東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年10月15日(水曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年10月15日(水曜日)

「10月」も半分。「15日」たちました。
中秋です。

「金木犀:きんもくせい」がいよいよ
花を咲かせました。
日々ますます花をさかせています。
「実りの花」。

「金木犀:きんもくせい」は不思議な木です。

「金木犀:きんもくせい」の真下では何も
「金木犀:きんもくせい」の花の香(はなのか)
はしません。
遠く離れると「香ります」。

「花」はみえませんが。
「金木犀:きんもくせい」の香り
がとくとくと遠く永遠に「ただよっています」。
たいしたものです。

「椿」のように花が落ちて。
「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*がありません。

「落花生」のような「木」です。

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C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。
ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの保続効果の指示が見られる場合は
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
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旧暦では「11月」から「冬」です。
だから今現在は。
今現在深まり行く「秋」です。

今朝早朝の真っ暗な時間に
「吐息」が「白く」みえました。
急速に「さむくなってきました」。

今朝早朝は
暗いうち晴れて。
霧雨の合間に。
久方ぶりに星をみました。
そして西の空高くひさしぶりに「月」の
かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気のすんんでいるからでしょう。
「天高く」とはなるほどと考えます。

こうろぎの合唱も。
なかなかすてきです。
ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。

「9月」も深まるにつれ。
そして「10月」になり
「こおろぎ」の鳴き声は「一段と大きく」
なりました。
夏のせみの声より「暗い早朝の一瞬」は
大きいです。

かならずや。
「極めて大きな声でないている」こおろぎが
「1-2匹」はいるのが不思議です。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「10月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「しずかな秋」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はまだあつい陽射しを感じることも
あります。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
七月もうおわりました。
「8月」もおわりました。
夏はおわりました。

そして
「あきの「秋」「9月」がおわりました。
今は中秋の「10月」です。

そして。
「今年も半分+3ヶ月」おわりました。

9月の初秋の気配が
あっというまに。
秋の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように変化して。
次第に「初秋」の気配が消えていく。
そして「10月」。
ふかまりゆく「中秋の登場」は。
威風堂々と。
感じられるような気がします。

そしてさらに。

初秋そしてさらに。

「もっと深い秋」のピアニッシモppで。
しのびよる気配が
かんじられます。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の
空にはそらいろとピンクのレースのような
あやにしきの「あきいろ」が感じられます。

陽射し(ひさし)やさしき秋。
空にも地にも天高くはれ。
秋の大気のひそみかくれ。
そらにみちてあふれれば。
吐息(ためいき)となり。
吐息が霧雨か霞になり。
おりてくるような感じです。
「秋はふかまりゆく」気配
になりました。

「9月おわりました。」
そして「10月」「深まる秋」になりました。

秋の木々のめぶきは
初秋の息吹から中秋の息吹への
変化(へんげ)を力強く感じます。

早朝は「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。

百姓のうまれなので「冷秋」が心配です。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
初秋の萌黄色から中秋の若葉そして
中秋のあおい「木」にかわりました。
そしてあきのあおい「木」は。
「実りの秋」のおとづれを。
そしてさらなる「秋の深まり」を
むかえようとしてています。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
中秋にも若葉はそだち。
初秋若葉は中秋の若枝となり。
中秋若枝は天高くすこやかにのび。
秋のふかまりにますますすこやかに。
秋山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
秋空に燃えるが如くの炎葉です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

秋深まりたり
秋空たかく
秋あやにしき
秋みどり木
秋さんしょう木
秋陽をあびてかがやけり
秋いざいまこそは
秋金色(かがね)にかわり
秋赤き秋空に燃えたたむ

秋さんしょう木
秋もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
秋わかば葉はいずるは花ならむ
秋(あき)こす枝は幹ならむ
秋いざいまこそは
秋空(そら)たかくもえたたむ
秋金色(こがねいろ)なる
秋さんしょう木
秋(あき)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

秋ふかく草を浮かべる水面(おも)に
秋めだかのむれはひそみたり
秋むれておよげるひめだかの
秋みずのなかなるちいさないのち
秋みずのなかなるおおきないのち
秋みのりてあまたにとほときいのちこそ
秋いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなあきみつけたから
しだいに大きなあきみつけた
大きなあきみつけたから
大きな大きな秋みつけたは

ちょっと「こころしずまる気」がします
「中秋」です

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
は終わりました。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
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7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
=>
は終わりました。

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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
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9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました

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10月13日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

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学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

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「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。
戦後のバッハ解釈の権威である大音楽家。

1926年 - カール・リヒター、指揮者(+ 1981年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

カール・リヒター(Karl Richter, 1926年10月15日
- 1981年2月15日)は。
ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者です。

戦後のバッハ解釈の権威です。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」の略歴
1926年10月15日 -
ドイツ・ザクセン州のプラウエンに牧師の子として生まれました。

1937年 -
11歳のときドレスデン聖十字架教会付属学校に入り
同聖歌隊のメンバーになりました。

ここで「カール・リヒター:Karl Richter」は
最初の音楽教育を受けました。
そしてバッハやシュッツの合唱曲に親しむことになります。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は。
1946年 - 戦後ドレスデンからライプチヒに移りました。

ライプチヒ音楽大学に入学、聖トーマス教会のカントルであった
カール・シュトラウベとギュンター・ラミンについて学びました。
(二人は戦前のバッハ演奏の大家として知られています)。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は。

1949年 - 教会音楽の国家試験に合格して
聖トーマス教会のオルガニストに就任致しました。

1950年 -
ライプチヒ・バッハ・コンクールのオルガン部門で、
首席をアマデウス・ウェーバージンケと分け合いました。

1951年 - 聖マルコ教会(ドイツ)のオルガニストに就任致しました。
これに伴いミュンヘンに移住。

バッハ・コンクールの成績が契機となって
ミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の
講師に迎えられました。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は。
リヒターは当初東ドイツで活動し、
伝統の後継者と目されていました。

けれども社会主義統一党の支配に対して自由な活動の場を求め、
次第に西ドイツのミュンヘンで活動するようになりました。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は
戦後設立されたハインリヒ・シュッツ合唱団の指揮を任されました。

主にバッハのカンタータを演奏する目的で訓練、
これをミュンヘン・バッハ合唱団と改称致しました。

1953年 - ソリストを募集し、
ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立致しました。

以降リヒターの根強い音楽活動により、
ミュンヘンは徐々にバッハ演奏の中心地としての
外観を呈するようになりました。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は。
1954年 -
シュッツのMusikalische Exequien(「音楽による葬送」)を録音。

英グラモフォン誌でライオネル・サルターに賞賛されました。
これがリヒターのディスコグラフィー中の最初の成功となりました。

1956年 - ラミンの没後、
トーマス教会からのカントル就任要請を断り、
完全に西ドイツに活動の本拠を移します。

ミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任致しました。
ミュンヘン・バッハ管弦楽団、
同合唱団を率いてアメリカへの演奏旅行。
成功を収めました。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は

1958年 - アルヒーフに、
今日まで彼の代表的な録音として知られる
バッハ「マタイ受難曲」を録音。

このレコードは1965年までに世界中で
約50000セットを販売致しました。

さらに同レーベルへのカンタータ録音を開始。
ドイツ・グラモフォンがアルヒーフレーベル
による音楽史を構想した当初、
バッハのカンタータはフリッツ・レーマンらによって
担当されていたものです。

レーマンが1954年に演奏中に急死したため。
数人の指揮者による分担を経て
結果的にリヒターがその後任となりました。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は。
自らライフワークとしていたカンタータ録音は、20年以上をかけて
約70曲を残しています。

1964年 - ミュンヘン市から演奏芸術奨励賞。

1969年 - ミュンヘン・バッハ管弦楽団、
同合唱団を率いて来日公演。
受難曲、カンタータ、
また個人でもオルガン、チェンバロを演奏致しました。

非常な絶賛を博し、
さながらバッハを布教しにきたかのような感がありました。

生涯最も感動したコンサートとして、
1969年のマタイ受難曲やミサ曲 ロ短調をあげる
日本のファンも少なく
ありません。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」は。

1979年 - 単身で来日し、
オルガンとチェンバロのリサイタルを開きました。

1981年2月15日 - 心臓麻痺により死去。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」の演奏と評価

リヒターの演奏は、その古典主義的美学や清新な叙情性、
ルター派の禁欲的信仰の結合により。
「ちょうど賛美歌におけるような礼賛
(フィッシャー=ディースカウ)」を
世界各地から受けました。

教会音楽家としては彼の師であった
シュトラウベやラミン以外には例のない名声を得ました。

しかし晩年は、健康の衰えとともにロマンティックになり。
堅く引き締まった結構やみずみずしい叙情を失ったと、特
に日本では言われてきました。

また、
リヒターをその精神性や客観美などから熱烈に支持するファンがいれば。
オルガンに「モダン」を用いた演奏スタイルが時代遅れだという人も少なくはありません。

リヒターの演奏やその評価はしばしば、
時代考証に基づいた演奏を行ういわゆる古楽派との関係で語られてきました。

今日の古楽演奏の大半を占めるに至った
オーセンティック(「歴史的に正しい」)なスタイルを標榜する
アーノンクールなどの演奏家たちに対し。

リヒターは
通奏低音でヴィオラ・ダ・ガンバを使用する程度にとどまり、
テキストクリティークの発達で
いわばバッハ像を脱構築するようになっていった
音楽学の趨勢とはあえて離れました。

バッハ作品の演奏ではいわゆる
旧バッハ全集を使用していたことなどにより、
欧州では評価が二分されています。

++++++++++++++++++++++

リヒター自身は、自らの解釈の普遍性を信じ、
「音楽的能力のない音楽学者が多すぎる」
等と苦言を呈していました。

また、リヒターが新全集を用いなかったのは、
音符の書き方が不明瞭なところの扱いなどに関して、
学問的な可能性による判断よりも特定の音楽家の主観的判断が
優先されていることなども含め、
新全集には間違いが多いからとインタビューに答えています。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」
代表的な録音
同曲異演も含めるとリヒターは生涯にCD100枚以上になる
音源を残していて、概して彼にはスタンダード的価値の高さを
評価されているものが多いです。

録音レパートリーの中心であったバッハでは、
彼の名声を決定付けたマタイ受難曲(1958年)、
ヨハネ受難曲(1963年)、ミサ曲 ロ短調(1961年)、
クリスマス・オラトリオ(1965年)、ラ
イフワークであった「教会カンタータ選集」(75曲・1958~1978年)
などの宗教合唱作品、バ
ッハの世俗の楽曲では、チェンバロ協奏曲全集(1968~72年)、
オルガン曲集(1963~79年)、
ブランデンブルグ協奏曲全集(1967年)などが名高い。

バッハに次いで録音が多いのはヘンデルで、
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのオラトリオ「メサイア」
(英語版・1972年)
がよく知られます。

さらにオーケストラ音楽の完成度の高さで特に
合奏協奏曲全集(1970年)が同曲集を代表する録音のひとつとして
評価されています
(以上は全てアルヒーフ(ドイツ・グラモフォン)に録音)。

++++++++++++++++++++++

リヒターは、生前の演奏に接しなかった
リスナーからの名声のほとんどを
アルヒーフに残した録音に拠っています。

テレフンケン(旧テルデック)にもある程度の録音を残しています。
特に最初期のものの多くはここからリリースされています。
この時期のものはファンからさえ等閑視され、
あるいは58年のマタイ受難曲以降の録音とは区別されて考えられることが多いです。

リヒターは1966年からはドイツ・グラモフォンと専属契約を交わし、
以降ほぼ全ての録音を行うことになるが、
パルティータ(BWV825~830・1960年)、
モーツァルトのレクイエム(1960年)など
、テレフンケンにしか残されていない録音もあります。

++++++++++++++++++++++

「カール・リヒター:Karl Richter」の
レパートリーの大半を占めたバッハやヘンデル以外にも。

モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、グルックな
どの録音が残されています。

彼のロマン派への意欲を示すものとして
ブルックナーの交響曲第4番の放送用音源があります。

また最近は、眠っていた映像作品のいくつかが
DVDで発売されました。

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「カール・リヒター:Karl Richter」の
録音についての付記
シュトラウベやラミンが教会での聖楽奉仕者としての
側面が強かったのに対し、
リヒターは管弦楽曲や協奏曲の録音も残すことで、
聖俗両方の世界を表現することになりました。

これは、第2次大戦後のLPレコードとステレオ録音の発達によるところも大きい。
すなわち、音質のクリアさは、
通奏低音のチェンバロや、リコーダーのような音量のあまり出ない
古い楽器の録音に適しており、
それ以前のSPレコードでは長大な宗教音楽の録音も難しいことであったのです。

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カール・リヒター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%92%E3%82%BF%E3%83%BC

カール・リヒター(Karl Richter, 1926年10月15日 - 1981年2月15日)は、ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。戦後のバッハ解釈の権威。

目次
1 略歴
2 演奏と評価
3 代表的な録音
4 録音についての付記
5 リヒターへの言及
6 参考
7 関連
8 書籍
9 外部リンク

略歴
1926年10月15日 - ドイツ・ザクセン州のプラウエンに牧師の子として生まれる。

1937年 - 11歳のときドレスデン聖十字架教会付属学校に入り同聖歌隊のメンバーになる。ここで最初の音楽教育を受け、バッハやシュッツの合唱曲に親しむ。

1946年 - 戦後ドレスデンからライプチヒに移り、ライプチヒ音楽大学に入学、聖トーマス教会のカントルであったカール・シュトラウベとギュンター・ラミンについて学ぶ(二人は戦前のバッハ演奏の大家として知られる)。

1949年 - 教会音楽の国家試験に合格して聖トーマス教会のオルガニストに就任。

1950年 - ライプチヒ・バッハ・コンクールのオルガン部門で、首席をアマデウス・ウェーバージンケと分け合う。

1951年 - 聖マルコ教会(ドイツ)のオルガニストに就任。これに伴いミュンヘンに移住。バッハ・コンクールの成績が契機となってミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の講師に迎えられる。リヒターは当初東ドイツで活動し、伝統の後継者と目されていたが、社会主義統一党の支配に対して自由な活動の場を求め、次第に西ドイツのミュンヘンで活動するようになる。

戦後設立されたハインリヒ・シュッツ合唱団の指揮を任され、主にバッハのカンタータを演奏する目的で訓練、これをミュンヘン・バッハ合唱団と改称。

1953年 - ソリストを募集し、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立。以降リヒターの根強い音楽活動により、ミュンヘンは徐々にバッハ演奏の中心地としての外観を呈するようになる。

1954年 - シュッツのMusikalische Exequien(「音楽による葬送」)を録音。英グラモフォン誌でライオネル・サルターに賞賛される。これがリヒターのディスコグラフィー中の最初の成功となった。

1956年 - ラミンの没後、トーマス教会からのカントル就任要請を断り、完全に西ドイツに活動の本拠を移す。ミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任。ミュンヘン・バッハ管弦楽団、同合唱団を率いてアメリカへの演奏旅行。成功を収める。

1958年 - アルヒーフに、今日まで彼の代表的な録音として知られるバッハ「マタイ受難曲」を録音。このレコードは1965年までに世界中で約50000セットを販売した。さらに同レーベルへのカンタータ録音を開始。ドイツ・グラモフォンがアルヒーフレーベルによる音楽史を構想した当初、バッハのカンタータはフリッツ・レーマンらによって担当されていたが、レーマンが1954年に演奏中に急死したため、数人の指揮者による分担を経て、結果的にリヒターがその後任となった。自らライフワークとしていたカンタータ録音は、20年以上をかけて約70曲を残している。

1964年 - ミュンヘン市から演奏芸術奨励賞。

1969年 - ミュンヘン・バッハ管弦楽団、同合唱団を率いて来日公演。受難曲、カンタータ、また個人でもオルガン、チェンバロを演奏。非常な絶賛を博し、さながらバッハを布教しにきたかのような観があった。生涯最も感動したコンサートとして、1969年のマタイ受難曲やミサ曲 ロ短調をあげる日本のファンも少なくない。

1979年 - 単身で来日し、オルガンとチェンバロのリサイタルを開いた。

1981年2月15日 - 心臓麻痺により死去。

演奏と評価
リヒターの演奏は、その古典主義的美学や清新な叙情性、ルター派の禁欲的信仰の結合により、「ちょうど賛美歌におけるような礼賛(フィッシャー=ディースカウ)」を世界各地から受け、教会音楽家としては彼の師であったシュトラウベやラミン以外には例のない名声を得た。しかし晩年は、健康の衰えとともにロマンティックになり、堅く引き締まった結構やみずみずしい叙情を失ったと、特に日本では言われてきた。また、リヒターをその精神性や客観美などから熱烈に支持するファンがいれば、モダン楽器を用いた演奏スタイルが時代遅れだという人も少なくない。

リヒターの演奏やその評価はしばしば、時代考証に基づいた演奏を行ういわゆる古楽派との関係で語られてきた。今日の古楽演奏の大半を占めるに至ったオーセンティック(「歴史的に正しい」)なスタイルを標榜するアーノンクールなどの演奏家たちに対し、リヒターは通奏低音でヴィオラ・ダ・ガンバを使用する程度にとどまり、テキストクリティークの発達でいわばバッハ像を脱構築するようになっていった音楽学の趨勢とはあえて離れ、バッハ作品の演奏ではいわゆる旧バッハ全集を使用していたことなどにより、欧州では評価が二分されている。リヒター自身は、自らの解釈の普遍性を信じ、「音楽的能力のない音楽学者が多すぎる」等と苦言を呈していた。また、リヒターが新全集を用いなかったのは、音符の書き方が不明瞭なところの扱いなどに関して、学問的な可能性による判断よりも特定の音楽家の主観的判断が優先されていることなども含め、新全集には間違いが多いからと青澤唯夫のインタビューに答えている。

代表的な録音
同曲異演も含めるとリヒターは生涯にCD100枚以上になる音源を残していて、概して彼にはスタンダード的価値の高さを評価されているものが多い。録音レパートリーの中心であったバッハでは、彼の名声を決定付けたマタイ受難曲(1958年)、ヨハネ受難曲(1963年)、ミサ曲 ロ短調(1961年)、クリスマス・オラトリオ(1965年)、ライフワークであった「教会カンタータ選集」(75曲・1958~1978年)などの宗教合唱作品、バッハの世俗の楽曲では、チェンバロ協奏曲全集(1968~72年)、オルガン曲集(1963~79年)、ブランデンブルグ協奏曲全集(1967年)などが名高い。バッハに次いで録音が多いのはヘンデルで、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのオラトリオ「メサイア」(英語版・1972年)がよく知られ、さらにオーケストラ音楽の完成度の高さで特に合奏協奏曲全集(1970年)が同曲集を代表する録音のひとつとして評価されている(以上は全てアルヒーフ(ドイツ・グラモフォン)に録音)。

リヒターは、生前の演奏に接しなかったリスナーからの名声のほとんどをアルヒーフに残した録音に拠っているが、テレフンケン(旧テルデック)にもある程度の録音を残しており、特に最初期のものの多くはここからリリースされている。この時期のものはファンからさえ等閑視され、あるいは58年のマタイ受難曲以降の録音とは区別されて考えられることが多い。リヒターは1966年からはドイツ・グラモフォンと専属契約を交わし、以降ほぼ全ての録音を行うことになるが、パルティータ(BWV825~830・1960年)、モーツァルトのレクイエム(1960年)など、テレフンケンにしか残されていない録音もある。

レパートリーの大半を占めたバッハやヘンデル以外にも、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、グルックなどの録音が残されているが、彼のロマン派への意欲を示すものとしてブルックナーの交響曲第4番の放送用音源がある。

また最近は、眠っていた映像作品のいくつかがDVDで発売された。

録音についての付記
シュトラウベやラミンが教会での聖楽奉仕者としての側面が強かったのに対し、リヒターは管弦楽曲や協奏曲の録音も残すことで、聖俗両方の世界を表現することになった。これは、第2次大戦後のLPレコードとステレオ録音の発達によるところも大きい。すなわち、音質のクリアさは、通奏低音のチェンバロや、リコーダーのような音量のあまり出ない古い楽器の録音に適しており、それ以前のSPレコードでは長大な宗教音楽の録音も難しいことであった。

リヒターへの言及
渡辺護---(演奏について)「輪郭の極めて明確な演奏だが、流麗であり、感動にあふれている。確固たる形式感の上に、深い敬虔さをたたえている。必要以上に劇的変化や壮大を追うことなく、音楽そのものに雄弁に語らせている」。
エルンスト・ヘフリガー ---「バッハを本当に歌いたいと思うのはリヒターだけです」。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ ---(リヒターの演奏はすでに時代遅れではと問うインタビュアーに対し)「いいえ、いいえ!私は多くの人が、リヒターの時代が過ぎ去ってしまったのを嘆いているのを聞きます。ビブラートのない弱い吹き方で表現される、オリジナル楽器と呼ばれるものによる音の輪郭---私たちはそうしたものが真実に響くのをただの一度も聴いたことがありませんが---多くの聴衆がそれ(オリジナル楽器、ピリオド奏法による音楽)を幸福に感じなかったことを、私はむしろ信じています。そして彼らは懐かしむことになるでしょう、絶対的に妥協のないリズムをもって迫ってくる、生命を呼吸していた何かを。そして私にとってそれこそ本質的なものなのです」。
カール・シューマン ---「リヒターは現代の音楽学による種々の発見を重くは見なかった。彼にとって音楽とは、精気に満ちた音の表出であり、テクニックの熟練を基礎に、演奏家が生命を呼吸する音楽的対話なのである。彼は歴史主義的アプローチのための時間を持たなかった。すなわちモダン楽器は歴史的な成り行きがあってわれわれに与えられたものである。そして、感情に溢れ感情によって正しく判断された解釈でなければ、いかにピリオド楽器を使用しようとも演奏は良くならない。リヒターは確かに20世紀に堅く足をつけた演奏家であったが、彼はその身に19世紀の伝統が流れ続ける指導者たちに教えを受けているのである」。

参考
『名指揮者との対話』 青澤唯夫(2004年・春秋社)p.110~118
『自伝 フィッシャー=ディースカウ 追憶』 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ 實吉春雄・田中栄一・五十嵐蕗子=共訳 (1998年・メタモル出版)p.220~222

関連
マリア・シュターダー
ヘルタ・テッパー
ペーター・シュライヤー
エディット・マティス
アンナ・レイノルズ
ハンス=マルティン・シュナイト

書籍
『Karl Richter-Musik mit dem Herzen : 1926 - 1981 ; eine Dokumentation aus Anlass seines 75. Geburtstages 』zusammengestelt und eingeleitet von Roland Wörner.Panisken Verlag. 2001.
『Karl Richter in München : 1951 - 1981 ; Zeitzeugen erinnern sich ; eine Dokumentation 』 Johannes Martin.Conventus Musicus Dettelbach. 2005.

外部リンク
ミュンヘン・バッハ合唱団公式サイト(ドイツ語・英語)
元ミュンヘン・バッハ合唱団員ヨハネス・マルティンによるブログ(ドイツ語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%92%E3%82%BF%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: ドイツの指揮者 | オルガニスト | チェンバロ奏者 | 1926年生 | 1981年没

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10月15日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8815%E6%97%A5

できごと
1582年 - グレゴリオ暦制定。

1894年 - ドレフュス事件。

1941年 - ゾルゲ事件

1945年 - 治安維持法廃止。

1948年 - 第2次吉田茂内閣が成立。

1952年 - 警察予備隊が保安隊に改編される。

1962年 - キューバ危機

1975年 - 広島東洋カープが球団創設から26年目でリーグ初優勝。

1977年 - 長崎バスジャック事件が発生。

1980年 - 山口百恵が正式に芸能界を引退。

1999年 - 東京ディズニーランドに新アトラクション
「魅惑のチキルーム"ゲット・ザ・フィーバー"」オープン

2002年 - 北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。

2002年 - フォーシーズンズホテル丸の内東京が東京都千代田区丸の内に開業。

2003年 - 中国が有人宇宙船神舟5号を打ち上げ。

2006年 - 福知山線脱線事故で恋人を亡くした遺族が自殺。犠牲者は108人に。

誕生日
紀元前70年 - ウェルギリウス、ローマの叙事詩人(+ 紀元前19年)

1725年(享保10年9月10日)- 毛利重就、第8代長州藩主(+ 1789年)

1784年 - トマ・ロベール・ブジョー、フランス軍の将軍・アルジェリア総督(+ 1849年)

1795年 - フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、プロイセン王(+ 1861年)

1796年(寛政8年9月15日)- 伊達斉宗、第10代仙台藩主(+ 1819年)

1814年 - ミハイル・レールモントフ、詩人・小説家(+ 1841年)

1838年(天保9年8月27日)- 上野彦馬、写真家(+ 1904年)

1844年 - フリードリヒ・ニーチェ、哲学者(+ 1900年)

1856年 - オスカー・ワイルド、小説家・詩人(+ 1900年)

1867年(慶応3年9月18日)- 藤島武二、画家(+ 1943年)

1882年 - 野村胡堂、小説家・作家・音楽評論家(+ 1963年)

1885年 - 柳原白蓮、歌人(+ 1967年)

1888年 - S・S・ヴァン=ダイン、作家・美術評論家(+ 1939年)

1900年 - マーヴィン・ルロイ、映画監督(+ 1987年)

1903年 - 水上達三、実業家(+ 1989年)

1905年 - アンジェロ・スキアビオ、サッカー選手(+ 1990年)

1908年 - ジョン・ケネス・ガルブレイス、経済学者(+ 2006年

1910年 - エドウィン・O・ライシャワー、歴史家・外交官(+ 1990年)

1912年 - 野田良之、法学者(+ 1985年)

1915年 - イツハク・シャミル、第7代イスラエル首相

1924年 - 玉川良一、俳優・コメディアン(+ 1992年)

1924年 - リー・アイアコッカ、実業家

1926年 - ミシェル・フーコー、哲学者(+ 1984年)

1926年 - カール・リヒター、指揮者(+ 1981年)

1927年 - 依田英助、声優

1930年 - 中谷一郎、俳優(+ 2004年)

1930年 - 渡部昇一、英語学者

1932年 - 小池聰行、実業家・オリジナルコンフィデンス
(現オリコン・エンタテインメント)創業者(+ 2001年)

1935年 - 蜷川幸雄、演出家

1942年 - 江波杏子、女優

1942年 - ペニー・マーシャル、映画監督・女優

1946年 - リチャード・カーペンター、作曲家、編曲家、音楽製作家

1950年 - 清水国明、タレント
1952年 - 湯山邦彦、アニメーション監督
1954年 - ブランコ・シカティック、キックボクサー
1956年 - 保坂和志、小説家
1956年 - 川田孝好、調教師
1957年 - 有賀佳弘、元プロ野球選手
1958年 - 大澤真幸、社会学者、
1958年 - 勝生真沙子、声優
1958年 - 山川豊、演歌歌手
1959年 - トッド・ソロンズ、映画監督
1961年 - キムラ緑子、女優
1964年 - 法月綸太郎、推理作家、評論家
1965年 - 藤森涼子、気象予報士
1967年 - 笑福亭銀瓶、落語家
1968年 - 野中政宏、声優
1968年 - 足利豊、元プロ野球選手
1968年 - ディディエ・デシャン、サッカー選手・指導者
1971年 - 栗田直紀、射撃選手
1972年 - 山本雅子、女優、声優
1974年 - 岡野昭仁(ポルノグラフィティ)、ヴォーカリスト
1975年 - 石山愛子、フリーアナウンサー
1976年 - 西谷誠、騎手
1977年 - ミッチ・ジョーンズ、プロ野球選手
1977年 - ダヴィド・トレゼゲ、サッカー選手
1979年 - むらかみひとみ、絵本作家
1980年 - 渡辺直人、プロ野球選手
1980年 - 川村亜紀、アイドル
1980年 - 木谷寿巳、プロ野球選手
1981年 - エレナ・デメンティエワ、テニス選手
1981年 - 中庭健介、フィギュアスケート選手
1982年 - 真木よう子、女優
1983年 - 鄧麗欣、歌手
1983年 - 藤井重隆、コラムニスト、サッカージャーナリスト
1984年 - 花井美理、グラビアアイドル
1984年 - 太田彩乃、タレント・お笑い芸人
1984年 - 中村優 (レースクイーン)
1984年 - 西尾佳、長野放送アナウンサー
1984年 - 耿伯軒、野球選手
1985年 - 伊東あいり、AV女優
1985年 - 川田将雅、騎手
1991年 - 仲谷明香、AKB48
生年不明 - 前田このみ、声優
生年不明 - 吉竹範子、声優

忌日
961年 - アブド・アッラフマーン3世、後ウマイヤ朝初代カリフ(* 889年)

1389年 - ウルバヌス6世、第202代ローマ教皇(* 1318年)

1564年 - アンドレアス・ヴェサリウス、解剖学者・医師(* 1514年)

1603年(慶長8年9月11日)- 武田信吉、水戸藩主(* 1583年)

1704年(宝永元年9月17日)- 阿部正武、江戸幕府老中・忍藩主(* 1649年)

1754年(宝暦4年8月29日)- 井伊直禔、第11代彦根藩主(* 1727年)

1817年 - タデウシュ・コシチュシュコ、ポーランド・リトアニアの国民的英雄(* 1746年)

1896年 - 千葉さな子、剣術家(* 1838年)

1900年 - ズデニェク・フィビフ、作曲家(* 1850年)

1904年 - ゲオルク、第6代ザクセン王(* 1838年)

1910年 - スタンリー・ケッチェル、プロボクサー(* 1886年)

1915年 - パウル・シェーアバルト、小説家・詩人・画家(* 1863年)

1917年 - マタ・ハリ、舞踏家・スパイ(* 1876年)

1922年 - 大井憲太郎、自由民権運動家・衆議院議員(* 1843年)

1929年 - レオン・ドラクロワ、ベルギー首相(* 1867年)

1933年 - 新渡戸稲造、教育者・思想家(* 1862年)

1945年 - ピエール・ラヴァル、ヴィシー政権首相(* 1883年)

1946年 - ヘルマン・ゲーリング、政治家・軍人(* 1893年)

1955年 - 早坂文雄、作曲家(* 1914年)

1957年 - アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ、建築家(* 1863年)

1963年 - ホートン・スミス、プロゴルファー(* 1908年)

1964年 - コール・ポーター、作曲家・作詞家(* 1891年)

1967年 - マルセル・エイメ、小説家・劇作家(* 1902年)

1976年 - カルロ・ガンビーノ、ギャングスタ(* 1902年)

1978年 - ユージン・スミス、写真家(* 1918年)

1983年 - パット・オブライエン、俳優(* 1899年)

1986年 - 安田武、思想家(* 1922年)

1988年 - カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ、作曲家・ピアニスト(* 1892年)

2000年 - コンラート・ブロッホ、生化学者(* 1912年)

2001年 - 張学良、政治家・軍人(* 1901年)

2001年 - 日詰昭一郎、ミュージシャン(* 1957年)

2006年 - 檜垣徳太郎、政治家(* 1916年)

2007年 - 田島節夫、哲学者(* 1925年)

2007年 - 山田真二、俳優・歌手(* 1937年)

記念日・年中行事
きのこの日 - 日本特用林産振興会が制定