、彫刻家(+ 1986年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore、
1898年7月30日〜1986年8月31日)は
20世紀のイギリスを代表する高名な芸術家・彫刻家です。
炭鉱夫の息子としてヨークシャーの
キャッスルフォードで生まれました。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは
大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られます。
イギリスの美術界から大いに援助を受けてきた彼は。
イギリスにモダニズム美術を紹介するのに
大きな役割を果たしました。
そして結果
イギリス美術を国際的なものにすることに
大きく貢献するに致しました。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは。
大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力が
ありました
彼はその生涯の後半に美術家としては
並外れて財力豊かになりました。
しかし、
彼は質素な生活を死ぬまで送りました。
その富のほぼすべてが
「ヘンリー・ムーア財団」の基金として寄付されました。
美術教育や普及の支援のために使われています。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアの
彼の特徴的な作品は。
「穴が貫通している横たわる像(横たわる人体)」
が特徴であり有名です。
当初はオルメカ文明、
トルテカ文明やマヤ文明などの石像、
とりわけ1925年にパリで見た、
チチェン・イッツアから出土した
チャック・モールの石膏模型から大きな影響を受けました。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアの
最初の「横たわる像」は
体の横でひじを付いて曲げた腕が
空洞をかたち作るものでした。
後の「横たわる像」では、
凹凸のある表面のある量塊を探求するかのように、
胴体に直接穴があけられた抽象的な形態になっています。
これらの極端な穴は、
同時代の優れたイギリス人彫刻家バーバラ・ヘップワースの作品と
同時並行で試みられたものでした。
ヘップワースは、ヘンリー・ムーアの
初期の個展の展覧会評を誤読して、
ためしにトルソに穴を開けてみたといわれます。
++++++++++++++++++++++
彫刻
ムーアは、パブリック・アートとして
世界中にたくさん設置されている
ブロンズ製の抽象的なモニュメントで
世間によく知られています。
その題材はふつう抽象化された人体像
とりわけ「母と子」や「横たわる像」です。
興味深いことに、1950年代に家族群像に少し手を出した以外、
その題材はほとんどいつも女性の体でした。
ムーアのつくる人体は穴が開いているか、
空洞を含んでいることが特徴的です。
多くの人々は、横たわる人体の起伏にとんだ形を
ムーアの生まれたヨークシャーの。
丘の連なる風景から参照されたものだと
解釈しています。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーア
彼の姪が「なぜそんな簡単な題名なのか?」と
尋ねたとき。
「芸術というものは種のミステリーと観客を引きつける
要素をもっているべきである。はじめから謎を明かすような、
あまりに直接的なタイトルを付けると
観客がその意味を深く考える間もなく
次の作品に目を移してしまうであろう。
まぁ見ていることには違いないが
実際は見てはいないのと同じである。」
と答えたということです。
++++++++++++++++++++++
ムーアの初期の作品は
模型を作らず直接作品を彫ること
(ダイレクト・カーヴィング)に
焦点を置いています。
ムーアが木や石の塊を何度も彫る事で彫刻の形が
次第にできあがってくるものでした。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは
1930年代にムーアはハムステッドで供に暮らしながら、
お互いに新しい考え方に共感するヘップワースや
他の数人の芸術家とモダニズムへ移行していきます。
ムーアはおのおのの彫刻をする準備として多くのスケッチや素描を描きました。
これらのスケッチは現存しており、
彼の創作に対する方向性をかいま見ることができます。
1940年代の終わり頃には粘土や石膏を使った
模型(マケット)を作ってから、
蝋型法(Lost wax technique)でブロンズ像の鋳造の
仕上げに入るようになっていきました。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは
第二次世界大戦後、ムーアのブロンズ像は、
特にパブリック・アート制作の注文に応えて
、モニュメント並みの規模になっていきました。
その作業をこなすため直彫りをあきらめ雛形を作るため
助手を何人か雇い入れることになりました。
++++++++++++++++++++++
ヘンリー・ムーアは
ハートフォードシャーのマッチ・ハダム
(Much Hadham)の町に買った農家の住まいには、
自然のオブジェ
(頭蓋骨、流木、小石、貝殻)がコレクションされ、
そういった有機体の形からインスピレーションを得ていたと
考えられます。
特に大規模な作品の場合、
まず半分のサイズの模型を造ってから
スケールアップしていくという手法をちりました。
鋳造の前に
実物大の石膏模型が作られることも多かったのです。
最終的な形の調整、チェックを行っていたのです。
++++++++++++++++++++++
遺産
二つの部分からなるナイフ・エッジ ? (1962)
ブロンズ、ロンドン、ウエストミンスターの
国会議事堂近く晩年にいたる
30年間も同様なものであったのです。
その間何回かの大きな回顧展が世界中で開かれました。
1970年の終わりまでに年間約40回の展覧会が行われました。
とりわけ1972年フィレンツェを見下ろす
ベルベデーレ砦の広場での展覧会は大きなものでした。
仕事の量は増え続け、
1962年にはロンドンの国会議事堂のそばの敷地に
「2つの部分からなるナイフ・エッジ」を完成させました。
++++++++++++++++++++++
ムーアは次のようにコメントしています。
「上院の近くの敷地を示されたとき、
そこが非常に気に入りハイドパークの
代替地はわざわざ見に行かなかった。
大きな公園の中にぽつんと置かれた彫刻は見失われがちになる。
上院の方はそうではなく、人通りのある通りのそばで歩きながらでも、
あるいはベンチに腰掛けてゆっくり考えながら眺めることもできる。」
++++++++++++++++++++++
彼は自分の資産が劇的に増えていくにつれて、
自身の生活は相変わらずだったが、
遺産については心配しはじめました。
1972年娘のメアリーの支援もあり相続税対策とし
てヘンリー・ムーア・トラストを作りました。
1977年まで彼は年間約100万ポンドの税を払っていたが
その負担を軽減するためイリーナ、メアリーを受託者として
チャリティ事業組織としてヘンリー・ムーア財団を設立しました。
財団は大衆への芸術教育とムーアの彫刻の保存を活動目的としており、
現在ギャラリーとムーアの工房の博物館であるホグランド(Hoglands)を運営しています。
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ヘンリー・ムーアは
1951年にナイトの称号を与えらえようとしたが
辞退しています。
その後1955年コンパニオンオブオーナ勲位と
1963年にメリット勲位を受けています。
1986年8月31日、
ハートフォードシャーの自宅で永眠、88才でした。
遺体はセントポール寺院の芸術家のコーナーに葬られています。
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ヘンリー・ムーア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2
ヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore、1898年7月30日〜1986年8月31日)は20世紀のイギリスを代表する高名な芸術家・彫刻家であった。 炭鉱夫の息子としてヨークシャーのキャッスルフォードで生まれ、大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られる。イギリスの美術界から大いに援助を受けてきた彼は、イギリスにモダニズム美術を紹介するのに大きな役割を果たし、イギリス美術を国際的なものにすることに大きく貢献した。
大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力により、彼はその生涯の後半に美術家としては並外れて財力豊かになった。しかし、彼は質素な生活を死ぬまで送り、その富のほぼすべてが「ヘンリー・ムーア財団」の基金として寄付され、美術教育や普及の支援のために使われている。
彼の特徴的な作品は、穴が貫通している横たわる像(横たわる人体)である。当初はオルメカ文明、トルテカ文明やマヤ文明などの石像、とりわけ1925年にパリで見た、チチェン・イッツアから出土したチャック・モールの石膏模型から大きな影響を受けた。最初の「横たわる像」は体の横でひじを付いて曲げた腕が空洞をかたち作るものだった。後の「横たわる像」では、凹凸のある表面のある量塊を探求するかのように、胴体に直接穴があけられた抽象的な形態になっている。これらの極端な穴は、同時代の優れたイギリス人彫刻家バーバラ・ヘップワースの作品と同時並行で試みられたものだった。ヘップワースは、ヘンリー・ムーアの初期の個展の展覧会評を誤読して、ためしにトルソに穴を開けてみたといわれる。
衣装をまとって横たわる三つに分かれた人体(Three Piece Reclining Figure Draped、1976年、マサチューセッツ工科大学内目次 [非表示]
1 彫刻
2 伝記
2.1 幼年、少年期
2.2 大学時代
2.3 ハムステッドでの生活
2.4 戦争画家
2.5 国際的な認知
2.6 遺産
3 常設展示
彫刻
ムーアは、パブリック・アートとして世界中にたくさん設置されているブロンズ製の抽象的なモニュメントで世間によく知られている。その題材はふつう抽象化された人体像、とりわけ「母と子」や「横たわる像」である。興味深いことに、1950年代に家族群像に少し手を出した以外、その題材はほとんどいつも女性の体だった。ムーアのつくる人体は穴が開いているか、空洞を含んでいることが特徴的である。多くの人々は、横たわる人体の起伏にとんだ形を、ムーアの生まれたヨークシャーの、丘の連なる風景から参照されたものだと解釈している。
彼の姪が「なぜそんな簡単な題名なのか?」と尋ねたとき「芸術というものは種のミステリーと観客を引きつける要素をもっているべきである。はじめから謎を明かすような、あまりに直接的なタイトルを付けると観客がその意味を深く考える間もなく次の作品に目を移してしまうであろう。まぁ見ていることには違いないが実際は見てはいないのと同じである。」と答えたという。
ムーアの初期の作品は模型を作らず直接作品を彫ること(ダイレクト・カーヴィング)に焦点を置いており、ムーアが木や石の塊を何度も彫る事で彫刻の形が次第にできあがってくるものだった。(たとえば、1932年のハーフ・フィギュア(Half-figure)を参照。 1930年代にムーアはハムステッドで供に暮らしながら、お互いに新しい考え方に共感するヘップワースや他の数人の芸術家とモダニズムへ移行していく。ムーアはおのおのの彫刻をする準備として多くのスケッチや素描を描いた。これらのスケッチは現存しており、彼の創作に対する方向性をかいま見ることができる。1940年代の終わり頃には粘土や石膏を使った模型(マケット)を作ってから、蝋型法(Lost wax technique)でブロンズ像の鋳造の仕上げに入るようになっていった。
第二次世界大戦後、ムーアのブロンズ像は、特にパブリック・アート制作の注文に応えて、モニュメント並みの規模になっていった。その作業をこなすため直彫りをあきらめ雛形を作るため助手を何人か雇い入れることになる。
ハートフォードシャーのマッチ・ハダム(Much Hadham)の町に買った農家の住まいには、自然のオブジェ(頭蓋骨、流木、小石、貝殻)がコレクションされ、そういった有機体の形からインスピレーションを得ていた。特に大規模な作品の場合、まず半分のサイズの模型を造ってからスケールアップしていくという手法をとった。鋳造の前に実物大の石膏模型が作られることも多く最終的な形の調整、チェックを行っていた。
伝記
Three Way Piece No. 2 (The Archer) (1964-65) ブロンズ, トロント 市役所プラザ
幼年、少年期
ムーアはイギリスのウエスト・ヨークシャーのキャッスルフォードで、レイモンド・スペンサー・ムーアとメアリー・ベイカーの8人の子供の7人目として生まれた。彼の父親はキャッスルフォードのWhekdale炭坑の下級のマネージャーから鉱山技師になった人物である。 彼は音楽や文学に関心を持っていたが独学であったため、子供らには公的な教育を受けさせ上達させるよう腐心した。
ムーアはわずか11才の時、中学校で粘土や木による造形を美術教師に褒められたのをきっかけに彫刻家になることを決心した。早くから前途有望であったにもかかわらず、両親は彫刻を手工業的な労働として認めなかった。
1917年、18歳になると第一次世界大戦を戦うために徴兵された。彼は所属するライフル部隊の中で最も若かった。その後の戦いの中で毒ガスにより傷害を受けてしまうが回復は早く戦争の残りの期間、体育インストラクターとして過ごすことになる。同時代の平均的な人に比べ彼の戦争体験はおだやかなものであった。彼は当時を回顧して「私にとって戦争体験は漠然と英雄になろうと夢見ていたように思う。」と言っている。
戦後、退役軍人の手当を受け取ったあとリーズ芸術学校の彫刻の最初の生徒となった。学校は彼のために彫刻のアトリエを作らねばならなかった。
大学時代
大きな四つの部分からなら横たわる像 (1973) ブロンズ, サンフランシスコ、ルイス・デイビス・シンフォニーホールリーズ学校で、ムーアは長年の友となるバーバラ・ヘップワースと出会った。 さらに幸運にも副学長であったマイケル・サドラー卿の紹介によるアフリカの民俗彫刻にも出あうことになる。
1921年にはロンドンの王立芸術大学(Royal Collage of Art:RCA)で学ぶための奨学金を得る。 ロンドンで過ごす間、彼はヴィクトリア&アルバート美術館と大英博物館で民俗学資料の収集を行い原始的な美術、彫刻についての知識を蓄積していった。 ムーアとヘップワースの初期の彫刻はロマン主義のビクトリア朝スタイルに従ったものであり主題は自然のかたちや風景、象徴的な動物のモデリングであった。ムーアは古典的な考え方をだんだん不快に感じるようになっていった。プリミティブ主義に対する関心とコンスタンティン・ブランクーシ、ヤコブ・エプスタイン、フランク・ドブスンなど他の彫刻家などの影響もあり彼は直彫り(ダイレクト・カーヴィング)のスタイルを開拓していく。 完成した直彫り彫刻には材料の欠点や工具の削り痕などが残ったものとなる。 そういった現代風の方法を評価しない学校の指導教官との争いも起こった。
ハムステッドでの生活
ムーアの最初の公共の仕事Moore' 西の風 (1928-29) は8個の風のレリーフの一つで他の彫刻は同時代の彫刻家の作品であるロンドンへ戻るとすぐに RCAで教育する側になり7年間にわたり講義をおこなった。講義は週2日でよかったため自分の仕事に多くの時間を使うことができた。1929年7月には絵の学生であったイリーナと結婚した。イリーナは1907年3月26日にキエフでポーランド系ロシア人の両親から生まれた。ロシア革命の中で彼女の父親は行方不明となり母はイギリスの陸軍士官と再婚しパリへ避難した。 イリーナはその1年後にパリへ密入国し16才になるまでパリの学校で学んだ。その後、継父の親戚と住むため彼の故郷であるバッキンガムシャーへ行くことになる。このような問題の多い幼年期を過ごしたため彼女は多少内向的な性格であったとのことである。しかしムーアとの結婚生活が彼女の心に安らぎもたらし明るく振舞うようになった。
結婚してすぐに二人はハムステッドに移り住んだ。そこは前衛的な芸術家たちが小さな集団を作りそこを根城に活動を始めている場所であった。ほどなくヘップワースと彼女のパートナー、ベン・ニコルソンが引っ越してきた。ナウム・ガボや美術評論家のハーバート・リードもまたその地区に住んでいた。このことはアイデアのさかんな交流をもたらすとともにリードによるムーアの知名度の向上をもたらした。
1930年代の初めムーアはチェルシー芸術学校の彫刻学科の責任者となった。ムーアとヘップワース他のメンバーはフランスへ度々旅行しピカソやアルプ、ジャコメッティなどフランスの芸術家と会うことで影響を受け、より抽象的な作品を生み出すようになった。1933年、ムーアはポール・ナッシュとともシュルレアリスムにも手を出しそのグループであるユニット・ワンに入った。
二つの部分からなる横たわる像 No. 5, Bronze (1963?64), ケンウッドハウスのグランド, ロンドン
戦争画家
この創造的で生産的な期間は第二次世界大戦の勃発で終わってしまう。チェルシー芸術学校はノーサンプトンへと疎開させられムーアは教職を辞すことになった。戦争中ムーアは戦争画家に任じられ、空襲を避けロンドン地下鉄や防空壕などで寝泊まりするロンドンっ子の絵を力強くたくさん描いた。[1] その成果は彼の国際的、特にアメリカでの評判を高めることになった。
ハムステッドの彼らの家は爆撃で破壊されたためムーアとイリーナはロンドンを脱出しハートフォードシャーのマッチ・ハダムという小さな村の農家に移った。そこは彼にとって最後の作業場、そして安住の地となった。その後の人生で大きな富も得ていくがより広いところへ引っ越ししようとも、たくさん建て増ししようともせず、作業場をわずかに変更する程度であった。
国際的な認知
戦後、数回の流産ののちイリーナは娘メアリーを出産した。1946年3月7日のことであった。 この子は数年前に亡くなったムーアの母親の名前を譲り受けた。ムーアは母の死と娘の誕生で家族への思いやりの心を一層強くし、母と子供の像の増産に拍車がかかった。もっとも依然として横たわる像もポピュラーではあったのだが。 同じ年、ニューヨーク近代美術館の自分の回顧展の為アメリカへ最初の訪問をした。また1948年にはヴェネツィア・ビエンナーレ展で国際彫刻賞を受賞している。
家族 (1950) ブロンズ, バークレイ学校、大戦後の最初の大きな依頼案件戦争の終わりごろ、州立大学の教育を改善しようとしていたヘンリー・モーリスが接触してきた。 ケンブリッジ近くに2番目の大学を建てるにあたりヴァルター・グロピウスに建物を、ムーアに大規模な公共彫刻を依頼してきた。残念ながら州議会はグロピウスの設計の全体像を認可する余裕がなく当人がアメリカ移住してしまったこともあり計画を縮小してしまった。ムーアへの彫刻依頼も資金難からキャンセルされ計画は初期段階でストップしてしまった。幸い1950年、スティビニッジに作られたニュータウンの中学校のためにその時のデザインを再利用することができムーアにとってのプロジェクトは完了した。このとき制作した「家族」は最初の大きな公共の場所のブロンズ像となった。
1950年代にムーアはパリのユネスコの建物(1957年)を含めますます重要な依頼を受けるようになった。多数の公共の彫刻の依頼でムーアの作品はますますスケールアップしてゆき、アンソニー・カロを含め多数の助手を雇うようになった。
シカゴ大学のキャンパスでは、1967年12月2日午後3時36分、エンリコ・フェルミの率いる物理学者のチームが史上初の自立的核分裂連鎖反応を起こすことに成功してからちょうど25年経ったその時刻に、かって大学のフットボールグラウンドであった場所、すなわち核実験がその地下で行われた場所の真上で、ムーアの像「核エネルギー」(アトム・ピース)が公開された。広場の真ん中にある12フィートの像の上部は象の頭蓋骨のデッサンからインスピレーションを受けたきのこ雲を連想させるフォルムから成立つ。しかしムーアの解釈は異なり、「まわりの広いスペースにも目をむけ、その周りを巡りながら教会の中にいるような気持ちになってほしい」と友人に語ったという。 [2]
1968年、エラスムス賞受賞
遺産
二つの部分からなるナイフ・エッジ ? (1962) ブロンズ、ロンドン、ウエストミンスターの国会議事堂近く晩年にいたる30年間も同様なものであった。その間何回かの大きな回顧展が世界中で開かれた。1970年の終わりまでに年間約40回の展覧会が行われた。とりわけ1972年フィレンツェを見下ろすベルベデーレ砦の広場での展覧会は大きなものであった。
仕事の量は増え続け、1962年にはロンドンの国会議事堂のそばの敷地に「2つの部分からなるナイフ・エッジ」を完成させた。ムーアは次のようにコメントしている。
「上院の近くの敷地を示されたとき、そこが非常に気に入りハイドパークの代替地はわざわざ見に行かなかった。大きな公園の中にぽつんと置かれた彫刻は見失われがちになる。上院の方はそうではなく、人通りのある通りのそばで歩きながらでも、あるいはベンチに腰掛けてゆっくり考えながら眺めることもできる。」
彼は自分の資産が劇的に増えていくにつれて、自身の生活は相変わらずだったが、遺産については心配しはじめた。1972年娘のメアリーの支援もあり相続税対策としてヘンリー・ムーア・トラストを作った。1977年まで彼は年間約100万ポンドの税を払っていたがその負担を軽減するためイリーナ、メアリーを受託者としてチャリティ事業組織としてヘンリー・ムーア財団を設立した。財団は大衆への芸術教育とムーアの彫刻の保存を活動目的としており、現在ギャラリーとムーアの工房の博物館であるホグランド(Hoglands)を運営している。
1951年にナイトの称号を与えらえようとしたが辞退している。その後1955年コンパニオンオブオーナ勲位と1963年にメリット勲位を受けている。
1986年8月31日、ハートフォードシャーの自宅で永眠、88才であった。遺体はセントポール寺院の芸術家のコーナーに葬られている。
常設展示
オンタリオ・アート・ギャラリーのムーアコレクション、公共のものとしては世界最大のもの
ネルソン・アトキンズ美術館
ヘンリー・ムーア財団(英語)
ヘンリー・ムーア研究所(イギリス)
テート・ギャラリー、(イギリス、ロンドン)
オンタリオ美術館(カナダ)
ヨークシャー・スカルプチャー・パーク(イギリス)
オールブライト=ノックス美術館、バッファロー(ニューヨーク)
ウェークフィールド市画廊(イギリス)
国立国際美術館
兵庫県立美術館
大分県立芸術会館
広島市現代美術館
広島県立美術館
静岡県立美術館
富山県立近代美術館
福島県立美術館
山梨県立美術館
大原美術館
徳島県立近代美術館
彫刻の森美術館
長島美術館(鹿児島)
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カテゴリ: イギリスの彫刻家 | エラスムス賞 | 1898年生 | 1986年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション
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7月30日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8830%E6%97%A5
できごと
1281年 - 元軍再来して博多湾に暴風雨が吹く。
1419年 - 一回目のプラハの窓外放出事件起こる。
1609年 - タイコンデロガ(現在のニューヨーク州)でサ
ミュエル・ド・シャンプランがイロコイ連邦の2人の族長を射殺。
その後のフランス・イロコイ関係を方向づける。
1629年 - イタリア・ナポリで地震。1万人が死亡。
1733年 - 最初のフリーメイソンのロッジが現在のアメリカでオープン。
1756年 - バルトロメオ・ラストレッリがロシア皇帝エリザヴェータに新築のエカテリーナ宮殿を贈る。
1825年 - ライン諸島のマルデン島が発見される。
1912年 - 元号を明治から大正に改元。
1930年 - モンテビデオでの決勝で、ウルグアイ代表が
最初のサッカー・ワールドカップ優勝を決める。
1932年 - 第10回夏季オリンピック・ロサンゼルスオリンピック大会開催。8月14日まで。
1945年 - 日本の伊号第五八潜水艦が
アメリカの巡洋艦インディアナポリスを撃沈させる。乗員883人が死亡。
1953年 - 力道山が日本プロレスの設立を発表するセレモニーを開催。
1954年 - エルヴィス・プレスリーが初めて公の場でパフォーマンス。
1966年 - ウェンブレー・スタジアムで、
ホスト国イングランドがドイツを破りサッカー・ワールドカップ優勝。
1969年 - ヴェトナム戦争中、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が
南ヴェトナムを突然訪問。グエン・バン・チュー大統領と会談。
1971年 - 岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突。
162人が死亡(全日空機雫石衝突事故)。
1971年 - アポロ15号が月面着陸。初めて月面車が使われる。
1974年 - アメリカのリチャード・ニクソン大統領が、
最高裁判所で命じられていたホワイトハウスの録音テープを公表。(ウォーターゲート事件)
1976年 - 日本共産党が自由と民主主義の宣言を採択
1978年 - 730、沖縄県交通方法変更。(自動車右側通行から左側通行に)
1980年 - バヌアツがイギリス・フランス両国より独立。
1987年 - 赤道ギニアでテオドロ・オビアン・ンゲマが赤道ギニア民主党結成。
1988年 - 北陸自動車道が全線開通(計画路線延伸前の新潟黒埼IC〜米原JCT間)
1990年 - 最初のサターン車が出荷。
1991年 - ルチアーノ・パヴァロッティがロンドンのハイド・パークで
フリーコンサートを開催。15万人を動員。
1992年 - TWA843便大破事故
1995年 - 八王子スーパー強盗殺人事件
1997年 - イェルサレムで14人が死亡する同時自爆テロ。
1997年 - オーストラリア・スレドボで地滑り発生。18人死亡。
1998年 - 小渕恵三内閣発足。
2002年 - 上場企業会計改革および投資家保護法(サーベンス・オクスリー法)が成立。
2003年 - 最後の「旧式」フォルクスワーゲン・ビートルがメキシコで出荷される。
2004年 - 参議院議員・扇千景が女性初の参議院議長に就任。
2004年 - ベルギーのガス爆発で16人が死亡。
2006年 - 42年間続いたBBCの音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」が最終回を迎える。
2006年 - レバノン侵攻: イスラエルによってカナ空爆が行われる。
誕生日
1511年 - ジョルジョ・ヴァザーリ、画家・建築家(+ 1574年)
1579年(天正7年7月7日)- 徳川秀忠、江戸幕府第2代征夷大将軍(+ 1632年)
1698年(元禄11年6月23日)- 立花貞俶、第5代柳河藩主(+ 1744年)
1786年 - ゲオルク・アンドレアス・ガプラー、哲学者(+ 1853年)
1818年 - エミリー・ブロンテ、小説家(+ 1848年)
1857年 - ソースティン・ヴェブレン、社会学者・経済学者(+ 1929年)
1863年 - ヘンリー・フォード、フォード社設立者(+ 1947年)
1868年 - アルフレッド・ヴェーバー、社会学者・経済学者(+ 1958年)
1876年 - 三島霜川、作家(+ 1934年)
1884年 - 東條英機、陸軍軍人、政治家(+ 1948年)
1890年 - ケーシー・ステンゲル、元メジャーリーガー(+ 1975年)
1898年 - ヘンリー・ムーア、彫刻家(+ 1986年)
1899年 - 木内信胤、経済評論家(+ 1993年)
1899年 - ジェラルド・ムーア、ピアニスト(+ 1987年)
1913年 - 新美南吉、児童文学作家 (+ 1943年)
1914年 - キラニン卿、 IOC第6代会長(+ 1999年)
1914年 - 立原道造、詩人(+ 1939年)
1928年 - 荒井注、タレント(+ 2000年)
1934年 - バド・セリグ、MLBコミッショナー
1934年 - ウーヴェ・ヨーンゾン、小説家(+ 1984年)
1934年 - 西村公佑、元競輪選手
1936年 - バディ・ガイ、ギタリスト・歌手
1940年 - 斎藤晴彦、俳優
1941年 - ポール・アンカ、歌手・作曲家
1945年 - デイヴィッド・サンボーン、ミュージシャン
1947年 - アーノルド・シュワルツェネッガー、俳優・カリフォルニア州知事
1947年 - 西岸良平、漫画家
1948年 - ジャン・レノ、俳優
1956年 - 松本奈代子、棋士
1957年 - 堀内賢雄、声優
1958年 - ケイト・ブッシュ、ミュージシャン
1958年 - デイリー・トンプソン、陸上選手
1958年 - 日垣隆、ジャーナリスト・ノンフィクションライター
1960年 - 石田登星、俳優
1961年 - ローレンス・フィッシュバーン、俳優
1962年 - 境川親方、元小結両国
1963年 - リサ・クドロー、女優
1964年 - ユルゲン・クリンスマン、サッカー選手・監督
1966年 - 阿部義晴、ミュージシャン・音楽プロデューサー
1966年 - 柴田善臣、JRA騎手
1966年 - 野咲たみこ、元アイドル
1966年 - 熊沢秀浩、元プロ野球選手
1968年 - 清原久美子、フリーアナウンサー
1968年 - ショーン・ムーア、ミュージシャン
1968年 - 七月鏡一、漫画原作者
1970年 - クリストファー・ノーラン、映画監督
1970年 - 古今亭今輔(6代目)、落語家
1974年 - 大竹奈美、サッカー選手・解説者
1974年 - 大竹由美、元サッカー選手
1974年 - ヒラリー・スワンク、俳優
1977年 - 永山尚太、歌手
1979年 - 小林千恵、NHKアナウンサー
1983年 - 藤本つかさ、女優
1985年 - 徳満真紀子(サンフラワー)、ローカルアイドル
1985年 - 片岡信和、俳優
1986年 - 安藤絵里菜、タレント
1986年 - 千葉直人、騎手
1986年 - 丸木唯、プロ野球選手
1987年 - 矢澤利枝香、タレント・声優
1987年 - 大田原隆太、プロ野球選手
1988年 - 山田大樹、プロ野球選手
1993年 - 黒崎美穂、ジュニアアイドル
1993年 - 宮崎美穂、AKB48
忌日
1062年(康平5年6月22日)- 藤原茂子、後三条天皇の皇太子時代の妃
1569年(永禄12年6月17日)- 黄梅院、北条氏政の正室(* 1543年)
1683年 - マリー・テレーズ・ドートリッシュ、フランス王ルイ14世王妃(* 1638年)
1718年 - ウィリアム・ペン、ペンシルバニア州創立者(* 1644年)
1811年 - ミゲル・イダルゴ、メキシコ独立革命の指導者(* 1753年)
1826年(文政9年6月26日)- 松平乗保、江戸幕府老中・岩村藩主(* 1748年)
1833年(天保4年6月14日)- 津軽寧親、第9代弘前藩主(* 1765年)
1852年(嘉永5年6月14日)- 帆足万里、儒学者(* 1778年)
1898年 - オットー・フォン・ビスマルク、ドイツ宰相(* 1815年)
1898年 - ジョン・ケアード、哲学者(* 1820年)
1900年 - アルフレート、第3代ザクセン=コーブルク=ゴータ公(* 1844年)
1912年 - 明治天皇、第122代天皇(* 1852年)
1913年 - 伊藤左千夫、歌人(* 1864年)
1927年 - 村井弦斎、ジャーナリスト(* 1864年)
1947年 - 幸田露伴、作家(* 1867年)
1965年 - 谷崎潤一郎、作家 (* 1886年)
1970年 - ジョージ・セル、指揮者(* 1897年)
1976年 - ルドルフ・カール・ブルトマン、聖書学者(* 1884年)
1976年 - 衣笠十四三、映画監督(* 1900年)
1984年 - 今日出海、小説家(* 1903年)
1996年 - クローデット・コルベール、女優(* 1903年)
1996年 - 長谷有洋、声優(* 1965年)
1997年 - バオ・ダイ、ベトナム阮朝最後の皇帝(* 1913年)
2000年 - 寺田瀧雄、作曲家(* 1931年)
2002年 - 岡田正泰、ヤクルトスワローズの私設応援団「ツバメ軍団」団長(* 1931年)
2003年 - 石本雅男、法学者(* 1902年)
2003年 - サム・フィリップス、音楽プロデューサー(* 1923年)
2005年 - 初村滝一郎、元労働大臣(* 1913年)
2005年 - ジョン・ガラン、スーダン副大統領・スーダン人民解放軍最高司令官(* 1945年)
2006年 - 森三平太、俳優(* 1927年)
2007年 - ミケランジェロ・アントニオーニ、映画監督(* 1912年)
2007年 - 渡辺護、音楽学者・クラシック音楽評論家(* 1915年)
2007年 - イングマール・ベルイマン、映画監督 (* 1918年)
2007年 - 小田実、作家・市民運動家(* 1932年)
記念日・年中行事
プロレス記念日(日本)
1953年7月30日に力道山が日本プロレスリング協会を結成したことに由来。
独立記念日(バヌアツ)
1980年7月30日に独立。
システム管理者の日(7月最終金曜日、2004年)