東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月7日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年9月7日(日曜日)

堂々たる。
「9月」の「秋」になりました。

せみの声も「わずか」に今朝もきこえます。
みんみんせみ。

霧雨(きりさめ)の霞(かすみ)の大気
とこおろぎの「なきごえ」が
「そぞろに「秋」の旅愁」を感じさせます。

日の出直後はいつも一瞬は晴れています。
まだかすかにものこる夏・真夏の気配
もあるけれども。
けれどもあきらかにしのびよる秋の大気。

「秋」の気配が「確かに」。
そして明らかに。
感じられるようになりました。

「9月」も「一週間」がおわりました。

今年2008年も「四分の三」がおわりました。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「秋の樹木」にうつろうように
変化しています。

春には街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先がろうそくの
明かりのように「炎様」になっていました。
あたかも
ゴッホの絵画の「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇のごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

今現在は落ち着いた9月の葉木。
「秋」の木々の「葉」
へとうつろいています。
「秋」にもハンカチをふるように
「秋の若葉」がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏にはとても獰猛な気配を放つ。
初めて気づきました。
けれども今は「秋」。
秋の濃い緑の葉になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられる。
しだいにしだいに。
黄色調の葉が混じっているのに
きがつきます。

桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

秋になり桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
この夏は
桜の木の下で木陰で心安らかにやすもうという
気はおきません。
いまは秋になりそよかぜに揺れる葉は
誘われる気が致します。

やはり夏桜の木は
シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。
秋になり人生になれるが如く樹木はかわりました。
良い木になってきました。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
針葉樹から常緑樹に「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。
いにしえの古代の時代にも
恐竜を始めとする
「大型」の草食動物にもかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のよう
「冬も葉を持つ常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の午後の陽射しにもにあいません。

常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな初秋の萌黄色です。
まるで大きな竹山の竹のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮烈
です。
木々は「夏樹」の役目をおわり。
「秋木」とかわろうとしています。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。
そして「すすき」もくわわり。
夏草から秋草へのたたずまいをしています。
そしてもう秋草へと黄金色に転した
街角の雑草もあります。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
もう。
はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

「蓮(ハス)」があります。
ハスの花がさき。
「はすの花」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。

日曜の朝晴れて
はじめて気づく
にわの小ささ

にちようのあさはれて
はじめてきづく
にわのちいささ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

秋きらきらラピス・ラズリの空(そら)
秋紺碧のカクテルいろの空(そら)
秋ミルクをそそそいだ空(そら)
秋トルコいしのプリンの空(そら)
秋はるかにとほくたかい空(そら)
秋ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
秋プリンの上のクリームのような空(そら)
秋睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
秋睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
秋空(そら)の向こうにまた空(そら)
秋そのまたむこうにももっと空(そら)

春のうららのこもれびに
緑木いらかにをかぜはやみ
青風ひるむやうつろひの
四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに
緑木いらかのつねなりて
赤き空(そら)にて炎えたたむ
四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびの
緑木いらかにかぜさやか
秋風いたわるやすらひの
四季のつきひははやいくとせ

椎木(しいのき)の枝高し
そらに吼える若葉が穂束
獅子のごとし
木にも地にもみどりがさける
秋のあさ
陽の光ゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
いふこともなし
ゆたかなるかな秋

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

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平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
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7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

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9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
「有機化学」の芳香族化合物のベンゼン環の構造式で悩み。
「六角形の亀の甲」を「へびが自分の尻尾をおいかけている夢」
から発見した逸話で有名な。
有名かつ高名な有機化学者。
「二重結合の概念」を発見したことでも
有名かつ高名な有機化学者。

1829年 - フリードリヒ・ケクレ、化学者(+ 1896年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツ
(Friedrich August Kekulé von Stradonitz,
1829年9月7日 - 1896年7月13日)は。

ドイツの有機化学者です。

ハイデルベルク大学、ヘント大学を経て。
1867年より終生ボン大学教授の職に
ありました。

メタン、硫化水素などの構造式を提唱致しました。

メタンの型を拡張して炭素原子の原子価が4であること。
また炭素原子同士が結合して鎖状化合物を作ることを
提唱致しました。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツは。

その後「芳香族化合物」の研究へと移りました。

ベンゼンの構造式として二重結合と単結合が交互に並んで
「六員環を構成するケクレ構造(亀の甲)」
を発見し提唱致しました。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツの夢。

ケクレは原子同士が連なっていく
夢を見て鎖状構造を思いつきました。

ヘビ(ウロボロス)が
自分の尻尾を噛んで輪状になっている夢を見て。

そしてベンゼンの六員環構造を思いついたと
言われています。

その後置換ベンゼンの異性体の数をケクレ構造で説明するために。
ベンゼン環は2つのケクレ構造の間を振動しているという
仮説を提唱致しました。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツの生涯

ケクレは1829年にヘッセン大公国の軍事参議官であった
カール・ケクレを父としてダルムシュタットに生まれました。

1847年にダルムシュタットのルートヴィヒ・ゲオルクス・ギムナジウムを卒業致します。
ギーセン大学に入学致しました。

入学当初は建築学を志望していました。

けれども。
1848年にユストゥス・フォン・リービッヒの
有機化学の講義を聴講して著しい感銘を受けました。
一旦退学し有機化学へと転向致しました。

1849年にギーセン大学に再び入り。
リービッヒの門下生となりました。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツは
1851年に大学を卒業し。
パリ大学のジャン・バティスト・アンドレ・デュマの
元へと留学致しました。

ここでシャルル・アドルフ・ヴュルツや
シャルル・フレデリック・ジェラールと知り合いました。
彼らの研究していた有機化合物の
「構造式」という概念を学びました。

翌年リービッヒの元へと戻りました。
アミルオキシ硫酸の研究で博士号を取得致しました。

その後、スイスの分析化学者
アドルフ・フォン・プランタの元で助手をつとめました。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツは。

1854年にロンドンに移り
聖バーソロミュー病院のジョン・ステンハウスの助手となりました。

ケクレはここではたらく間に
アレキサンダー・ウィリアムソンらと知り合いました。

ここでケクレは硫黄化合物に関する研究を行なうことになりました。
そして、
ウィリアムソンが提唱した水の型の概念が。
硫黄化合物にも適用できることを発見し提唱致しました。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツは。
1856年にハイデルベルク大学のローベルト・ブンゼンの元に移り
講師となりました。

ここでケクレは今度は炭素化合物についての研究を行ない、
[1857年]「メタンの構造式」を発見し提唱致しました。

さらに翌年これを拡張して「炭素原子の原子価が4価であり」。
互いに結合して鎖状化合物を形成できるという説を提唱致しました。

この年ベルギーのゲント大学の教授に就任致します。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツ。

ケクレはここで不飽和脂肪酸の幾何異性体について研究
致しました。
「二重結合の概念」を考察しています。

1865年についに
「歴史的にも有名な」ベンゼンのケクレ構造を提唱致しました。

1859年に有機化学の教科書
Lehrbuch der organischen Chemieの
第1巻を出版致しました。

この教科書は1880年に第4巻第1部まで刊行されたところで
中断してしまいました。
けれども。
これ以降に作られる有機化学の教科書の模範となる
偉大な名著でした。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツは。

世界初の化学者の国際会議である1860年カールスルーエ国際会議の
開催に力を注ぎます。

1867年にボン大学へと移り、
さらに芳香族化合物に関する研究を続けました。

1872年に
2置換ベンゼンの異性体の数を説明するため、
ベンゼン環は2つのケクレ構造の間を振動しているという仮説
を提唱致しました。

ベンゼン環の安定性の原因は不明であったのですが。
異性体の数は矛盾無く説明できるようになり
芳香族化合物の整理・体系化が可能となりました。

++++++++++++++++++++++

1878年、1886年、1891年に
ドイツ化学会の会長をつとめました。

1895年にヴィルヘルム2世により
貴族に列せられ、Kekulé von Stradonitzと称しました。

1896年にボンで逝去。

ケクレの門下からは
アドルフ・フォン・バイヤー、
オットー・ヴァラッハ、
ライナー・ルートヴィッヒ・クライゼン
といった著名な有機化学者が出ています。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツの夢
ケクレは、
彼が提案した2つの構造理論、
炭素が互いに結合して鎖状化合物を作ること、
ベンゼンが環状構造を持つことについて
、夢からインスピレーションを得たと主張しています。

この夢は1890年にベンゼンのケクレ構造提案25周年を
記念して行なわれた
ベンゼン祭での記念講演の内容に関する。
翌年ケクレ自身が書き起こした講演記録に記述
として残されています。

++++++++++++++++++++++
フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツ
の「蛇の夢」

それによれば。
まずケクレは1854年にロンドン滞在中に馬車の中で、
大きな原子が小さな原子を引き連れて飛び回り、
大きな原子同士がそのまま連なっていく夢を見て。

炭素が互いに結合して
鎖状化合物を作ることを思いついたということです。

また1861年にベルギーのヘントで教科書を執筆していた際に、
ストーブの前でうたたねをしたときに
再び連なった原子が蛇のようにうねっており。

さらに1匹の蛇が自身の尻尾に噛み付きながら回っている夢を見て、
ベンゼンの環状構造を思いついたということです。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツの

公演記録以外にも、
ケクレの息子がこれらの夢の話を聞いたことがあると
の証言を残しています。

++++++++++++++++++++++

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツの
ベンゼンの「蛇の夢」

しかし、本当にケクレがこれらの夢を見たかについては
疑うむきもあります。
ジョン・ウォティッツとスザンナ・ルドフスキーによると。
1・
ケクレの話が夢を見てから
その公表まであまりに長い時間がたっていること、
2・
また当時の新聞にもベンゼン祭に関する記述があるが、
そこにケクレの夢の話がまったく書かれていないこと、
3・
講演記録が後からケクレ自身によって書き起こされたことから
講演記録の信憑性が薄いとしています。
4・
また、ケクレは鎖状化合物の夢についての講演の最後に、
この夢と同じような記述が1886年に出版され
たヘルマン・コップの本に書かれていることを述べています。

そこで実はコップの記述を借りて
自身の夢として講演したのではないかと
されることもあります。

++++++++++++++++++++++

ベンゼン環の夢については。

ベンゼン環の炭素を六角形に配置した図は
オーギュスト・ローランの1854年に出版された本に記載されて
います。

ケクレもその本を読んだことがありました。
そして環状構造はそこから充分着想できたであろうと
されることがあります。

また1886年に彼がドイツ化学会の会長に在職していたとき、
懇親会で学会誌のパロディが作られ、
そこにベンゼン環が
6匹の猿が手と尻尾をつないだ絵で表現されていたので。
これに対してユーモアで答えるために蛇の話を作ったのだ
ともされています。

またユーモアからではなく、
これらの理論のプライオリティを
補強するために夢の話を作ったのだろうという
主張もあります。

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アウグスト・ケクレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(フリードリヒ・ケクレ から転送)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%AF%E3%83%AC

フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツ(Friedrich August Kekulé von Stradonitz, 1829年9月7日 - 1896年7月13日)はドイツの有機化学者。

ハイデルベルク大学、ヘント大学を経て、1867年より終生ボン大学教授の職にあった。

メタン、硫化水素などの型を提唱し、メタンの型を拡張して、炭素原子の原子価が4であること、また炭素原子同士が結合して鎖状化合物を作ることを提唱した。

その後、芳香族化合物の研究へと移り、ベンゼンの構造式として二重結合と単結合が交互に並んで六員環を構成するケクレ構造(亀の甲)を提唱した。

ケクレは原子同士が連なっていく夢を見て鎖状構造を思いつき、ヘビ(ウロボロス)が自分の尻尾を噛んで輪状になっている夢を見てベンゼンの六員環構造を思いついたと言われている(後述)。 その後、置換ベンゼンの異性体の数をケクレ構造で説明するためにベンゼン環は2つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を提唱した。

生涯
ケクレは1829年にヘッセン大公国の軍事参議官であったカール・ケクレを父としてダルムシュタットに生まれた。

1847年にダルムシュタットのルートヴィヒ・ゲオルクス・ギムナジウムを卒業し、ギーセン大学に入学する。入学当初は建築学を志望していたが、1848年にユストゥス・フォン・リービッヒの有機化学の講義を聴講して感銘を受け、一旦退学し有機化学へと転向した。1849年にギーセン大学に再び入り、リービッヒの門下生となった。

1851年に大学を卒業し、パリ大学のジャン・バティスト・アンドレ・デュマの元へと留学した。ここでシャルル・アドルフ・ヴュルツやシャルル・フレデリック・ジェラールと知り合い、彼らの研究していた型の説を学んだ。翌年リービッヒの元へと戻り、アミルオキシ硫酸の研究で博士号を取得した。その後、スイスの分析化学者アドルフ・フォン・プランタの元で助手をつとめた。

1854年にロンドンに移り、聖バーソロミュー病院のジョン・ステンハウスの助手となった。ケクレはここではたらく間にアレキサンダー・ウィリアムソンらと知り合った。ここでケクレは硫黄化合物に関する研究を行なった。そして、ウィリアムソンが提唱した水の型の概念が硫黄化合物にも適用できることを提唱した。

1856年にハイデルベルク大学のローベルト・ブンゼンの元に移り講師となった。ここでケクレは今度は炭素化合物についての研究を行ない、[1857年]メタンの型の概念を提唱した。さらに翌年、これを拡張して炭素原子の原子価が4価であり、互いに結合して鎖状化合物を形成できるという説を提唱した。この年、ベルギーのゲント大学の教授に就任した。ケクレはここで不飽和脂肪酸の幾何異性体について研究し、二重結合の概念を考察している。

1865年にベンゼンのケクレ構造を提唱した。

1859年に有機化学の教科書Lehrbuch der organischen Chemieの第1巻を出版した。この教科書は1880年に第4巻第1部まで刊行されたところで中断してしまったが、これ以降に作られる有機化学の教科書の模範となった。また、世界初の化学者の国際会議である1860年カールスルーエ国際会議の開催に力を注いだ。

1867年にボン大学へと移り、さらに芳香族化合物に関する研究を続けた。

1872年に2置換ベンゼンの異性体の数を説明するため、ベンゼン環は2つのケクレ構造の間を振動しているという仮説を提唱した。これによりベンゼン環の安定性の原因は不明なままであったが、異性体の数は矛盾無く説明できるようになり芳香族化合物の整理・体系化が可能となった。

1878年、1886年、1891年にドイツ化学会の会長をつとめた。

1895年にヴィルヘルム2世により貴族に列せられ、Kekulé von Stradonitzと称した。

1896年にボンで逝去。

ケクレの門下からはアドルフ・フォン・バイヤー、オットー・ヴァラッハ、ライナー・ルートヴィッヒ・クライゼンといった著名な有機化学者が出ている。

ケクレの夢
ケクレは、彼が提案した2つの構造理論、炭素が互いに結合して鎖状化合物を作ること、ベンゼンが環状構造を持つことについて、夢からインスピレーションを得たと主張している。この夢は、1890年にベンゼンのケクレ構造提案25周年を記念して行なわれたベンゼン祭での記念講演の内容を、翌年ケクレ自身が書き起こした講演記録に記述が残されている。それによれば、まずケクレは1854年にロンドン滞在中に馬車の中で、大きな原子が小さな原子を引き連れて飛び回り、大きな原子同士がそのまま連なっていく夢を見て、炭素が互いに結合して鎖状化合物を作ることを思いついたという。

また、1861年にベルギーのヘントで教科書を執筆していた際に、ストーブの前でうたたねをしたときに再び連なった原子が蛇のようにうねっており、さらに1匹の蛇が自身の尻尾に噛み付きながら回っている夢を見て、ベンゼンの環状構造を思いついたという。

公演記録以外にも、ケクレの息子がこれらの夢の話を聞いたことがあるとの証言を残している。

しかし、本当にケクレがこれらの夢を見たかについては疑うむきもある。ジョン・ウォティッツとスザンナ・ルドフスキーによると、ケクレの話が夢を見てからその公表まであまりに長い時間がたっていること、また当時の新聞にもベンゼン祭に関する記述があるが、そこにケクレの夢の話がまったく書かれていないこと、講演記録が後からケクレ自身によって書き起こされたことから講演記録の信憑性が薄いとしている。また、ケクレは鎖状化合物の夢についての講演の最後に、この夢と同じような記述が1886年に出版されたヘルマン・コップの本に書かれていることを述べている。そこで実はコップの記述を借りて自身の夢として講演したのではないかとしている。

ベンゼン環の夢についてはベンゼン環の炭素を六角形に配置した図はオーギュスト・ローランの1854年に出版された本に記載されており、ケクレもその本を読んだことがあったこと、そして環状構造はそこから充分着想できたであろうとしている。また1886年に彼がドイツ化学会の会長に在職していたとき、懇親会で学会誌のパロディが作られ、そこにベンゼン環が6匹の猿が手と尻尾をつないだ絵で表現されていたので、これに対してユーモアで答えるために蛇の話を作ったのだとしている。またユーモアからではなく、これらの理論のプライオリティを補強するために夢の話を作ったのだろうという主張もある。

参考文献
井上弘幸「ケクレは本当に夢を見たか 科学の創造性と夢」『化学』42巻、1号、p.23-27、化学同人、1987年。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%AF%E3%83%AC" より作成
カテゴリ: ドイツの化学者 | 1829年生 | 1896年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション

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9月7日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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できごと
1191年 - アルスフの戦い。リチャード1世の十字軍がサラーフッディーンを撃退。

1822年 - ブラジルがポルトガルからの独立を宣言。

1901年 - 義和団事変における清朝と諸外国の講和が結ばれる(北京議定書)。

1945年 - 沖縄戦沖縄守備隊がアメリカ軍に降伏調印。

1949年 - ドイツ西部のアメリカ・イギリス・フランス占領地区にドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。

1960年 - ローマオリンピック男子体操団体総合で、
日本が初の金メダル獲得。以後、モントリオール大会まで5連覇。

1964年 - 五島昇東急社長と大川博東映社長が共同記者会見、
9月30日をもって東映の東急グループからの独立を表明。

1973年 - 長沼ナイキ訴訟で自衛隊違憲判決(裁判所として初判断)。

1987年 - 新国劇が解散。

2004年 - 台風18号が長崎県上陸。西日本と北日本で暴風による被害が出る。死者41人。

2005年 - アップルコンピュータから
第1世代iPod nanoが発表され、即日販売開始(※日本時間では9月8日)。

誕生日
1533年 - エリザベス1世、イギリス国王(+ 1603年)

1641年(寛永18年8月3日)- 徳川家綱、江戸幕府第4代征夷大将軍(+ 1680年)

1721年(享保6年閏7月16日)- 徳川宗尹、一橋徳川家始祖(+ 1765年)

1810年 - ヘルマン・ハインリヒ・ゴッセン、経済学者(+ 1858年)

1815年 - ハウエル・コブ、
アメリカ合衆国財務長官・アメリカ連合国臨時議会議長(+ 1868年)

1815年(文化12年8月5日)- 入江長八、工芸家(+ 1889年)

1819年 - トーマス・A・ヘンドリックス、第21代アメリカ合衆国副大統領(+ 1885年)

1829年 - フリードリヒ・ケクレ、化学者(+ 1896年)

1840年(天保11年8月12日)- 津軽承昭、第12代弘前藩主(+ 1916年)

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1915年 - 伊藤清、数学者

1925年 - ローラ・アシュレイ、ファッションデザイナー(+ 1985年)

1928年 - 木田元、哲学者・中央大学名誉教授

1930年 - ソニー・ロリンズ、ジャズサックス奏者

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1940年 - ダリオ・アルジェント、映画監督

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1987年 - 安旭、元プロ野球選手
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1988年 - クレイグ・リンドフィールド、サッカー選手
1988年 - 山口良澄、お笑い芸人(喜界船士 失踪ボ〜ト)
1991年 - しほの涼、声優、女優、グラビア、歌手
1992年 - 森田涼花、アイドル
1994年 - 奈木野美樹、女優

忌日
251年 - 司馬懿、魏の政治家(* 179年)

1507年(永正4年8月1日)- 細川澄之、細川政元の養子(* 1489年)

1586年(天正14年7月24日) - 誠仁親王、正親町天皇第五皇子(* 1552年)

1910年 - ウィリアム・ホルマン・ハント、画家(* 1827年)

1953年 - 阿部信行、第36代内閣総理大臣(* 1875年)

1939年 - 泉鏡花、小説家(* 1873年)

1962年 - 吉川英治、小説家(* 1892年)

1978年 - キース・ムーン、ザ・フーのドラマー(* 1946年)

1994年 - テレンス・ヤング、映画監督(* 1915年)

1997年 - モブツ・セセ・セコ、ザイール(現:コンゴ民主共和国)大統領(* 1930年)

誕生花・誕生石
誕生花は オレンジ、花言葉は“花嫁のよろこび”
誕生石は ゴールド(gold)、宝石言葉は“至福の時”

記念日・年中行事
独立記念日(ブラジル)
1822年9月7日にポルトガルから独立を宣言したことに由来。

CMソングの日
1951年に初めてCMソングを使ったラジオCMが放送されたことに由来。

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