東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年9月28日(日曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年9月28日(日曜日)

堂々たる。
「9月」の「秋」になりました。
あっというまに。
「9月」も「28日」すぎさりました。
もう既に中秋を通り越し「深い秋」
であるのかもしれません。

最近は
朝くらい早朝には「星がみえます」。
「明けの明星」の金星が南東の空にみえます。

「明けの明星」の金星に「おはよう」を
毎日伝えます。
夏場の早朝のくらい時にはみえなかった。
季節が「あゆみ」。
大気が「澄んできた」ということでしょう。

秋霧雨(あききりさめ)の。
秋霞(あきかすみ)の大気。

こおろぎの「なきごえ」はいつしか。
「独唱」から「合唱」になりました。
朝暗いうちの「こおろぎ」の合唱は。
「秋」の「ふうりん」のごとし。
あれ沢山の「ふうりん」かなと思われる音色です。
とても「感動的」です。
「ススキの穂先」は
「そぞろに「深い秋」の旅愁」すら
をも感じさせます。
「ススキの穂先」は「ふくろう」が
何匹もとまっているようにみえます。

私も「日々を旅いく人間」です。

奥の細道の序文に松尾芭蕉が。

「月日は百代の過客(ひゃくたいのかかく)
にして行かふ年も又旅人也。」

「つきはひゃくたいのかかくにして
いきかふとしもまたたひひとなり」

とかたりました。

私は「日々を旅いく旅人(たびびと)」です。
「きょう」と「あす」しか私にはありません。

朝くらいとき。
日の出直後は。
いつも一瞬は晴れています。
まだかすかにも。
のこる「はつ秋」の気配
もあるけれども。

けれども
あきらかにそしてしっかりと
しのびよる深まる秋の大気。

「ふかまる秋」の気配が「確かに」。
そして明らかに。
感じられるようになりました。

「9月」も「4週間」がおわりました。
今年2008年も。
「四分の三」がおわりました。

はやいものです。
速いものです。
早いものです。

街路樹もそうそうたる
羽振りの木々から
「ふかまりゆく秋の樹木」にうつろうように
変化しています。

「秋」にも「樹木の若葉の芽生え」があることに
気がつきました。

春の芽吹くときには。
街路樹のポプラも
幹や枝葉の穂先がろうそくの
明かりのように「炎様」になっていました。
あたかも
ゴッホの絵画の「夜の糸杉」のように。
春の早朝はみえました。

夏になり。
この「穂先」が一気に「ポプラの葉」へと
扇・おおぎのごとく開きました。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「夜の糸杉」から。
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画の「ひまわり」
のように。
一斉に開きました。
8月にはいってからのことです。

今現在は落ち着いた「秋」の葉木。
「秋」の木々の「葉」
へと。
「みのりの秋」にむけて。
うつろいています。

ポピラもつばきもくすのきも。
「秋」にも「若葉」が。
ハンカチをふるように
「秋のわかば」がみえます。

木々の「葉」が「枝や幹」を
「保護する役割をしている」
ことに気づきました。

4月の桜の花の時期とうってかわり
桜の木の公園
の桜の木々が。
夏になりとても獰猛な気配を放つ。
初めて気がついた・。

けれども今は「秋」。

秋の濃い緑の葉になり。
やさしさとおだやかさ
が感じられる。

そしていつしか
黄色い葉もまじるようになった。
しだいにしだいに。
黄色調の葉がふえているのに
きがつきます。

春は別として。
桜の木は木の下で。
夏は心安らかに。
「休める木ではないなあ」
と思います。

秋になり
桜の樹木も安堵の葉色
になりました。
ちょっとばかりびっくり致しました。

枝や幹からは秋の陽の木漏れ日がみえます。

夏桜の木は獰猛なほど葉をおいしげらせ
ていました。
夏には
桜の木の下で木陰で。心安らかにやすもうという
気はおきません。
いまは秋になりました。
そよかぜに揺れる葉は
誘われる気が致します。

やはり夏桜の木は
シューベルトの歌曲の旋律にある「菩提樹」
ではないのです。
秋になり人生になれるが如く桜樹木はかわりました。
良い木になってきました。
素敵(すてき)です。

木々でも。
いちょうや。松や。杉などの針葉樹
は。またソテツなどは。
「古い時代の木」です。

「チャールズ・ダーウィンの進化論」からは
針葉樹から常緑樹に「進化」しているはずです。

「原始的」な樹木ほど。
「硬い幹」です。
例外はありません。

硬ければ
幹は硬ければ動物に
「かじられる」ことはないでしょう。
いにしえの古代の時代にも
恐竜をはじめめとする
「大型」の草食動物にも。
かたければかじられることは
なかったでしょう。

街並みを彩る街路樹には「落葉植物」が多いです。

ふと。考える。

街路樹が「松や杉」のよう
「冬も葉を持つ常緑樹」では。

冬はうっそうとして道端では
暖かな陽射しをかくしてしまう。

夏場は枝ぶり葉っぱぶりからつよすぎる日の光は
さえぎれません。
そして
「秋」の「夕暮れ陽」の
「金色のちいさき鳥の形して」の
陽射しにもにあいません。
常緑樹の針葉樹では。
は四季のリズムをつたえる

北大路魯山人のいう

「ざっくり感(ざっくりかん)」

のリズムヤハーモニー或は旋律が
ありません。

木々の夏の萌黄が早朝暗い中でも
うかびあがります。
私はくすのきが「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
モミジもすきです。
カエデもすきです。
松や杉もすきです。
月桂樹やシナモンもすきです。
オリーブもすきです。
木や植物がすきです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな初秋の萌黄色です。
まるで大きな竹山の竹のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえが非常に鮮か
です。
木々は「夏樹」の役目をおわりました。
「秋木」とかわろうとしています。

街角の雑草も花は咲き終わり。
盛夏の姿となりそして秋を迎える。
「ほとけの座」や「はこべ」が
「かたばみ」や「いたどり」が
ますます姿を大きくして。
そして「すすき」もくわわり。

夏草から秋草へのたたずまいをしています。
そしてもう秋草へと黄金色に転した
街角の雑草もあります。

雑草も。
同じく花をさかせ自ら種をとばし
夏葉がみえる。
そして秋を迎える。
冬が来て。木枯らしに吹かれ。
雪をかむり。そして。
春がくる。

ツツジは潅木。
ツツジの花の葉の優しさには
あらためてびっくりしました。
黄緑・草色のビロードです。

のぞきこむと若葉はまだ沢山ある。
何故か得をしたように思えました。

そして雨にうたれてそのまま地に落ちた
ツツジの若葉は幾何学的に裏側を下にむけて
逆さじょうごのように
落下していることに気がつきました。
まるで
「若草色」のキノコが沢山はえているようです。

木から落ちても。
まだ「若葉」です。ふと。
ヴェルディの「椿姫」「La Traviata」
の「つばき」を思い出しました。

1852年パリに滞在したヴェルディは
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)
の戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し
ました。
そのころ新作の作曲依頼を受けていた
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために。
翌1853年初めに比較的短時間で作曲された
『椿姫 』(La Dame aux camelias、1848年出版)
は。
アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が
実際の体験を基にして書いた長編小説。
主人公のモデルはかつて作者が交際をしていた
マリー・デュプレシという高級娼婦。
恋人アルマンのイニシャルである
『AD』は
小デュマのイニシャルと同じです。

この作品は人々に愛されて幾度も舞台、映画化され
続けてきました。

朝暗いうちは。
もう。
はださむいような気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。
とおくからもみえます。

「蓮(ハス)」があります。
ハスの花がさき。
「はすの花」も「はす」の葉も。
2mくらい水面から高いところに
あります。

睡蓮(すいれん)があります。
睡蓮(すいれん)は「葉」が水に浮び。
はのきれこみは羊の足のようです。
睡蓮(すいれん)を「ひつじぐさ」とは
なるほどと考える。
睡蓮(すいれん)の茎の長さには
おどろきます。
「姫睡蓮(ひめすいれん)」でも
池はばが長ければ四方八方に「水の中の枝」。
「モネ」の睡蓮(すいれん)の
「水の中の枝」は「どれほど長いのだろう」。
睡蓮(すいれん)も「太古の時代」に
陸の動物に「かじられないように」
水中に「逃げ込んだ」のでしょう。

ふと「パンの神」を思い出しました。
(「牧神パン(Pan)」=「Pan」=「パン」=
「飯(はん)」=「全般の般」=「パンナメリカンのパン」=
「すべて」。

日曜の
朝晴れて
はじめて気づく
にわの小ささ

にちようの
あさはれて
はじめてきづく
にわのちいささ

休診日ですが。
早朝に朝まだ暗いうちから
首都高を走って病院に到着致します。

空はきらきらのラピス・ラズリの
紺碧のジュースから
ミルク色のはいった
トルコ石の「プリン」に変わるように変化
していきます。

遠くにぽかぽか浮ぶ「雲々」は
トルコ石の「プリン」の上の「クリーム」の
ようです。
にわのあじさいは「アイスクリーム」
のようです。

秋きらきらラピス・ラズリの空(そら)
秋紺碧のカクテルいろの空(そら)
秋ミルクをそそそいだ空(そら)
秋トルコいしのプリンの空(そら)
秋はるかにとほくたかい空(そら)
秋ほかほか浮ぶ雲々(くもぐも)そら
秋プリンの上のクリームのような空(そら)
秋睡蓮(すいれん)の水面に空(そら)
秋睡蓮(すいれん)のうえに空(そら)
秋空(そら)の向こうにまた空(そら)
秋そのまたむこうにももっと空(そら)

春のうららのこもれびに
緑木いらかをかぜはやみ
青風ひるむやうつろひの
四季のつきひははやいくとせ

夏のうららのこもれびに
緑木いらかのつねなりて
赤き空(そら)にて炎えたたむ
四季のつきひははやいくとせ

秋のうららのこもれびに
緑木いらかにかぜさやか
秋風かたれるやすらきの
四季のつきひははやいくとせ

椎木(しいのき)の枝高し
そらに吼える若葉が穂束
蒼き獅子のごとし
木にも地にもみどりがさける
秋のあさ
陽の光ゆたかなりけり
いふことのなし
いふことがなし
いふことはなし
いふこともなし
ゆたかなるかな秋

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

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平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。
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7月21日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

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9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

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10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

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★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は。

ローマにおける画家たちから
当時のその画風を革新的として受け止められ。
とりわけ若い画家たちから強く慕われた画家。

唯一の自然主義的な写実主義者として称賛され。
彼の作品は奇跡とみなされた画家
(西洋の基準の中でジョットやマサッチョを除いては。)
絵画の世界で生きた世代を超えて影響力を与えた画家。

1573年 -
ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)、画家(+ 1610年)
の生誕日です。
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ミケランジェロ・メリージ
(Michelangelo Merisi、1571年9月28日
- 1610年7月18日)は。

カラヴァッジオ(Caravaggio)という通称の方が有名な、
イタリア・ミラノ生まれの画家です。

日本ではカラヴァッジオ、
カラヴァッジョなど様々な表記をされています。

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ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)の生涯

カラヴァッジオの自然主義的芸術観は。

彼の生誕地であり芸術形成を行った。
北イタリアのロンバルディア地方の
重要な絵画環境からきています。
とてもよく「北イタリア」をあらわしています。

彼の一家はミラノ近郊の
カラヴァッジオという村の住人でした。

彼自身も幼少から青年期を
そこで過ごしたためこの通称となりました。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)の
父親は早くに亡くなりました。
石造建築の親方であったようです。
暮らしにはあるていどのゆとりがあったようです。

少年期にミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)
は後期マニエリスム様式の画家の工房に師事致します。

20歳頃までこの村の工房で暮らしていました。


彼の絵の修行は生地ロンバルディアでなされていたのです。
だからこそ彼は。
ロンバルディア地方特有の芸術表現といえる
リアルな細密描写を会得していたことになります。

もっとも
ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)
はその限界をはるかに超えて
劇的に絵画の画風を
発展させていくことになります。

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ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)。

聖マタイの召命 1599年−1600年 
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(ローマ)
果物籠 1596年−1597年 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)
その後、カラヴァッジオはローマに移り
画業を始めました。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)の。
彼の描いた革新的な宗教画は
教会において物議をかもしました。

裕福な人々は彼の作品の劇的な構成力を評価し
独創性を認めました。
艶のある画風が特徴的でした。

カラヴァッジオは『聖母の死』、『聖マタイの殉教』など
数多くの宗教画を描いたことで知られています。

その特徴は画面の明暗の差が激しい宗教画としては
極めてドラマチックな作風にあります。

また人物モデルに当時のローマの市井の人々を起用し、
目に見えるものを見たまま画布に細密に描くという
徹底したリアリズム表現を行いました。

彼はデッサンや習作を描くということを
ほとんどしなかったとみられます。
なぜならデッサンや習作が現存していません。 

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)は。

また制作にあたって。
彼は意図する構図通りにモデルを配置し。
現在の写真や映画撮影のように
レフ板のような物で強烈な光を当てて、
描いていたと推測されます。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)
の「エピソード」

カラヴァッシオは数多くの
逸話を残しています。
例えば『聖母の死』では、注文主の教会が「聖母マリアのお眠り」
というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず。
カラヴァッジオは「単なる横たわる女のなきがら」
として生々しく描いています。

「生々しく描く」からには「モデル」が
いたわけです。
そのため事実を知った教会は
祭壇を飾る絵としてふさわしくないという理由で
受け取りを拒否致しました。

しかしながら
画面に描かれたマリアの周りの人々の繊細な表情や
もう1つの主役の「強烈な光と陰」は。

「大切な人を失った人間の悲しみ」
を劇的なまでに強調しています。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)は。

画家としての評価が高まる一方、
残念ながら非難されるべき犯罪を引き起こしています。

カラヴァッシオは激情型の性格の持ち主でした。
アトリエを離れれば腰に剣を提げ、
酒場でしばしば騒動を引き起こしました。

喧嘩は日常茶飯事で
逮捕されたことも1度や2度ではありませんでした。

挙げ句の果てに1606年にはとうとう些細なトラブルから
知人を刺し殺してしまい、ローマを追放される身となりました。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)

当時スペインの飛地であったナポリへ移るが名声は衰えません。
増え続ける製作依頼に追われていました。

しかしその数カ月後には
さしたる理由もなくマルタ島へ放浪致しました。

マルタ島で幾つかの油彩を制作するが、
ここでも暴力沙汰を起こして投獄されました。

脱獄に成功したカラヴァッジオはシチリアへ逃れ
聖堂から複数の制作依頼を受けています。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)は。

ローマへ戻る許しを求め続けていたカラヴァッジオのもとへは、
ローマ教皇の特赦状を携えた使者が向かっていたのですが。
時すでに遅く。
彼はこれを受け取る前に腸チフスかマラリアに倒れました。

そして2度とローマの地を踏むことなく
1610年、劇的な生涯の幕を閉じました。

++++++++++++++++++++++

1986年にはイギリスの映画監督
デレク・ジャーマンがカラヴァッジオの生涯や
創作スタイルを描いた映画 『カラヴァッジオ』を制作。

ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したこともあり
今現在にいたり。
カラヴァッジオの絵画を多くの人が知るきっかけとなりました。

++++++++++++++++++++++

カラヴァジェスティ
「当時、ローマにおける画家たちは
これを革新的なのこととして受け止め
とりわけ若画家たちは彼を慕い
ました。

彼を唯一の自然主義的な写実主義者として称賛致しました。
彼の作品を奇跡とみなしていました。

彼らはモデルの衣類を脱がせて明かりを持ち上げながら
カラヴァッジョの作品を揃って模写するのに懸命でした。

たとえば。
ジョヴァンニ・ピエトロ・ベローリ(1672年)
同世代や続く世代の画家たちに、
カラヴァッジオがもたらした革新が与えた
影響を無視することはできません。

彼の忠実な写実主義、モデルの選択、明暗表現、
彼独自の静物画の豊かな通路をしめした
“闇の様式”、彼の色彩に対する眼などは。

カラヴァッジオ作品の特徴です

++++++++++++++++++++++

カラヴァッジオの躍進的な様式を模倣した画家に。

オラーツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)や
彼の娘であるアルテミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)
などが挙げられています。

++++++++++++++++++++++

因みに。
このアルテミジアも1997年にフランスの
女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』
で映画の主人公に取り上げられています。

この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、
女性監督アニエス・メルレ自身が
監督・脚本・台詞を担当致しました。

同年ゴールデン・グローブで外国映画賞を受賞致しました。

++++++++++++++++++++++

“ユトレヒト カラヴァジェスキ”と呼ばれた、
ユトレヒト出身のカトリック教会芸術団体がありました。

このカトリック団体は。
17世紀の最初の年にローマへ旅行をした際
カラヴァッジオの作品に深く影響を受けていた
とベローリは描写しています。

彼らが北へ帰った後の流行は長く続きませんでした。

けれどもミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)は。
後に1620年代ヘンドリック・テル・ブルッヘン(Hendrick ter Brugghen)や
ファン・バブーレン(Drick Van Bahuren)の
間に強烈に影響を与えて
いました。

++++++++++++++++++++++

ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)が。
続く世代の画家達にカラヴァッジオの強い影響が極めて大きい
ものがありました。

イタリアに一時滞在した際に彼の作品を見たと思われる
ルーベンス、フェルメール、レンブラントそしてベラスケス(Valazquez)へ
与えた影響においてたどることができます。

現代画家のノルウェー人の
オッド・ネルドル(Odd Nerdrum)は
カラヴァッジオの作品を模倣し現代風にしようと試みています。

++++++++++++++++++++++

おそらく西洋の基準の中でジョットやマサッチョを除いては。

絵画の世界で生きた世代を超えて影響力を与えた者は
ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)
以外にはいないのではないでしょうか。

音楽の世界とは異なる「絵画の世界」での現象です。

++++++++++++++++++++++

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ミケランジェロ・メリージ
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ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、カラヴァッジオ(Caravaggio)という通称の方が有名な、イタリア・ミラノ生まれの画家。

日本ではカラヴァッジオ、カラヴァッジョなど様々な表記をされているが、本項では以降「カラヴァッジオ」と表記する。

目次
1 生涯
2 カラヴァジェスティ
3 最後のリラ紙幣に
4 代表作
5 日本語における主要文献

生涯
カラヴァッジオの自然主義的芸術観は、もちろん部分的ではあるが、彼の生誕地であり芸術形成を行った北イタリアのロンバルディア地方の重要な絵画環境からきている。彼の一家はミラノ近郊のカラヴァッジオという村の住人で、彼自身も幼少から青年期をそこで過ごしたためこの通称となった。父親は早くに亡くなったが、石造建築の親方であったらしく、暮らしにはあるていどのゆとりがあったようだ。少年期に彼は、後期マニエリスム様式の画家の工房に師事し、20歳頃までこの村の工房で暮らしていた。したがって彼の絵の修行はロンバルディアでなされていたのであって、だからこそ彼はロンバルディア地方特有の芸術表現といえるリアルな細密描写を会得していたのである。もっとも、彼はその限界をはるかに超えて劇的に発展させていくことになる。

聖マタイの召命 1599年−1600年 サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(ローマ)
果物籠 1596年−1597年 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)その後、カラヴァッジオはローマに移り、画業を始める。彼の描いた革新的な宗教画は教会において物議をかもしたが、裕福な人々は彼の作品の劇的な構成力を評価し、独創性を認めた。艶のある画風が時には同性愛者に彼の作品を求めさせることもあった。

カラヴァッジオは『聖母の死』、『聖マタイの殉教』など数多くの宗教画を描いたことで知られている。その特徴は画面の明暗の差が激しい宗教画としては極めてドラマチックな作風にある。また人物モデルに当時のローマの市井の人々を起用し、目に見えるものを見たまま画布に細密に描くという徹底したリアリズム表現を行った。彼はデッサンや習作を描くということをほとんどしなかったとみられ、現存していない。 また制作にあたって彼は意図する構図通りにモデルを配置し、現在の写真や映画撮影のようにレフ板のような物で強烈な光を当てて、描いていたと推測される。

カラヴァッシオは数多くの逸話を残している。 例えば『聖母の死』では、注文主の教会が「聖母マリアのお眠り」というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず、カラヴァッジオは単なる横たわる女の骸として生々しく描いている。一説によると、自ら身を投げた女の死体をモデルに克明に描いたと言われている。そのため、事実を知った教会は祭壇を飾る絵としてふさわしくないという理由で受け取りを拒否する。しかし、画面に描かれたマリアの周りの人々の繊細な表情やもう1つの主役の強烈な光と陰は、大切な人を失った人間の悲しみを劇的なまでに強調している。

画家としての評価が高まる一方、残念ながら非難されるべき犯罪を引き起こしている。カラヴァッシオは激情型の性格の持ち主で、アトリエを離れれば腰に剣を提げ、酒場でしばしば騒動を引き起こした。喧嘩は日常茶飯事で、逮捕されたことも1度や2度ではなかった。挙げ句の果てに1606年にはとうとう些細なトラブルから知人を刺し殺してしまい、ローマを追放される身となった。 

当時スペインの飛地であったナポリへ移るが名声は衰えず、増え続ける製作依頼に追われていた。しかしその数カ月後には、さしたる理由もなくマルタ島へ放浪。マルタ島で幾つかの油彩を制作するが、ここでも暴力沙汰を起こして投獄される。脱獄に成功したカラヴァッジオはシチリアへ逃れ、聖堂から複数の制作依頼を受けている。

ローマへ戻る許しを求め続けていたカラヴァッジオのもとへは、ローマ教皇の特赦状を携えた使者が向かっていたが、彼はこれを受け取る前に腸チフスかマラリアに倒れた。そして2度とローマの地を踏むことなく、1610年、劇的な生涯の幕を閉じた。

1986年にはイギリスの映画監督 デレク・ジャーマンが、カラヴァッジオの生涯や創作スタイルを描いた映画 『カラヴァッジオ』を制作。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジオの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。

カラヴァジェスティ
「当時、ローマにおける画家たちはこれを革新的なのこととして受け止め、とりわけ若画家たちは彼を慕い、彼を唯一の自然主義的な写実主義者として称賛し、彼の作品を奇跡とみなしていた。彼らはモデルの衣類を脱がせ、明かりを持ち上げながら、カラヴァッジョの作品を揃って模写するのに懸命であった。」−ジョヴァンニ・ピエトロ・ベローリ(1672年)
同世代や続く世代の画家たちに、カラヴァッジオがもたらした革新が与えた影響を無視することはできないだろう。彼の忠実な写実主義、モデルの選択、明暗表現、彼独自の静物画の豊かな通路をしめした“闇の様式”、彼の色彩に対する眼などは、カラヴァッジオ作品の特徴である。

カラヴァッジオの躍進的な様式を模倣した画家に、オラーツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)や彼の娘であるアルテミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)などが挙げられている。なお、このアルテミジアも1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデン・グローブで外国映画賞を受賞した。

“ユトレヒト カラヴァジェスキ”と呼ばれた、ユトレヒト出身のカトリック教会芸術団体は、17世紀の最初の年にローマへ旅行をした際、カラヴァッジオの作品に深く影響を受けていた、とベローリは描写している。彼らが北へ帰った後の流行は長く続かなかったが、後に1620年代ヘンドリック・テル・ブルッヘン(Hendrick ter Brugghen)やファン・バブーレン(Drick Van Bahuren)の間で強烈に影響を与えていた。

続く世代においてカラヴァッジオの強い影響が少なくなかったことは、イタリアに一時滞在した際に彼の作品を見たと思われるルーベンス、フェルメール、レンブラントそしてベラスケス(Valazquez)へ与えた影響においてたどることができる。

現代画家のノルウェー人のオッド・ネルドル(Odd Nerdrum)はカラヴァッジオの作品を模倣し、現代風にしようと試みている。おそらく西洋の基準の中でジョットやマサッチョを除いては、生きた世代を超えて影響力を与えた者は彼以外にはいないであろう。

最後のリラ紙幣に
カラバッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとは!」と一部から批判の声があがった。しかし、画家として業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。

代表作
果物籠(1596年−1597年)(ミラノ、アンブロジアーナ絵画館)
メドゥーサ(1597年頃)(ウフィツィ美術館)
聖マタイの召命 1599年−1600年 (ローマ、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂)
聖母の死 1603年−1606年 (ルーブル美術館)
愛の勝利1601年−1603年頃(ベルリン国立美術館)
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日本語における主要文献
カラヴァッジョ—聖性とヴィジョン(宮下規久朗・名古屋大学出版会・2004年)

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9月28日
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できごと
1066年 - ウィリアム1世がイングランドに侵入。

1629年 - 水戸藩中屋敷(現在の小石川後楽園)が完成。

1779年 - サミュエル・ハンチントンが大陸会議大統領に選ばれる。

1781年 - アメリカ独立戦争でアメリカ・フランス軍がヨークタウンを包囲、
ヨークタウンの戦い始まる。

1820年 - アメリカ・マサチューセッツ州セイラムで
ロバート・ジョンソンがトマトを食べトマトが安全である事を証明。

1823年 - レオ12世がローマ教皇に即位。

1867年 - トロントがカナダ・オンタリオ州の州都になる。

1868年 - スペイン・コルドバ近郊でアルコレアの戦い。

1871年 - ブラジルで奴隷の子供の解放を目的とした『新生児自由法』が制定。

1902年 - 足尾台風により小田原大海嘯が発生。

1908年 - ニザーム藩王国統治下のハイデラバードでムシ川が大氾濫。

1926年 - 京浜線に自動ドアの電車が初めて登場。

1939年 - ナチス・ドイツとソビエト連邦が『独ソ境界ならびに友好条約』を締結、
両国のポーランドにおける勢力圏が画定する。

1939年 - ドイツ軍、ワルシャワを占領。

1950年 - インドネシアが国際連合に加盟。

1958年 - フランス第五共和政の新憲法が国民投票で承認。

1958年 - ギニアのフランス共同体への加盟が国民投票で否決され、独立が決まる。

1960年 - セネガルとマリが国際連合に加盟。

1961年 - シリアがアラブ連合共和国から離脱。

1964年 - 三島由紀夫の小説「宴のあと」がプライバシーを侵害したとして
有田八郎元外相が作者と発行元の新潮社を訴えていた「宴のあと」事件で、
東京地方裁判所が原告勝訴の判決を下す。

1966年 - 前年1月に国際連合を脱退していたインドネシアが再加盟。

1977年 - ダッカ日航機ハイジャック事件。

1979年 - NECがパソコン「PC-8001」を発売する。

1984年 - 山下泰裕が国民栄誉賞を受賞。

1985年 - 「8時だョ!全員集合」が放送終了。

1986年 - 「オールスター家族対抗歌合戦」が放送終了。

1989年 - 「ザ・ベストテン」が放送終了。

1994年 - フェリー『エストニア号』がバルト海で沈没事故、852名の死亡者を出す。

1998年 - 熊川好生前浦安市市長が辞任(任期は連続8期・29年)。

1998年 - コナミの音楽ゲーム、pop'n musicシリーズの第1作目が稼動開始。

2006年 - タイに、アジア最大規模となるスワンナプーム国際空港が開港。

誕生
紀元前551年 - 孔子、儒家思想家(+ 紀元前479年)

1573年 - ミケランジェロ・メリージ(カラヴァッジオ)、画家(+ 1610年)

1803年 - プロスペル・メリメ、作家(+ 1870年)

1846年(弘化3年8月8日) - 蜂須賀茂韶、徳島藩主、政治家(+1918年)

1852年 - ジョサイア・コンドル、鹿鳴館などを手がけたお雇い外国人の建築家(+1920年)

1867年(慶応3年9月1日)- 長野宇平治、建築家(+1937年)

1887年 - アベリー・ブランデージ、IOC第5代会長(+1975年)

1908年 - 藤田良雄、天文学者

1913年 - イーディス・パージター(エリス・ピーターズ)、作家(+1995年)

1920年 - 柚木進、元プロ野球選手(+ 1997年)

1923年 - 島田ばく、児童文学者・詩人(+ 2004年)

1924年 - マルチェロ・マストロヤンニ、俳優(+ 1996年)

1925年 - シーモア・クレイ、スーパーコンピュータ設計者(+1996年)

1933年 - 湯浅憲明、映画監督(+2004年)

1934年 - ブリジット・バルドー、女優

1938年 - ベン・E・キング、歌手

1938年 - 中村稔、元プロ野球選手

1944年 - 東隆明、俳優

1947年 - 鈴木啓示、元プロ野球選手・野球解説者

1947年 - 千藤三樹男、元プロ野球選手

1948年 - 大塚範一、フリーアナウンサー・キャスター
1948年 - 所雅樹、俳優
1950年 - 周富輝、料理人
1950年 - 内藤やす子、歌手
1952年 - 喜多秀喜、元マラソン選手
1958年 - 和泉宏隆、ピアニスト
1959年 - 小西博之、俳優
1959年 - 徳井優、俳優
1963年 - 秋原正俊、映画監督
1965年 - 西田二郎、読売テレビディレクター
1965年 - ジンジャー・フィッシュ、ドラマー(マリリン・マンソン)
1967年 - 大嶽親方、元関脇貴闘力
1967年 - 藤木千穂、文化放送アナウンサー   
1968年 - 藪恵壹、プロ野球選手
1968年 - ミカ・ハッキネン、レーシング・ドライバー
1968年 - フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ、格闘家
1968年 - 邪道、プロレスラー
1968年 - 内田浩一、騎手
1969年 - 仙道敦子、女優
1969年 - 渡辺美奈代、タレント
1970年 - 岸祐二、俳優
1970年 - 伊達公子、テニス選手
1970年 - フィラット・アルスラン、ドイツのプロボクサー
1970年 - 中山英子、スケルトン選手
1971年 - 矢島学、日本テレビアナウンサー
1975年 - レニー・クレーゼルバーグ、競泳選手
1976年 - エメリヤーエンコ・ヒョードル、総合格闘家
1977年 - 朴セリ、ゴルファー
1977年 - 葛城育郎、プロ野球選手
1978年 - 回陽健太(スムルース)、ミュージシャン
1980年 - 石川龍(ランクヘッド)、ミュージシャン   
1981年 - 久保田直子、テレビ朝日アナウンサー   
1982年 - 吹石一恵、女優
1982年 - 神楽坂恵、グラビアアイドル
1982年 - 南川聡史(ピーマンズスタンダード)、お笑いタレント
1982年 - アレクサンデル・アニュコフ、サッカー選手
1986年 - 酒井瑛里、美少女クラブ31
1986年 - 井野亜季子、バレーボール選手
1986年 - 福井仁美、タレント
1987年 - ヒラリー・ダフ、アメリカの歌手、女優
1988年 - ホラン千秋、女優、タレント
1988年 - 橋本良平、プロ野球選手
1988年 - 原田真利、女子プロレスラー
生年不明 - 的良みらん、漫画家
生年不明(とされている) - 宝野アリカ、歌手(ALI PROJECT)

忌日
1891年 - ハーマン・メルヴィル、小説家(* 1819年)

1895年 - ルイ・パストゥール、細菌学者(* 1822年)

1915年 - 斎藤一、新選組(* 1844年)

1943年 - リチャード・オースティン・フリーマン、医者・推理作家(* 1862年)

1966年 - アンドレ・ブルトン、詩人(* 1896年)

1970年 - ガマル・アブデル・ナセル、第二代エジプト大統領(* 1918年)

1978年 - ヨハネ・パウロ1世、ローマ教皇(* 1912年)

1985年 - アンドレ・ケルテス、写真家(* 1894年)

1988年 - 美濃政市、政治家(* 1912年)

1989年 - フェルディナンド・マルコス、フィリピン大統領(* 1917年)

1991年 - マイルス・デイヴィス、ジャズトランペッター(* 1926年)

1998年 - 秋山武史、俳優(* 1953年)

記念日・年中行事
パソコン記念日(日本)
1979年9月28日にNECがパソコンブームの火付け役となった
「PC-8001」を発売したことに由来。

プライバシー・デー(日本)
「宴のあと」事件で、日本で初めてプライバシーの権利を認めた判決が
1964年9月28日に下されたことに由来。