東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年8月5日(火曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年8月5日(火曜日)

いよいよ8月です。
「8月」が「5日」すぎました。
「夏」も三分の二が終わりました。

夏至もとうに6月にすぎました。

だから。
今陽は短くなり始めます
明らかに短くなり始めています。

朝の04:00amにはふたたび「真っ暗」
になりました。

これからは太陽は「秋」「冬」に向かいます。
あと四週間で「秋」になります。

8月=真夏に近くなります。
とても昼間は「暑い」。
猛暑が心配です。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しも強いはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな8月はじめのひざしです。

ふとかんがえれば・・。
夏至もおわり。

真夏の太陽から若葉をまもる
「ソフトフイルター」の役目を.
真夏朝の「おぼろくもりそら」が
しているのです。

自然とは。
よくできたものです。
変幻自在でいて規則正しい。

大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

街路樹もそうそうたる。
羽振りのよい木々になってきました。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして。
夏場は枝ぶり葉っぱから日の光を
さえぎれない。
とどのつまり
四季のリズムをつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」には木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉針葉樹で
強いからといって「からまつ」をうえられても
困ります。

私の「大好き」な北原白秋の「からまつの詩」
の「からまつ」は
街路樹にはそぐいません。

やはり野におけ蓮華草と同じく。
「からまつ」も蓮華草と同じく華やかさとはかなさを
もっています。

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北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
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      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

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木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで。
大きな里山の森のうねりのようです。
今年は木々のわかばのめばえがとてもとても
鮮烈です。

街角の雑草も花はおわり。
7月の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
ますます姿を大きくしています。

雑草も。
同じく夏草へと変貌しつつある。

朝暗いうちは。
まだまだ。はださむい気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。真夏竹。
とおくからもみえます。

風にふかれる夏竹(なつたけ)の
みどりのいらかをかぜはやみ
なつの陽ひるむやうつろひの
竹(たけ)のつきひもはやいくとせ

地にも空にも
みどり葉ひらき
みどり木夏空
ひろがりけり
ゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし

ゆたかなりけり夏

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

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平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

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麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
「バロック音楽」の名作曲家
1623年 - アントニオ・チェスティ、作曲家(+ 1669年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

マルカントニオ・チェスティ
(Marc' Antonio Cesti, 1623年8月5日 -
1669年10月14日)はイタリア・バロック音楽の
オペラ作曲家です。

マルカントニオ・チェスティ(Marc' Antonio Cesti)

フィレンツェに生まれました。

カリッシミに師事した後郷里で活動致します。

1660年に教皇庁に地位を得ました。

++++++++++++++++++++++
マルカントニオ・チェスティ(Marc' Antonio Cesti)は。

1666年にウィーン宮廷副楽長に就任致します。
1669年に同地で没しました。

チェスティは専らオペラ作曲家として知られており、
最も著名なのが
《ラ・ドンLa Don 》
(ヴェネツィア、1663年)と
《黄金のりんごIl Pomo d'oro 》
(ウィーン、1668年)です。

++++++++++++++++++++++

チェスティは室内カンタータも作曲しています。

それらのアリアの純粋で繊細な調べはとても美しい
珠玉のしらべです。

舞台よりも小さな空間にふさわしいと思われます。
「バロック音楽」の「室内楽」です。

++++++++++++++++++++++

バロック音楽とは、
ヨーロッパにおける17世紀初頭から
18世紀中葉までの音楽の総称です。

一般に通奏低音の使用と
感情に則した劇的表現が特徴です。

今日のオペラの原型や
声楽から独立した形での器楽は「バロック音楽」の
この時期初めて確立されたものです。

++++++++++++++++++++++

「バロック音楽」の語源
バロック(仏英: baroque)という語
はポルトガル語 barocco (いびつな真珠)
が由来であるとされます。

過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として
18世紀に登場致しました。

転じて17世紀から18世紀までの
芸術一般におけるある種の様式を指す語として
定着したものです。

++++++++++++++++++++++

「バロック音楽」
音楽に対して baroque の語を使用している用例は
18世紀の書簡や批評に既に現れています。

ノエル・アントワーヌ・プリュシュ Noel Antoine Pluche は
彼の著書 Spectacle de la nature(1746年)の中で、
バロック音楽を「歌の音楽」(la musique chantante) の
対立概念として提起しています。

そして
その特徴は。
「音の大胆さで聞くものを驚かせ急速さや雑音でもって
歌の代用とする」こととしています。

++++++++++++++++++++++
「バロック音楽」と「いびつ」「奇異」?

18世紀の論客が音楽に対して
バロックの語を用いるときにはこのように
、奇異であることとか歪みといった意味合いで用いていました
(ブフォン論争も参照)。

しかし、「バロック音楽」という概念そのものは
音楽史にはなかなか定着しませんでした。

++++++++++++++++++++++
「バロック音楽」

音楽史的な観点から「バロック音楽」に組織的に言及したのは
ドイツの音楽学者クルト・ザックス(1888年 - 1959年)です。
彼の1919年の論文 "Barockmusik"
によれば。

バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように
速度や強弱、音色などに対比があり、
劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義されます。

++++++++++++++++++++++

「バロック音楽」の多様性
しかし、
17世紀から18世紀にかけての音楽には地方や時期によって
様々なスタイルのものがあるため。

バロック音楽の特徴を簡略に総括する事は難しいものがあります。

たとえば、フランスでは、
フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張しています。

この時期の音楽を
「古典フランス音楽」(la musique française classique)
と呼ぶ者もいます。

ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は。
1961年の論文
"Terminologia organistica" の中で、
17世紀前半のフランス芸術は古典主義に席捲されているため、
ドイツ音楽史学で広く用いられる「バロック」の語は
フランスの音楽や文化に当てはめる事ができない、
と述べています。

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「バロック音楽」の今現在

今日では「バロック音楽」の用語は、
音楽様式・時代様式だけでなく、
むしろ音楽史上の年代を指すものとしても
広く受け入れられています。

++++++++++++++++++++++

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アントニオ・チェスティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3

マルカントニオ・チェスティ(Marc' Antonio Cesti, 1623年8月5日 - 1669年10月14日)はイタリア・バロック音楽のオペラ作曲家。

フィレンツェに生まれ、カリッシミに師事した後、郷里で活動。1660年に教皇庁に地位を得る。

1666年にウィーン宮廷副楽長に就任し、1669年に同地で没した。チェスティは専らオペラ作曲家として知られており、最も著名なのが《ラ・ドンLa Don 》(ヴェネツィア、1663年)と《黄金のりんごIl Pomo d'oro 》(ウィーン、1668年)である。チェスティは室内カンタータも作曲しており、それらのアリアの純粋で繊細な調べは、舞台よりも小さな空間にふさわしい。

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
バロック音楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%9F%B3%E6%A5%BD

バロック音楽とは、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀中葉までの音楽の総称である。一般に通奏低音の使用と、感情に則した劇的表現が特徴であるとされる。今日のオペラの原型や、声楽から独立した形での器楽はこの時期初めて確立された。

目次
1 語源
2 年代別概観
2.1 初期バロック(1600年頃1650年頃)
2.2 中期バロック(1650年頃1700年頃)
2.3 後期バロック(1700年頃1750年頃)
3 忘却と再生
4 関連項目
5 参考文献

語源
バロック(仏英: baroque)という語はポルトガル語 barocco (いびつな真珠)が由来であるとされ、過剰な装飾を持つ建築を批判するための用語として18世紀に登場した。転じて、17世紀から18世紀までの芸術一般におけるある種の様式を指す語として定着した。

音楽に対して baroque の語を使用している用例は18世紀の書簡や批評に既に現れている。ノエル・アントワーヌ・プリュシュ Noel Antoine Pluche は彼の著書 Spectacle de la nature(1746年)の中で、バロック音楽を「歌の音楽」(la musique chantante) の対立概念として提起し、その特徴は「音の大胆さで聞くものを驚かせ、急速さや雑音でもって歌の代用とする」こととしている。18世紀の論客が音楽に対してバロックの語を用いるときにはこのように、奇異であることとか歪みといった意味合いで用いていた(ブフォン論争も参照)。しかし、「バロック音楽」という概念そのものは音楽史にはなかなか定着しなかった。

音楽史的な観点から「バロック音楽」に組織的に言及したのはドイツの音楽学者クルト・ザックス(1888年 - 1959年)である。彼の1919年の論文 "Barockmusik" によれば、バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義される。

しかし、17世紀から18世紀にかけての音楽には地方や時期によって様々なスタイルのものがあるため、バロック音楽の特徴を簡略に総括する事は難しい。たとえば、フランスでは、フランス音楽史にバロック音楽は存在しない、と主張し、この時期の音楽を「古典フランス音楽」(la musique française classique)と呼ぶ者もいる。ノルベール・デュフォルク Norbert Dufourcq は1961年の論文 "Terminologia organistica" の中で、17世紀前半のフランス芸術は古典主義に席捲されているため、ドイツ音楽史学で広く用いられる「バロック」の語はフランスの音楽や文化に当てはめる事ができない、と述べている。

今日では「バロック音楽」の用語は、音楽様式・時代様式だけでなく、むしろ音楽史上の年代を指すものとしても広く受け入れられている。

年代別概観
以下では年代を追ってバロック音楽の変遷を記述する。それぞれの年代、地域に特徴的な潮流を説明するにあたって、その時代や地域の代表的な音楽家の活動を通して説明を試みている。これらの音楽家はある種の典型例の一つに過ぎず、実際は他の多くの音楽家やパトロン等によって形作られていた音楽環境がそれぞれの地域・時代の音楽の潮流を重層的かつ多様性のあるものとして作り出していた事に注意しなければならない。より詳しくはバロック音楽の作曲家一覧などから個々の作曲家の記事などを参照されたい。

初期バロック(1600年頃1650年頃)
1600年以前のルネサンス音楽では、多くの音楽作品は対位法にのっとって作曲されており、声部の模倣や不協和音の利用法に多くの制限があった。これに対して、北イタリアのマドリガーレ作曲家たちは、詩の内容や詩に現れる個々の語の感情 affetto を音楽的に表現する手段を探求していた。また、フィレンツェのカメラータでは、古代ギリシアの音楽悲劇の復興の観点から、感情と結びついた音楽表現を探求した。これらはそれぞれ違う動機を持ってはいたものの、音楽における感情の劇的な表現という観点を共有しており、それぞれルネサンス音楽の作曲法の枠を打ち破ろうとしていた。

このような運動を推し進めたマドリガーレ作曲家としてはクラウディオ・モンテヴェルディ(1567年 - 1643年)が有名である。彼はしばしば作中で「予備のない不協和音」を用いたが、この事に対するジョヴァンニ・マリア・アルトゥージの批判に応えて、モンテヴェルディはルネサンスの規範による旧来の作曲法を「第1作法」(prima pratica)、それに対し、彼自身を含め新たな技法によって劇的な音楽の表出を目指す作曲法を「第2作法」(seconda pratica) と呼んで、後者を擁護した。

ルネサンス音楽において声楽は3声部以上を持つものが主流であったが、カメラータでは劇中の音楽として、劇の登場人物が1人で歌唱する作品の形式を発案した。これをモノディー形式と呼ぶ。カメラータの音楽劇の最初のまとまった試みは1598年にヤーコポ・ペーリ(1561年 - 1633年)を中心として行われた音楽劇「ダフネ」の上演であり、これを以てオペラの誕生とする意見もある。モノディー形式の例として今日最も有名なのは、ジュリオ・カッチーニ(1545年頃 - 1618年)の Le nuove musiche(「新音楽」、1601年)である。「新音楽」の作品は、歌手の歌うメロディーと伴奏用の低音パートの2声部に加えて、低音パートに数字を添えて記譜されている。数字は低音の上に奏すべき和音を示しており、これはいわゆる通奏低音の原型とも言うべきものである。モノディー歌曲は、ストロペ(同じ旋律の歌詞を変えての繰り返し)を持たない通作形式であり、レチタティーボの先駆でもある。

これらの潮流は孤立して存在していたのではなく、互いに影響を及ぼしあい、また宗教音楽やオルガン・チェンバロ用の鍵盤音楽、またリュートの音楽など他のジャンルにも大きな影響を及ぼした。バロック時代を通して見られる半音階の使用や比較的自由な不協和音の使用もこの時期に一般的となった。

ヴェネツィアでは都市の繁栄に裏付けられた富裕層がいたが、これらの市民のためのオペラ劇場が17世紀中ごろまでに相次いで建てられ、オペラが大流行する事になる。この時期のヴェネツィア風のオペラとしてはモンテヴェルディやその弟子のフランチェスコ・カヴァッリ(1602年 - 1676年)によるものが有名である。これらの作品では、カメラータの音楽劇とは違って、レチタティーヴォとアリア、および器楽のリトルネロによってオペラを構成する形式へと変化しつつあった。また、これらのオペラや各種の祝祭における器楽の需要によってヴェネツィアでは器楽も発達した。ヴェネツィアではルネサンス末期、ジョヴァンニ・ガブリエリ(1554年頃 - 1612年)らによって、コンチェルト形式の器楽が発達していた。オペラのリトルネッロではガブリエリ以来の器楽技法を受け継いでいたが、それとは別に、ダリオ・カステッロ(? - 1630年頃)ら器楽のヴィルトゥオーゾたちによって、旋律楽器の独奏あるいは二重奏と通奏低音による(単一楽章形式の)ソナタが作られた。

同じ頃、ローマでも教皇庁やそこに集まってくる貴族や外国人の邸宅などを中心として音楽活動が盛んに行われていた。これら貴族の邸宅での音楽実践の中で、レチタティーボとアリアの形式を取り入れた室内カンタータが発生していった。また、教皇庁や教会では通常の典礼のためのミサ曲などが作られ続けた一方、祈祷所での宗教的修養が盛んに行われており、その一環として宗教的な題材の詩にカンタータ形式の音楽を付けたオラトリオが演奏されるようになった。初期のカンタータやオラトリオの作曲家としてはジャコモ・カリッシミ(1605年 - 1674年)が重要である。ローマでも器楽は盛んであり、オルガニストのジローラモ・フレスコバルディ(1583年 - 1643年)などが人気を博していた。

中期バロック(1650年頃1700年頃)
17世紀前半にイタリアで興った新しい音楽の流れ、特にオペラの発生と通奏低音の使用は、直接にせよ間接にせよ、他のヨーロッパの国々に影響を与えていく事になる。

フランスでは、17世紀前半まで宮廷バレエ(ballet de cour)など比較的独自の音楽文化を持っていた。1650年頃に、イタリア出身のマザラン卿がイタリアのオペラを紹介した事などで、イタリア風の音楽が流入した。

ルイ14世の宮廷では1670年頃まで依然として宮廷バレエが盛んであった。ジャン=バティスト・リュリ(1632年 - 1687年)はルイ14世の宮廷で多くのバレエ音楽、コメディ=バレを作った。やがてフランスでイタリア風オペラが流行するが、リュリはイタリア風のレチタティーヴォやアリアはフランス語の音素と相いれないものであるとして、フランス独自のオペラのジャンル、抒情的悲劇(tragédie lyrique)を打ち立てた。この抒情的悲劇は、歌手の歌うレシ(récit)と舞曲から構成されていた。レシはレチタティーヴォをフランス語の発音にあうように改変したものであり、舞曲は宮廷バレエから引き継がれたものである。リュリがルイ14世の宮廷で圧倒的な影響力を誇っていた事もあって、結果的にリュリの作品群によってその後のフランスにおけるバロック音楽の独自の形式が確立される事となった。

この時期のフランスではリュリの他にもマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643年 - 1704年)がモテ(motet)や劇音楽、室内楽の分野で活躍した他、マラン・マレ(1656年 - 1728年)などのヴィオール奏者や、リュートやクラヴサン奏者たちが、器楽独奏による組曲の形式で多くの優れた作品を残した。

ドイツやオーストリアではより直接的にイタリアの音楽の輸入が行われた。16世紀後半からウィーンや南ドイツの諸都市はイタリアの音楽家を招聘したり、若い音楽家をイタリアに派遣し勉強させたりした。イタリアの音楽の形式が輸入された事で、結果的にいわゆるドイツ風のバロック音楽の形式が作られる事となる。

この時期にイタリアに音楽を学びに行った音楽家の中で今日特に有名なのはハインリヒ・シュッツ(1585年 - 1672年)である。ヴェネツィアに2度遊学し、ジョヴァンニ・ガブリエリとクラウディオ・モンテヴェルディに師事した。音楽人生のほとんどをドレスデンの宮廷楽長として過ごした彼は、イタリアで作られたオペラやカンタータ、器楽等に用いられる様式を踏襲しつつ、イタリアの最新の流行を追うというよりは、独自の音楽表現を作り出していったようである。彼のドイツ語の聖書物語に基づく作品はルター派の地域に広く受け入れられ、いわゆるドイツ風の音楽のひとつの基盤が作られたといえる。

北ドイツやオランダなどではルネサンス後期以来ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562年 - 1621年)に代表されるオルガン楽派の伝統があり、これもドイツ風の音楽を考えるときには欠かせない要素である。北方のオルガン楽派の流れを引き継ぐ中期バロックの音楽家としてはディートリヒ・ブクステフーデ(1637年頃 - 1707年)がいた。この時期の北ドイツのオルガン楽派はその高度なテクニック、特に巧みにペダル鍵盤を操ることで知られる。ブクステフーデのオルガン用の前奏曲や、ドイツ語カンタータはこの時期のドイツのバロック音楽の一つの典型的な作品であるといえる。パッセージの作り方でオルガン楽派の方法を引き継いでいる一方で、チャコーナ、パッサカリアといった形式をしばしば使用しており、ブクステフーデ自身はイタリアで学んだ事はなかったが、楽曲の形式などではイタリア風の音楽の影響が見られる。

イギリスでは、16世紀末頃から17世紀前半まではリュートの伴奏による独唱曲(リュートエア lute ayre)や、ヴィオール族のためのヴァイオル・コンソートの音楽などがジョン・ダウランド(1563年 - 1626年)やウィリアム・ローズ(1602年 - 1645年)らによって作られた。はじめはルネサンス時代のイギリス音楽の特徴を残した独特の音楽を持っていたが、リュートエアに関しては、イタリアのモノディー様式やレチタティチーヴォ、アリアの影響を次第に受けるようになる。バロック中期にイギリスで活躍した作曲家としてはヘンリー・パーセル(1659年 - 1695年)があげられる。パーセルの時代にはイギリスにはリュリ式のフランス風の音楽が輸入され始めていた。パーセルは、歌曲の分野ではイタリアモノディーの影響を受けた作品を残した一方で、劇音楽の分野では、フランス風序曲やフランス風の舞曲を使用しており、フランス音楽の影響も強く見られる。しかしながら、パーセルの音楽は、イタリア音楽やフランス音楽の模倣というよりはむしろそれらを取り入れた独自の形式であったと評価されている。

このころ、イタリアではアルカンジェロ・コレッリ(1653年 - 1713年)が新たな形式の音楽を作り出していた。彼の新たな作曲法はトリオソナタやヴァイオリンソナタに典型的に現れている。彼の音楽はルネサンス的な対位法から完全に離れて、機能和声的な観点から各声部を緻密に書き込むといったものであり、それに従って、通奏低音パートに書き込まれるバスの数字も、初期バロックの作品とは異なり、細部に渡って詳細に書き記されている。結果として、曲想は初期バロックのそれよりも抑制され、均整のとれたものとなっている。コレッリのトリオソナタやヴァイオリンソナタは、1681年から1700年に相次いで出版されるや否や全ヨーロッパで人気を博し、瞬く間にこの「コレッリ様式」が普及する事となる。また、合奏協奏曲の形式が作られたのもこの時期であり、コレッリも合奏協奏曲を残している。

フランソワ・クープラン(1668年 - 1733年)はフランスにおけるコレッリ様式の擁護者のひとりであり、多くのトリオソナタを残している。彼はフランス風の音楽とイタリア風(コレッリ風)の音楽を融合させることを試みており、「コレッリ賛」(L'Apothéose de Corelli)と名付けられたトリオソナタを曲集「趣味の融合」(Les goûts-réünis)(1724年)の中に収録している。また、その次の年に出版された「リュリ賛」(Apothéose ... de l'incomparable Monsieur de Lully, 1725年)は、それぞれの曲にリュリにまつわる表題が付けられており、パルナッソス山に登ったリュリが、コレッリとともにヴァイオリンを奏でる、といった筋書きが設定されている。

イタリアのオペラやカンタータ、オラトリオの分野ではアレッサンドロ・スカルラッティ(1660年 - 1725年)に言及せねばならない。彼のオペラは生前からとても人気があったが、音楽史的な観点から重要なのはその形式上の変化である。スカルラッティのオペラでは様々な点でより古典期以降のオペラに近づいている。この事はたとえば、三部形式のダ・カーポアリアの使用や、器楽におけるホルンの利用などから知ることができる。

このように、中期バロックの時代には、初期バロックに見られた極端なものや奇異なるものから、より緻密に作られた均整のとれたものへと趣味が変化していった他、楽器に関しても、弦楽器ではヴァイオリン族、管楽器ではフルート、オーボエといった現代のオーケストラで用いられる楽器の直接の祖先が定着し始めていた事から、「バロック的」なものから古典主義的なもの、あるいは古典派音楽への遷移の始まりであったとみなす事もできる。

後期バロック(1700年頃1750年頃)
イタリアの後期バロックにおいて今日最も有名なのはアントニオ・ヴィヴァルディ(1678年 - 1741年)だろう。彼の作曲活動はオペラやオラトリオを含む多くのジャンルにわたっていたが、特に協奏曲に彼の独自性が現れている。ヴィヴァルディの協奏曲では、トゥッティ(全奏、tutti)部分とソロ部分の対比が合奏協奏曲よりも明確となり、独奏楽器の技術を誇示するような傾向がより強まっている。ヴィヴァルディによって急-緩-急の3楽章形式の協奏曲形式が確立され、この形式は以降古典派、ロマン派にまで受け継がれていくことになる。

この時期のイタリアの作曲家たち、たとえばドメニコ・スカルラッティ(1685年 - 1757年)、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(1698年 - 1775年)、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710年 - 1736年)、ドメニコ・アルベルティ(1710年頃 - 1740年)などは、年代的には「後期バロック」に位置しながら、作曲技法においては既に古典派音楽の特色を多く有しており、この時期のイタリア半島の音楽はすでに古典派に移行しつつあったといえる。

フランスではジャン=フィリップ・ラモー(1683年 - 1764年)がフランス風のオペラの伝統を継承し、いくつかのオペラ=バレ opéra-ballet や音楽悲劇 tragédie en musique を残した。ラモーはクラヴサン音楽の分野でも重要な足跡を残している。オペラにおけるレシの様式はほぼ完全にリュリ以来の形式に則しており、クラヴサン音楽においても形式上はフランス風音楽の伝統の上に立っているが、オペラにおける序曲等の器楽やクラヴサン音楽にはギャラント様式や古典派の先駆と見られるような特色も数多く現れる。理論家としても有名で、機能和声についての最初の体系的な理論書を残した事で知られる。

ドイツでは、中期バロック期に作られたドイツ風の音楽に加えて、イタリアやフランスの新しい音楽の潮流がどん欲に取り入れられ、「趣味の融合」が本格的に行われていく事になる。そのような潮流を代表しているのがゲオルク・フィリップ・テレマン(1681年 - 1767年)である。彼はこの時期のドイツにおいて同時代人から最も評価の高かった作曲家であり、多作な事でも知られる。テレマンは、イタリア、フランスの最新の様式を取り入れた事で知られており、器楽の分野ではトリオソナタ、協奏曲、フランス風管弦楽組曲など幅広い種類の音楽を多数作曲した。また多数の教会カンタータやオラトリオも残している。

イギリスでは植民地経営によって経済的に潤うと多くの富裕市民があらわれ、18世紀には市民の間でオペラの人気が非常に高まった。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年 - 1759年)はイギリスで活躍したドイツ生まれの作曲家である。ヘンデルが活躍したのは主にオペラやオラトリオの分野であり、これらはつねに当時流行のスタイルで書かれていた。オペラ作品は概してイタリアオペラの書法に則ってはいたが、序曲や舞曲に関してはフランス風の音楽の影響も見られる。美しく、わかりやすいメロディーでロンドン市民に大いに親しまれたが、パーセルに見られたようなイギリス独特の要素はほとんど見られなかった。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年 - 1750年)は、西洋音楽史上、最も重要なバロック音楽の作曲家と考えられてきた。多数の教会カンタータ、鍵盤音楽、室内楽を残した。協奏曲や室内楽などではテレマンと同様当時のヨーロッパで流行していた様式に則った音楽を作った一方で、バッハのフーガに見られる対位法への傾倒は同時代人からは反時代的なものとして評価されたようである。またバッハはオペラを全く作曲しなかった。ドイツ中心の音楽史観の影響の下、数多くいるバロック時代の音楽家の中で、ともすると彼一人過大に評価されがちであるが、これまでに述べてきた初期バロックから彼の同時代へと至るバロック音楽の各時代の様式をバッハは熟知しており、それらを高度に駆使して自らの作品に反映させたという点では、バロック音楽を集大成した作曲家とみなすことができる。

忘却と再生
バロック音楽から古典派音楽への推移を、対位法的なものからホモフォニックなものへの転換と見るならば、バロック音楽それ自体が同様の推移をたどっており、バロック音楽といわゆる古典派音楽の境界を明確に線引きする事は難しい。連続的な趣味の変化に伴って、過去の遺物となったバロック時代の音楽は18世紀後半にはほぼ完全に忘却された。

ロマン派期になると、メンデルスゾーンによるバッハのマタイ受難曲の「再発見」に象徴されるように、バロック時代の音楽へと興味が向かうようになり、作品にバロック風の味付けを施す作曲家もいた(たとえばブラームスやマックス・レーガーなど)。また、19世紀末から20世紀のフランスの音楽家たちも、バロック期の音楽に興味を抱き、その形式の一部を模倣するような作品を作っている(たとえばドビュッシーの「ラモー賛 Hommage à Rameau」やラヴェルの「クープランの墓 Le tombeau de Couperin」など)。

20世紀前半を通してバロック音楽への関心は持続された。やがて、バロック時代には現代とは異なる楽器が使用されていた事が、特に鍵盤楽器に関して注目を引き、チェンバロの復興が行われたが、当初は、チェンバロへの様々な誤解がある上に、ピアノ製造の技術を流用して作られた事などからこれらは今日では(逆説的にも)モダン・チェンバロなどと呼ばれている。1970年代から、バロック(以前)の音楽の演奏に際しては、博物館や個人の収集で残されている同時代の楽器(オリジナル楽器)や、それらの楽器の忠実なレプリカ(ヒストリカル楽器)を使用し、同時代の文献などによって奏法研究を行うことで徹底的にバロック期の音楽を再現しようとする動きが活発になった。このような潮流を古楽運動とよび、このような観点で用いられるオリジナル楽器やヒストリカル楽器を古楽器と呼ぶ。バッハなどの一部のバロックのレパートリーはピアノなど現代の楽器で演奏され続ける一方、本項目に現れた作曲家の多くは、ことごとくこの古楽運動の中で「再発見」された事情もあって、今日のバロック音楽の演奏実践では古楽器による演奏が大部分を占めている。

関連項目
バロック音楽の作曲家一覧
クラシック音楽
ルネサンス音楽
古典派音楽
古楽
古楽器

参考文献
H.M.ブラウン著/藤江効子、村井範子訳 「ルネサンスの音楽」 東海大学出版会 (1994) ISBN 4-486-01324-7
C. V. パリスカ著/藤江効子、村井範子訳 「バロックの音楽」 東海大学出版会 (1975) ISBN 4-486-00102-8
カーティス・プライス 編/美山良夫 監訳 「オペラの誕生と教会音楽初期バロック」 音楽之友社 (1996) ISBN 4276112338
皆川達夫 『バロック音楽』講談社学術文庫 ISBN 4061597523
Palisca, C.V., Baroque, Grove Music Online, ed. L. Macy (Accessed 2006.10.04), 作曲家、形式等他の項目も参照した。

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8月5日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと
1100年 - ヘンリー1世がイングランド王に即位。

1240年(仁治元年7月16日)- 日本の元号が延応から仁治に改元。

1748年(寛延元年7月12日)- 日本の元号が延享から寛延に改元。

1772年 - プロイセン王国・オーストリア帝国・ロシア帝国によって
第1次ポーランド分割が行なわれる。

1874年 - 日本で『郵便預規則』が公布、世界で4番目に郵便貯金制度が創設された。

1882年 - 太政官布告として戒厳令が制定。

1912年 - 東京有楽町で日本初のタクシー会社が設立される。

1913年 - 岩波茂雄が東京神田神保町で岩波書店を創業。

1940年 - ラトビアがソビエト連邦に加盟。

1942年 - 日本海軍の戦艦『武蔵』が竣工。

1942年 - 読売新聞と報知新聞が合併、題字が『読売報知』に改題される。

1944年 - カウラ事件

1945年 - 湯の花トンネル列車銃撃事件

1960年 - ブルキナファソが独立。

1962年 - 南アフリカ共和国の黒人解放運動指導者ネルソン・マンデラが当局に逮捕、
1990年の釈放まで獄中で過ごす。

1963年 - アメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリスの3ヵ国が
モスクワで部分的核実験禁止条約に調印。

1966年 - 文化大革命: 人民日報に毛沢東の論文『司令部を砲撃せよ −
私の大字報』が掲載される。

1986年 - 宮城県鹿島台町(現・大崎市)で、吉田川の氾濫のため
約1200世帯が浸水するなど、各地で台風10号およびその台風から変わった
低気圧によって多数の被害が発生。(8・5豪雨)

1994年 - 福徳銀行(現近畿大阪銀行)五億四千万円強奪事件。

1996年 - SPEEDがシングル『Body & Soul』でデビュー。

2000年 - プロレスリング・ノア旗揚げ。

2002年 - 住民基本台帳ネットワーク開始。

2002年 - マブチモーター社長宅殺人放火事件。妻と長女が絞殺され犯人が放火。

2004年 - 広州で広州白雲国際空港が開港。

2005年 - 自殺サイト殺人事件の容疑者が逮捕。

誕生日
1461年 - アレクサンデル、ポーランド王(+ 1506年)

1623年 - アントニオ・チェスティ、作曲家(+ 1669年)

1749年 - トマス・リンチ・ジュニア、アメリカ独立宣言署名者(+ 1779年)

1758年(宝暦8年7月2日)- 後桃園天皇、第118代天皇(+ 1779年)

1798年 - ジョン・ロッテスリー、天文学者(+ 1867年)

1802年 - ニールス・アーベル、数学者(+ 1829年)

1811年 - アンブロワーズ・トマ、作曲家(+ 1811年)

1827年 - デオドロ・ダ・フォンセカ、初代ブラジル大統領(+ 1892年)

1828年 - ルイーゼ・ファン・オラニエ=ナッサウ、スウェーデン王カール15世の妃(+ 1871年)

1833年 - カロラ・ヴァーサ、ザクセン王アルベルトの妃(+ 1907年)

1840年 - イリヤ・レーピン、画家・彫刻家(+ 1930年)

1850年 - ギ・ド・モーパッサン、作家(+ 1893年)

1860年 - ルイス・ウェイン、画家(+ 1939年)

1862年 - ジョゼフ・メリック、「エレファント・マン」として知られる人物(+ 1890年)

1890年 - エーリヒ・クライバー、指揮者(+ 1956年)

1898年 - ピエロ・スラッファ、経済学者(+ 1983年)

1900年 - 壺井栄、作家(+ 1967年)

1901年 - クロード・オータン=ララ、映画監督(+ 2000年)

1905年 - ワシリー・レオンチェフ、経済学者(+ 1999年)

1906年 - ジョン・ヒューストン、映画監督・俳優(+ 1987年)

1911年 - ロバート・テイラー、俳優(+ 1969年)

1912年 - アベ・ピエール、キリスト教の司祭(+ 2007年)

1930年 - ニール・アームストロング、宇宙飛行士

1931年 - 木坂順一郎、政治学者・歴史家

1932年 - ウラジミール・フェドセーエフ、指揮者

1940年 - 古賀誠、政治家

1946年 - 中村順司、アマチュア野球指導者

1949年 - 片平晋作、元プロ野球選手
1956年 - 村松利史、俳優
1956年 - 山内孝徳、元プロ野球選手
1959年 - リチャード・ダトロー・ジュニア、調教師
1961年 - 藤吉久美子、女優
1961年 - マイケル富岡、DJ・俳優
1964年 - 鹿野淳、音楽評論家
1964年 - 大藤直樹、俳優
1965年 - 鈴木信行、政治運動家
1966年 - 森口瑤子、女優
1968年 - コリン・マクレー、ラリードライバー(+ 2007年)
1969年 - 後藤田正純、自民党衆議院議員
1969年 - 若田部健一、元プロ野球選手
1971年 - 今井裕、天文学者
1971年 - サムエル・ビンセント、声優
1972年 - ジョン・ワズディン、元プロ野球選手
1974年 - 安岡優、ゴスペラーズ・ミュージシャン
1976年 - 中野由紀、バレーボール選手
1976年 - クォンサンウ、俳優
1977年 - 広橋涼、声優
1977年 - 深見真、作家
1978年 - 尾形佳紀、プロ野球選手
1979年 - デイビット・ヒーリー、サッカー選手
1980年 - 根本幸多、声優
1981年 - カール・クロフォード、メジャーリーガー
1981年 - 柴咲コウ、女優・歌手
1982年 - 大路明日香、俳優・アイドル
1983年 - 木下鈴奈、アイドル
1984年 - 池田剛基、元プロ野球選手
1986年 - ポーラ・クリーマー、女子プロゴルファー
1987年 - ステファニー、歌手
1989年 - ライアン・バートランド、サッカー選手
1989年 - 松島花、ファッションモデル
1990年 - 南結衣、グラビアアイドル
1993年 - 大後寿々花、女優
1997年 - 名前不明、日本初のクローン牛

忌日
683年(天武天皇12年7月5日)- 鏡王女、藤原鎌足の正妻・歌人

775年(宝亀6年7月1日)- 藤原蔵下麻呂、奈良時代の公卿(* 734年)

824年(弘仁15年7月7日)- 平城天皇、第51代天皇(* 774年)

882年 - ルイ3世、西フランク王(* 863年)

989年(永祚元年6月26日)- 藤原頼忠、平安時代の公卿(* 924年)

1364年(正平19年/貞治3年7月7日)- 光厳天皇、北朝初代天皇(* 1313年)

1405年(応永12年7月11日)-
日野業子、室町幕府第3代将軍足利義満の正室(* 1351年)

1594年(文禄3年6月19日)- 亘理元宗、戦国武将(* 1530年)

1703年(元禄16年6月23日)- 佐竹義処、第3代久保田藩主(* 1637年)

1719年(享保4年6月20日)- 伊達綱村、第4代仙台藩主(* 1659年)

1729年 - トーマス・ニューコメン、発明家(* 1664年)

1792年 - フレデリック・ノース、イギリス首相(* 1732年)

1839年(天保10年6月26日)-
松平輝承、江戸幕府奏者番・高崎藩主(* 1817年)

1852年(嘉永5年6月20日)-
大岡忠固、江戸幕府若年寄・普請奉行・岩槻藩主(* 1794年)

1864年(元治元年7月4日)- 大高忠兵衛、尊皇攘夷志士(* 1823年)

1872年 - シャルル=ユージェヌ・ドロネー、天文学者・数学者(* 1816年)

1895年 - フリードリヒ・エンゲルス、経済学者(* 1820年)

1897年 - アルベルト・マルト、天文学者(* 1828年)

1899年 - ウィリアム・K・バートン、お雇い外国人の技術者(* 1856年)

1901年 - ヴィクトリア、ドイツ皇帝フリードリヒ3世の皇后(* 1840年)

1915年 - 佐久間左馬太、第5代台湾総督(* 1844年)

1916年 - ジョージ・バターワース、作曲家(* 1885年)

1925年 - ジョルジュ・パラント、思想家・哲学者(* 1862年)

1940年 - フレデリック・クック、探検家(* 1865年)

1946年 - ヴィルヘルム・マルクス、第8・10代ドイツ国首相(* 1863年)

1957年 - ハインリッヒ・ヴィーラント、化学者(* 1877年)

1961年 - 北れい吉、思想家・評論家・自由民主党衆議院議員(* 1885年)

1962年 - マリリン・モンロー、女優(* 1926年)

1963年 - サルバドール・バカリッセ、作曲家(* 1898年)

1964年 - アート・ロス、アイスホッケー選手・指導者(* 1886年)

1978年 - ジェシー・ヘインズ、メジャーリーグベースボール選手(* 1893年)

1981年 - イェジ・ネイマン、統計学者(* 1894年)

1981年 - 船山馨、小説家(* 1914年)

1983年 - 中村草田男、俳人(* 1901年)

1983年 - ジョーン・ロビンソン、経済学者(* 1903年)

1984年 - リチャード・バートン、俳優(* 1925年)

1987年 - 澁澤龍彦、小説家(* 1928年)

1991年 - 本田宗一郎、本田技研工業設立者(* 1906年)

1992年 - ロバート・マルドゥーン、第31代ニュージーランド首相(* 1921年)

1992年 - ジェフ・ポーカロ、ドラマー・スタジオ・ミュージシャン(* 1954年)

1998年 - トドル・ジフコフ、ブルガリアの指導者(* 1911年)

1998年 - オットー・クレッチマー、ドイツ海軍のUボート指揮官(* 1912年)

1999年 - 高沢寅男、日本社会党衆議院議員(* 1926年)

2000年 - アレック・ギネス、俳優(* 1914年)

2001年 - ズオン・バン・ミン、南ベトナム大統領(* 1916年)

2002年 - 御木本伸介、俳優(* 1931年)

2005年 - 田中正巳、厚生大臣(* 1917年)

2006年 - ダニエル・シュミット、映画監督(* 1941年)

記念日・年中行事
タクシーの日(日本)
1912年8月5日に
日本最初のタクシー会社が営業を開始する予定日としたことに由来。
実際は、明治天皇崩御や
タクシー・メーターの取り付けの遅れにより8月15日に正式営業開始。

東京乗用旅客自動車協会(東旅協)が1984年に制定し、
翌1985年から実施。以後、全国乗用自動車連合会(全乗連)が全国キャンペーンを実施中。

ハードコアテクノの日(日本)
"8"と"5"を「ハーコー(HARDCOREの英語発音)」と読む語呂合わせから。
日本記念日協会が2006年に制定、申請者は
レコードレーベル運営者のHARDCOREOSAKA。

土用の丑の日 - 2008年