東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月4日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年9月4日(木曜日)

ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。

春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月もおわりました。夏はすぎました。
9月の秋まです。

「秋」になりました。
「9月」の四日目です。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば
今年も「8ヶ月」が終わりました。

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころに
「こおろぎ」がないています
「こおろぎ」のほかの。
「秋の虫」は
鳴き声はきこえなくなりひさしいです。
ないています。

秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる

あききぬとめにはさやかにみえねども
かぜのおとにぞおどろかれぬる

これは「今現在の秋」よりもう少し手前の
「初秋或は晩夏」の時期に詠まれた短歌です。

「来ぬ」「着ぬ」「絹」の
最初の「韻:いん」で衝撃的
なインパクトを伝える「うた」です。
「みえね」「美え音」と「かぜの音」にて
季節そのものの感覚を「音」にたとえた
名歌です。

これからは陽は次第に。
陽は短くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。
季節には「大気の音」があるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

「つつじ」の「花」が「春に」おわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

「秋」をつたえるがごとく。
モクセイの木が「香り花」の
準備をしています。
「木犀:モクセイ」は「荒い木」
ですが「生き様」は
樹木としてとてもとても麗しく思います。
ある意味では威風堂々です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。

「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。

あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。

ふと思う。

考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。
けれども水墨画の主人公にはなりえない。

この時期になり。
私は森山を分け入ると。
木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごと
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。
「やまうるしの紅葉」もかわいらしく
「大好き」です。
「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの木のみにはおどろかされます。
あけびつたもうれしい
里山も紅葉の時期になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。
「真夏」をすぎると
再び「若葉」がみられることに。
きずきました。
「ため息」がでるほど木々の「若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。

これからは
「深まる秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
くすぶりまちわびてています。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
昔々里山(さとやま)であそび。
昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
昔々里山(さとやま)でまなんだ。
昔々のその日々の思い出は。
黄金(こがね)か。あるいは。
銀か。いぶし銀か。
今は思い出色は鉛のように。
重さ鉛のようになり。
心の奥深くに埋もれて感じられます。

けれども
早朝ははだ寒くなりました。

やま中さまよい
分けいらば
大樹の根元に隠れさける
あけぼの色のちひさき花
みつけたりやまの華。
やまのはな。 
山はぜの葉木。
やまはぜの花。

萩の花の
花かくしてや
紅やまはぜ木

あきひろくなりけり空(そら)たかし
あきさとやまに木々のみどり木
あきこもれびうけて燃えるがごとし
あきみどりの炎(ほのほ)
あきほのほうちけさむかすみはあおし
あきほのほにかすみにただよひて
あきうるわしくかがやきたり
あたたかくかおりたり
あざやかなりけり 
あきやまさとのやまみどり
あきやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++

平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
初期の作品である
「ヘ短調交響曲(1863年)」
=>
交響曲を「0番号」から始める
交響曲第0番(1869年)*で有名な。
1824年 -
アントン・ブルックナー、作曲家(+ 1896年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー
(Josef Anton Bruckner,
1824年9月4日 - 1896年10月11日) は。
オーストリアの作曲家です。

オルガン奏者を父として
オーストリアのアンスフェルデンで生まれました。

ブルックナーは当時最も腕の立つオルガン奏者でした。
ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を。
オットー・キッツラーに管弦楽法を学びました。

1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーに傾倒し
研究するようになります。

++++++++++++++++++++++

ヨーゼフ・アントン・ブルックナーは
1868年には、ゼヒターの後任として
ウィーン音楽大学の教授に就任致しました。

この時以来彼は大部分のエネルギーを
交響曲を書くことに集中させていました。

さらに1866年、
ウィーンで聴いたベートーヴェンの交響曲第9番に
強い影響を受けます。

初期の作品にはヘ短調交響曲(1863年)、
交響曲第0番(1869年)、
交響曲第1番ハ短調(1866年)、
交響曲第2番ハ短調(1872年)があります。

++++++++++++++++++++++

アントン・ブルックナーは
1873年にワーグナーと会見する機会を得ました。
この際に交響曲第3番ニ短調を献呈し
ワーグナーの好意を得ました。

しかしこの行動は反ワーグナー派の
批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され
ました。

執拗な批判を浴びせられ続けることになりました。

この時期には交響曲第4番変ホ長調(1874年)、
交響曲第5番変ロ長調(1876年)を作曲致しました。

++++++++++++++++++++++

ヨーゼフ・アントン・ブルックナーは
その後1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席、
ニーベルングの指環の初演を聴きます。

このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意
致しました。
いわゆる第1次改訂の波が始まります。

このときに改訂で
交響曲第1〜5番全てに大幅な改訂を行いました。

しかし1877年の交響曲第3番の初演は大失敗し。
ブルックナーは激しく落胆致しました。

またその頃
若きマーラーがウィーン大学でブルックナーの
聴講に訪れています。

++++++++++++++++++++++

1880年頃になるとウィーンでの
ブルックナーの地位も安定してきました。

多くの教授職。
さまざまな協会の名誉会員の仕事により
年間2000グルデン
(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)
の収入を得るようになりました。

この頃の代表作は交響曲第6番イ長調(1881年)、
交響曲第7番ホ長調(1883年)、
テ・デウム(1881年)、
弦楽五重奏曲ヘ長調(1879年)があります。

++++++++++++++++++++++

なかでも交響曲第7番と
テ・デウムはブルックナーに莫大な成功と名声を与えました。
一気にブルックナーの名を知らしめることになりました。

1884年からは交響曲第8番ハ短調の作曲に従事致しました。

1887年年に一旦完成し
ヨーゼフ・アントン・ブルックナーが
「芸術上の父」と尊敬していた指揮者
ヘルマン・レーヴィに見せるが、
彼からは否定的な返事が返ってきました。

弟子達もこの作品を理解できませんでした。

ブルックナーは激しく落胆し再び自らの作品を
改訂致しました。

いわゆる第2次改訂の波です。

これにより交響曲1,2,3,4,8番が改訂されました。

++++++++++++++++++++++

ヨーゼフ・アントン・ブルックナーの。
結局1890年の第8番の初演は大成功致しました。

晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが。
死の病に冒されていました。

この時期には
交響曲第9番ニ短調やヘルゴラント、
詩篇150篇が作曲されています。

ブルックナーは1896年10月11日、ヴィーンで
72年の生涯を閉じました。

生涯を通じて
非常に信心深いローマ・カトリック教徒でした。

また晩年に至るまで多くの若い女性に求婚したが、
結婚することはありませんでした。

++++++++++++++++++++++
作品

作品一覧
ブルックナーの作品一覧については、
http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/Bruckner.html などの外部リンクに譲る。

ブルックナーの作品はWAB (Werkverzeichnis Anton Bruckner)
番号によって参照されることがあります。

また、作品カタログはレナート・グラスベルガーによって編集されています。

++++++++++++++++++++++
アントン・ブルックナーの書法

特に交響曲において、以下のような書法を特徴として
指摘する研究者は多いです。

1・
ブルックナー開始
第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法である。
交響曲第2,4,7,8,9番に見られる。

2・
ブルックナー休止
楽想が変化するときに、
管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法である。

3・
ブルックナー・ユニゾン
オーケストラ全体によるユニゾン。
ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる 手法である。

4・
ブルックナー・リズム
(2+3) によるリズム。

第4,6番で特徴的である。

(3+2) [サンプルmidiファイル] になることもある。

(金子建志は、
初期の稿では5連符として書かれているが、
改訂稿ではブルックナー・リズムに替えられていることを指摘して、
演奏を容易にするための改変だったのではないかとしているます。)

5・
複付点音符と旗の多い短い音符の組み合わせで
鋭いリズムを構成する方法(9番)などがある。

6・
ブルックナー・ゼクエンツ
ひとつの音型を繰り返しながら、
音楽を盛り下げていく手法。いたるところに見られる。

7・
コーダと終止
コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し。
新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。

8・

和声
ブルックナーの和声法。
従来響きが濁るので多くの作曲家が避けた技法。

例えば根音Gとした場合、
根音Gに対して、属9の和音以上に現れる
9の音のAbが半音違いで鳴ること、
属11の和音においてBとCが半音違いで鳴ることや、
13の和音においてDとEbが半音違いで鳴ること。
もう一つは対位法の場面で現れ、
対旋律や模倣が半音違いで鳴ること。

従って和声学上の対斜とは意味が異なるります。

9・
またブルックナーにおいては、
ワーグナーのトリスタン和音がそのまま使れていることがあります。
和音の音色を明確にするため同一楽器に当てている例が多いです。

和音の機能をはっきりさせるために
密集配置がほとんどで
これが後期ロマン派の香りを引き立たせる
大きな要因でもあるのです。

++++++++++++++++++++++

ブルックナーの交響曲の演奏史、および著名な演奏者

ブルックナーの交響曲は欧米、特に独墺圏では
大変人気が高いのです。
若い指揮者が積極的に演奏会・録音に取り上げることが多いです。

一方で、
古い録音による過去の名指揮者による演奏も繰
り返しCDとして発売され、
広く聴かれています。

日本でも、ブルックナー信奉者が多く、
演奏機会には比較的めぐまれています。

++++++++++++++++++++++

古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーや
ハンス・クナッパーツブッシュなどが録音しており、
これらのCDは
今なお広く聴かれています。

とりわけクナッパーツブッシュの録音は、
第一級の指揮者による改訂版の演奏記録としても
貴重なものです。

ロベルト・ハースによる旧全集の原典版が出版された後、
「原典版」の第4番と第5番が、1936年にカ
ール・ベームによって世界初録音されました。

++++++++++++++++++++++

ブルックナーの交響曲を「全集」としてまとめて録音したのは、
国際ブルックナー協会の会長も務めた
オイゲン・ヨッフムが最初です。

(演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団及び
バイエルン放送交響楽団。
ヨッフムはのちに
シュターツカペレ・ドレスデンとも別の全集録音を行っている)。

ヘルベルト・フォン・カラヤンや
ゲオルグ・ショルティなどの指揮者が
全集を完成させています。

++++++++++++++++++++++
ヨーゼフ・アントン・ブルックナーの
「全集」に関しては。
ただし、ヨッフムを始めとして
第0番を録音していない指揮者も多いため注意が必要です。

近年の指揮者の中では、
ゲオルグ・ティントナー、カール・ベーム、
ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァント、
セルジュ・チェリビダッケ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、
ベルナルド・ハイティンク、ヘルベルト・ブロムシュテット、エリアフ・インバル、
ニコラウス・アーノンクール、カルロ・マリア・ジュリーニ、ダニエル・バレンボイム、
クリスティアン・ティーレマン、フランツ・ウェルザー=メスト、
朝比奈隆、オイゲン・ヨッフムなどによる録音・演奏が、広く評価を受けています。

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アントン・ブルックナー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Josef Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家。

A・ブルックナー目次
1 人物・経歴
2 作品
2.1 作品一覧
2.2 主要作品
2.2.1 交響曲
2.2.2 合唱曲
2.2.3 室内楽
2.2.4 管弦楽曲・吹奏楽曲
2.2.5 その他
3 音楽の特徴・傾向
3.1 音楽史の中の位置づけ
3.2 管弦楽編成
3.3 書法
4 版問題について
4.1 背景
4.2 初版群
4.3 第1次全集版(ハース版など)
4.4 第2次全集版(ノヴァーク版など)
5 ブルックナーの交響曲の演奏史、および著名な演奏者
6 メディア
7 関連項目
8 外部リンク

人物・経歴
オルガン奏者を父としてオーストリアのアンスフェルデンで生まれる。ブルックナーは当時最も腕の立つオルガン奏者だった。ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学んだ。1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーに傾倒、研究するようになる。

1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン音楽大学の教授に就任。この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。さらに1866年、ウィーンで聴いたベートーヴェンの交響曲第9番に強い影響を受ける。初期の作品にはヘ短調交響曲(1863年)、交響曲第0番(1869年)、交響曲第1番ハ短調(1866年)、交響曲第2番ハ短調(1872年)がある。

そのなかブルックナーは1873年にワーグナーと会見する機会を得た。この際に交響曲第3番ニ短調を献呈しワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、執拗な批判を浴びせられ続けることになる。この時期には交響曲第4番変ホ長調(1874年)、交響曲第5番変ロ長調(1876年)を作曲する。

その後1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる第1次改訂の波がある。このときに改訂で交響曲第1〜5番全てが大幅な改訂を受ける。しかし1877年の交響曲第3番の初演は大失敗し、ブルックナーは激しく落胆する。またその頃、若きマーラーがウィーン大学でブルックナーの聴講に訪れている。

1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕事により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作は交響曲第6番イ長調(1881年)、交響曲第7番ホ長調(1883年)、テ・デウム(1881年)、弦楽五重奏曲ヘ長調(1879年)がある。なかでも交響曲第7番とテ・デウムはブルックナーに莫大な成功と名声を与え一気にブルックナーの名を知らしめることになった。

1884年からは交響曲第8番ハ短調の作曲に従事する。1887年年に一旦完成し、「芸術上の父」と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が返ってくる。弟子達もこの作品を理解できずに、ブルックナーは激しく落胆し再び自らの作品を改訂する。いわゆる第2次改訂の波である。これにより交響曲1,2,3,4,8番が改訂される。

結局1890年の第8番の初演は大成功する。晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。この時期には交響曲第9番ニ短調やヘルゴラント、詩篇150篇が作曲されている。ブルックナーは1896年10月11日、ヴィーンで72年の生涯を閉じた。生涯を通じて非常に信心深いローマ・カトリック教徒であった。また、晩年に至るまで多くの若い女性に求婚したが、結婚することはなかった。

作品

作品一覧
ブルックナーの作品一覧については、http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/Bruckner.html などの外部リンクに譲る。

ブルックナーの作品はWAB (Werkverzeichnis Anton Bruckner) 番号によって参照されることがある。また、作品カタログはレナート・グラスベルガーによって編集されている。

主要作品
交響曲と合唱曲が、特に精力を注いだ分野であることは、論を待たない。それ以外では、弦楽五重奏曲が傑作として知られる。さらにそれ以外のジャンルの曲もいくつかある。

交響曲
交響曲ヘ短調
交響曲第0番ニ短調
交響曲第1番ハ短調
交響曲第2番ハ短調
交響曲第3番ニ短調
交響曲第4番変ホ長調
交響曲第5番変ロ長調
交響曲第6番イ長調
交響曲第7番ホ長調
交響曲第8番ハ短調
交響曲第9番ニ短調
交響曲ヘ短調、交響曲第0番は、ブルックナーが第1番から始まる通し番号をあたえなかった曲である。交響曲第9番は未完成作品である。

詳細は、各楽曲の記事に譲る。

以上の他に、1869年に着手したものの完成をみなかった交響曲変ロ長調の存在が確認されている(スケッチの断片のみ残されている)。

合唱曲
ブルックナーの残した宗教合唱曲には、3つのミサ曲(第1番ニ短調、第2番ホ短調、ミサ曲第3番や『テ・デウム』などの大規模なものも含まれ、とりわけ『テ・デウム』は古今の宗教音楽作品の中でも、傑作の1つとして高い評価を得ている。モテットには『アヴェ・マリア』、『これこそ大祭司なり』、『この場所は神が作り給いぬ』、『エサイの枝は芽を出し』、『王の御旗は翻る』などが残されている。他の宗教合唱曲は、『詩篇150篇』のような傑作もある。

またブルックナーは若い頃から、男声カルテットを組織するほどの男声合唱好きであり、晩年までに40曲ほどの男声重唱および合唱曲を残した。男声合唱と金管楽器のための『ゲルマン人の行進』は、彼にとっての最初の出版作品であり、また、最後の完成作品となったヘルゴラントは、男声合唱とオーケストラのための作品である。

室内楽
室内楽の分野では、弦楽五重奏曲ヘ長調が傑作として知られる。1906年には、習作曲としての『弦楽四重奏曲ハ短調』が発見された。

このほか、トロンボーンアンサンブルのために『エクアール』と題する短い作品が残されており、この楽器のレパートリーとして重宝されている。

管弦楽曲・吹奏楽曲
詳細はブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲にて記すが、交響曲以外の管弦楽曲として『序曲ト短調』『3つの管弦楽小品』『行進曲ニ短調』があり、吹奏楽曲として『行進曲変ホ長調』がある。このほか、『アポロ行進曲』がブルックナーの作品として扱われたこともあった(現在では、偽作であると断定されている)。

その他
以上のほか、オルガン独奏曲、ピアノ独奏曲などが残されている。オペラ作品が残されていないのが、この作曲家の特質の一つを反映している。

音楽の特徴・傾向

音楽史の中の位置づけ
西洋音楽史の中では、一般的には後期ロマン派に位置づけられる。作曲技法的にはベートーヴェンの影響を、管弦楽法ではワーグナーの影響を受けていると言われる。後の作曲家としては、グスタフ・マーラーなどに影響を与えているほか、ハンス・ロットの才能をいち早く見いだした。

一方、後期ロマン派の中での特異性を指摘する評論家も少なくない。一つは、オペラや文学との接点の少なさであり、これは彼の作品にオペラが残されてないことや、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」に対する醒めた感想(「何故ブリュンヒルデが焼き殺されたのか?」との感想を述べたと伝えられている)から推察されるものである。もう一つは、作曲書法の随所でオルガン奏者の発想を感じさせることである。

交響曲の歴史の中では、長大な演奏時間を要する作品を作り続けた点で、しばしばマーラーと比較される。

また、同時代の作曲家の中では、ヨハネス・ブラームスと対立があったことがしばしば指摘されている。

管弦楽編成
交響曲におけるオーケストラの編成は、ヘ短調から第7番までは一般的な2管編成を基本として書かれている。ただし第3番以降はトランペットが3本になり、第5番以降(第4番第2稿含む)にはチューバが加わり、第7番にはさらに4本のワーグナー・チューバが加わる。第8番は交響曲の中で唯一ハープを用い、8本のホルン(このうち4本はワーグナー・チューバ持ち替え)を要する3管編成である。未完の9番においても(ハープは用いていないが)3管編成を踏襲している。

書法
特に交響曲において、以下のような書法を特徴として指摘する研究者は多い。

ブルックナー開始
第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2,4,7,8,9番に見られる。
ブルックナー休止
楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法である。
ブルックナー・ユニゾン
オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる
ブルックナー・リズム
(2+3) によるリズム[サンプルmidiファイル] 。第4,6番で特徴的である。(3+2) [サンプルmidiファイル] になることもある。金子建志は、初期の稿では5連符として書かれているが、改訂稿ではブルックナー・リズムに替えられていることを指摘して、演奏を容易にするための改変だったのではないかとしている。複付点音符と旗の多い短い音符の組み合わせで鋭いリズムを構成する方法(9番)などがある。
ブルックナー・ゼクエンツ
ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り下げていく手法。いたるところに見られる。
コーダと終止
コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。
和声
ブルックナーの和声法で、従来響きが濁るので多くの作曲家が避けた技法。例えば根音Gとした場合、根音Gに対して、属9の和音以上に現れる9の音のAbが半音違いで鳴ること、属11の和音においてBとCが半音違いで鳴ることや、13の和音においてDとEbが半音違いで鳴ること。もう一つは対位法の場面で現れ、対旋律や模倣が半音違いで鳴ること。従って和声学上の対斜とは意味が異なる
またブルックナーにおいては、ワーグナーのトリスタン和音がそのまま使れていることがある。和音の音色を明確にするため同一楽器に当てている例が多い。和音の機能をはっきりさせるために密集配置がほとんどで、これが後期ロマン派の香りを引き立たせる大きな要因である。

版問題について
ブルックナーの作品、特に交響曲については、同じ曲名でありながら、異なる版・稿を称する複数の譜面が存在する。これらを「版問題」と総称することがある。

詳細はブルックナーの版問題にて説明、また必要に応じて各楽曲の記事内で説明してあるが、以下にその概略を説明する。

背景
一つめの背景は、作曲者による改訂である。ブルックナーは作品を完成させてからもさまざまな理由から手を入れることが多かった。ここには、小規模な加筆もあれば、大掛かりな変更もある。

二つ目の背景は、弟子の関与である。ブルックナーの楽曲が出版されるに際し、弟子たちが手を加えることが多かったといわれている。その規模は楽曲によって異なり、細かい校訂レベルのものから、大がかりなものまである。のちに校訂・出版される「原典版」において、弟子たちの関与部分が明らかにされ、排除されてきた。

三つ目の背景は、国際ブルックナー協会による原典版校訂作業を、当初ハースが行っていたが、戦後ノヴァークに変わったことである。ノヴァークはハースの校訂態度を一部批判し、校訂をすべてやり直した。このため「ハース版」「ノヴァーク版」2種類の原典版が存在することとなった。

初版群
はじめて出版された譜面を「初版」と総称している。総じて弟子(シャルク兄弟とフェルディナント・レーヴェなど)の校訂または改訂が加わっており、原典版が出版されるとともに駆逐されてきた。近年、これまでの行きすぎた駆逐に対する見直しや再評価の動きもある。「改訂版」とも称される。曲によっては「改竄版」とも称される。特にブルックナーの没後に出版された交響曲第5番・第9番の改訂は極端である。

第1次全集版(ハース版など)
前記の初版群に含まれる弟子たちの関与を除去すべく、国際ブルックナー協会は、ロベルト・ハースなどにより、譜面を校訂、「原典版」として出版し続け、一定の成果をあげた。これらを「第1次全集版」または「ハース版」と称している。

ただしこのプロジェクトは、ナチス・ドイツとの協力関係から、第2次世界大戦後、ハースが国際ブルックナー協会を追放される結果となった。この時点で、校訂譜が残されてない曲も多数残った。

ハースの仕事はその後、後述のノヴァークが引き継ぐことになるが、その中でノヴァークは、ハースの校訂態度の一部を主観的なものであると批判した。

第2次全集版(ノヴァーク版など)
第二次世界大戦後、国際ブルックナー協会はレオポルト・ノヴァークに校訂をさせた。ブルックナーの創作形態をすべて出版することを目指しているとされる。ハースが既に校訂した曲もすべて校訂をやりなおし、あらためて出版した。これらを「第2次全集版」または「ノヴァーク版」と称している。交響曲第3番・第4番・第8番については早くから、改訂前後の譜面が別々に校訂・出版されており(第3番は3種)、その部分においてはハース版の問題点は解消されている(これらの区別のために「第1稿」「第2稿」あるいは「〜年稿」などの呼び方がなされる)。

1990年以降、キャラガン・コールズ・コースヴェットなどが作業を引き継ぎ、現在に至るまで、校訂や異稿の出版は進行中である。

国際ブルックナー協会による譜面はMusikwissenschaftlichen Verlagから出版されている。

ブルックナーの交響曲の演奏史、および著名な演奏者
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ブルックナーの交響曲は欧米、特に独墺圏では大変人気が高いので、若い指揮者が積極的に演奏会・録音に取り上げることが多い。一方で、古い録音による過去の名指揮者による演奏も繰り返しCDとして発売され、広く聴かれている。日本でも、ブルックナー信奉者が多く、演奏機会には比較的めぐまれている。

古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーやハンス・クナッパーツブッシュなどが録音しており、これらのCDは今なお広く聴かれている。とりわけクナッパーツブッシュの録音は、第一級の指揮者による改訂版の演奏記録としても貴重なものである。

ロベルト・ハースによる旧全集の原典版が出版された後、「原典版」の第4番と第5番が、1936年にカール・ベームによって世界初録音された。

ブルックナーの交響曲を「全集」としてまとめて録音したのは、国際ブルックナー協会の会長も務めたオイゲン・ヨッフムが最初である(演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団及びバイエルン放送交響楽団。ヨッフムはのちにシュターツカペレ・ドレスデンとも別の全集録音を行っている)。ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルグ・ショルティなどの指揮者が全集を完成させている。ただし、ヨッフムを始めとして第0番を録音していない指揮者も多いため注意が必要である。

近年の指揮者の中では、ゲオルグ・ティントナー、カール・ベーム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァント、セルジュ・チェリビダッケ、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、ベルナルド・ハイティンク、ヘルベルト・ブロムシュテット、エリアフ・インバル、ニコラウス・アーノンクール、カルロ・マリア・ジュリーニ、ダニエル・バレンボイム、クリスティアン・ティーレマン、フランツ・ウェルザー=メスト、朝比奈隆、オイゲン・ヨッフムなどによる録音・演奏が、広く評価を受けている。

全集録音を行った指揮者の中には、版・稿の問題にこだわった指揮者もいる。たとえばエリアフ・インバルは、第3、第4、及び第8の交響曲の第1稿に基づくノヴァーク版を世界初録音している。ゲオルグ・ティントナーは、第1番の未出版の1866年稿をいちはやく紹介したほか、第2番・第3番・第8番の第1稿を録音した。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(旧ソビエト連邦)はかつて、すべての稿の網羅を目指した全集を録音しており、これは同じ番号の交響曲の複数の稿を、一人の指揮者・同一のオーケストラで聴き比べることの出来る興味深い試みであった(この中で、グスタフ・マーラーが編曲した交響曲第4番も録音され、特に注目を集めた。残念なことに、ソビエト連邦崩壊等の事情により、当時出版されていた稿の内、第8番の第1稿が録音されないまま、この試みは中断した)。

交響曲ヘ短調(または「習作交響曲」)は長らく、CDを見つけるのが困難な状況にあった。1980年代末頃にフランスのシャン・ドゥ・モンドレーベルから1983年録音のロジェストヴェンスキー盤が第00番として第0番とともに2枚組みでCD化され、これが“習作”交響曲の初CDとなった。その後、1992年にインバル指揮の盤がワールド・ワイドに発売されて、容易に耳にすることが出来るようになった。

日本においてはクラウス・プリングスハイムの指揮により東京音楽学校にて1936年2月15日に交響曲第9番の日本初演が行われたが、当時はまだ広く演奏し親しまれていたわけではない。その後、日本人指揮者では朝比奈隆が1970年代にブルックナー交響曲全集を録音した他、その後もブルックナーを数多く指揮した。それは国内のブルックナー・ファンの拡大に大きく貢献した。

ブルックナーの交響曲を、彼と切り離せない楽器であるオルガンの独奏版に編曲する試みもなされている。

メディア
Bruckner - Locus Iste

関連項目
ローベルト・ハース
レオポルト・ノヴァーク
クラシック音楽
ロバート・シンプソン

外部リンク
Anton Bruckner Symphony Versions Discography - 自主制作盤や海賊盤なども含む、ほぼ完全なディスコグラフィが曲別、版別、稿別に掲載されている海外のサイト。
ブルックナーの交響曲第4番の版について - アマチュア・オーケストラに参加する個人のサイト。第4番の各版の経緯と相違点について譜例・音源付きで紹介されている。
Musikwissenschaftlichen Verlag - 国際ブルックナー協会によるスコアの出版元。出版されている楽曲や稿が確認できる(海外)。
Bruckner Symphony Versions - 交響曲の版・稿についてまとめている、個人サイト(海外)。
The Several Versions of Bruckner's Symphonies - 交響曲の版・稿についてまとめている、個人サイト(海外)。
音楽の壺 - 自筆稿・出版譜などについて、独自の研究を紹介している、個人サイト。
IMSLP - International Music Score Library Project 内のアントン・ブルックナーのページ。無料で楽譜が入手可能。

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9月4日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%884%E6%97%A5

できごと
476年 - 西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルス、オドアケルによって退位させられる、
西ローマ帝国滅亡
1913年 - ワグナー事件

1943年 - 上野動物園で空襲に備え動物を薬殺。

1951年 - サンフランシスコ講和会議開催。

1952年 - 『風と共に去りぬ』が日本で劇場公開。

1963年 - 狭山事件の第一審(第一回)公判がはじまる。

1976年 - 「京阪100年号」事故

1987年 - 日本航空法廃止法案が可決。日本航空が完全民営化。

1994年 - 関西国際空港開港。

1995年 - 北海道にあった深川〜名寄間を結ぶ深名線がこの日をもって廃止され、
71年の歴史に幕をおろした。

2001年 - 東京ディズニーシー開園。

誕生日
1241年 - アレグザンダー3世、スコットランド王 (+ 1286年)

1359年(延文4年/正平14年8月12日) -
足利氏満、室町幕府第2代鎌倉公方(+ 1398年)

1652年(承応元年8月2日)- 徳川綱誠、第3代尾張藩主(+ 1699年)

1787年(天明7年7月23日) - 二宮尊徳(二宮金次郎)、篤農家・思想家(+ 1856年)

1794年 - エドワード・ベイツ、アメリカ合衆国司法長官(+ 1869年)

1824年 - アントン・ブルックナー、作曲家(+ 1896年)

1846年 - ダニエル・バーナム、建築家(+ 1912年)

1896年 - アントナン・アルトー、詩人(+ 1948年)

1908年 - ロベール・ギラン、ジャーナリスト(+ 1998年)

1913年 - 丹下健三、建築家(+ 2005年)

1923年 - 平井三郎、元プロ野球選手(+ 1969年)

1924年 - ジョーン・エイケン、児童文学作家(+ 2004年)

1930年 - 藤岡琢也、俳優(+ 2006年)

1936年 - 梶原一騎、漫画原作者(+ 1987年)

1951年 - 小林薫、俳優

1955年 - 伊沢弘、俳優・声優・演出家

1960年 - 石井雅博、元プロ野球選手
1964年 - 荻野目慶子、女優
1965年 - 粕谷昌央、調教師
1966年 - 宍戸開、俳優
1966年 - 吉田豊彦、元プロ野球選手、プロ野球コーチ(東北楽天ゴールデンイーグルス)
1968年 - おおばやしみゆき、漫画家
1968年 - マイク・ピアザ、メジャーリーガー
1970年 - 大島こうすけ、作曲家・キーボーディスト
1971年 - 愛田るか、AV女優
1974年 - 小倉弘子、TBSアナウンサー
1975年 - 阿部美穂子、タレント
1978年 - 田丸麻紀、女優
1979年 - 宮崎宣子、日本テレビアナウンサー
1980年 - 朝河蘭、AV女優
1980年 - ファビオ・カルボーン、レーシングドライバー
1980年 - 島谷ひとみ、歌手
1981年 - ビヨンセ・ノウルズ、歌手、女優
1981年 - ジェロ、演歌歌手
1982年 - 細田阿也、タレント
1983年 - 中丸雄一、KAT-TUN
1986年 - 清水由紀、美少女クラブ31
1987年 - 佐井祐里奈、GyaO専属アナウンサー
1989年 - Ryota、ONE OK ROCK
1989年 - 赤坂和幸、プロ野球選手

忌日
799年 - ムーサー・カーズィム、イスラム教シーア派十二イマーム派第7代イマーム(* 745年)

1063年 - トゥグリル・ベグ、セルジューク朝初代スルターン(* 993年)

1199年 - ジョーン、シチリア王グリエルモ2世の妃(* 1165年)

1774年(安永3年7月29日)- 冷泉為村、江戸時代の公卿・歌人(* 1712年)

1811年(文化8年7月17日)- 呉春、絵師(* 1752年)

1851年 - レヴィ・ウッドベリー、第13代アメリカ合衆国財務長官(* 1789年)

1884年 - チャールズ・フォルジャー、第34代アメリカ合衆国財務長官(* 1818年)

1907年 - エドヴァルド・グリーグ、作曲家(* 1843年)

1907年 - 三遊亭三福 (初代)、落語家(* 1865年)

1913年 - 田中正造、政治家・活動家(* 1841年)

1916年 - ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ、劇作家(* 1832年)

1930年 - ウラディミール・アルセーニエフ、探検家(* 1872年)

1940年 - 北白川宮永久王、日本の皇族(* 1910年)

1944年 - エーリッヒ・フェルギーベル、ドイツ陸軍通信兵大将(* 1886年)

1946年 - 白瀬矗、日本陸軍の中尉・南極探検家(* 1861年)

1963年 - ロベール・シューマン、元フランス首相(* 1886年)

1965年 - アルベルト・シュバイツァー、医者、音楽家(* 1875年)

1966年 - 高瀬荘太郎、会計学者・元文部大臣(* 1892年)

1974年 - マルセル・アシャール、劇作家(* 1899年)

1974年 - 宮沢俊義、法学者(* 1899年)

1974年 - クレイトン・エイブラムス、アメリカ陸軍参謀総長(* 1914年)

1975年 - 壺井繁治、詩人(* 1897年)

1979年 - ランラン、上野動物園のジャイアントパンダ(* 1968年)

1983年 - 猫田勝敏、バレーボール選手(* 1944年)

1984年 - エルンスト・シュテュッケルベルク、物理学者(* 1905年)

1986年 - ワルター・ワンダレイ、
ボサノヴァ・サンバのオルガン奏者・ピアニスト(* 1931年)

1988年 - 松田武、第4代航空幕僚長・実業家(* 1906年)

1988年 - 津川武一、日本共産党衆議院議員・小説家(* 1910年)

1989年 - ジョルジュ・シムノン、推理小説家(* 1903年)

1989年 - コーリン・クラーク、経済学者(* 1905年)

1990年 - アイリーン・ダン、女優(* 1898年)

1990年 - 大石真、児童文学作家(* 1925年)

1991年 - 反町茂雄、古書店経営者(* 1901年)

1992年 - 三升家小勝 (7代目)、落語家(* 1937年)

1997年 - ハンス・アイゼンク、心理学者(* 1916年)

1997年 - アルド・ロッシ、建築家(* 1931年)

1999年 - クレメント・スラヴィツキー、作曲家(* 1910年)

2001年 - 林富士馬、詩人・文芸評論家(* 1914年)

2001年 - 伊藤宗一郎、第69代衆議院議長(* 1924年)

2001年 - 萩元晴彦、テレビ・音楽プロデューサー(* 1930年)

2002年 - ヴラド・ペルルミュテール、ピアニスト(* 1904年)

2003年 - ローラ・ボベスコ、ヴァイオリニスト(* 1921年)

2003年 - 福田一郎、音楽評論家(* 1923年)

2006年 - アストリッド・ヴァルナイ、ソプラノ歌手(* 1918年)

2006年 - 阿部謹也、歴史学者(* 1935年)

2006年 - ジャチント・ファッケッティ、サッカー選手(* 1942年)

2006年 - スティーブ・アーウィン、環境保護活動家、クロコダイルハンター(* 1962年)

2007年 - 瀬島龍三、日本陸軍の中佐・実業家(* 1911年)

2007年 - 佐藤真、映画監督(* 1957年)

2007年 - 沼田憲保、モーターサイクルロードレース選手(* 1966年)

記念日・年中行事
クラシック音楽の日(日本)
9月4日の「94」が「クラシック」と読めることから。
より多くの人にクラシック音楽に親しんでもらおうと、日本音楽マネージャー協会が1990年に制定。

くしの日(日本)
9月4日の「94」が「くし」と読めることから。

美容関係者が櫛を大切に扱い、
美容に対する人々の認識を高めてもらおうと、
美容週間実行委員会が1978年に制定。
また、
毎年9月1日から9月7日は「美容週間」。