東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年8月17日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年8月17日(日曜日)

堂々たる「8月」です。
「9月」まであと「2週間」です。

せみの声も早朝からきこえています。
日の出直後はいつも晴れています。
まさしく夏・真夏です。
正確には「夏・真夏になりました。」
けれどもそろそろとしのびよる秋の大気。
「秋」の気配も「確かに」。
感じられるようになりました。
「9月」まであと「三週間」です。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々になってきました。

街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先がろうそくの
明かりのように「炎様」になっていました。

あたかも
ゴッホの絵画の「夜の糸杉」のように。
早朝はみえます。
夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇のごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
とても獰猛な気配を放つ。
初めて気づきました。

濃い緑の葉。

桜の木は木の下で。
心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹がすっかりみえません。
桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ。
この
桜の木の下で木陰で心安らかにやすもうという
気はおきません。

やはり桜の木は
シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」ではないのです。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
針葉樹から常緑樹に「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。
いにしえの古代の時代にも
恐竜を始めとする
「大型」の草食動物にもかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のよう
「冬も葉を持つ常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱからつよすぎる日の光は
さえぎれません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の初夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな初夏の萌黄色です。
まるで大きな竹山の竹のうねりのようです。
今年は木々のわかばのめばえが非常に鮮烈
です。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となり
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。
夏草のたたずまいをしています。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
もう。はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

「蓮(ハス)」があります。
ハスの花がさき。
「はすの花」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。

日曜の朝晴れて
はじめて気づく
にわの小ささ

にちようのあさはれて
はじめてきづく
にわのちいささ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

きらきらラピス・ラズリの空(そら)
紺碧のカクテルいろの空(そら)
ミルクをそそそいだ空(そら)
トルコいしのプリンの空(そら)
はるかにとほくたかい空(そら)
ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
プリンの上のクリームのような空(そら)
あじさい花(はな)のアイスクリーム空(そら)
あじさいのうえに空(そら)
空(そら)の向こうにまた空(そら)
そのまたむこうにも空(そら)

夏のうららのこもれびに
緑木いらかにをかぜはやみ
青風ひるむやうつろひの
四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに
緑木いらかのつねなりて
赤き空(そら)にて炎えたたむ
四季のつきひのはやいくとせ

椎木(しいのき)の枝高し
そらに吼える若葉が穂束
獅子のごとし
木にも地にもみどりがさける
夏のあさ
陽の光ゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
いふこともなし
ゆたかなるかな

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

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平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
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7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
16世紀ドイツでは
旧世代の
「第1作法 prima prattica 」を代表しており。
完全に展開され、洗練された、ルネサンスの
ポリフォニー様式の担い手
が主流でした。

けれども折りしも
イタリアでは、新しい流行が浮上して。
後にバロックと
呼ばれる時代が決定されようとしていた。
そのとき。

コンチェルタート様式や複合唱の理念や。
ヴェネツィア楽派の自由な情緒表現をドイツ文化に伝え。
イタリアの外で最初の最も重要なバロック音楽の発展を
ドイツの地で切り開いた音楽家。

1562年 - ハンス・レーオ・ハスラー、音楽家(+1612年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ハンス・レーオ・ハスラー
(Hans Leo Hasler(またはHasslerの綴りも)、
1562年8月17日受洗 -
1612年6月8日 フランクフルト・アム・マイン)は、
後期ルネサンスのドイツの作曲家です。

++++++++++++++++++++++

ハンス・レーオ・ハスラーの経歴
ニュルンベルク出身。
少年時代にオルガン奏者の父親から
音楽教育を受けました。

1584年に
当時の多くのドイツ人作曲家がしたように。
イタリアに音楽留学を果たし、
ヴェネツィアで研修を積みました。

当時のヴェネツィアは
ヴェネツィア楽派の活動のピークに当たりました。

楽派に属する作曲家が豪華絢爛な
複合唱様式で作曲を行いました。

やがてヴェネツィア国外でも
その様式が有名になっていました。

++++++++++++++++++++++

ハンス・レーオ・ハスラーも。
ミュンヘンでラッススとつながりのあった
レオンハルト・レヒナーのおかげで。

ドイツ語圏にも流布された
、この種の出版譜のうちいくつかには、
早くから親しんでいました。

ヴェネツィアでは
ジョヴァンニ・ガブリエーリと親交を結びました。

そして
ジョヴァンニとともにその叔父に師事しました。

++++++++++++++++++++++
ハンス・レーオ・ハスラーの帰国

ハスラーは1586年にドイツに帰国し。

アウクスブルクに移って同地の富豪フッガー家の
オクタヴィアン2世のオルガニストに採用されました。

アウクスブルク時代はハスラーにとって
殊のほか創造的な時期でした。

そのうえに。めぐまれたことに。
この頃に作曲家やオルガニストとして有名になりました。

++++++++++++++++++++++

ハンス・レーオ・ハスラーは。
けれどもなんの因果か。
それにもかかわらず。
今なお根強いカトリック圏内での
数少ないプロテスタントでありました。

ハスラーの影響力には限界がありました。

++++++++++++++++++++++

ハンス・レーオ・ハスラーは。
その後はまずニュルンベルクに、
次いでウルムに移転致しました。

この頃に結核に感染し、
もはや致命的であることが判明したが、
それでもなおドレスデン宮廷礼拝堂のオルガニストとして
短期間の奉公を果たしました。

ハスラー没後に、
ミヒャエル・プレトリウスと
ハインリヒ・シュッツが
後任に任命されています。

++++++++++++++++++++++

ハンス・レーオ・ハスラーの作曲様式
ハスラーは、ヴェネツィア様式の新機軸を。
アルプスを越えて
ドイツにもたらした最初の作曲家のひとりである
のです。

ドイツにはラッススのような立場の音楽家が何年間も
活動していたにもかかわらず。

そう言った音楽家は
旧世代の「第1作法 prima prattica 」を旧態依然
として周到致しておりました。
「ツネサンス形式」です。

完全に展開され洗練された
ルネサンスのポリフォニー様式の担い手でした。
バロック以前の音楽形態です。

++++++++++++++++++++++

ドイツでは完全に展開され洗練された
ルネサンスのポリフォニー様式が展開されていても。

イタリアでは、新しい流行が浮上して。
後にバロックと呼ばれる時代が
決定されようとしていたのです。

ハスラーや後のシュッツのような音楽家は。

コンチェルタート様式や複合唱の理念や
ヴェネツィア楽派の自由な情緒表現をドイツ文化に伝える
ことに成功致しました。

ハンス・レーオ・ハスラーらは。
イタリアの外で
最初の最も重要なバロック音楽の発展を、
ドイツの地で切り開きました。

++++++++++++++++++++++

ハスラーの宗教音楽は。

ローマ・カトリック教会と
ルター派教会の両方のために作曲されています。

様式的に言うと。
初期作品のほうが後の作品よりも進歩的です。

イタリアから帰国後の作品には、
複合唱の技法、テクスチュアの対比、
随所に見られる半音階技法が
顕著です。

後年の宗教曲は保守的であり、
パレストリーナ様式にならって
線的対位法が駆使されています。

++++++++++++++++++++++

ハスラーの音楽は
マドリガーレやカンツォネッタ、ドイツ・リート
が声楽曲にあり。

器楽曲には、
リチェルカーレやカンツォン・アラ・フランチェーゼ、
トッカータなどがあります。

その多くは、イタリアのバロックの技法を学んだ
師匠の。
ガブリエーリ進歩的な技法が採用されています。

けれども性格において。
イタリアのバロックの技法を学んだ
師匠の。
ガブリエーリ進歩的な技法よりも。

むしろ穏当であり。
常に緻密な職人芸やバロック様式として精緻に配列された
響きの美しさへの配慮が。

行き渡っていることが特徴です。

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ハンス・レーオ・ハスラー作品集

カンツォネッタ集 Canzonette (ニュルンベルク, 1590年)
聖歌集(カンツィオーネス・サクレ)Cantiones sacrae (アウクスブルク, 1591年)
マドリガーレ集 Madrigals (アウクスブルク, 1596年)
マドリガーレとカンツォネッタの手法による新しいドイツ語の歌 Neue teusche Gesang nach Art der welschen Madrigalien und Canzonetten (Augsburg, 1596年)
ミサ曲集 Masses (ニュルンベルク, 1599年)
新しいドイツ語歌曲の遊歩庭園 Lustgarten neuer teutscher Gesang (Nuremberg, 1601)
宗教曲集 Sacri concentus (アウクスブルク, 1601年&1612年)
詩篇とキリスト教聖歌 Psalmen und christliche Gesang (ニュルンベルク, 160年7)
聖歌集 Kirchenesang (ニュルンベルク, 1608年)
器楽曲集《ヴィーナスの薗' 'Venusgarten 》(ニュルンベルク, 1615年)
ドイツ語のリタニア Litaney teutsch (ニュルンベルク, 1619年)
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ハンス・レーオ・ハスラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC

ハンス・レーオ・ハスラー(Hans Leo Hasler(またはHasslerの綴りも)、1562年8月17日受洗 - 1612年6月8日 フランクフルト・アム・マイン)は、後期ルネサンスのドイツの作曲家。

経歴
ニュルンベルク出身。少年時代にオルガン奏者の父親から音楽教育を受ける。1584年に、当時の多くのドイツ人作曲家がしたように、イタリアに音楽留学を果たし、ヴェネツィアで研修を積んだ。当時のヴェネツィアはヴェネツィア楽派の活動のピークに当たり、楽派に属する作曲家が、豪華絢爛な複合唱様式で作曲を行い、やがてヴェネツィア国外でもその様式が有名になっていた。ハスラーも、ミュンヘンでラッススとつながりのあったレオンハルト・レヒナーのおかげで、ドイツ語圏にも流布された、この種の出版譜のうちいくつかには、早くから親しんでいた。ヴェネツィアではジョヴァンニ・ガブリエーリと親交を結び、ジョヴァンニとともにその叔父に師事した。

ハスラーは1586年にドイツに帰国し、アウクスブルクに移って、同地の富豪フッガー家のオクタヴィアン2世のオルガニストに採用される。アウクスブルク時代はハスラーにとって殊のほか創造的な時期であった。そのうえ、この頃に作曲家やオルガニストとして有名になったが、それにもかかわらず、今なお根強いカトリック圏内での数少ないプロテスタントだったため、ハスラーの影響力は限られたものだった。その後はまずニュルンベルクに、次いでウルムに移転する。この頃に結核に感染し、もはや致命的であることが判明したが、それでもなおドレスデン宮廷礼拝堂のオルガニストとして短期間の奉公を果たした。ハスラー没後に、ミヒャエル・プレトリウスとハインリヒ・シュッツが後任に任命されている。

作曲様式
ハスラーは、ヴェネツィア様式の新機軸を、アルプスを越えてドイツにもたらした最初の作曲家のひとりである。ドイツにはラッススのような立場の音楽家が何年間も活動していたにもかかわらず、そう言った音楽家は旧世代の「第1作法 prima prattica 」を代表しており、完全に展開され、洗練された、ルネサンスのポリフォニー様式の担い手だった。だがイタリアでは、新しい流行が浮上して、後にバロックと呼ばれる時代が決定されようとしていたのである。ハスラーや後のシュッツのような音楽家は、コンチェルタート様式や複合唱の理念、ヴェネツィア楽派の自由な情緒表現をドイツ文化に伝え、イタリアの外で最初の最も重要なバロック音楽の発展を、ドイツの地で切り開いたのである。

ハスラーの宗教音楽は、ローマ・カトリック教会とルター派教会の両方のために作曲されている。様式的に言うと、初期作品のほうが後の作品よりも進歩的である。イタリアから帰国後の作品には、複合唱の技法、テクスチュアの対比、随所に見られる半音階技法が顕著であるが、後年の宗教曲は保守的であり、パレストリーナ様式にならって線的対位法が駆使されている。

ハスラーの世俗音楽はマドリガーレやカンツォネッタ、ドイツ・リートが声楽曲にあり、器楽曲には、リチェルカーレやカンツォン・アラ・フランチェーゼ、トッカータなどがある。その多くは、イタリアのガブリエーリ進歩的な技法が採用されている。だが、性格においてはむしろ穏当で、常に職人芸や響きの美しさへの配慮が行き渡っている。

作品集
カンツォネッタ集 Canzonette (ニュルンベルク, 1590年)
聖歌集(カンツィオーネス・サクレ)Cantiones sacrae (アウクスブルク, 1591年)
マドリガーレ集 Madrigals (アウクスブルク, 1596年)
マドリガーレとカンツォネッタの手法による新しいドイツ語の歌 Neue teusche Gesang nach Art der welschen Madrigalien und Canzonetten (Augsburg, 1596年)
ミサ曲集 Masses (ニュルンベルク, 1599年)
新しいドイツ語歌曲の遊歩庭園 Lustgarten neuer teutscher Gesang (Nuremberg, 1601)
宗教曲集 Sacri concentus (アウクスブルク, 1601年&1612年)
詩篇とキリスト教聖歌 Psalmen und christliche Gesang (ニュルンベルク, 160年7)
聖歌集 Kirchenesang (ニュルンベルク, 1608年)
器楽曲集《ヴィーナスの薗' 'Venusgarten 》(ニュルンベルク, 1615年)
ドイツ語のリタニア Litaney teutsch (ニュルンベルク, 1619年)

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8月17日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8817%E6%97%A5

できごと
1807年 - ロバート・フルトンの蒸気船「クラーモント号」がハドソン川で試運転に成功。

1945年 - インドネシアが独立を宣言。

1949年 - 松川事件(東北本線でレールが外され列車が脱線転覆、乗務員が死亡)

1960年 - ガボンがフランスから独立。

1963年 - 沖縄本島と久米島を結ぶ「みどり丸」が転覆・沈没。死者・行方不明112人。

1982年 - 世界初のCDが製造された。ABBAの「The Visitors」であった。

1998年 - アメリカのビル・クリントン大統領がモニカ・ルインスキーとの
「不適切な肉体関係」を認める。

1999年 - トルコ北西部でM 7.4の地震。17,000人以上が死亡。

2004年 - 読売ジャイアンツの工藤公康が通算200勝達成。

誕生日
1473年 - リチャード・オブ・シュルーズベリー、初代ヨーク公(+1483年?)

1562年 - ハンス・レーオ・ハスラー、音楽家(+1612年)

1578年 - フランチェスコ・アルバーニ、バロック画家(+ 1660年)

1601年 - ピエール・ド・フェルマー、数学者(+ 1665年)

1629年 - ヤン3世、ポーランド王(+ 1696年)

1753年 - ヨーゼフ・ドブロフスキー、歴史家(+ 1829年)

1754年 - ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン、
フランス革命期におけるフランスの政治家(+ 1802年)

1768年 - ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー、軍人(+1800年)

1786年 - ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド、
イギリス女王ヴィクトリアの母(+ 1861年)

1844年 - メネリク2世、エチオピア皇帝(+ 1913年)

1882年 - サミュエル・ゴールドウィン、映画プロデューサー(+ 1974年)

1887年 - カール1世、オーストリア・ハンガリー帝国最後の皇帝(+ 1922年)

1887年 - マーカス・ガーベイ、黒人民族主義指導者(+ 1940年)

1893年 - メイ・ウエスト、女優(+ 1980年)

1896年 - レズリー・グローヴス、軍人(+ 1970年)

1904年 - レオポルト・ノヴァーク、音楽学者(+ 1991年)

1911年 - ミハイル・ボトヴィニク、第7・9・11代チェスの公式世界チャンピオン(+ 1995年)

1913年 - マーク・フェルト、FBI副長官・ウォーターゲート事件告発者(ディープ・スロート)

1918年 - 6代目笑福亭松鶴、落語家 (+ 1985年)

1920年 - モーリン・オハラ、女優

1926年 - 江沢民、前中華人民共和国国家主席

1929年 - ゲーリー・パワーズ、軍人(+ 1977年)

1930年 - テッド・ヒューズ、詩人(+ 1998年)

1931年 - 柳原良平、イラストレーター

1932年 - V・S・ナイポール、作家

1935年 - ジミー佐古田、警察官

1936年 - アーレンド・レイプハルト、政治学者

1937年 - 劉炳森、書道家(+ 2005年)

1941年 - イブラヒム・ババンギダ、軍人・ナイジェリア大統領

1943年 - ロバート・デ・ニーロ、俳優

1943年 - 住友平、元プロ野球選手

1944年 - 安仁屋宗八、元プロ野球選手

1944年 - ラリー・エリソン、実業家・オラクル共同設立者

1947年 - ネルソン吉村、サッカー選手(+ 2003年)

1947年 - 川藤龍之輔、元プロ野球選手

1949年 - ノーム・コールマン、政治家
1949年 - 藤口光紀、サッカー選手
1951年 - ベンガル、俳優
1952年 - ネルソン・ピケ、F1ドライバー
1952年 - マリオ・タイセン、F1チーム代表
1952年 - ギレルモ・ビラス、テニス選手
1952年 - 聶衛平、囲碁棋士
1954年 - ルイス・マンドーキ、映画監督
1954年 - エリック・ジョンソン、ギタリスト
1958年 - ベリンダ・カーライル、歌手
1958年 - 松本知子、麻原彰晃の妻
1959年 - 赤井英和、元プロボクサー・俳優
1959年 - 坂本千夏、声優
1959年 - マーシャ・ゲイ・ハーデン、女優
1960年 - ショーン・ペン、俳優・映画監督
1960年 - 川原正敏、漫画家
1960年 - 岡本光、元プロ野球選手
1961年 - 青柳隆志、国文学者・声優
1961年 - 鈴木淳、サッカー選手・指導者
1962年 - 小野剛、サッカー指導者
1962年 - ガモウひろし、漫画家
1964年 - マリア・マッキー、歌手
1964年 - ジョルジーニョ、サッカー選手
1964年 - 神崎将臣、漫画家
1965年 - 佐竹雅昭、空手家
1965年 - 小林豊、アナウンサー
1965年 - 藤井麻輝、ミュージシャン
1966年 - 芳野日向子、声優
1966年 - ロドニー・ミューレン、スケートボーダー
1967年 - 猪熊しのぶ、漫画家
1968年 - はたけ、ギタリスト(シャ乱Q)
1969年 - 小飼弾、実業家
1969年 - ドニー・ウォルバーグ、ミュージシャン、俳優
1969年 - クリスチャン・レイトナー、バスケットボール選手
1970年 - ジム・クーリエ、テニス選手
1971年 - ホルヘ・ポサダ、野球選手
1971年 - ムッシュ・ピエール、マジシャン
1974年 - 華原朋美、歌手
1974年 - ジェフリー・リーファー、プロ野球選手
1975年 - ルイジ・マストランジェロ、バレーボール選手
1977年 - ティエリ・アンリ、サッカー選手
1977年 - ウィリアム・ギャラス、サッカー選手
1977年 - ターヤ・トゥルネン、歌手
1978年 - メディー・バアラ、陸上競技選手
1979年 - ジュリアン・エスキュデ、サッカー選手
1980年 - レネ・マーリン、シンガーソングライター
1980年 - ヤン・クロムカンプ、サッカー選手
1980年 - ダニ・グイサ、サッカー選手
1980年 - マヌエレ・ブラージ、サッカー選手
1981年 - 田中千絵、女優
1982年 - 松本麻衣子、毎日放送アナウンサー
1982年 - 木村裕子、グラビアアイドル
1982年 - 山岸穣、プロ野球選手(埼玉西武ライオンズ)
1982年 - フィル・ジャギエルカ、サッカー選手
1982年 - 白田久子、女優
1983年 - ダスティン・ペドロイア、野球選手(ボストン・レッドソックス)
1983年 - ゆーり、歌手
1985年 - 蒼井優、女優・ファッションモデル
1985年 - 新津由衣、歌手
1986年 - ルディ・ゲイ、バスケットボール選手
1986年 - タイラス・トーマス、バスケットボール選手
1987年 - 関谷彩花、タレント
1988年 - 戸田恵梨香、女優・アイドル
1989年 - 詹詠然、テニス選手
1990年 - レイチェル・ハード=ウッド、女優
生年不詳 - 荒井静香、声優

忌日
737年(天平9年7月13日)- 藤原麻呂、公卿(* 695年)

1156年(保元元年7月30日)- 源為義、武将・河内源氏棟梁(* 1096年)

1196年(建久7年7月22日)- 藤原家房、公卿・歌人(* 1167年)

1304年(嘉元2年7月16日) - 後深草天皇、第89代天皇 (* 1243年)

1338年(延元3年/建武5年閏7月2日) - 新田義貞、武将、御家人(* 1301年)

1614年(慶長19年7月12日)- 角倉了以、商人(* 1554年)

1617年(元和3年7月16日)- 芳春院、前田利家の正室(* 1547年)

1702年(元禄15年7月24日)- 列堂義仙、僧(* 1635年)

1711年(正徳元年7月4日)- 池田綱清、第2代鳥取藩主(* 1648年)

1715年(正徳5年7月19日)- 佐竹義格、第4代久保田藩主(* 1695年)

1785年 - ジョナサン・トランブル、アメリカの政治家(* 1710年)

1786年 - フリードリヒ2世、プロイセン国王(* 1712年)

1831年(天保2年7月10日)- 牧野忠精、江戸幕府老中・越後長岡藩主(* 1760年)

1850年 - ホセ・デ・サン=マルティン、アルゼンチンの軍人・政治家(* 1778年)

1864年(元治元年7月16日)- 男谷信友、剣客(* 1798年)

1873年 - ウィリアム・メレディス、第19代アメリカ合衆国財務長官(* 1799年)

1894年 - 満宮輝仁親王、日本の皇族(* 1893年)

1918年 - モイセイ・ウリツキー、ペトログラード・チェーカー議長(* 1873年)

1920年 - レイ・チャップマン、メジャーリーグのプロ野球選手(* 1891年)

1924年 - パウル・ナトルプ、哲学者(* 1854年)

1924年 - パベル・ウリゾーン、数学者(* 1898年)

1939年 - ヴォイチェフ・コルファンティ、ポーランドの民族主義運動家・政治家(* 1873年)

1944年 - アブデュルレシト・イブラヒム、イスラム教のウラマー・東京モスク初代イマーム
(* 1857年)

1945年 - 島木健作、作家(* 1903年)

1953年 - ルドルフ・シンドラー、建築家(* 1887年)

1955年 - 李?、日本の王公族(* 1877年)

1958年 - フローラン・シュミット、作曲家(* 1870年)

1958年 - 加藤正二、元プロ野球選手

1964年 - 佐田啓二、俳優(* 1926年)

1965年 - 高見順、作家(* 1907年)

1966年 - 国井善弥、武術家・鹿島神流第18代宗家(* 1894年)

1967年 - 新村出、言語学者(* 1876年)

1969年 - ミース・ファン・デル・ローエ、建築家(* 1886年)

1969年 - オットー・シュテルン、物理学者(* 1888年)

1971年 - 前田山英五郎、大相撲第39代横綱(* 1914年)

1973年 - アーサー・W・ラドフォード、
アメリカ海軍の大将・アメリカ統合参謀本部議長(* 1896年)

1973年 - ジャン・バラケ、作曲家(* 1928年)

1980年 - 五井昌久、宗教家(* 1916年)

1983年 - アイラ・ガーシュウィン、作詞家(* 1896年)

1987年 - クラレンス・ブラウン、映画監督(* 1890年)

1987年 - ルドルフ・ヘス、ナチス・ドイツの副総統 (* 1894年)

1991年 - 田上義也、建築家(* 1899年)

1997年 - 山崎正一、哲学者(* 1912年)

1998年 - タデウス・スルシャルスキー、陸上競技選手(* 1950年)

2000年 - エーリッヒ・ボルフマイヤー、陸上競技選手(* 1905年)

2000年 - フランコ・ドナトーニ、作曲家(* 1927年)

2004年 - 徳永善也、ミュージシャン(* 1964年)

2005年 - 平山輝男、言語学者(* 1909年)

2005年 - ジョン・バーコール、宇宙物理学者(* 1934年)

2005年 - 能勢修一、物理学者(* 1951年)

2007年 - 黒田一博、プロ野球選手(* 1924年)

記念日・年中行事
プロ野球ナイター記念日(日本)
1948年8月17日の夜に、日本のプロ野球史上初の夜間試合(ナイター)が行われたことに由来。
試合は巨人対中部(現:中日)で、横浜ゲーリッグ球場(現在の横浜スタジアム)で行われた。

パイナップルの日