東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月8日(月曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年9月8日(月曜日)

夏がおわり「秋」になりました。
「夏」からかわり。
そぞろにかすかに「秋」のかおりが。
ただよいはじめています。

早朝にはせみの鳴き声が今日も。
聞こえました。わずかでした。
(あぶらせみ)

暗い早朝に「こおろぎ」の声が聞こえます。
次第に「こおろぎ」の声は多くなってきました。

まだ暗い早朝の朝もやからは。
「秋のおとずれ」の「大気」が。
かすみのような「香り」でしのびよる
気配がわかります。
もう「秋」です。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわり。
そして「7月」
「7月」も終わりました。
「8月」も終わりました。
いよいよ「秋」の「9月」です。
はやいものです。
はやいものです。

9月はじめの夏から秋には
「特有の独特の気配と香り」が
感じられるようです。
不思議な感しが致します。

木々は「夏のおわり」までの準備をおわり。
これからの「秋への実り」に向けての。
息吹が力強く感じられます。

今早朝は肌寒い」です。
今年は「寒い」です。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏に青葉の「木」に
かわりました。
そしていま。
「秋の葉」の木に。
さらにうつろいてかわろうと
しています。

「7月」が終わりました。
「8月」です。
「8月」=せみのしぐれなく夏です
「8月」が終わりました。
「9月」です。
「9月」=「実りの秋」です。

木々がへったため。
夏にはせみの声も少なくなりました。
けれども去年よりは鳴き声は多かった
ようにおもえます。

秋の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
若葉にすくすくとそだち。
若枝も秋天高くすこやかにのび。
ますますに。ますますに。
「秋の陽」をあびて。
山椒(さんしょう)の葉の。
みどりがとても。
奇麗です。

山椒のことを
「きのめ」=木の芽とはなるほどと
かんがえる。

さんしょう木
萌黄(もえぎ)鮮やかなり芽葉(めは)
みどり葉わか葉いずる花のごと
夏(なつ)こすわか枝は幹ならむ
「秋」なりてたゆまずとまらず
あゆみそだちて
幹こそ天たかくそだちたり
いざいまこそは
秋空(そら)にもえたたむ
金色(こがね)の炎
さんしょう木

けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。

「小さな夏みつけた」から
しだいに「大きな夏みつけた」
「大きな大きな夏みつけた」から。
そして「小さい秋」みつけた・は。

ちょっと「安心する気」が致します。
もう「秋」です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。

7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。
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9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
私の「大好き」な大天才作曲家である。

1841年 - アントニン・ドヴォルザーク、
作曲家(+ 1904年)
の生誕日です。
(アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク
の名はチェコ語の発音に近いアントニーン・
レオポルト・ドヴォジャークと表記される
こともあります。)

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク
(チェコ語:Antonín Leopold Dvořák
[ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk]
発音(ヘルプ・ファイル)、1841年9月8日 
ミュールハウゼン・アン・デア・モルダウ
(現チェコ・ネラホゼヴェス Nelahozeves) -
1904年5月1日)は、チェコの作曲家です。

ブラームスに才能を見いだされ
「スラブ舞曲集」で一躍人気作曲家となりました。

ベドルジハ・スメタナとともに。
ボヘミア楽派と呼ばれます。

その後、アメリカに渡り。
音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら。
ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収して。
自身の作品に反映させています。

代表作に交響曲第9番『新世界より』
この分野の代表作でもある
チェロ協奏曲『アメリカ』の愛称で知られる
弦楽四重奏曲第12番などがあります。

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは
これらの作品を通して。

1・
チェコ国民楽派を代表する作曲家であり
2.
後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず
3・
クラシック音楽史上屈指の人気作曲家
でもあるといえます。

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークの音楽史上の位置づけ

スタヴォフスケー劇場ドヴォルザークは
西洋音楽史上は
後期ロマン派に位置する作曲家になります。

この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、
あるいはフランスといった
音楽先進地域の外で国民楽派が勃興致しました。

ドヴォルザークは、1歳年上の
ピョートル・チャイコフスキー(ロシア)や。
2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)
らとともに。
同楽派を代表する存在です。

同時にベドルジハ・スメタナとともに。

チェコ国民楽派あるいは
ボヘミア楽派の創始者の一人として
ドヴォルザークは
レオシュ・ヤナーチェクを初めとする
以後の作曲家たちに大きな影響を与えました。

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは
ワーグナー派対ブラームス派の
対立が明らかとなった時代に学習期を迎えています。

1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、
プラハでワーグナーのオペラを常時上演していた
ドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)
に足繁く通いました。

1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第一作には、
ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に。
ワーグナーの影響が明らかに見て取れます。

しかしこの作品は失敗作と見なされ、
初演を迎えることはありませんでした。

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク

この『王様と炭焼き』第一作と
全く同じ台本に異なった音楽をつけました。

ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第二作以降、
徐々にワーグナーの影響下を脱していきます。

こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、
ワーグナーと相対していた
ブラームスでした。

++++++++++++++++++++++

ドヴォルザークは
ブラームスや「ブラームス派」の
音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって
作曲家としての地位を築きました。

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは。
こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、
ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を
高い次元で兼ね備えた作曲家であったのです。

++++++++++++++++++++++

けれども
ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは。
シューベルトと並び賞されるその親しみやすく美しい
メロディーにあります。

もちろんフランツ・シューベルトとは全く異なります。

彼の交響曲第9番の第2楽章は
日本語の歌詞がつけられて
唱歌「家路」として親しまれるだけでなく。
学校やデパートなどの終業時刻を知らせるメロディーとしても
多く利用されています。

ピアノ曲『ユモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)は
フリッツ・クライスラーに
よるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、
耳に馴染んでいるメロディアスな作品です。

ただし「ユモレスク」を「ピアノ」でも「ヴアイオリン」
でも。
「音楽性豊に」演奏することは
ビルトオーゾの「テクニック」が必要です。

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークの歌曲
『我が母の教えたもう歌』は。

クラシック音楽の声楽家のみならず、
ポピュラー・シンガーによっても愛唱されています。

++++++++++++++++++++++

チェコ音楽史における位置づけ

ドヴォルザークの登場まで
チェコの音楽界に民族主義が持ち込まれたのは、
18世紀後半のドイツの哲学者で神学者でもあった
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された
「民族精神」の概念によってであったのです。

ヘルダーはチェコ民謡を採集し、
アンソロジーの形で発表致しました。

これに刺激され、19世紀になると
チェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになりました。

19世紀末から20世紀初頭には、
スメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク
といった才能の開花につながっていきました。 

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは。
このようなチェコ国民音楽の形成過程のなかで
個々の作曲家たちにとっては、
民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が
重要な問題として問われるようになっていました。

保守的な伝統主義者であった作曲家
フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」
と主張し致しました。

++++++++++++++++++++++

保守的な伝統主義者であった
作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
一定の支持を得ていました。

これを真っ向から否定したのがスメタナです。

スメタナは1865年に「民謡の旋律やリズムの模倣により
国民様式が形成されるのではない」
と表明。
標題音楽を創作することで国民性を獲得しようと致しました。

すなわち
音楽の題材としてはチェコ民族の持つ
歴史、詩歌、民話などを採用するが。
技法的にはあくまでも西欧音楽の技法によることで、
チェコ国民音楽を広くヨーロッパに知らしめようと考えたのです。

そこでは、民謡の引用や舞曲リズムの使用は、
具体的な場面描写に限定して用いられています。

こうした「標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれ、
フィビフらがこの思想に同調致しました。

こうした立場は、先述のリーゲルやその思想を受け継いだ
フランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは
国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判にさらされ、
「進歩派」対「保守派」の論争となりました。

++++++++++++++++++++++

ドヴォルザークの立場
スメタナがビール醸造技師の息子であり。

フィビフは貴族に仕える森林管理官の家庭に生まれ。

日常的にはチェコ語ではなくドイツ語で生活し、
チェコのフォークロアから離れた生活をしていたことは。
「進歩派」形成に少なからぬ影響を及ぼしていると推測されます。

これに対して、
ドヴォルザークの生家は旅館を営んでおり、
ツィターの名手であった父親は、
旅人のために民謡や舞曲を演奏して聴かせていました。

また、ドヴォルザークは肉屋の修行の過程で
ドイツ語を勉強していることからも明らかなように、
日々の生活ではチェコ語を話していました。

こうした環境下に育った彼は、
交響曲や弦楽四重奏曲といった古典的形式を用いながら。
チェコ語のイントネーションに基づく主題や民族舞曲の
リズムをそこに持ち込み。
違和感なく構成し得たのです。

++++++++++++++++++++++

こうした中、ブラームスの目にとまった作品が
「モラヴィア二重唱曲集」
であったことは注目に値致しましす。

この作品は「モラヴィア」というタイトルではあるが。

モラヴィア民謡の特徴はあまり強くなく
むしろボヘミア的あるいは西欧音楽的な
拍節構造のはっきりした
音楽にモラヴィア音楽の旋法や和声を
部分的に用いた折衷的な作品です。

この作品がブラームスによって西欧に紹介されたことで、
彼の音楽の方向性は決定づけられました。

すなわち、彼の人気作曲家としての名声を決定づけた
「スラヴ舞曲」に代表されるスラヴ民謡風の主題を
ブラームス流の古典的な様式に織り込んだ異国趣味的な音楽を
出版社や聴衆は要求し、
ドヴォルザークはドゥムカなどのウクライナ民謡をも取り込み
汎スラヴ主義でこれに応えました。

++++++++++++++++++++++

後にアメリカに渡った後。
アントニン・レオポルド・ドヴォルザークは。
ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌に
触れて自らの音楽に取り込んで見せました。

++++++++++++++++++++++

アントニン・レオポルド・ドヴォルザークの
こうした立場は、しかし「進歩派」には、
「民謡の単なる引用と模倣」からなる
「保守派」的な立場であるかに思われました。
「ボヘミア楽派」と総称され、
個人的にはお互いに尊敬の念を抱いてはいたものの。

スメタナとドヴォルザークの音楽上の立場は異なっていたのです。

++++++++++++++++++++++

ドヴォルザーク批判と擁護、論争
論争の口火を切ったのはフィビフに師事したこともある
カレル大学音楽学教授で文化大臣をも務めた
ズデニェク・ネイェドリーでした。

歴史家でもあった彼は
チェコの歴史や詩歌を尊重するスメタナら
「進歩派」の急先鋒であり。

ドヴォルザークの存命中である
1901年から批判論文を書き始めています。

ネイェドリーの批判に対して
ドヴォルザーク擁護派も論陣を張り、
ドヴォルザークの死後、その論争は
激しさを増していきました。

++++++++++++++++++++++
ドヴォルザーク擁護派の代表が
オタカル・ショウレクでした。

彼は「標題や言葉を伴わない
絶対音楽にも標題性は内包されている」と主張し。

交響曲第7番と序曲「フス教徒」と主題構成を対比させ、
いずれも
「愛国心を抱いた音楽家の不屈の感情吐露である」として。

標題音楽と絶対音楽という枠組みに
意味のないことを主張致しました。

++++++++++++++++++++++

こうした論争は、
チェコが国家として独立を果たすまで繰り返されたが、
チェコスロヴァキアが成立すると国民性に拘泥する必要がなくなり、
またヤナーチェクが民俗学的な手法を用いて収集したモラヴィア民謡を解体再構築するという、
ドヴォルザークの手法をより徹底した作曲技法を確立するに至り、
論争は下火になりました。

++++++++++++++++++++++

アメリカ音楽史への影響
ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという
目的のために創設された音楽院でした。
創始者のジャネット・サーバー夫人は、
メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による
英語のオペラ上演を行うことが夢であったのです。

すなわち、この音楽院は、
アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての
位置づけにあったのです。

チェコ国民楽派の大物作曲家であった
ドヴォルザークを招聘した目的も
アメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、
特に作曲分野での充実を図る狙いがありました。

ドヴォルザークがアメリカに到着した直後にサーバー夫人は
アメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表しています。

しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは
特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、
サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされませんでした。

その理由として、基本的な音楽教育が不備であり
ナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、
ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、
ドヴォルザーク自身が
ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を
研究・吸収することに時間を費やし
実践的教育にまで至らなかったことなど
さまざまな憶測がなされています。

++++++++++++++++++++++

しかし、これはドヴォルザークが
以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかった
ということには当たりません。

ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、
国民音楽の潮流を生み出したことは間違いないことです。

渡米8ヶ月後の1893年5月21日にヘラルド・トリビューン紙上に
『黒人の旋律の真の価値』と題する
ドヴォルザークの論文が掲載されました。

また、1895年、チェコに帰国した後ではあるが、
ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と
題する論文を発表しています。

++++++++++++++++++++++

これらの論文を通してドヴォルザークは、
黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのです。
そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、
交響曲第9番「新世界より」、
弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、
チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものでした。

これらの作品は、スラヴ的であると同時に
アメリカのフォークロアの影響が表れており、
アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあったのです。

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ドヴォルザーク門下生たちは、
黒人霊歌やジュビリーを素材とした
短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、
直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも
似たような傾向を持つ楽曲を作り始めました。

ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、
チェコに帰国する頃までには、
彼の作品のほとんどがアメリカ初演を終えていました。

ニューヨーク・フィルハーモニックは、
アメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、
ドヴォルザークを名誉会員に推挙致しました。

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アントニン・ドヴォルザーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF

アントニン・レオポルド・ドヴォルザーク(チェコ語:Antonín Leopold Dvořák [ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk] 発音(ヘルプ・ファイル)、1841年9月8日 ミュールハウゼン・アン・デア・モルダウ(現チェコ・ネラホゼヴェス Nelahozeves) - 1904年5月1日)は、チェコの作曲家。ブラームスに才能を見いだされ、「スラブ舞曲集」で一躍人気作曲家となった。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。その後、アメリカに渡り、音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。代表作に、交響曲第9番『新世界より』、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。これらの作品を通して、ドヴォルザークは、チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家でもある。なお、彼の名はチェコ語の発音に近いアントニーン・レオポルト・ドヴォジャークと表記されることもある。

弟子
後世に名を残したプラハ音楽院時代の弟子には、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク、ヨセフ・スク、オスカル・ネドバルがいる。

参考図書
『作曲家別名曲解説ライブラリー6 ドヴォルザーク』 (1993年、音楽之友社) ISBN 4276010462
内藤久子著 『作曲家◎人と作品シリーズ:ドヴォルジャーク』 (2004年、音楽之友社) ISBN 4276221862
内藤久子著 『チェコ音楽の歴史:民族の音の表徴 』(2002年、音楽之友社) ISBN 4276135672

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ウィキメディア・コモンズには、アントニン・ドヴォルザーク に関連するマルチメディアがあります。チェコの音楽
クラシック音楽の作曲家一覧
クラシック音楽の曲名一覧

外部リンク
アントニーン・ドヴォルザーク簡易作品表
Antonin Dvorak (1841-1904)
IMSLP - International Music Score Library Project 内のドヴォルザークのページ。無料で楽譜が入手可能。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF" より作成
カテゴリ: チェコの作曲家 | ロマン派の作曲家 | オペラ作曲家 | 1841年生 | 1904年没

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
9月8日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%888%E6%97%A5

できごと
1180年(治承4年8月17日) - 源頼朝が伊豆国で挙兵する。

1926年 - ドイツが国際連盟加盟国となる。

1943年 - イタリアの講和 (第二次世界大戦)、イタリアが連合国への無条件降伏を受諾。

1951年 - 日本国との平和条約・日米安保条約調印。

1954年 - 東南アジア条約機構(SEATO)発足。

1971年 - 中国の林彪がクーデター失敗、墜落死。

1982年 - ボーイング767型機が初運行。

1986年 - 「日韓併合は韓国にも責任」発言で中曽根首相が藤尾文相罷免。

誕生日
B.C.30年頃 - 聖母マリア、イエス・キリストの母(没年不詳)

685年(垂拱元年8月5日)- 玄宗、第6代唐皇帝(+ 762年)

1157年 - リチャード1世(獅子心王)、イングランド王(+ 1199年)

1474年 - ルドヴィーコ・アリオスト、詩人(+ 1533年)

1503年(文亀3年8月18日)- 島津勝久、戦国武将(+ 1573年)

1633年 - フェルディナント4世、ローマ王(+ 1654年)

1680年(延宝8年8月16日)- 京極宮文仁親王、江戸時代の皇族(+ 1711年)

1702年(元禄15年8月17日)- 池田継政、第3代岡山藩主(+ 1776年)

1750年(寛延3年8月8日)- 谷風梶之助 (2代目)、大相撲力士、横綱(+ 1795年)

1815年 - アレクサンダー・ラムジー、第34代アメリカ合衆国陸軍長官(+ 1903年)

1815年 - ジュゼッピーナ・ストレッポーニ、ソプラノ歌手(+ 1897年)

1830年 - フレデリック・ミストラル、詩人(+ 1914年)

1841年 - アントニン・ドヴォルザーク、作曲家(+ 1904年)

1848年 - ヴィクトル・マイヤー、化学者(+ 1897年)

1854年 - ハインリヒ・クロイツ、天文学者(+ 1907年)

1856年 - ヨハネス・ヴィルジング、天文学者(+ 1943年)

1863年 - W・W・ジェイコブズ、小説家(+ 1943年)

1864年 - ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、生物学者(+ 1944年)

1867年 - アレクサンドル・パルヴス、政治活動家(+ 1924年)

1882年 - 阿武天風、小説家(+ 1928年)

1884年 - 松山省三、画家・実業家(+ 1970年)

1893年 - 坪井誠太郎、地質学者(+ 1986年)

1903年 - 田村孝之介、画家(+ 1986年)

1906年 - ロッター・エミリア、フィギュアスケート選手(+ 2003年)

1907年 - フィリップ・フィッシャー、投資家(+ 2004年)

1908年 - 十朱久雄、俳優(+ 1985年)

1910年 - ジャン=ルイ・バロー、俳優(+ 1994年)

1912年 - 亀田忠、元プロ野球選手(+ 1976年)

1925年 - 堺左千夫、俳優(+ 1998年)

1929年 - クリストフ・フォン・ドホナーニ、指揮者

1931年 - 川口節子、女優

1936年 - 宗近晴見、俳優、声優

1938年 - 堀江謙一、ヨット冒険家

1938年 - 井上俊、社会学者

1941年 - 山口英夫、将棋棋士

1943年 - 大熊忠義、元プロ野球選手・野球解説者

1947年 - ワレリー・アファナシエフ、ピアニスト

1948年 - 米良明久(ザ・グレート・カブキ)、プロレスラー
1949年 - 原田明、化学者
1950年 - 龍田直樹、声優
1951年 - 木之元亮、俳優
1952年 - 土師孝也、俳優、声優
1952年 - 桂ひな太郎、落語家
1953年 - 福井謙二、フジテレビアナウンサー
1959年 - 島津冴子、声優
1960年 - 鈴木亜久里、レーサー
1960年 - 高橋巨典、テレビ宮崎アナウンサー
1960年 - 紺野美沙子、女優、エッセイスト
1960年 - 松井常松、ミュージシャン(元BOØWYのベーシスト)
1962年 - トーマス・クレッチマン、俳優
1962年 - 高山郁夫、元プロ野球選手
1963年 - 松本人志(ダウンタウン)、お笑い芸人
1966年 - シャーリー・クランプ、歌手
1966年 - 田中ユタカ、漫画家
1966年 - 菊田俊介、ミュージシャン
1967年 - 高橋しん、漫画家
1968年 - 近藤真市、元プロ野球選手、コーチ
1969年 - 中西哲生、元サッカー選手、スポーツジャーナリスト
1969年 - ガリー・スピード、サッカー選手
1970年 - くまいもとこ、声優
1970年 - ラトレル・スプリーウェル、バスケットボール選手
1971年 - ヘンリー・トーマス、俳優
1972年 - 大石まどか、歌手
1972年 - 関智一、声優
1974年 - こぶしのぶゆき、声優
1976年 - 秋本祐希、女優
1976年 - 真田アサミ、声優
1977年 - 広沢タダシ、ミュージシャン
1979年 - 山咲あかり、AV女優
1979年 - SONOMI(くレーベル)、歌手
1979年 - ヒオルビス・ドゥベルヘル、野球選手
1980年 - 門脇舞以、声優
1981年 - 茂庭照幸、サッカー選手(FC東京)
1982年 - 岡見時秀 、お笑い芸人(上々軍団)
1982年 - 前田和哉、サッカー選手(セレッソ大阪)
1983年 - 西村弥、プロ野球選手
1984年 - 阿部健太、プロ野球選手
1984年 - 新里智将、プロバスケットボール選手
1986年 - 後藤圭太、サッカー選手(鹿島アントラーズ)
1986年 - 大野拓弥、騎手
1987年 - 本仮屋ユイカ、女優
1989年 - 松山傑、野球選手
1990年 - 仲村瑠璃亜、アイドル
1991年 - CHiYO、歌手
1992年 - 滝野雄、ジャニーズJr.

忌日
780年 - レオーン4世、東ローマ皇帝(* 750年)

1134年 - アルフォンソ1世、アラゴン・ナバラ王(* 1073年もしくは1074年)

1425年 - カルロス3世、ナバラ王(* 1361年)

1519年(永正16年8月15日) - 北条早雲、戦国大名(* 1573年)

1600年(慶長5年8月1日)- 鳥居元忠、戦国武将(* 1539年)

1613年 - カルロ・ジェズアルド、作曲家(* 1566年?)

1645年 - フランシスコ・デ・ケベード、詩人(* 1580年)

1675年 - アマーリエ、オランダ総督フレデリック・ヘンドリックの妃(* 1602年)

1754年(宝暦4年7月18日)- 芳沢あやめ (2代目)、歌舞伎役者(* 1702年)

1812年 - シャルル・アンドレ・メルダ、フランス革命・第一帝政期の軍人(* 1770年)

1814年 - マリア・カロリーナ・ダズブルゴ、両シチリア王フェルディナンド1世の妃(* 1752年)

1829年(文政12年8月11日)- 鏡岩濱之助、大相撲の力士・元小結(* 1769年)

1869年 - ウィリアム・フェッセンデン、第26代アメリカ合衆国財務長官(* 1806年)

1881年 - フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ、オランダの王族(* 1797年)

1882年 - ジョゼフ・リウヴィル、数学者(* 1809年)

1893年 - ルーク・ショート、西部開拓時代のガンマン(* 1854年)

1894年 - ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、生理学者・物理学者(* 1821年)

1894年 - フィリップ、パリ伯(* 1838年)

1902年 - 長與專齋、医学者(* 1838年)

1914年 - ピョートル・ネステロフ、ロシア帝国のパイロット(* 1887年)

1924年 - 奥繁三郎、第12・14代衆議院議長(* 1861年)

1926年 - トーマス・栗原、映画監督(* 1885年)

1933年 - ファイサル1世、イラク王(* 1883年)

1935年 - 床次竹二郎、逓信大臣・鉄道大臣・内務大臣(* 1867年)

1944年 - 枝正義郎、映画監督(* 1888年)

1945年 - 川島義之、陸軍大臣(* 1878年)

1947年 - 2代目桃川若燕、講談師(* 1873年)

1949年 - リヒャルト・シュトラウス、作曲家(* 1864年)

1953年 - フレデリック・ヴィンソン、第53代アメリカ合衆国財務長官(* 1890年)

1954年 - カーティス・ウィルバー、第43代アメリカ合衆国海軍長官(* 1867年)

1954年 - アンドレ・ドラン、画家(* 1880年)

1956年 - オスカル・カウフマン、建築家(* 1873年)

1964年 - 中沢弘光、画家(* 1874年)

1965年 - ヘルマン・シュタウディンガー、化学者(* 1881年)

1965年 - ドロシー・ダンドリッジ、女優(* 1922年)

1967年 - 岩崎彦弥太、実業家(* 1895年)

1970年 - 藤井深造、実業家(* 1893年)

1971年 - 林彪、中国の政治家・軍人(* 1907年)

1974年 - ヴォルフガング・ヴィントガッセン、テノール歌手(* 1914年)

1978年 - パンチョ・ヴラディゲロフ、作曲家(* 1899年)

1978年 - リカルド・サモラ、サッカー選手(* 1901年)

1979年 - ジーン・セバーグ、女優(* 1938年)

1980年 - ウィラード・リビー、化学者(* 1908年)

1981年 - 湯川秀樹、物理学者(* 1907年)

1985年 - ジョン・フランクリン・エンダース、医学者(* 1897年)

1991年 - アレックス・ノース、作曲家(* 1910年)

1994年 - 東野英治郎、俳優(* 1907年)

1999年 - 村沢牧、政治家(* 1924年)

2000年 - 晴乃パーチク、漫才師(* 1926年)

2001年 - 串田正夫、水泳選手・シンクロナイズドスイミング指導者(* 1915年)

2003年 - レニ・リーフェンシュタール、映画監督・写真家(* 1902年)

2004年 - 水上勉、作家(* 1919年)

2004年 - 秋吉契里、シンガーソングライター

記念日・年中行事
国際識字デー (International Literacy Day)
1965年にイラン国王が軍事費の一部を識字教育にまわす提唱をしたことを記念して、
ユネスコが制定。

白露(日本、2002年・2003年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が165度の時で、
野草に白い露が宿り始め、秋の気配が感じられ始めるころ。

ニューヨークの日