東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月13日(土曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年9月13日(土曜日)

「6月」=「夏の始まり」です。
「6月」がおわり「7月」です。
「7月」もおわりました。
最後の夏月「8月」。
夏の「8月」はおわりました。

「9月」の「秋」になり。
「13日」たちました。

初秋です。
初秋から深まりいく「秋」。
深まりいく秋の。
初秋です。

早いです。
速いものです。
速いのか早いのか。
はやいのか。
2ヶ月前7月5日の(土曜日)に。
はじめてせみのなきごえが早朝
きこえました。

今日の朝暗いうちは。
初秋の暗闇で。

「早朝にこおろぎの合唱」が聞こえました。

不思議な「秋の虫」の鳴き声が。
いろいろときこえます。

秋の虫は早朝になくものである
ことがわかります。
そして当然のように。
昼には鳴きません。
午後4:00ころからまたなきはじめます。

秋の虫たちの声と。
「秋かぜ」のこえに。
「秋」がきこえます。

ときには「こうろぎ達」が
話をしているかのごとくに
「みえます」。
絵に描くと面白いような気が致します。

木々の若葉のいろ。
緑がますますあざやかに。
秋におちついて。
考えるが「ロダンの彫塑」の色合いです。

深緑(ふかみどり)になりました。
そして「秋」をむかえて。
「秋緑」のいろあいに
うつろいできました。

秋の夜明(よあけ)の空から。
秋の陽がのぼり。
秋の日の「空色」になってきました。

けれども。
朝暗いうちはミルクのはいった
コバルトのような
カフエ・オレ・コバルトの空色です。
そして雲は秋雲です。

あさの05:00AMころは。

東の空
ほのかにあかるく
まだくらくあおく
しだいに
雲多い空はラピズラズリからトルコ石
のようににうつろうように。
しらんできます。

その上空に明らかな質量ある。
「秋の気配」を感じます。

野路はた見たり
若しだの緑ビロード
わらびのごとく輝けり
山奥にひそむしのぶの羊歯(しだ)
めずらしき羊歯なり
緑のほのほ
山奥のしだの街にもいきる
けなげなり
生い立ちしらず
そのちからこそとほとし
ありがたし
いざいまこそは
よき季節にあらむ
ふと空をみる

今時にもかかわらず放射冷却で
朝はとても寒いが。
「ぬくもり」はある。

確実に日は短くなりました。
葉木(はき)の樹木は「木」にかわり。
夏の木から「秋の木」にうつろう時期
です。

外路樹の若葉は
緑濃くオリーブの葉のごとし
つみとりたくなる
ほどにきれいです。
けれどもひそやかに木々の葉にも
「秋」の気配がうつろいて。
うつります。

街並(まちなみ)蒼く(あおく)
いろどりて
木々の榛葉のかがやけり
せみなく夏をうつろひて
ふかまるみどりの秋木なり
みのり秋こそたくましき
秋虫なきてささやけり
木々は榛葉にかがやけり

道端の夏の野草の花もかわいらしい。
春夏秋冬の
前奏曲の旋律が聞こえます。

早朝は異常な寒さです。

気象予報で
「明日は暖かくなる」と聞いても
朝は気温がさがり大気は不安定です。
「寒い」。
寒いと首都高の自動車も暗い中
「辛そうな運転の車」が多いです。

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)
は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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平成20年3月20日(木曜日)
は祝日です。
けれどもこの日は「もともと「休診日」」
なのです。

平成20年3月20日(木曜日は
休日診療は行いません。
は終わりました

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平成20年
4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂きました。

5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。

7月21(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

++++++++++++++++++++++

★★★

今年の冬・春はインフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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入学式。桜の花。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
再び
「寒さ」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬・春は「厳・春」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の冬場や春はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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草木の周りは。
少しずつ「春夏秋冬」の「四季」を
あゆんでいます。
梅咲き・スミレ咲き。桜咲き。
木々の萌黄から。
眼の青葉。山ほととぎす。そして夏・秋・また冬
がやってくる。

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
体調を崩される方が多いものです。
私はこの冬は「厳冬」になり極めて寒さが
激しいと思います。

このような今年の春・冬場はインフルエンザが
大流行するおそれが強い。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝

「今日は何の日」は
フランス生まれの音楽家であり。
軍楽隊員に試験を行い。
「教育軍楽隊」という中核要員を編制するとともに。
教則本にもとづく楽器奏法、音楽理論、ソルフェージュなどの
基礎教育を徹底的に行い。
「軍楽隊規則」を定めて軍楽隊を統制するという。

「軍楽隊音楽」或は「軍楽音楽」と
いうきわめて特殊な「範疇(カテゴリー)」
の音楽家である。
1851年 - シャルル・ルルー、作曲家(+ 1926年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーは。

ふうがわりなことに結果的には。
日本の軍属作曲家にいたったという音楽家です。

陸軍大尉。勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、
レジオン・ド=ヌール(シュバリエ)勲章。

軍楽の指導を通じて
日本への近代音楽の普及発展に貢献した作曲家です。

その作品『扶桑歌』、『抜刀隊』の
二つを編曲した
『陸軍分列行進曲』は、
現在も陸上自衛隊及び警察の公式行事などで
行進曲として使用されていることで有名な作曲家です。

論文「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」
にて。
催馬楽・神楽等の日本の音楽の楽理を
中国の古典音楽を参照しつつ考究し。
「宮・商・角、あるいは変・嬰」といった古式の日本音階を。
すべて西洋の五線譜の記法にマッピングするという
業績ほ残した作曲家です。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー
(Charles Edouard Gabriel Leroux,
1851年(嘉永4年)9月13日 -
1926年(大正15年)7月4日)。

経歴
1851年(嘉永4年)、パリの高級家具業を営む裕福な家庭に誕生。
幼少より音楽を学びました。
1870年(明治3年)、パリ音楽院に入ってピアノを専攻。
マルモンテルに師事致しました。
普仏戦争・パリコミューン等、動乱の時期であったため、
正式にパリ音楽院を卒業したかはっきり致しません。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーは。

1872年(明治5年)に召集され陸軍に入り。
歩兵第62連隊に配属されました。

翌1873年(明治6年)に連隊軍楽兵となります。
2年後の1875年(明治8年)に歩兵第78連隊に転属し、
副軍楽隊長に任ぜられます。

4年後(1879年(明治12年))に同連隊軍楽隊長に昇進し、
吹奏楽やピアノの作・編曲が出版されました。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーは。

1884年(明治17年)、
第3次フランス軍事顧問団の一員として来日致しました。

前任のギュスターブ・シャルル・ダグロン
(Gustave Charles Desire Dagron) の後を受けて。

草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたりました。
『扶桑歌』『抜刀隊』などを作曲致しました。

1886年(明治19年)に勲五等旭日章を受けました。
1889年(明治22年)に帰国し、
リヨンの歩兵第98連隊軍楽隊長に任ぜられました。

1897年(明治30年)オフィシェ・ダアカデミー章を受けました。

1899年(明治32年)、一等楽長(大尉相当)となりました。
1900年(明治33年)には
レジオン・ド=ヌール(シュバリエ)勲章を受けました。

1906年(明治39年)、フランス陸軍を退役した後。
モンソー・レ・ミーヌに住みます。
同地炭鉱街の吹奏楽団の指導などに携わりました。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーは。

1910年(明治43年)、
「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」
と題して
フランス初の日本音楽研究の論文を発表致しました。
同年、勲四等瑞宝章を受けた。

最晩年はベルサイユ市に住み、
1926年(大正15年)7月4日、

同市マジェンタ街の自宅で死去致しました。
享年74歳。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーの功績

それまで速成的で
稚拙でもあった日本陸軍の軍楽隊とその教育を抜本的に
改正致しました。

軍楽隊員に試験を行い、
「教育軍楽隊」という中核要員を編制するとともに、
教則本にもとづく楽器奏法、音楽理論、ソルフェージュなどの
基礎教育を徹底的に行い、
「軍楽隊規則」を定めて軍楽隊を統制致しました。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーの
こうした思い切った改革により陸軍軍楽隊は急速に技術を向上
致しました。

ルルーが着任した翌年に鹿鳴館で「抜刀隊」「扶桑歌」の2曲を
発表するまでとなりました。

更に2年後には、日本陸軍は
近衛・大阪と軍楽基本隊の3個軍楽隊
(いずれもフランス陸軍と同じく本格的な50人編制)
を有するに至りました。

軍楽隊の指導にとどまらず、
日本の音楽のために精力的に活動致しました。

1887年(明治20年)には鹿鳴館に本部をおき、
伊沢修二、鍋島侯、帝国大学教授、エッケルト、ソーブレー
、東京音楽学校、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊、式部職伶人の代表者らと
「日本音楽会」を結成、これに指揮者として参加し、名声をあげました。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーは。

ルルーは音楽取調掛や雅楽稽古所とも交流して
日本音楽を研究し、作曲を残しています。

軍楽を端緒として西洋音楽そのものを
日本に普及した功績は極めて大きく。
また
フランス帰国後積極的に日本の雅楽などの紹介に努めました。

++++++++++++++++++++++

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーの。
論文
「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」では、
催馬楽・神楽等の日本の音楽の楽理を
中国の古典音楽を参照しつつ考究致しました。

宮・商・角、あるいは変・嬰といった古式の日本音階を
すべて西洋の五線譜の記法にマッピングするという
業績ほ残しました。

東洋音階と西洋音階を通意する
回転ディスク型の音階換算具を紹介しています。

ま催馬楽「席田(むしろだ)」、神楽「千歳(せんざい)」などの
日本の古式譜を西洋式の五線譜に翻記して採譜し、紹介しています。

これらは世界的にも初めての試みでありました。

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シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーの。

このような西洋と日本を結ぶ「音楽大使」としての
重要な役割を音楽の学理的研究を通じて果たした功績は
非常に大きく
信じがたい奇跡的な作曲家です。

また「君が代」の編曲にも関与しています。

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シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルーの作品

日本においてもっとも知られている
「扶桑歌」「抜刀隊」「陸軍分列行進曲」
以外にも生涯を通じて極めて数多くの作曲・編曲を残しており、
フランスで多数出版されています。

"LES SAISONS" SUITE DE VALSES POUR PIANO A 4 MAINS(『四季』ワルツ組曲・ピアノ連弾曲)1881年(明治14年)
"GRANDE FANTAISIE SUR LES MOUSQUETAIRE AU COUVENT" POUR MUSIQUE MILITAIRE(『グランド・ファンタジー 僧院の近衛騎兵』)1881年(明治14年)
"PETITE MOUS'ME"POLKA POUR PIANO(『少女』(『小娘』とも))1886年(明治19年)
"AIRS JAPONAIS ET CHINOIS"POUR PIANO, 1/2/3 SERIE(『ピアノのための日本及び中国の歌』ピアノ独奏曲第1〜4集)1888年(明治21年)
"KYMIGHAYO"AIR NATIONAL JAPONAIS(『君が代』日本国歌編曲)1888年(明治21年)
このほかにも多くの作品があります。

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シャルル・ルルー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BC
シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルー

シャルル・エドウアール・ガブリエル・ルルー
生誕 1851年9月13日
フランス、パリ
没年 1926年7月4日(74歳)
フランス、ベルサイユ
職業 音楽家、作曲家、陸軍大尉
配偶 ナルシス・エーメ・ジョゼフィーヌ・オッケ
表・話・編・歴

[1]シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー(Charles Edouard Gabriel Leroux, 1851年(嘉永4年)9月13日 - 1926年(大正15年)7月4日)は、フランス生まれの音楽家、作曲家、陸軍大尉。勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、レジオン・ド=ヌール(シュバリエ)勲章。軍楽の指導を通じて日本への近代音楽の普及発展に貢献した。その作品『扶桑歌』、『抜刀隊』の二つを編曲した『陸軍分列行進曲』は、現在も陸上自衛隊及び警察の公式行事などで行進曲として使用されている。

目次
1 経歴
2 功績
3 作品
3.1 作風等
4 その他の事項
4.1 ルルーの人柄
4.2 ルルーの報告書について[16]
5 脚注
6 参考文献

経歴
1851年(嘉永4年)、パリの高級家具業を営む裕福な家庭に誕生し、幼少より音楽を学ぶ。1870年(明治3年)、パリ音楽院に入ってピアノを専攻。マルモンテルに師事する。普仏戦争・パリコミューン等、動乱の時期であったため、正式にパリ音楽院を卒業したかはっきりしない。

1872年(明治5年)に召集され陸軍に入り、歩兵第62連隊に配属される。翌1873年(明治6年)に連隊軍楽兵となる。2年後の1875年(明治8年)に歩兵第78連隊に転属し、副軍楽隊長に任ぜられる。[2]4年後(1879年(明治12年))に同連隊軍楽隊長に昇進し、吹奏楽やピアノの作・編曲が出版された。

1884年(明治17年)、第3次フランス軍事顧問団の一員として来日した。前任のギュスターブ・シャルル・ダグロン (Gustave Charles Desire Dagron) の後を受けて、草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたり、『扶桑歌』『抜刀隊』などを作曲した。

1886年(明治19年)に勲五等旭日章を受けた。1889年(明治22年)に帰国し、リヨンの歩兵第98連隊軍楽隊長に任ぜられた。1897年(明治30年)、オフィシェ・ダアカデミー章を受けた。1899年(明治32年)、一等楽長(大尉相当)となった。1900年(明治33年)にはレジオン・ド=ヌール(シュバリエ)勲章を受けた。

1906年(明治39年)、フランス陸軍を退役し、モンソー・レ・ミーヌに住んだ。同地炭鉱街の吹奏楽団の指導などに携わった。

1910年(明治43年)、「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」と題してフランス初の日本音楽研究の論文を発表した。同年、勲四等瑞宝章を受けた。

最晩年はベルサイユ市に住み、1926年(大正15年)7月4日、同市マジェンタ街の自宅で死去した。享年74歳。

功績
それまで速成的で稚拙でもあった日本陸軍の軍楽隊とその教育を抜本的に改正した。

軍楽隊員に試験を行い、「教育軍楽隊」という中核要員を編制するとともに、教則本にもとづく楽器奏法、音楽理論、ソルフェージュなどの基礎教育を徹底的に行い、「軍楽隊規則」を定めて軍楽隊を統制した。

こうした思い切った改革により陸軍軍楽隊は急速に技術を向上し、ルルーが着任した翌年に鹿鳴館で「抜刀隊」「扶桑歌」の2曲を発表するまでとなった。更に2年後には、日本陸軍は近衛・大阪と軍楽基本隊の3個軍楽隊(いずれもフランス陸軍と同じく本格的な50人編制)を有するに至った。[3]

軍楽隊の指導にとどまらず、日本の音楽のために精力的に活動した。1887年(明治20年)には鹿鳴館に本部をおき、伊沢修二、鍋島侯、帝国大学教授、エッケルト、ソーブレー、東京音楽学校、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊、式部職伶人の代表者らと「日本音楽会」を結成、これに指揮者として参加し、名声をあげた。[4]

ルルーは音楽取調掛や雅楽稽古所とも交流して日本音楽を研究し、作曲を残している。[5]

軍楽を端緒として西洋音楽そのものを日本に普及した功績は極めて大きく、また、フランス帰国後積極的に日本の雅楽などの紹介に努めた。

論文「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」では、催馬楽・神楽等の日本の音楽の楽理を中国の古典音楽を参照しつつ考究し、宮・商・角、あるいは変・嬰といった古式の日本音階をすべて西洋の五線譜の記法にマッピングするとともに、東洋音階と西洋音階を通意する回転ディスク型の音階換算具を紹介している。また催馬楽「席田(むしろだ)」、神楽「千歳(せんざい)」などの日本の古式譜を西洋式の五線譜に翻記して採譜し、紹介している。これらは世界的にも初めての試みであった。[6]

このような西洋と日本を結ぶ「音楽大使」としての重要な役割を音楽の学理的研究を通じて果たした功績は非常に大きい。

また、「君が代」の編曲にも関与している。

作品
日本においてもっとも知られている「扶桑歌」「抜刀隊」「陸軍分列行進曲」以外にも生涯を通じて極めて数多くの作曲・編曲を残しており、フランスで多数出版されている。[7]

"LES SAISONS" SUITE DE VALSES POUR PIANO A 4 MAINS(『四季』ワルツ組曲・ピアノ連弾曲)1881年(明治14年)
"GRANDE FANTAISIE SUR LES MOUSQUETAIRE AU COUVENT" POUR MUSIQUE MILITAIRE(『グランド・ファンタジー 僧院の近衛騎兵』)1881年(明治14年)
"PETITE MOUS'ME"POLKA POUR PIANO(『少女』(『小娘』とも))1886年(明治19年)
"AIRS JAPONAIS ET CHINOIS"POUR PIANO, 1/2/3 SERIE(『ピアノのための日本及び中国の歌』ピアノ独奏曲第1〜4集)1888年(明治21年)
"KYMIGHAYO"AIR NATIONAL JAPONAIS(『君が代』日本国歌編曲)1888年(明治21年)
このほかにも多くの作品がある。

作風等
作風は平易かつ優雅であり、フランス古典音楽の伝統にのっとった堅実なものである。長年ブラスバンドを指揮してきた手腕は、編曲において各楽器の持ち味を存分に引き出しているところなどに遺憾なく発揮されている。

その他の事項
軍楽長(少尉相当官)ルルーを望んだのは、時の陸軍卿大山巌であったと言われ、また他説、ルルーは前任のダグロンに推挙されたのだとも言われているが、はっきりしていない。[8]
前任者ダグロンが日本を離れてからルルーが着任するまでには1年半程度の空白があった。[9]ダグロンはいわば「現場上がりのミュージシャン」であり、日本陸軍全体の軍楽を任せるにはいささか力量に問題があった。[10]他方、ルルーは日本陸軍が初めて迎えた「純正な音楽大学出身の専門家」であり、相当な期待をもって迎えられた。
日本滞在中、雅楽等の日本の古典音楽を研究するのみならず、琴・三味線を鑑賞し、実際に購入して稽古もしたという。[11]日本の音楽を追求することにより、ひいては日本そのものを理解しようとしたものと思われる。

ルルーの人柄
ルルーは、「性質剛毅果断にして武士的典型を備えし稀に見る高潔の士」[12]であったという。

人柄を伝える逸話として次のものが残る。ルルーが帝国陸軍の雇を解かれて帰国する折、軍楽長四元少尉以下に対して

「余が諸君に音楽の教授を試み今日の良結果を見るに至ったのは畢竟前任教師其の人の蒔いた教育が発達したもので、数字をも知らない者に分数教授を解くのは何等の益のないのみか、空しく貴重な時間を消費するに過ぎない。然るに諸君は方(ま)さに其の域に進んでゐたので余が不束なる教授も、克く今日の好結果を致した。(中略)四元軍楽長に望む処のものは君が往時フェントン並ダクロン等に教授された処を維持された如く、余が教授したことによって楽手諸君をして将来を維持せられんことを」

・・・と訓示したと言う。

謙虚篤実、厳格で真面目なルルーの人柄がうかがえる。 [13] [14] [15]

ルルーの報告書について[16]
ルルーは帰国時、8ヶ月もの任期を残したまま日本陸軍の雇を解かれている。

帰国後、1889年(明治22年)に、ルルーが仏陸軍省に提出した報告書には、

「日本人は決してよい音楽家ではないと断言できます。まずその天性が音楽に向いておらず、さらに音楽上でより重大なことは音感を欠いており、楽譜に誤りがあっても見分けることができず、それを修正することは不可能で、音楽においても、他の事柄同様に模倣者であります。あいにくこの技術は形式だけで成立しておらず、すべてを模倣することは不可能です。多くの授業を受けることにより、日本人は多分楽器の演奏については良い才能を獲得することと思いますが、決して天才的ではありえません。日本人軍楽隊長は彼の楽隊を十分に機能させるのに必要な能力をもたず、彼の音感は自分の率いる楽手に全く自動的なやり方で演奏させることしかできず、彼らに音楽的な陰影や区切りを要求することはまったくありません。私の到着時、ふたりの楽長はいかなる楽器も演奏することができず、そのうえ彼らのひとりは演奏家たちが曲を終了したのちもまだ拍子をとっていました。これらの状態は顕著に改良されました。しかし、私が出発のとき受け渡した軍楽の水準を楽長たちが維持することさえ可能かどうか疑わしいと思われます」[17]

・・・等と、当時の軍楽隊、ひいては日本人の音楽性に関する失望とすらとれる相当手厳しい批評が述べられている。[18]

しかし逆に、任期を残したまま後にする日本陸軍軍楽隊への批評には、草創期の稚拙な陸軍軍楽隊、ひいては明治維新間もない幼い大日本帝国に対する、父性にも類する真情からの愛が見て取れる。

そのゆえにか、陸軍退役直前フランスに留学してきた教え子の永井建子を手厚く遇したことや、また、その後の著作「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」における日本の古典音楽への透徹した分析ぶりにも日本への愛が感じられる。

陸軍退役後、日本の軍楽隊がロンドンの博覧会に招かれて演奏を行い好評を得たことを聞き及んで、その成長を強く喜ぶ書簡が残されている。日露戦争が終わったのはルルーの退役直前のことであるから、自らがその育成の一端を担った幼い大日本帝国が大国ロシアに勝利したことを、ルルーがどれほど強く喜んだかが窺い知れる。

脚注
^ この項目全般について、「中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』」第10章を参考にした。同書同章は、現在入手し得る最も浩瀚かつ徹底した第一級の調査成果である。
^ 当時のフランス陸軍では、連隊ごとに軍楽隊を置いていた。
^ 「ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ」(青弓社ライブラリー 阿部勘一/細川周平/塚原康子/東谷護/高澤智昌著、ISBN4-7872-3192-8)によった
^ 「CD『お雇い外国人の見た日本~日本洋楽事始』」付属ブックレットp.6の記述によった。
^ 「ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ」(青弓社ライブラリー 阿部勘一/細川周平/塚原康子/東谷護/高澤智昌著、ISBN4-7872-3192-8)から引用
^ M.Charles LEROUX, "La musique classique japonaise"
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』p.607〜p.610
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』p.559
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』刀水書房、p.565
^ 「音楽界」148号、音楽社、p.31「蓋し有体に言わば、前にも陳(の)べし如く教師ダグロンは軍楽正門の士でなく、科学的造詣に欠けし一個の技術者に過ぎざれば、本科永遠の成案を俟つは彼に望みて不可能事なりし(永井建子)」とある。
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』刀水書房、p.587及びp.601に「『毎日新聞』明治19年(1886年)2月18日」にこの記事があるとの記述があるが、この日付の頃には「毎日新聞」は存在せず、その前身の「東京横浜毎日新聞」の同日付紙にもこの記事は見当たらないため、更に確認を要する。
^ 「音楽界」148号、音楽社、p.32
^ 三浦俊三郎『本邦洋樂變遷史』p.174〜p.175
^ 山口常光『陸軍軍楽隊史』p.85〜p.86
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』p.621及びp.622、p.637
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』刀水書房、p.769〜p.774
^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』p.773
^ またこの他に、ルルーの報告書には、軍楽隊に限ってのことであるが、軍楽兵の脱走や不行跡、ストライキにも等しい罷業など、規律違反の連続について触れられている。この記述から、ルルーの報告は、日清・日露両戦役前の日本陸軍がどのような雰囲気であったかを間接的に推察することのできる貴重な史料となっている。

参考文献
江藤淳『南洲残影』文芸春秋〈文春文庫〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-16-353840-2
阿部勘一・細川周平・塚原康子・東谷護・高澤智昌『ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ』青弓社〈青弓社ライブラリー〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-7872-3192-8
中村理平『洋楽導入者の軌跡−日本近代洋楽史序説−』刀水書房、平成5年(1993年)、ISBN 4-88708-146-4
三浦俊三郎『本邦洋樂變遷史』日東書院、昭和6年(1931年)10月
山口常光『陸軍軍楽隊史』三青社、昭和43年(1968年)
『音楽界』148号、音楽出版社、大正3年(1914年)2月
『お雇い外国人の見た日本〜日本洋楽事始』(CD)
M.Charles LEROUX, "La musique classique japonaise"
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: フランスの作曲家 | お雇い外国人 | 1851年生 | 1926年没

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9月13日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8813%E6%97%A5

できごと
1092年 - 越後国一帯に地震。親不知など日本海沿岸に津波。

1912年 - 明治天皇の大葬が行われる。同日乃木希典大将が夫人とともに自宅で殉死。

1942年 - ドイツ軍がスターリングラードに攻撃し、スターリングラード攻防戦が始まる。

1968年 - アルバニアがワルシャワ条約機構を脱退。

1969年 - 赤坂東急ホテルが東京都千代田区永田町に開業。

1970年 - 日本万国博覧会が閉幕。

1971年 - 林彪等が、権力闘争に敗れ、
トライデント256号機で逃亡、モンゴル人民共和国内の砂漠で墜落死(林彪事件)。

1974年 - 日本赤軍がハーグで外国大使館を占拠(ハーグ事件)。

1985年 - 任天堂がスーパーマリオブラザーズを発売。

1997年 - マザー・テレサのインド国葬が開催される。

2005年 - 商人物語の開発終了

2006年 - 日産が東京ディズニーランドと東京ディズニーシーのスポンサーを撤退。

誕生日
1761年(宝暦11年8月15日)- 山東京伝、絵師・戯作者(+ 1816年)

1819年 - クララ・シューマン、ピアニスト(+ 1896年)

1851年 - シャルル・ルルー、作曲家(+ 1926年)

1859年(安政6年8月17日) - 響舛市太郎、元大相撲力士、関脇(+ 1903年)

1870年(明治3年8月18日) - 斎藤隆夫、衆議院議員(+ 1949年)

1872年(明治5年8月11日) -
幣原喜重郎、政治家、元内閣総理大臣・衆議院議長(+ 1951年)

1874年 - アルノルト・シェーンベルク、作曲家(+ 1951年)

1900年 - 大宅壮一、ジャーナリスト(+ 1970年)

1904年 - 海老原喜之助、洋画家(+ 1970年)

1904年 - 永沢富士雄、元プロ野球選手(+ 1985年)

1916年 - ロアルド・ダール、小説家(+ 1990年)

1917年 - ロバート・ウォード、作曲家

1929年 - ニコライ・ギャウロフ、バス歌手(+ 2004年)

1931年 - 山田洋次、映画監督

1933年 - 小堀桂一郎、比較文学者

1935年 - 宮内義彦、オリックス会長・球団オーナー

1939年 - リチャード・キール、俳優

1941年 - 安藤忠雄、建築家

1941年 - 井上大輔、ミュージシャン、作曲家(+ 2000年)

1942年 - 相川宗一、さいたま市長

1942年 - 溝手顕正、政治家

1942年 - 花田紀凱、編集者

1946年 - 島木譲二、お笑い芸人(吉本新喜劇)

1947年 - 志賀正浩、DJ、歌手、タレント

1947年 - 古田肇、岐阜県知事

1948年 - ネル・カーター、歌手・女優(+ 2003年)
1948年 - 鳩山邦夫、政治家
1948年 - 中村均、調教師
1954年 - 芦原すなお、小説家
1954年 - 植木繁晴、ザスパ草津監督
1957年 - 山崎一、俳優
1958年 - 玉置浩二、ミュージシャン(安全地帯)、俳優
1962年 - 下村成二郎、ミュージシャン
1962年 - 江川央生、声優
1964年 - 三原じゅん子、女優
1967年 - マイケル・ジョンソン、陸上選手
1968年 - バーニー・ウィリアムス、メジャーリーガー
1969年 - 砂原良徳、ミュージシャン
1969年 - 伊藤博康、元プロ野球選手
1969年 - 小田切千、NHKアナウンサー
1970年 - 松岡由貴、声優
1970年 - 千葉進歩、声優
1971年 - ゴラン・イワニセビッチ、プロテニス選手
1971年 - 並木学、作曲家
1973年 - クリスティーン・アーロン、陸上選手
1974年 - 木原丈裕、バレーボール選手
1974年 - 旭天鵬勝、大相撲力士
1975年 - 今野宏美、声優
1976年 - 大久保勝信、プロ野球選手
1976年 - 武田美保、元シンクロナイズドスイミング選手
1976年 - 福元英恵、フリーアナウンサー(元フジテレビ)
1977年 - 今野宏美、声優(但し、1975年生まれの説あり)
1977年 - 荒木雅博、プロ野球選手
1977年 - 龍田梨恵、フリーアナウンサー(元テレビ東京)
1977年 - ミュウ、AV女優
1978年 - 松田大作、騎手
1978年 - 石橋奈美、女優 
1978年 - 赤平大、テレビ東京アナウンサー
1979年 - イバン・ミリュコビッチ、バレーボール選手
1979年 - 三木仁、元プロ野球選手
1979年 - 小田エリカ、女優
1980年 - 松坂大輔、プロ野球選手
1982年 - 畠山和洋、プロ野球選手
1982年 - マット・ロジェルスタッド、野球選手
1982年 - 出雲阿国 (お笑い)
1983年 - ガオグライ・ゲーンノラシン、ムエタイ選手
1983年 - 梅原伸亮、プロ野球選手
1983年 - 井上舞妃子、モデル
1983年 - 安達朋博、ピアニスト
1985年 - 鈴木えみ、モデル、歌手(ジュエミリア)
1985年 - 平田香織、ファッションモデル、歌手
1986年 - 小林可夢偉、レーシングドライバー
1986年 - ショーン・ウィリアムス、プロバスケットボール選手
1987年 - 中上真亜子、ファッションモデル
1988年 - 木村文和、プロ野球選手
1989年 - 岡本奈月、ファッションモデル、女優、
1989年 - 兼子舜、俳優
1989年 - 桐村萌絵、元グラビアアイドル
1989年 - 中西里菜 (スタイリッシュハート)
1989年 - 浦田延尚、サッカー選手
1990年 - 中別府葵、ファッションモデル
1990年 - 奥谷侑加、ファッションモデル
1995年 - 柴本優澄美、子役

忌日
30年 - イエス・キリスト(イエスの命日が西暦30年、
13日の金曜日であるという説を信じた場合)

81年 - ティトゥス、ローマ皇帝 (* 39年)

1598年 - フェリペ2世、スペイン国王(* 1527年)

1912年 - 乃木希典、陸軍大将(* 1849年)

1937年 - エリス・パーカー・バトラー、作家(* 1869年)

1975年 - 棟方志功、版画家(* 1903年)

1977年 - レオポルド・ストコフスキー、指揮者(* 1882年)

1984年 - ちばあきお、漫画家(* 1943年)

1987年 - マーヴィン・ルロイ、映画監督(* 1900年)

1988年 - 堀江しのぶ、タレント(* 1965年)

1996年 - 2パック、MC (* 1971年)

1998年 - 岩野貞雄、ワイン醸造技術者(* 1932年)

2004年 - ルイス・ミラモンテス、化学者(* 1925年)

2005年 - 中北千枝子、女優(* 1926年)

記念日・年中行事
世界の法の日/世界法の日
1965年9月13日から9月20日までアメリカ合衆国のワシントンで
「法による世界平和第2回世界会議」が開催され、
そこで、何人も正式な法律以外に支配されることはないという
「法の支配」を国際間で徹底させることで世界平和を確立しようという宣言が
採択されたことを記念したもの。

Programmer's day(アメリカ、閏年以外の年)
閏年でない場合、今日が一年の256日目の日であることから。(閏年の場合は9月12日)

司法保護記念日(日本)
犯罪の予防と犯罪者の更生を見守る司法保護司や保護機関の働きについて
多くの人に知ってもらうための日。
現在は、少年保護デー(4月17日)と統合されて
更生保護記念日(11月27日)になっている。