東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月15日(月曜日)祝日

「ここをおして」をクリックされてください。

「ここをおして」をクリックされてください。は
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci

(申し訳ございません。今現在整備中ですがこの「画面」
を正しくみるためには
「ブラウザ」の「表示」=>「文字の「大きさ」」を「最小」
に設定されてご覧下さい。)

東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年9月15日(月曜日)祝日

今日は祝日です。
けれども「完全御予約制」の
御予約のかたのみ診療を行っています。

「祝日」で元来は「休診日」です。
祝日が(木曜日)(日曜日)と重ならない限り
「完全御予約制」の御予約の患者さんのみ診療を
行います。

夏がおわり「秋」になりました。
「夏」からかわり。
そぞろにも「確かな」「秋」のかおりが。
ただよいはじめています。

暗い早朝に「こおろぎ」の声が聞こえます。
次第に「こおろぎ」の声は多くなってきました。
そして「こおろぎの合唱」が聞こえます。
「こおろぎ」の鳴き声は「せみ」と異なり
「いわにしみいる」ことはないように思えます。

まだ暗い早朝の朝もやからは。
「秋のおとずれ」の「大気」が。
かすみのような「香り」でしのびよる
気配が明らかにわかります。
もう「秋」です。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわり。
そして「7月」
「7月」も終わりました。
「8月」も終わりました。
いよいよ「秋」の「9月」です。
はやいものです。
はやいものです。

9月はじめの秋には
「特有の独特の気配と香り」が
感じられるようです。
不思議な感しが致します。

木々は「夏のおわり」までの準備をおわり。
これからの「秋への実り」に向けての。
息吹が力強く感じられます。

今早朝は肌寒い」です。
今年は「寒い」です。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
萌黄色から若葉そして
夏に青葉の「木」に
かわりました。
そしていま。
「秋の葉」の木に。
「秋」にも若葉を抱き
さらにうつろいてかわろうと
しています。

「7月」が終わりました。
「8月」です。
「8月」=せみのしぐれなく夏です
「8月」が終わりました。
「9月」です。
「9月」=「実りの秋」です。

木々がへったため。
夏にはせみの声も少なくなりました。
けれども去年よりは鳴き声は多かった
ようにおもえます。

秋の気配に加えて。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
秋の若葉にすくすくとそだち。
若枝も秋天高くすこやかにのび。
ますますに。ますますに。
「秋の陽」をあびて。
秋の山椒(さんしょう)の葉の。
みどりがとても。
奇麗です。

山椒のことを
「きのめ」=木の芽とはなるほどと
かんがえる。

さんしょう木
萌黄(もえぎ)鮮やかなり芽葉(めは)
みどり葉わか葉いずる花のごと
夏(なつ)こすわか枝は幹ならむ
「秋」なりてたゆまずとまらず
あゆみそだちて
幹は天たかくそだちたり
いざいまこそは
秋空(そら)にもえたたむ
金色(こがね)の炎
秋さんしょう木

けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。

「小さな夏みつけた」から
しだいに「大きな夏みつけた」
「大きな大きな夏みつけた」から。
そして「小さい秋」みつけた・は。

ちょっと「安心する気」が致します。
もう「秋」です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
-------------------------------

GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
-------------------------------

平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。

7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。
-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は
世界の名指揮者である。

1876年 - ブルーノ・ワルター、指揮者(+ 1962年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter,
1876年9月15日-1962年2月17日)は
、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家です。

より正確なドイツ語読みはヴァルター。
そのように表記される場合もあります。

本来の苗字はシュレージンガーです。
これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったときに。
ブレスラウにはシュレージンガー姓のものが多いので。
ヴァルターに改めたということです。

そのため
ヴァルター・シュレージンガーと表記されることも
稀にあります。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターは。
20世紀を代表する偉大な指揮者の1人です。
モーツァルトやマーラーを得意としました。

戦前や戦後間もなくの日本では、
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、
アルトゥーロ・トスカニーニと
ブルーノ・ワルターを。
「三大巨匠」と呼ぶことが多かったのです。

あまり知られていませんが。
作曲家としても
2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残しています。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターの生誕から指揮者となるまで。

ブルーノ・ワルターは。
ユダヤ人の父親とドイツ人の母親の間の子として、
ベルリンに生まれました
(ブルーノ本人はキリスト教徒)。
本名は、ブルーノ・ヴァルター・シュレージンガー
(Bruno Walter Schlesinger)です。

ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後に。
ピアニストとしてデビュー致しました。

けれどもハンス・フォン・ビューローの実演を
目の当たりにして指揮者になることを決意致しました。

1894年にケルン市立歌劇場でデビュー致しました。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターとマーラーとの出会い

1896年にはハンブルク市立歌劇場へ移り
そこで当時の大指揮者・作曲家であった
グスタフ・マーラーに認められました。

彼の招きでヴィーンへ移住致しました。

マーラーの弟子、
そして親友として交流を深めていきました。

名前からユダヤ系を示す「シュレージンガー」
という姓を除き。
「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からです。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルター
人気指揮者へ

以後ヴィーン宮廷歌劇場(現在のヴィーン国立歌劇場)楽長。
ミュンヘン宮廷歌劇場(現在のバイエルン国立歌劇場)音楽監督。
ベルリン市立歌劇場音楽監督。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長などを
歴任致しました。

ヴィーン・フィルやベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった
一流オーケストラやザルツブルク音楽祭。

さらにはアメリカのオーケストラにも度々招かれる
人気指揮者として活躍致しました。

ベルリン・フィルでは
「ブルーノ・ワルター コンサート」
という演奏会を持つほどの人気であったのです。

++++++++++++++++++++++

ナチスの台頭とブルーノ・ワルターのアメリカ移住

しかし、1933年に、ナチス政権が成立すると、
ユダヤ系であったワルターはナチスから
迫害を受けるようになりました。

ナチス政権発足直後に演奏旅行から帰国してきたワルターは
ナチスの宣伝大臣ゲッベルスらによる
嫌がらせや殺人予告を受けるようになり
ました。

最終的には楽屋に銃弾を撃ち込まれる事態にまで発展致しました。

このため、ワルターが指揮をする演奏会は中止に追い込まれ。
彼はドイツを追われてオーストリアのヴィーンへ移住せざるを
得なくなってしまいました。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターは。
移住先のヴィーンでは歓迎されて
ヴィーン国立歌劇場やヴィーン・フィルで、
フルトヴェングラーなどと
人気を争うほどの活躍を致します。

1938年にオーストリアが
ナチス・ドイツに併合されてしまうと、
命に危険を感じてヴィーンを出てスイスのルガーノへ逃れました。

この年創設された
ルツェルン音楽祭にトスカニーニらと共に招かれました。
パスポートもない状態で
モナコなどに市民権の取得を打診し不調におわりました。

やがてフランスから手をさしのべられフランスの国籍を取得。

フランスなどドイツと
オーストリアの影響の及ばない地域を
中心に演奏活動を続けました。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターは。
翌年もルツェルン音楽祭に招かれました。

ところが。
チューリッヒで離婚調停中だった
次女のグレーテルが夫に射殺され
その夫も自殺するという悲劇に見舞われました。

(著名なバス歌手
エツィオ・ピンツァとグレーテルとの不倫関係が原因という)

ワルターを襲った悲劇により
ブルーノ・ワルターは身動き不能の状態
に致しました。
(音楽祭はトスカニーニが
自らのスケジュールをキャンセルして代役を務めました)。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターは。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発して
欧州での戦火が激しくなるにつれて。
ついにルガーノの家を出てアメリカへと逃れました。

アメリカでは
カリフォルニア州ビバリーヒルズに居を構えます。

常任のポストには就かずに
ニューヨーク・フィルハーモニックや
メトロポリタン歌劇場などを指揮致しました。

++++++++++++++++++++++

戦後のブルーノ・ワルター

戦後はヨーロッパの楽壇にも復帰し、
1947年から1949年の間に
ニューヨーク・フィルハーモニックの
音楽顧問を務めるなど、欧米で精力的に活躍を続けました。
1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養致しました。

その後もニューヨーク・フィルやヴィーン・フィルを指揮して
数回演奏会を行なっています。

1960年に師マーラーの生誕100周年記念祭のために
最後のウィーン訪問を行いヴィーン・フィルを指揮致しました。
(曲目はマーラーの交響曲第4番、シューベルトの「未完成」など)。

同年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で
当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演致しました。
(曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番)、
演奏会から引退致しました。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターは。
その後はCBSレコード(現在はソニー・クラシカル)が
ワルターの演奏のステレオ録音のために、
ロスアンジェルス付近の音楽家により特別に結成し
たコロンビア交響楽団を指揮し、
この組み合わせにより多くの録音が残されました。

1962年2月17日、
心不全のためカリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。
その波乱に満ちた生涯を閉じました。
現在、遺体はスイスのルガーノに埋葬されています。

最晩年に、
ルドルフ・シュタイナーが主宰する人智学協会に
入会しています。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターのレパートリーと演奏スタイル

ワルターは、19世紀生れの指揮者の中では
珍しく録音を多く残しています。

録音期間も1920年代のSPレコードから
1960年代のステレオ録音に至るまでの長期間にわたっています。

そのレパートリーも得意としていたマーラーやモーツァルトの他、
ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、
ブルックナーなどの
ドイツ・オーストリア系音楽や
ベルリオーズ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、バーバー
など幅広いものです。

録音には残されていないが
同時代の作曲家の作品も積極的に取り上げていました。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターの演奏スタイル

よくワルターの演奏は微笑に例えられます。

夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、
感情を荒々しく出すことのない中庸な演奏をする
指揮者として知られています。

確かにモーツァルトの交響曲や
晩年のステレオ・スタジオ録音による
ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などの録音は
非常に美しい演奏です。

それは彼の一面を捉えたものでしょう。

壮年期であるモノラル録音時代のライヴ録音などには
ニューヨーク・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番や
ナチス・ドイツの脅威が迫り来る中で演奏された1938年の
ヴィーン・フィルとのマーラー交響曲第9番のように。

何かに憑かれたような
熾烈な演奏をしている事例も多いものです。

++++++++++++++++++++++

ワルター自身、自伝で
自分の中にはアポロ的な部分とディオニュソス的
な部分が両立している、と述べています。

全体的にテンポは速めだが
(緩序楽章ではゆっくりと演奏することも多く、
それが他の楽章と好対象となっている)。

ところどころで
テンポの変化(ルバート)を自然な形でつけ。
オーケストラを豊かに響かせながら
たっぷりと歌わせるのが特徴です。

特に旋律を「歌わせる」ことに意を用いていたらしく。

残されているリハーサル映像や音源でも
オーケストラに向って何度も
"Sing!"(歌って!)と指示を出しています。

当時の弦楽器奏者の水準の低さ
(特にヴィオラ以降の低弦)からくる
音程の怪しさは。
他の指揮者では気になるが
ワルターの演奏ではさほど気になりません。

++++++++++++++++++++++

ブルーノ・ワルターの指揮法

残されている映像を見ると、
ワルターの指揮は、基本的にタクトを持った右手のみを使い。

必要以上に体を動かすことも、
左手を使うこともあまりしていません。

それは、長いタクトを使って右手だけで
優雅にオーケストラを操ってるように見えます。

また、リハーサルでは、文学的な解説や長い演説は余りせず、
タクトを振りながら
「歌って!」「ディミヌエンド!」「エスプレッシーヴォ!」
といった指示を出すのみでした。

しかし、その指示だけでワルター独特の節回しやたっぷりした響き、
そして歌うような演奏を実現することができた指揮者です。

++++++++++++++++++++++
ブルーノ・ワルターの人間と音楽

彼は自伝に「自分は教育的指揮者だ」と残しています。

つまりワルターが楽員達に繰り返し言って
聞かせるうちに、
いつの間にかオーケストラが自分たちの意思で行う演奏が
ワルターの意に沿った演奏になる、
という出来そうで出来ない演奏を成し遂げることが出来た
稀有な指揮者だったということになります。

ワルターがトスカニーニやフルトヴェングラーのように
オーケストラに対して
専制君主として振舞う指揮者ではないことを示しており、
ワルターの人柄を良く表しています。

例えば、ヴィーン・フィルでのリハーサルでは
悲しい顔をし
「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?
もっと歌ってください」
と言いました。

すると団員達は
「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。
トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」
と言ったということです。

++++++++++++++++++++++

「続きを読む」

++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
ブルーノ・ワルター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家。より正確なドイツ語読みはヴァルターであり、そのように表記される場合もある。また、本来の苗字はシュレージンガーであり、これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったとき、ブレスラウにはシュレージンガー姓のものが多いので、ヴァルターに改めたという。そのため、ヴァルター・シュレージンガーと表記されることも稀にある。

20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした。戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。

あまり知られていないが、作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。

目次
1 ワルターの生涯
1.1 生誕から指揮者となるまで
1.2 マーラーとの出会い
1.3 人気指揮者へ
1.4 ナチスの台頭とアメリカ移住
1.5 戦後
2 ワルターの名演奏(録音)
2.1 レパートリーと演奏スタイル
2.2 マーラーとモーツァルト
2.3 その他
2.3.1 モノラル録音
2.3.2 ステレオ録音
3 他の指揮者との関係
3.1 マーラー
3.2 トスカニーニ
3.3 フルトヴェングラー
3.4 クレンペラー
3.5 ベーム
4 著書
5 映像作品
6 脚注

ワルターの生涯

生誕から指揮者となるまで
ユダヤ人の父親とドイツ人の母親の間の子として、ベルリンに生まれる(ブルーノ本人はキリスト教徒)。本名は、ブルーノ・ヴァルター・シュレージンガー (Bruno Walter Schlesinger)。

ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。

マーラーとの出会い
1896年にはハンブルク市立歌劇場へ移り、そこで当時の大指揮者・作曲家であったグスタフ・マーラーに認められ、彼の招きでヴィーンへ移住。マーラーの弟子、そして親友として交流を深めていった。また、名前からユダヤ系を示す「シュレージンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである。

人気指揮者へ
以後ヴィーン宮廷歌劇場(現在のヴィーン国立歌劇場)楽長、ミュンヘン宮廷歌劇場(現在のバイエルン国立歌劇場)音楽監督、ベルリン市立歌劇場音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長などを歴任。ヴィーン・フィルやベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった一流オーケストラやザルツブルク音楽祭、さらにはアメリカのオーケストラにも度々招かれる人気指揮者として活躍した。ベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルター コンサート」という演奏会を持つほどの人気であった。

ナチスの台頭とアメリカ移住
しかし、1933年に、ナチス政権が成立すると、ユダヤ系であったワルターはナチスから迫害を受けるようになる。ナチス政権発足直後に演奏旅行から帰国してきたワルターは、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスらによる嫌がらせや殺人予告を受けるようになり、最終的には楽屋に銃弾を撃ち込まれる事態にまで発展した。このため、ワルターが指揮をする演奏会は中止に追い込まれ、彼はドイツを追われてオーストリアのヴィーンへ移住せざるを得なくなってしまった。

移住先のヴィーンでは歓迎されてヴィーン国立歌劇場やヴィーン・フィルで、フルトヴェングラーなどと人気を争うほどの活躍をしたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてしまうと、命に危険を感じてヴィーンを出てスイスのルガーノへ逃れた。この年創設されたルツェルン音楽祭にトスカニーニらと共に招かれたりしているが、パスポートもない状態でモナコなどに市民権の取得を打診し不調におわる。やがてフランスから手をさしのべられフランスの国籍を取得、フランスなどドイツとオーストリアの影響の及ばない地域を中心に演奏活動を続けた。翌年もルツェルン音楽祭に招かれるが、チューリッヒで離婚調停中だった次女のグレーテルが夫に射殺され、その夫も自殺するという悲劇(著名なバス歌手エツィオ・ピンツァとグレーテルとの不倫関係が原因という)がワルターを襲う(音楽祭はトスカニーニが自らのスケジュールをキャンセルして代役を務める)。1939年9月に第二次世界大戦が勃発して欧州での戦火が激しくなると、ついにルガーノの家を出てアメリカへと逃れた。アメリカでは、カリフォルニア州ビバリーヒルズに居を構え、常任のポストには就かずにニューヨーク・フィルハーモニックやメトロポリタン歌劇場などを指揮した。

戦後
戦後はヨーロッパの楽壇にも復帰し、1947年から1949年の間にニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めるなど、欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。その後もニューヨーク・フィルやヴィーン・フィルを指揮して数回演奏会を行なっている。1960年に師マーラーの生誕100周年記念祭のために最後のウィーン訪問を行いヴィーン・フィルを指揮する(曲目はマーラーの交響曲第4番、シューベルトの「未完成」など)。同年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し(曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番)、演奏会から引退した。その後はCBSレコード(現在はソニー・クラシカル)が、ワルターの演奏のステレオ録音のために、ロスアンジェルス付近の音楽家により特別に結成したコロンビア交響楽団を指揮し、この組み合わせにより多くの録音が残された。

1962年2月17日、心不全のためカリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。その波乱に満ちた生涯を閉じた。現在、遺体はスイスのルガーノに埋葬されている。

最晩年に、ルドルフ・シュタイナーが主宰する人智学協会に入会している。

ワルターの名演奏(録音)

レパートリーと演奏スタイル
ワルターは、19世紀生れの指揮者の中では珍しく録音を多く残しており、録音期間も1920年代のSPレコードから1960年代のステレオ録音に至るまでの長期間にわたっている。そのレパートリーも得意としていたマーラーやモーツァルトの他、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系音楽やベルリオーズ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、バーバーなど幅広い。録音には残されていないが、同時代の作曲家の作品も積極的に取り上げていた。

よくワルターの演奏は微笑に例えられ、夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、感情を荒々しく出すことのない中庸な演奏をする指揮者として知られている。確かに、モーツァルトの交響曲や晩年のステレオ・スタジオ録音によるベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などの録音は非常に美しい演奏である。しかし、それは彼の一面を捉えたものでしかない。壮年期であるモノラル録音時代のライヴ録音などにはニューヨーク・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番や、ナチス・ドイツの脅威が迫り来る中で演奏された1938年のヴィーン・フィルとのマーラー交響曲第9番のように何かに憑かれたような熾烈な演奏をしている事例も多い。ワルター自身、自伝で自分の中にはアポロ的な部分とディオニュソス的な部分が両立している、と述べている。

全体的にテンポは速めだが(緩序楽章ではゆっくりと演奏することも多く、それが他の楽章と好対象となっている)、ところどころでテンポの変化(ルバート)を自然な形でつけ、オーケストラを豊かに響かせながらたっぷりと歌わせるのが特徴である。特に旋律を「歌わせる」ことに意を用いていたらしく、残されているリハーサル映像や音源でも、オーケストラに向って何度も"Sing!"(歌って!)と指示を出している。このため、当時の弦楽器奏者の水準の低さ(特にヴィオラ以降の低弦)からくる音程の怪しさも、他の指揮者では気になるが、ワルターの演奏ではさほど気にならない。

残されている映像を見ると、ワルターの指揮は、基本的にタクトを持った右手のみを使い、必要以上に体を動かすことも、左手を使うこともあまりしていない。それは、長いタクトを使って右手だけで優雅にオーケストラを操ってるように見える。また、リハーサルでは、文学的な解説や長い演説は余りせず、タクトを振りながら「歌って!」「ディミヌエンド!」「エスプレッシーヴォ!」といった指示を出すのみである。しかし、その指示だけでワルター独特の節回しやたっぷりした響き、そして歌うような演奏を実現しているのである。

彼は自伝に「自分は教育的指揮者だ」と残している。それは、つまりワルターが楽員達に繰り返し言って聞かせるうちに、いつの間にかオーケストラが自分たちの意思で行う演奏がワルターの意に沿った演奏になる、という出来そうで出来ない演奏を成し遂げることが出来た稀有な指揮者だったということなのだ。このことは、ワルターがトスカニーニやフルトヴェングラーのようにオーケストラに対して専制君主として振舞う指揮者ではないことを示しており、ワルターの人柄を良く表している。例えば、ヴィーン・フィルでのリハーサルでは悲しい顔をし「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」と、言ったという。

代表的な録音は下記の通り。

マーラーとモーツァルト
ワルターはグスタフ・マーラーの弟子・親友であり、マーラーの死後に交響曲第9番、『大地の歌』の初演を行うなど、その権威として知られていた。ワルターの死後レナード・バーンスタインやクラウス・テンシュテットなどによる名演奏が生れ、ワルターのマーラー演奏の地位は相対的に低下したが、それでも前述の1938年録音の交響曲第9番(ヴィーン・フィルとのライヴ録音)や1952年録音の『大地の歌』(ヴィーン・フィルとのスタジオ録音とライブ録音)、ステレオ録音の交響曲第1番『巨人』(コロンビア交響楽団)、第2番『復活』(ニューヨーク・フィル)などは今でも名演奏として知られている。『巨人』の録音では、当時バーンスタインもこの曲の録音が予定されており、場合によっては同じ『巨人』のレコードが同じCBSから同じ時期に発売される可能性もあった。しかし、「とりあえずバーンスタインにワルター盤を聴かせ、その感想で録音するかどうか決めよう」ということになり、バーンスタインにワルター盤を聴かせたところ大絶賛したため、バーンスタインによる録音はお預けとなった。

また、ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほどだ。生涯最後の録音も、モーツァルトのオペラ序曲集であった。晩年のコロンビア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番『リンツ』、第40番、またニューヨーク・フィルとのモノラル録音では第35番『ハフナー』、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』などが名演奏として知られている。また、戦前のヴィーン・フィルとの録音(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など)や、1952年のヴィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。オペラでは、メトロポリタン歌劇場での『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』の名演が有名である。

ワルターのモーツァルト演奏は、ミュンヘン歌劇場音楽監督時代に第3指揮者だったカール・ベームなどにも影響を与えている。

その他
マーラー・モーツァルト以外では下記の録音などが、世紀の名演奏として今でも揺ぎ無い地位を占めている。

モノラル録音
ブラームス 交響曲第2番、交響曲第3番(ニューヨーク・フィル)
ベートーヴェン 交響曲第3番『英雄』(シンフォニー・オブ・ジ・エアとのライヴ録音 注)
ベートーヴェン 交響曲第6番『田園』(ヴィーン・フィルとのSP録音)
ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(ヴィーン・フィルとのSP録音)
シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ヴィーン・フィルとのSP録音)
注)トスカニーニの追悼演奏会。シンフォニー・オブ・ジ・エアはトスカニーニが指揮していたNBC交響楽団が改名したオーケストラである。

ステレオ録音
ベートーヴェン 交響曲第2番、交響曲第6番『田園』(コロンビア交響楽団)
ブラームス 交響曲第4番(コロンビア交響楽団)
シューベルト 交響曲第5番、交響曲第8(9)番『ザ・グレート』(コロンビア交響楽団)
シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ニューヨーク・フィル)
ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(コロンビア交響楽団)

他の指揮者との関係

マーラー
マーラーとの出会い参照。

トスカニーニ
ワルターとトスカニーニは演奏スタイルには違いがあったが、親交を持っていた。トスカニーニはワルターの演奏を、感傷的に過ぎるように感じていたようだが、ワルターが指揮したモーツァルトの交響曲のレコードに関して自分よりも良いと述べている。いっぽうワルターはトスカニーニから音楽的に多大な影響を受け、自伝でもトスカニーニを賞賛している。ワルターが娘グレーテル殺害の報を受けたのはルツェルン音楽祭の楽屋であったが、ショックで指揮が出来なくなってしまったワルターに代わって指揮台に上がったのはトスカニーニだった。トスカニーニが90歳で没した際の追悼演奏会ではワルターが指揮台に上がり、ベートーヴェンの交響曲第3番の名演奏を残している。

フルトヴェングラー
ワルターとフルトヴェングラーは共にドイツを代表する大指揮者であったが、片やワルターはユダヤ人としてナチスに祖国を追われ、片やフルトヴェングラーはナチス政権下でドイツに留まり、ナチスから官職を得て演奏活動を続けたことが二人の関係をぎくしゃくしたものにしてしまった。歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、自伝でフルトヴェングラーが、戦後の演奏会でワルターの指揮するブラームスの『ドイツ・レクイエム』を聞いて、テンポなどに否定的な見解を述べていたと書いている。また、フルトヴェングラーがシカゴ交響楽団の指揮者就任を在米ユダヤ人に反対された時にワルターはそれに賛同しなかったが、その際に互いに交換された書簡ではワルターはフルトヴェングラーの戦時中の対応に対して、厳しい意見を述べている。

クレンペラー
クレンペラーとワルターは共にユダヤ系で、マーラーの弟子だがその演奏スタイルは大きく違った。あるインタビュー[1]ではクレンペラーが「ワルターはモラリストだ。だが、私は断じて違う」[2]と述べた後に、「モラリスト」では芸術作品の深さを伝えるような演奏は出来ないのだ、というニュアンスの発言をしてワルターを皮肉っている(ただし、ワルターの書簡集を見るとクレンペラーやその家族との間にも手紙が交わされていることが伺える)。

ベーム
ワルターが戦後初めてウィーンに降り立ったときの言葉は、「私の友人ベーム君は、今どうしているか」だったと伝えられている。ベームは、ワルターのことを「繊細敏感なユダヤ人で、どこか師のマーラーを偲ばせるところがあった」と語っている。また、ワルターはベーム夫人をミミ役に起用した。

著書
自 伝『主題と変奏-1946年-』(白水社) <原著:Thema und Variationen/ドイツ語>
著 作『音楽と演奏-1957年-』(白水社) <原著:Von der Musik und vom Musizieren/ドイツ語>
書簡集『ブルーノ・ワルターの手紙-1969年-』(白水社)<ロッテ・ワルター・リント編>
マーラー人と芸術(音楽之友社) (訳:村田武雄)<原著:Gustav Mahler, Austria/ドイツ語>

映像作品
DVD『THE ART OF CONDUCTING:GREAT CONDUCTORS OF THE PAST / アート・オブ・コンダクティング −今世紀の偉大な名指揮者たち−』(ワーナー・ミュージック)
DVD『ザ・マエストロ』(ジェネオン・エンタテインメント) - 1958年のカナダ・ヴァンクーバー祝祭管弦楽団とのブラームス『交響曲第2番』のリハーサル風景とインタビュー

脚注
[ヘルプ]
^ "The Art of Conducting"より。
^ ワルターは、しばしば「温和なヒューマニスト」「道徳者」というイメージで伝えられているが、実際はそうではない一面もあったという説があり、これを以ってワルターを偽善者とする見方も有る。これについては、前述のようにワルター自身が自分の中に「アポロとデュオニソスが両立している」と残していることにも留意する必要

++「続きを読むです2」++++++++++++++++++
9月15日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8815%E6%97%A5

できごと
1590年 - ウルバヌス7世がローマ教皇に選出される
(在位13日で死去。在位期間史上最短の教皇)。

1810年 - メキシコ独立革命始まる。

1821年 - コスタリカ、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドルが
それぞれスペインからの独立を宣言。

1830年 - イギリスで世界初の鉄道開通。開通式典で死亡事故。

1888年 - 東海道本線、大府駅〜浜松駅間開業。

1894年 - 日清両軍が平壌で衝突(日清戦争#平壌作戦)。

1932年 - 日満議定書調印。

1949年 - 国鉄でダイヤ改正。特急列車運行再開。

1950年 - 仁川上陸作戦(朝鮮戦争)

1958年 - 日本初の缶ビールを朝日麦酒(現在のアサヒビール)が発売。

1993年 - 横浜ロイヤルパークホテルニッコーが横浜市西区みなとみらいに開業。

2000年 - 第27回夏季オリンピック、シドニーオリンピック大会開催。10月1日まで。

2003年 - 阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝。

2005年 - ハイウェイカードが販売終了。

2006年 - 最高裁判所が特別抗告を棄却し、麻原彰晃(松本智津夫)の死刑が確定。

誕生日
1603年(慶長8年8月10日)-
徳川頼房、徳川家康11男、水戸徳川家始祖(+ 1661年)

1613年 - ラ・ロシュフコー、モラリスト文学者(+ 1680年)

1857年 - ウィリアム・H・タフト、第27代アメリカ合衆国大統領(+ 1930年)

1876年 - ブルーノ・ワルター、指揮者(+ 1962年)

1884年 - 前田房之助、政治家(+ 1965年)

1890年 - アガサ・クリスティ、推理作家(+ 1976年)

1894年 - ジャン・ルノワール、映画監督(+ 1979年)

1904年 - ウンベルト2世、イタリア最後の国王(+ 1983年)

1915年 - 鯨岡兵輔、政治家(+ 2003年)

1920年 - 田中徳三、映画監督(+ 2007年)

1925年 - 阿部保夫、クラシックギター奏者(+ 1999年)

1926年 - ジャン=ピエール・セール、数学者

1926年 - 今村昌平、映画監督、脚本家(+ 2006年)

1927年 - 小宮山重四郎、衆議院議員(+ 1994年)

1928年 - キャノンボール・アダレイ、音楽家(+ 1975年)

1929年 - 山本鉱太郎、作家

1929年 - ウイルバー・スナイダー、プロレスラー(+ 1991年)

1936年 - 小田部羊一、アニメーター

1938年 - 福島勝、日本中央競馬会調教師

1945年 - ジェシー・ノーマン、ソプラノ歌手

1946年 - トミー・リー・ジョーンズ、俳優

1946年 - オリバー・ストーン、映画監督

1948年 - 河田潤一、政治学者

1949年 - 藤野真紀子、料理研究家・政治家

1950年 - デイヴ・ヒルトン、元プロ野球選手
1951年 - 大石静、脚本家
1953年 - 竹下景子、女優、「クイズダービー(東京放送)」レギュラー解答者
1955年 - 金光興二、元プロ野球選手
1956年 - ジョン・パセラ、元プロ野球選手
1962年 - 松尾宗仁、ギタリスト(ZIGGY)
1965年 - 小宮山悟、プロ野球選手
1966年 - 酒井順子、エッセイスト
1966年 - 彦摩呂、タレント
1966年 - 深沢邦之、お笑いタレント(Take2)
1967年 - 武田真一、NHKアナウンサー
1967年 - 橋本志穂、タレント(元福岡放送アナウンサー)
1972年 - 深作健太、映画監督
1973年 - 藤谷美紀、女優
1973年 - 三井浩二、プロ野球選手
1974年 - ARATA、俳優、ファッションモデル
1974年 - 倉野信次、プロ野球選手
1977年 - 玉乃島新、大相撲力士・元関脇
1977年 - アンジェラ・アキ、歌手
1977年 - できやよい、イラストレーター
1978年 - KLUTCH、MC(ET-KING)
1979年 - 清川あさみ、アーティスト
1980年 - 蔡依林(ジョリン・ツァイ)、台湾の歌手
1982年 - エジミウソン・ドス・サントス・シルバ、プロサッカー選手
1984年 - ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッド・マウントバッテン=ウィンザー(ヘンリー王子)
1988年 - 栗山裕貴、サッカー選手
1990年 - 絢子女王、皇族

忌日
1604年(慶長9年8月22日)- 村上武吉、村上水軍の当主(* 1533年頃)

1713年(正徳3年7月26日)- 徳川吉通、第4代尾張藩主(* 1689年)

1738年(元文3年8月2日) - 上島鬼貫、俳諧師(* 1661年)

1830年 - ウィリアム・ハスキッソン、政治家(* 1770年)

1859年 - イザムバード・キングダム・ブルネル、エンジニア(* 1806年)

1924年 - ウィルヘルム・ルー、発生学者(* 1850年)

1926年 - ルドルフ・クリストフ・オイケン、哲学者(* 1846年)

1945年 - アントン・ヴェーベルン、作曲家(* 1883年)

1953年 - エーリヒ・メンデルゾーン、建築家(* 1887年)

1973年 - グスタフ6世アドルフ、スウェーデン国王(* 1882年)

1978年 - ウィリー・メッサーシュミット、航空機技術者(* 1898年)

1980年 - ビル・エヴァンス、ジャズピアニスト(* 1929年)

1987年 - 西村英一、政治家・衆議院議員(* 1897年)

1990年 - 土門拳、写真家(* 1909年)

1995年 - 渡辺美智雄、政治家・衆議院議員(* 1923年)

2007年 - コリン・マクレー、ラリードライバー(* 1968年)

記念日・年中行事
敬老の日
祝日法の改正で敬老の日が9月15日から
毎年9月の第3月曜日に変更されたことに伴い、
それまでの敬老の日を記念日として残すために制定された。
国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、
老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促す日。
1964年と1965年の2年はこの名称で国民の祝日となっていた。

スカウトの日
1991年に制定。全国のボーイスカウト、ガールスカウトなどが
奉仕活動を展開する日と定めた。