東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年8月28日(木曜日)

「ここをおして」をクリックされてください。

東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年8月28日(木曜日)

ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。

春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月も4週間たちました。
秋まで「3日間とちょっと」。

もうすぐ。
もうすぐに。
「秋」になります。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

今年も「8ヶ月」が終わりました。

毎朝早朝と午後4時以後には
「たくさんのせみ」が
ないています。

芭蕉の句

「しずかさやいわにしみいるせみのこえ」*。

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

 閑さや岩にしみ入蝉の声

まさしく。
1−2匹の遠くでなく。
とりわけ「にいにいせみ」のこえは。
「硬き巌(いわお)に水のごとく
しみいるようです。
幽玄の世界を彷彿させます。

せみしぐれになると
岩面からは「しみいらず」
反射してしまいます。

「しみいる」が風情(ふぜい)であり「幽玄」。
「せみしぐれ」は「物音(ものおと)」であり「響き」。
「幽玄」はきこえず「響き」は聞こえます。
気がつけば「こおろぎ」の鳴き声もきこえ
「わびさび」のしらべです。

それにしても
「せみしぐれ」とは。
「とてもよい言葉」です。

多分私達が今きいているのは
本物の「せみしぐれ」ではないのでは
ないか。
このようにおもえます。

このセミしぐれの
8月がもう到来しておわる「8月後半の最後」です。
もう「秋」です。

これからは陽は次第に。
陽は短くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしい
やすらぎと。
安堵感をかんじます。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかったような雲空です。

「つつじ」の「花」がおわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

繊細さはないが。
若々しい草色の葉を木一面に広げ。
若葉の潅木としてとてもとても奇麗です。
ある意味では威風堂々です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。

「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。

あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。

ふと思う。

考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。

この時期になり。
私は森山を分け入ると。
木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごと
「やまはぜの紅葉」が「大好き」です。
「くさぼけの紅葉」もかわいらしく「大好き」
です。
里山も紅葉の時期になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
リズムにひっぱられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきそして聴こえます。
自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ・ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
自然はソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国の自然は。
「音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。
「真夏」をすぎると
再び「若葉」がみられることに
きずきました。
「ため息」がでるほど木々の「若葉」の
「たば」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。

これからは
「秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
くすぶっています。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

里山(さとやま)をさまよい。
里山(さとやま)をあるきたい。
里山(さとやま)の季節。
昔々里山(さとやま)であそび。
昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
昔々里山(さとやま)でまなんだ。
昔々のその日々の思い出は。
黄金(こがね)なののあるいは。
銀かいぶし銀か。
今は鉛のような重さとなり
心の奥深くに埋もれて感じられます。

けれども
早朝ははだ寒くなりました。

やま中さまよい分けいらば
大樹の根元に隠れさける
あけぼの色のちひさき花
みつけたりやまの花 
山はぜのはな。
やまはぜの花。

やまはぜの
花かくしてや
やまつつじ

あきひろくなりけり空(そら)たかし
あきさとやまに木々のみどり木
あきこもれびうけて燃えるがごとし
あきみどりの炎(ほのほ)
あきほのほうちけさむかすみはあおし
あきほのほにかすみにただよひて
あきうるわしくかがやきたり
あたたかくかおりたり
あざやかなりけり 
あきやまさとのやまみどり
あきやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++

平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は

法学博士の経歴をもつ指揮者。
「音楽の鍵」を「手にした」指揮者。

指揮者として日本での人気に一気に火がついた
ウィーン・フィルを率いての公演であったため1975年の公演は
大変有名である指揮者。

前評判からして非常な盛り上がりを見せ、
それに違わぬ演奏が大きな反響を呼んだ指揮者。

あまりの反響の大きさに御御本人は非常に感激した指揮者。

時期こそ決めないものの再びの来日を即断。
わずか2年後の1977年に再来日が決定したのは。

その他に来ていた話をすべて断り最優先で時間をつくった指揮者。

日本での大好評に関する。
「人間としての反応」「指揮者或は音楽家」
としての反応にとても興味のある。
オーストリアの世界的な天才指揮者。

1894年 - カール・ベーム、指揮者(+ 1981年)
の生誕日です。

++++++++++++++++++++++

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 -
1981年8月14日)は
オーストリアのグラーツに生まれた指揮者です。
学位は法学博士(グラーツ大学)です。

称号はオーストリア音楽総監督、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。

息子は俳優のカールハインツ・ベームです。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームの生涯
弁護士であった父親がグラーツ市立歌劇場の
法律顧問をつとめていたため。

グラーツ大学で法律(法学博士の学位も得ている)
を学びながら。

父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で。

ブラームスの親友であった
オイゼビウス・マンディチェフスキ
(ウィーン楽友協会司書でブラームス全集の編者)から
ウィーンで音楽を学びました。

++++++++++++++++++++++;

ベームの演奏
ベームの身振りはいつもごく控えめでした。

お世辞にも「格好良いバトン・テクニック」
とは言えません。

むしろ「捧」はもたず
「指が動いているか否か」の指揮であり
大変な「「テクニック」の指揮」をされたと思います。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームはカラヤンとは異なり。

適切な表現が思い浮かばないのですが
指揮者としての表面的な効果と縁を切った
指揮を行いました。

本質的な事柄を指揮にこめることに
没頭していたからです。

演奏に対して非常に厳しい態度で臨むことから、
アーティストやオーケストラ団員に愛されるというよりは。

むしろ怖れられていました。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームは。

オーケストラの調子のいかんに関わらず。

組まれた予定通りに稽古に打ち込み
抽象的、詩的な表現を用いずに。
基本的なリズム、ダイナミクス、音程などを鋭く指摘し。

音楽の土台をがっちりと固めようとする練習は、
練習嫌いで知られたウィーン・フィルから。

反感を買うことしきりであったと言われます。

また、非常に率直に、
そしてやや毒舌を交えながら楽員に注意を与えたり、
若い楽員を見つけては楽器の構え方から
細かいことまでうるさく言ったり。

楽員には意地悪にさえも映ったようでした。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームは。
しかし、これらの行動は音楽に対して
神経を尖らせていたために
生じたものです。

ウィーン・フィルの名コンサートマスターであった
ゲルハルト・ヘッツェルなどの
実力のある楽員たちからの信頼は絶大なものでした。

テレビのインタビューに
「あなたは練習に際して不安を持っているのですか?」と
質問されて。

「はい、私はいつも練習が不安です、
だからすぐ厳しくなるのです。」
と本人は告白しています。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームの「グラーツ贔屓(ひいき)」

カール・ベームは。

ベームと同郷の楽員は
特別贔屓にされたことでも有名です。

「テクニック」の「問題」で
目をつけていた楽員が
グラーツの出身であるとわかると。

途端に褒めだしたという面白いエピソードもあります。

ウィーン・フィルでは名フルーティストの
ヴェルナー・トリップなどがそうでした。

++++++++++++++++++++++

ベームによる演奏の魅力は、

楽譜に忠実で作曲家の意志に従う事に努めること 。

音楽作品での一つ一つのテンポをどのように取るか 。

フィナーレでのクライマックスでどのようにして
全能力を発揮させるか。

ということについて、
全体を見回したうえで解釈がしっかりと。
まとまっている事だと考えます。

後年になると、その成熟した解釈からメロディー
のみならずそれを下支えする
第2ヴァイオリンやヴィオラの層を
非常に厚くした演奏が多くなるのもそのためでした。

これをもって「飾りけのない」、「朴訥な」と評される
けれども適切な評価ではありません。

カール・ベームが「手にしているのは」。
「音楽自体のもつ美しさを自然な姿で引き出すことに成功する」
という
「頑丈な鍵」です。

鍵だけれどもこの「鍵」をあけられる指揮者どころか
「鍵」のありかさえ気づいていない指揮者もいるし。

「鍵」のありかさえ気づいていない演奏家は非常に多い
ものです。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームは。
また聴衆を前にした時のベームはその実力を完全に出しきり。
かつ燃焼度が非常に高い演奏を繰り広げることも事実でした。

近年では聴衆のいないスタジオ録音より。

放送局などに残ったライヴ録音が高く評価されています。

火のように激しく燃え上がり、
それでいて音楽的には一部の隙もない
充実しきった名演の数々がCDとなり、
ファンの耳に届くようになりました。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームは
晩年(1979年ごろ)、脳卒中のため体調を崩しました。

体の自由が効かなくなったものの、一貫した耳のよさは、
どのオーケストラや歌手たちからも一目置かれており。

さらに楽譜の間違いを練習でよく正していたので、
特にウィーン・フィルからは
「音楽上の弁護士(法律顧問)」
と評されるほどであったのです。

++++++++++++++++++++++

カール・ベームの死
1981年8月14日 - ザルツブルクで死去。

ベームは、
当時のオーストリア大統領ルドルフ・キルヒシュレーガーをして。

“(オーストリア)共和国が与え得る栄誉は総て与えました”
と言わしめたくらいの沢山の。

名誉職も他の指揮者からは考えられないほど贈られていました。

そのため、ベームの死は世界中に大変な衝撃を与えました。

カラヤンは
コンサートでの演奏に先立って追悼の言葉を述べました。
さらにモーツァルトの『フリーメーソンのための葬送音楽』
が演奏されました。

レヴァインがモーツァルトの「レクィエム」、
アバドが「マタイ受難曲」をベームに捧げ
ました。

ベルリン・フィルはベームの指揮予定だった演奏会で
代行を立てず、
指揮者なしの演奏会を行いました。

ポリーニ、カルロス・クライバー、
ヨッフム、ショルティらも追悼演奏会を開いています。

(中でもカルロス・クライバーと
バイエルン国立管弦楽団による
バイエルン国立歌劇場での追悼演奏会で演奏された
ベートーヴェンの交響曲第4番と交響曲第7番は。

同曲屈指の名演と評価されています)。

楽聖達が眠るウィーン中央墓地提供の申し出を断り、
遺族の希望により。

グラーツ・シュタインフェルト墓地のベーム家の墓に埋葬され
ました。

++++++++++++++++++++++

ベーム・ファミリー

ベームは自分のオペラ制作に関係する
オーケストラやアンサンブルの配役が。

練習から本番まで一貫して変わらない理想的状態を実現しました。

このため
ベームに認められたこれらの歌手たちは特に
ベーム・ファミリーと呼ばれます。

女性歌手
エリーザベト・シュヴァルツコップ
クリスタ・ルードヴィヒ
エディト・マティス
レリ・グリスト
ビルギット・ニルソン
ギネス・ジョーンズ
レオニー・リザネック
ルチア・ポップ
エディタ・グルベローヴァ

など
++++++++++++++++++++++

ベームフアミリー

男性歌手
ワルター・ベリー
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
ヘルマン・プライ
マッティ・タルヴェラ
ジェームズ・キング
ヴォルフガング・ヴィントガッセン
フリッツ・ヴンダーリッヒ
ペーター・シュライアー

など

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」=>*

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
カール・ベーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)はオーストリアのグラーツに生まれた指揮者。学位は法学博士(グラーツ大学)。称号はオーストリア音楽総監督、 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。息子は俳優のカールハインツ・ベーム。

目次
1 生涯
1.1 指揮者としての経歴
1.2 カール・ベームの死
2 ベーム・ファミリー
2.1 女性歌手
2.2 男性歌手
3 ベームの演奏
4 主な録音
5 ベームと日本
5.1 初来日
5.2 黄金のコンビ
5.3 最後の来日

生涯
弁護士であった父親がグラーツ市立歌劇場の法律顧問をつとめていたため、グラーツ大学で法律(法学博士の学位も得ている)を学びながら、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキ(ウィーン楽友協会司書でブラームス全集の編者)から、ウィーンで音楽を学んだ。

指揮者としての経歴
1917年 - グラーツ市立歌劇場でデビュー。首席指揮者の座を約束されていた。しかしリヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの「ローエングリン」を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。
1921年 - ワルターの招きにより、バイエルン国立歌劇場の指揮者に転任。ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。クナッパーツブッシュも、モーツァルトはほとんどベームに任すほどであった。
1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポロタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビングであり、彼らの友情は終生続くこととなる。
1931年 - ハンブルク国立歌劇場音楽監督(1934年まで)
1934年 - ドレスデン国立歌劇場総監督に就任。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの「ヴォツェック」を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。ハンブルク時代よりR・シュトラウスとの親交が始まり、R・シュトラウスゆかりのドレスデンに転任すると、1935年にはR・シュトラウスの「無口な女」の世界初演を行い、さらに1938年にはR・シュトラウスから献呈された「ダフネ」も世界初演した。
1943年 - ウィーン国立歌劇場総監督に就任。シュヴァルツコップなど才能ある歌手を次々と見いだして伝説的なベーム・アンサンブルを作り上げた。1944年にはシュトラウス生誕80年祭ではR・シュトラウスに祝辞を述べ、「ナクソス島のアリアドネ」を指揮した。1945年には旧オーストリアからフランツ・シャルク以来となる「オーストリア音楽総監督」の称号を受けた。第二次世界大戦での戦局悪化で、R・シュトラウスより芸術上の遺言を託された。ドイツ・オーストリア敗戦後に連合軍から演奏活動停止命令を受けたが、1947年に復帰。
1954年 - 2度目のウィーン国立歌劇場総監督に就任。1955年11月には連合軍の爆撃により焼失していたウィーン国立歌劇場が再建され、この記念すべき再開記念公演の「フィデリオ」を指揮した。(続いて「ドン・ジョヴァンニ」「ヴォツェック」「影のない女」を指揮している。)ウィーン国立歌劇場総監督辞任後は特定のポストには就かず、フリーランスとして客演や録音活動を中心に据えた。
1962年 - バイロイト音楽祭に初登場、「トリスタンとイゾルデ」を指揮。ヴィーラント・ワーグナーとともにオペラ史に燦然と輝く新バイロイト様式を作り上げた。
1964年 - 「オーストリア(共和国)音楽総監督」(戦前のものは自然消滅)の栄誉を授けられている。
1967年 - ウィーン・フィル創立125周年を記念し、特にベームのために創設された「名誉指揮者」の称号を授けられた。
1973年 - オーストリア政府から若い指揮者の為の「カール・ベーム賞」制定が発表される。
1974年 - 「ニキシュ=ベーム指環賞」が制定された。
この他にも、「ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者」「ロンドン交響楽団桂冠指揮者」「ウィーン市、グラーツ市、ザルツブルク市の各名誉市民」「ドイツ連邦功労十字勲章」「バイロイト黄金名誉指環」「バイエルン国立歌劇場名誉会員」「ダルムシュタット国立歌劇場名誉会員」「ベルリン・ドイツ・オペラ名誉会員」などが与えられている。またザルツブルク音楽祭は長年にわたるザルツブルク音楽祭に対するベームの功績をたたえて、フェルゼンライトシューレ(ザルツブルク祝祭小劇場)とホワイエの間の大ホールを「カール・ベーム・ザール」と名付けている。

カール・ベームの死
1981年8月14日 - ザルツブルクで死去。

ベームは、当時のオーストリア大統領ルドルフ・キルヒシュレーガーをして
“(オーストリア)共和国が与え得る栄誉は総て与えました”と言わしめたくらい、
名誉職も他の指揮者からは考えられないほど贈られていた。
そのため、ベームの死は世界中に衝撃を与えた。
カラヤンはコンサートでの演奏に先立って追悼の言葉を述べ、
さらにモーツァルトの『フリーメーソンのための葬送音楽』が演奏された。
レヴァインがモーツァルトの「レクィエム」、アバドが「マタイ受難曲」をベームに捧げ、
ベルリン・フィルはベームの指揮予定だった演奏会で代行を立てず、
指揮者なしの演奏会を行った。
ポリーニ、カルロス・クライバー、ヨッフム、ショルティらも追悼演奏会を開いている
(中でもカルロス・クライバーとバイエルン国立管弦楽団による
バイエルン国立歌劇場での追悼演奏会で演奏された
ベートーヴェンの交響曲第4番と交響曲第7番は、同曲屈指の名演と評価されている)。
楽聖達が眠るウィーン中央墓地提供の申し出を断り、
遺族の希望により、グラーツ・シュタインフェルト墓地のベーム家の墓に埋葬された。

ベーム・ファミリー
ベームは自分のオペラ制作に関係するオーケストラやアンサンブルの配役が、
練習から本番まで一貫して変わらない理想的状態を実現した。
このため、ベームに認められたこれらの歌手たちは特にベーム・ファミリーと呼ばれる。

女性歌手
エリーザベト・シュヴァルツコップ
クリスタ・ルードヴィヒ
エディト・マティス
レリ・グリスト
ビルギット・ニルソン
ギネス・ジョーンズ
レオニー・リザネック
ルチア・ポップ
エディタ・グルベローヴァ
など

男性歌手
ワルター・ベリー
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
ヘルマン・プライ
マッティ・タルヴェラ
ジェームズ・キング
ヴォルフガング・ヴィントガッセン
フリッツ・ヴンダーリッヒ
ペーター・シュライアー
など

ベームの演奏
ベームの身振りはいつもごく控えめで、お世辞にも「格好良いバトン・テクニック」とは言えない。カラヤンとは異なり表面的効果と縁を切った、本質的な事柄を指揮にこめることに没頭していたからである。演奏に対して非常に厳しい態度で臨むことから、アーティストやオーケストラ団員に愛されるというよりは、むしろ怖れられていた。

オーケストラの調子のいかんに関わらず組まれた予定通りに稽古に打ち込み、抽象的、詩的な表現を用いずに基本的なリズム、ダイナミクス、音程などを鋭く指摘し、音楽の土台をがっちりと固めようとする練習は、練習嫌いで知られたウィーン・フィルから反感を買うことしきりであったと言われる。また、非常に率直に、そしてやや毒舌を交えながら楽員に注意を与えたり、若い楽員を見つけては楽器の構え方から細かいことまでうるさく言ったり、楽員には意地悪にさえも映ったようだ。

しかし、これらの行動は音楽に対して神経を尖らせていたために生じたものであり、ウィーン・フィルの名コンサートマスターであったゲルハルト・ヘッツェルなど、実力のある楽員たちからの信頼は絶大であった。テレビのインタビューに「あなたは練習に際して不安を持っているのですか?」と質問されて「はい、私はいつも練習が不安です、だからすぐ厳しくなるのです。」と本人は告白している。なお、ベームと同郷の楽員は特別贔屓にされており、目をつけていた楽員がグラーツの出身であるとわかると途端に褒めだしたという面白いエピソードもある。ウィーン・フィルでは名フルーティストのヴェルナー・トリップなどがそうであった。

ベームによる演奏の魅力は、

楽譜に忠実で作曲家の意志に従う事に努めること
音楽作品での一つ一つのテンポをどのように取るか
フィナーレでのクライマックスでどのようにして全能力を発揮させるか
ということについて、全体を見回したうえで解釈がしっかりまとまっている事である。後年になると、その成熟した解釈からメロディーのみならずそれを下支えする第2ヴァイオリンやヴィオラの層を非常に厚くした演奏が多くなるのもそのためである。これをもって「飾りけのない」、「朴訥な」と評されるが、これこそが音楽自体のもつ美しさを自然な姿で引き出すことに成功する鍵なのである。

また聴衆を前にした時のベームはその実力を完全に出しきり、かつ燃焼度が非常に高い演奏を繰り広げることも触れておかなければならない。近年では聴衆のいないスタジオ録音より、放送局などに残ったライヴ録音が高く評価され、火のように激しく燃え上がり、それでいて音楽的には一部の隙もない充実しきった名演の数々がCDとなり、ファンの耳に届くようになった。

晩年(1979年ごろ)、脳卒中のため体調を崩し、体の自由が効かなくなったものの、一貫した耳のよさは、どのオーケストラや歌手たちからも一目置かれており、さらに楽譜の間違いを練習でよく正していたので、特にウィーン・フィルからは「音楽上の弁護士(法律顧問)」と評されるほどであった。

主な録音
ベルリン・フィルを指揮してのモーツァルトの交響曲全集とウィーン・フィルを指揮してのベートーヴェンの交響曲全集はベームの大きな業績である。(ラインスドルフによる全曲録音が先行していたとは言え)ベームによるモーツァルトの交響曲の全曲録音はクラシック音楽界に大きな衝撃をもたらした。

ベームの実力が遺憾なく発揮された分野はオペラであった。特にモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』などは絶品とされる。また1971年にウィーン・フィルと録音された、モーツァルトのレクイエムは、モーツァルト最期の心底をのぞかせる様な深い解釈により評価が高い。

このほか、ドイツ・オーストリア音楽を得意とし、先に挙げたモーツァルトの作品の他、ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナー、ブルックナー、ブラームス、師匠であったリヒャルト・シュトラウスの解釈においては権威とされた。

ベームと日本
ベームの名が日本に知られるようになったのは早く、1930年代半ばには小品のレコードが発売されていた。1937年11月26日には、シューマンの遺作・ヴァイオリン協奏曲の初演を含む日独交歓放送に、ゲオルク・クーレンカンプらとともに出演した。もっとも、この放送はあくまでシューマンの遺作を聴く演奏であり、クーレンカンプのヴァイオリンを聴く演奏であって、決してベームが主体の演奏ではなかった。程なく、第二次世界大戦勃発によって原盤の供給も途絶え、ベームの名はしばらく日本では聞かれなくなった。べームの人気や知名度が飛躍的に高くなるのは戦後のことであった。ベームが亡くなる際にも、危篤の段階から新聞やテレビ・ニュースで報じられていたほど、日本人に深く親しまれていたと言える。

カール・ベームの来日は1963年、1975年、1977年及び1980年の4回。1979年にも来日の予定(読売日本交響楽団の招聘)であったが、体調不良のためキャンセルされている。

初来日
1963年に開場した日生劇場のこけら落しのために
ベルリン・ドイツ・オペラを率いて初来日(同行:ロリン・マゼール、ハインリヒ・ホルライザー)。
ベームはベートーヴェンの「フィデリオ」とモーツァルトの「フィガロの結婚」、
特別演奏会の「第九」を指揮した。

両オペラともディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、
クリスタ・ルードヴィヒ、ヴァルター・ベリー、グスタフ・ナイトリンガーらの名歌手が
多数出演し絶賛を博した。
第九演奏会では、あまりにも感動したファンに足に抱きつかれ、身動きできなくなったこともあります。

黄金のコンビ
日本でのベームの人気に一気に火がついた1975年の公演は、大変有名である。
ウィーン・フィルを率いての公演であったため、
前評判からして非常な盛り上がりを見せ、
それに違わぬ演奏が大きな反響を呼んだ。
あまりの反響の大きさにベームは感激し、時期こそ決めないものの
再びの来日を即断したとも言われる。

わずか2年後の1977年に再来日が決定したのは、
その他に来ていた話をベームがすべて断り最優先で時間をつくったからだった。

両公演はNHKやTOKYO-FMによって多数録音され、一部はCDやDVDとして販売されている。

最後の来日
1980年にはウィーン国立歌劇場の引越し公演に同行したが、
老いと病気による衰えがはなはだしく、ホルスト・シュタインら
多数の同行指揮者を伴っての来日となった。
ベームは「フィガロの結婚」3公演(東京および大阪)と十八番であった
リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」の1公演、
昭和女子大学人見記念講堂でのウィーン・フィルとの演奏会
(1980年10月6日。人見記念講堂の落とし記念演奏会だった
。CD・DVD化されている。
なお、2007年には「フィガロ」の公演もDVD化された)だけを指揮し帰国した。
このウィーン・フィルとの演奏会は、
日本でのベーム最後のオーケストラ演奏会だったのみならず、
彼自身も1938年以来続いたウィーン・フィルとの最後の演奏会だった。
なお、この時の「フィガロ」上演での第3幕はオリジナルではなく、ロバート・モウバリー&クリストファー・レイバーン提唱版(1965年。第7場、第8場を第4場、第5場の間に挿入する)によるものである。

先代:
フリッツ・ブッシュ ドレスデン国立管弦楽団
音楽監督
1934 - 1942 次代:
ヨーゼフ・カイルベルト
先代:
  ウィーン国立歌劇場
総監督
1943 - 1945,1954-1956 次代:
ヘルベルト・フォン・カラヤン

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0" より作成
カテゴリ: オーストリアの指揮者 | 1894年生 | 1981年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
8月28日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8828%E6%97%A5

できごと
1937年 - トヨタ自動車設立。

1939年 - 独ソ不可侵条約締結を受けて、
平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職。

1945年 - 横浜にGHQ/SCAPの本部設置(9月に東京へ移動)。

1952年 - 衆議院解散(抜き打ち解散)。

1953年 - 日本最初の民間放送によるテレビ局である
日本テレビ放送網(日本テレビ、NTV、日テレ)が本放送開始。
また日本で初めての放送事故が発生。

1958年 - 讀賣テレビ放送(ytv)、テレビ西日本(TNC)が開局。

1963年 - アメリカワシントンで行われた
人種差別撤廃を求める市民集会で、キング牧師が有名
な「I have a dream」の演説を行う。

1971年 - 円が変動相場制に移行。

1974年 - ピアノ殺人事件が発生。近隣騒音を動機とした初めての殺人事件。

1988年 - ラムシュテイン航空ショー墜落事故が発生し、75人が死亡。

2003年 - 大阪地方裁判所にて附属池田小事件の容疑者・宅間守被告の死刑判決が確定。

2006年 - 山口女子高専生殺害事件が発生。

誕生日
1749年 - ゲーテ、小説家(+ 1832年)

1801年 - アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー、
哲学者、数学者、経済学者(+ 1877年)

1833年 - エドワード・バーン=ジョーンズ、美術家(+ 1898年)

1852年 - アーノルド・トインビー、経済学者(+ 1883年)

1872年 - 杉村楚人冠、ジャーナリスト、随筆家(+ 1945年)

1890年 - アイヴァー・ガーニー、作曲家・詩人(+ 1937年)

1894年 - カール・ベーム、指揮者(+ 1981年)

1906年 - 土屋香鹿、元福岡県知事(+ 2006年)

1914年 - 広田修三、元プロ野球選手

1916年 - ライト・ミルズ、社会学者(+ 1962年)

1919年 - 原田督三、元プロ野球選手(+ 1976年)

1929年 - イシュトヴァン・ケルテス、指揮者(+ 1973年)

1931年 - 岡野俊一郎、日本サッカー協会名誉会長

1935年 - 及川ヒロオ、声優(+ 1995年)

1936年 - 田沢芳夫、元プロ野球選手(+ 2008年)

1938年 - ポール・マーティン、第27代カナダ首相

1939年 - イーデス・ハンソン、タレント、エッセイスト

1951年 - 鈴木慶一、音楽家・音楽プロデューサー
1951年 - 岡崎優、漫画家
1956年 - ビバリー・ゴダード、陸上競技選手
1957年 - 熊野輝光、元プロ野球選手
1958年 - 大塚英志、評論家・漫画原作者
1960年 - 工藤俊作、俳優
1961年 - 城戸真亜子、画家・タレント
1961年 - 加藤忠可、俳優・声優
1963年 - 香西かおり、演歌歌手
1963年 - 仙波さとみ、ミュージシャン(SHOW-YA)
1963年 - 森重樹一、ミュージシャン(ZIGGY)
1965年 - 田尻智、ゲームクリエイター(「ポケットモンスター」の生みの親)
1966年 - 高橋洋子、歌手
1966年 - 中根仁、元プロ野球選手
1967年 - 遠藤正明、歌手
1971年 - 仁藤優子、女優
1971年 - 宮地克彦、元プロ野球選手
1973年 - 旭堂南湖、講談師
1973年 - 武内崇、イラストレーター
1974年 - 水橋かおり、声優
1981年 - 七瀬ななみ、元AV女優
1982年 - 石垣佑磨、俳優
1982年 - 山口将司、俳優
1984年 - 中村光宏、フジテレビアナウンサー
1985年 - 高坂友衣 、お笑い芸人(BURN)
1985年 - 松田樹里、レースクイーン
1985年 - 鵜飼建吾、サッカー選手
1988年 - 梶谷隆幸、プロ野球選手
1988年 - 大谷龍次、プロ野球選手
1990年 - 高木古都、女優
1992年 - 渡辺けあき、女優・モデル
1995年 - 神元結莉、タレント・子役
生年非公開 - 後藤邑子、声優

忌日
430年 - アウグスティヌス、神学者・哲学者(* 354年)

876年 - ルートヴィヒ2世、東フランク王(* 804年)

1197年(建久8年7月14日) - 大姫、源頼朝と北条政子の長女(* 1178年)

1481年 - アフォンソ5世、ポルトガル王(* 1432年)

1604年(慶長9年8月4日)- 堀尾忠氏、松江藩主(* 1578年)

1638年(寛永15年7月19日)- 松倉勝家、島原藩主(* 1597年)

1645年 - フーゴー・グローティウス、法学者(* 1583年)

1654年 - アクセル・オクセンシェルナ、スウェーデン宰相(* 1585年)

1914年 - アナトーリ・リャードフ、作曲家(* 1855年)

1943年 - ボリス3世、ブルガリア王(* 1894年)

1959年 - ボフスラフ・マルティヌー、作曲家(* 1890年)

1960年 - 犬養健、政治家(* 1896年)

1978年 - ロバート・ショウ、俳優(* 1927年)

1980年 - 上林暁、小説家(* 1902年)

1985年 - ルース・ゴードン、女優(* 1896年)

1987年 - ジョン・ヒューストン、映画監督(* 1906年)

1993年 - エドワード・P・トムスン、歴史家社会主義思想家(* 1924年)

2001年 - 山尾三省、詩人(* 1938年)

2004年 - 新宮正春、小説家(* 1935年)

2006年 - メルヴィン・シュワーツ、物理学者(* 1932年)

2007年 - アントニオ・プエルタ、サッカー選手(* 1984年)

2007年 - ナンシー梅木、ジャズ歌手・女優(* 1929年)

記念日・年中行事
民放テレビスタートの日・テレビCMの日(日本)
1953年8月28日午前11時20分に、
日本テレビが本放送を開始したことに由来。2005年に制定。

このとき同時に、日本初のテレビコマーシャルも放送された。
それは服部時計店(精工舎)のものでした。
=>
「精工舎の時計が正午をお知らせします」という内容だったが。
不慣れのためフィルムを裏返しに入れてしまい音も不明瞭だった。