東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年10月16日(木曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年10月16日(木曜日)

ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。

春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月もおわりました。
夏はすぎました。
9月の秋はおわりました。
中秋10月です。

「秋」になりました。
「9月」の初秋がおわり。

「10月」になり「16日目」です。
「10月中旬」です。
あと「75日」で「来年」になると
と考えると「おそろしい」です。

今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
西に満月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
にねそべっている
ような「秋月」です。

日があければ。
朝日を背に。
西のコバルトの空高くの。
高い成層圏近くの高い高度に。

「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」が
西のコバルトの空高に
描かれていました。
見事な筆裁きです。
ためらいがない「朝焼け色」です。

さながらにして。
皇室の赤坂迎賓館の。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画或は
大きな屏風絵の世界。
そのものです。

はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。

そしてふと考えれば
今年も「9ヶ月」が
終わりました。
そして中秋です。

病院の庭園に「4本」ある
「金木犀:きんもくせい」の大木の
いずれもがこがねの花をたんぽぽのように
枝にみのらせています。
まだ「はつはな」で初々しい。

「金木犀:きんもくせい」の香りが
致しました。

ふと野草の花は香らないこよに気づきました。

伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
(Corn lower, Bachelor's-button)です。

因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。

麦畑の中に 咲いていたことから「野菊」(Corn lower)
です。

別名 「矢車草(やぐるまそう)」 なのですが
実はまったく違う植物です
「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花。

古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」です。

ツタンカーメン王のまだ幼な子王妃が
「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮ぶ「野菊」です。
けれども「野菊」は香りません

毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころに
「こおろぎ」がないています
「こおろぎ」のほかの。
「秋の虫」も
鳴き声はきこえているようです。
「秋の虫たち」がないています。
こおろぎたちの合唱がきこえてきます。
こおろぎが
「夏のせみより大きな鳴き声」で
鳴く時期のあることに。
びっくりいたしました。
けれども「虫たちの鳴き声」
は次第に小さく少なく聞こえる
ようになりました。

秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる

あききぬとめにはさやかにみえねども
かぜのおとにぞおどろかれぬる

これは「今現在の秋」よりもう少し手前の
「旧暦初秋或は晩夏」の時期に詠まれた
昔の短歌です。

「来(き)ぬ」「着ぬ」「絹」の
最初の「韻:いん」で衝撃的
なインパクトを伝える「うた」です。

そして
「みえね」「美え音」で「第2主題」の伏線をはり。
突如として。
「かぜの音」にて「第2主題」の旋律。
「音」を響かせてフオルレッシモ
ff。

季節そのものの感覚を「音」にあらわした
名歌です。

ジプシーのチャルダッシュの
ラッサン・フリスカのような「うた」です。

これからは日は。
陽は次第にみじかくなる。
日が短くなる。
朝は明けるのは遅くなり。
夕に暗くなるのは速くなる。

しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。

季節には「大気の音」があるようです。

朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。

「つつじ」の「花」が「春に」おわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には

「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。

「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。

金木犀の大木が4本と銀木犀が2本
あります。

「中秋」をつたえるがごとく。
モクセイの木が「香り花」が開花致しました。

「花」はみえない頃からもう
「金木犀:きんもくせい」
は「香っています」。
モクセイも秋にも若葉をだします。
「木犀:モクセイ」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。

「あじさい」は
のんびりやの気がする。

「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。

あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。

ふと思う。

考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。

この時期になり。
私は森山を分け入ると。

木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉する
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。

「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。

身の丈ほどもある群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。

野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。

あけびつたもうれしい
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。

里山の紅葉の時期になりました。

四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。

この「あゆみ」の「質量」は高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。

四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。

ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。

草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。

自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。

この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。

或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。

私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。

古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。

*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。

実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。

但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。

また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。

邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。

「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。

邦楽もその一つです。

大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。

「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。

人間は。人類は。
わずか「400年」で「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。

まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。

木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。

「真夏」をすぎ「秋」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「秋若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。

木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
くすぶりまちわびてています。

「若葉」の「新緑」から「深緑」です。

高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。

桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。

明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。

今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。

「幸せ色」=「しあわせいろ」
ならばよいです。

けれども
早朝ははだ寒くなりました。

秋やま中さまよい
秋わけいらば
秋大樹の根元に隠れたり
秋あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
秋みつけたりやまの華。
秋やまの葉木のかくれんぼ
秋大樹の根元に隠れたり
秋山はぜの葉木。
秋やまうるしの葉木。
秋あきやまはぜとあきやまうるし。

秋山萩(やまはぎ)の
秋花をかくして燃えたたむ
秋に実りの祭りなり
秋山はぜの葉炎
秋天高く燃ゆ

あきやまはぎの
はなをかくしてもえたたむ
あきにみのりのまつりなり
あきやまはせのほのほ
あきてんたかくもゆ

あきひろくなりけり空(そら)たかし
あきさとやまに木々のみどり木
あきこもれびうけて燃えるがごとし
あきみどりの炎(ほのほ)
あきほのほうちけさむかすみはあおし
あきほのほにかすみにただよひて
あきうるわしくかがやきたり
あたたかくかおりたり
あざやかなりけり 
あきやまさとのやまみどり
あきやまさとのふかみどり

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。

多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。

「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」

「小さな秋みつけた・。」

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++

平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
++++++++++++++++++++++

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。

++++++++++++++++++++++

10月13日(月曜日)は
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました

++++++++++++++++++++++

11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。

1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。

「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。

「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。

お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。

「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。

すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。

そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。

患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。

考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。

作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。

私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。

心より。

感謝・

感謝。

「今日は何の日」は
私は
「合衆国USA」で最も優れた「教師」。
かつ
「合衆国USA」で最も優れた「英語教師」。
(日本でいえば「国語の先生」です。)

語源の調査のために、
アングロサクソン語やサンスクリット語を含む
26の言語を学んだ英語学者。
とりわけ
1829年、
The Elementary Spelling Book
その青いカバーから The Blue-Back Speller
(『スペリングの青本』)と呼ばれ。

以後100年にわたり「合衆国USA」における英語の教科書
当時もっとも広く使われたアメリカの教科書。
1861年までには年間の販売数が100万部に到達。

1部につき1セント未満の印税でありながら
さらなる仕事を進める
「この方」の十分な収入源となってた。

ベンジャミン・フランクリンでさえ。
孫娘に本の読み方を教える際に
彼の教科書を使ったといわれる教科書の作者。

「アメリカの学問・教育の父」と呼ばれる。
1758年 - ノア・ウェブスター、辞書編纂者(+ 1843年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++

包括的な辞書
An American Dictionary of the English Language
を書き始めました。

完成をみるのは27年後のことでした。

語源の調査のために。
ウェブスターは、
アングロサクソン語やサンスクリット語を含
む26の言語を学びました。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター(Noah Webster,
1758年10月16日 - 1843年5月28日)は
アメリカの辞書編纂者、教育者です。

教科書の著者、聖書翻訳者、
綴字改定運動家、ライター、編集者
としても活躍致しました。

「アメリカの学問・教育の父」と呼ばれます。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Webster。
かれが著した通称「スペリング*の青本」は。
5世代にわたり合衆国の子供たちに
読み書きを教えました。

(*よく英単語の綴りを
「spell:スペル」と本邦では呼称致します。
これは「大変な間違い」です。

正しくは「spelling:スペリング」であり。
「spell:スペル」は
「呪文」=>「呪い」となります。)
(*god -SPELL=ゴスペル=>
ゴスペル(Gospel music)=>
「神の話」=>福音および福音書)

特に1828年初版の『アメリカ英語辞書』
(An American Dictionary of English Language)
に始まるメリアム=ウェブスター社の辞書により。
かれの名は「辞書」の代名詞となりました。

++++++++++++++++++++++

「spelling:スペリング:綴り」というと
安易に考えられるかたもいるかもしれません。

日本の「国語教育」では。

「国語の「つづり」」の教育が
余りにひどいため。

(これは熱心に御教育の場にたたれている先生方。
国語の先生方の責任ではありません)

文豪 日本語の文豪。
「三島由紀夫氏」をして嘆かせ。
「憂国」を生む「源」となった
ことは否めません。

つづりでいえば。
「合衆国USA」=「合州国」が正しい。

は「unaited states of america」から一目瞭然
です。

++++++++++++++++++++++

「spelling:スペリング:綴り」
因みに
どの綴りが正しいでしょうか。

"colour" 「色」 "color"
"musick"「音楽」 "music"
、"waggon" 「荷馬車」 "wagon"
"centre" 「中心」 "center"
"honour" 「名誉」 "honor"
++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Websterの生涯

ノア・ウェブスターは、1758年10月16日、
コネティカット州ウェストハートフォードの
植民農園の一家に生まれました。
父は作物を育てたり糸をつむいだりして家計を支えました。

兄弟にはチャールズとアブラハム、
姉妹にはマーシーとジェルーシャがいます。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Websterは
16歳のとき、コネティカット州に
ある唯一の大学であったイェール大学に
通学を始めました。

かれがイェールで学んだのは
ちょうどアメリカ独立戦争のさなかであり、
食料不足から、多くの授業が
コネティカット州グラストンベリで行われました。

ノア・ウェブスター:Noah Webster
がイェールを卒業したのは1778年のことでした。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Websterは。
ロー・スクールに通う経済的余裕がなかったため、
グラストンベリ、ハートフォード、
ウェストハートフォードの学校に教師として勤めました。

やがて1781年に法学位をとると、
同年、ハートフォードでの弁護士資格も
認められました。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Websterは
教師として。

かれはアメリカの小学校を好ましくないと
考えるようになりました。

教室が一つだけの校舎に
学齢がまちまちな児童が70人以上詰め込まれており、
教師は訓練を受けておりません。

机はなく教科書は数が十分でない上に
イギリスの教科書でした。

ウェブスターの考えでは、
アメリカ人はアメリカの教科書で学ぶべきであると考えました。

++++++++++++++++++++++

そこでかれは、3冊で構成された教科書
A Grammatical Institute of the English Language
を書き始めました。

これはスペラー(綴字法・1783年出版)、
グラマー(文法・1784年出版)、
リーダー(読本・1785年)から構成されています。

子供を教育するアプローチとして、
他でもないアメリカ流で、
かつキリスト教主義を中心にすえた
ものを提供するのを目的としていました。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Websterの
スペラーのそもそものタイトルは
The First Part of
the Grammatical Institute of
the English Language でした。

1786年に The American Spelling Book
に変更され、
さらに1829年、
The Elementary Spelling Book に変更されました。

その青いカバーから The Blue-Back Speller
(『スペリングの青本』)と呼ばれ、
以後100年にわたり、ウェブスターの教科書が子供たちに。

どう読み、どう書き、
どう発音するかを教えることになりました。

++++++++++++++++++++++

ノア・ウェブスター:Noah Websterの
1829年、
The Elementary Spelling Book

その青いカバーから The Blue-Back Speller
(『スペリングの青本』)と呼ばれました。

以後100年にわたり、ウェブスターの教科書
当時もっとも広く使われたアメリカの教科書となりました。
1861年までには年間の販売数が100万部に到達致しました。

1部につき1セント未満の印税でありながら、
さらなる仕事を進めるウェブスターの
十分な収入源となっていました。

++++++++++++++++++++++

ベンジャミン・フランクリンでさえ。
孫娘に本の読み方を教える際に
ウェブスターの教科書を使っています。

アメリカで最初に編まれた辞書であるともいわれます。
また、スペリング・ビーという
大衆的な書き取り競技を生み出すのに一役買いました。

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ちなみに
ノア・ウェブスター:Noah Websterの
The Blue-Back Speller(『スペリングの青本』)
は。

ウェブスターの本の海賊版が出版されるに致しました。

他方著作権はといえば13の州で内容の異なるという有様で、
それを見かねたウェブスターが制定を主張した
連邦著作権は、1790年に議会を通過致しました。

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ノア・ウェブスター:Noah Websterは。

1789年、レベッカ・グリーンリーフと結婚。
8人の子供をもうけました。

1793年、ウェブスターは、
ジョージ・ワシントン率いる新政府との交流を深めるため
一家そろってニューヨークに移住致しました。

同年12月9日、ニューヨーク初の日刊紙『アメリカン・ミネヴァ』
(後の『コマーシャル・アドバタイザー』)を創刊。
また、隔週誌『ヘラルド/ガゼット・フォー・ザ・カントリー』
(後の『ニューヨーク・スペクテイター』)も発刊致しました。

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ノア・ウェブスター:Noah Websterは
1798年、再び一家でニュー・ヘイブンにもどります。

翌年、43歳になったウェブスターは。

包括的な辞書
An American Dictionary of the English Language
を書き始めました。
完成をみるのは27年後の70歳のことでした。

語源の調査のために、ウェブスターは、
アングロサクソン語やサンスクリット語を含む
26の言語を学びました。

そのころのアメリカでは地域によって。

スペリングや発音、
語法がまちまちであったため、
ウェブスターはこの辞書によって
アメリカ英語が標準化されることを期待していました。

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ノア・ウェブスター:Noah Websterは
パリやケンブリッジ大学に滞在していた1825年、辞書が完成。

かれはイギリス英語のスペリングのルールは
必要以上に複雑だと解釈致しました。

1828年に出版した辞典
「An American Dictionary of English Language」
において、イギリスでは
"colour" とつづられる「色」を "color" として、
"musick" とつづられる「音楽」を "music" として
、"waggon" とつづられる「荷馬車」を "wagon" として、
"centre" とつづられる「中心」を "center" として、
"honour" とつづられる「名誉」を "honor"
として収録致しました。

また、それまでのイギリスの辞書には載っていなかった
アメリカ独自の動植物に由来する言葉である
「スカンク」や「カボチャ」などの単語も収録致しました。

収録語7万語のうち、1万2千語がこれまで辞書に収
録されたことのない単語でした。

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ノア・ウェブスター:Noah Websterは
1828年にこの辞書を出版したとき、
ウェブスターは70歳になっていました。

1840年、第2版を2分冊構成で出版。
その付録の改訂を終えた数日後の1843年5月28日に
死亡されました。

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ノア・ウェブスター:Noah Websterの宗教的見地

ウェブスターが敬虔なキリスト教徒であったことは
広く知られています。

1828年の辞書には、それまでの参考書には見受けられないほどに
聖書にまつわる定義が含まれているといわれます。
ウェブスターは「聖書を無視した教育は無益だ」と
考えていました。

「私に言わせれば、自由国家において
教育を受けるあらゆる子供たちにとって、
キリスト教はもっとも重要でもっとも基本的なもののひとつである。
(中略)自由民の権利を守ろうと志す国家ならばどんな国家でも、
キリスト教を基礎とせねばならないということは、
私の中では明らかなことである」

(An American Dictionary of the English Language
1828年版の序文より)

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「公人を投票で選ぶ権利を行使するときは、
権力をふるうにあたって神様を恐れるような人を選ぶよう、
神様に命じられているようなものと心得なさい。
共和政府の存続は、
この義務を誠実に履行できるかどうかにかかっています。
もし市民が自分たちに課せられたこの義務をおこたり、
そして節義に欠く人物を公務につけるならば、
政府はたちまち腐敗してしまうでしょう」

(Value of Bible and Excellence of
Christian Religion(1834年)所収『若者への助言』より)

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ノア・ウェブスター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC

ノア・ウェブスター(Noah Webster, 1758年10月16日 - 1843年5月28日)はアメリカの辞書編纂者、教育者である。教科書の著者、聖書翻訳者、綴字改定運動家、ライター、編集者としても活躍した。「アメリカの学問・教育の父」と呼ばれる。かれが著した通称「スペリングの青本」は5世代にわたり合衆国の子供たちに読み書きを教え、特に1828年初版の『アメリカ英語辞書』(An American Dictionary of English Language)に始まるメリアム=ウェブスター社の辞書により、かれの名は「辞書」の代名詞となった。

目次
1 生涯
2 宗教的見地
3 ソース
4 外部リンク

生涯
ノア・ウェブスターは、1758年10月16日、コネティカット州ウェストハートフォードの植民農園の一家に生まれた。父は作物を育てたり糸をつむいだりして家計を支えた。兄弟にはチャールズとアブラハム、姉妹にはマーシーとジェルーシャがいる。

16歳のとき、コネティカット州にある唯一の大学であったイェール大学に通学を始める。かれがイェールで学んだのはちょうどアメリカ独立戦争のさなかであり、食料不足から、多くの授業がコネティカット州グラストンベリで行われた。

かれがイェールを卒業したのは1778年のことである。ロー・スクールに通う経済的余裕がなかったため、グラストンベリ、ハートフォード、ウェストハートフォードの学校に教師として勤めた。やがて1781年に法学位をとると、同年、ハートフォードでの弁護士資格も認められた。

教師として、かれはアメリカの小学校を好ましくないと考えるようになった。教室が一つだけの校舎に学齢がまちまちな児童が70人以上詰め込まれており、教師は訓練を受けておらず、机はなく、教科書は数が十分でない上にイギリスの教科書だった。ウェブスターの考えでは、アメリカ人はアメリカの教科書で学ぶべきであった。そこでかれは、3冊で構成された教科書 A Grammatical Institute of the English Language を書き始めた。これはスペラー(綴字法・1783年出版)、グラマー(文法・1784年出版)、リーダー(読本・1785年)から成る。子供を教育するアプローチとして、他でもないアメリカ流で、かつキリスト教主義を中心にすえたものを提供するのを目的としていた。

スペラーのそもそものタイトルは The First Part of the Grammatical Institute of the English Language といった。1786年に The American Spelling Book に変更され、さらに1829年、The Elementary Spelling Book に変更された。その青いカバーから The Blue-Back Speller (『スペリングの青本』)と呼ばれ、以後100年にわたり、ウェブスターの教科書が子供たちにどう読み、どう書き、どう発音するかを教えることになる。当時もっとも広く使われたアメリカの教科書であり、1861年までには年間の販売数が100万部に到達し、1部につき1セント未満の印税でありながら、さらなる仕事を進めるウェブスターの十分な収入源となっていた。ベンジャミン・フランクリンでさえ、孫娘に本の読み方を教える際にウェブスターの教科書を使っている。アメリカで最初に編まれた辞書であるともいわれる。また、スペリング・ビーという大衆的な書き取り競技を生み出すのに一役買った。

ウェブスターの本の海賊版が出版され、他方著作権はといえば13の州で内容の異なるという有様で、それを見かねたウェブスターが制定を主張した連邦著作権は、1790年に議会を通過した。

1789年、レベッカ・グリーンリーフと結婚。8人の子供をもうけた。

1793年、ウェブスターは、ジョージ・ワシントン率いる新政府との交流を深めるため一家そろってニューヨークに移住。同年12月9日、ニューヨーク初の日刊紙『アメリカン・ミネヴァ』(後の『コマーシャル・アドバタイザー』)を創刊。また、隔週誌『ヘラルド/ガゼット・フォー・ザ・カントリー』(後の『ニューヨーク・スペクテイター』)も発刊した。

1798年、再び一家でニュー・ヘイブンにもどる。

翌年、43歳になったウェブスターは、包括的な辞書 An American Dictionary of the English Language を書き始めた。完成をみるのは27年後のことである。語源の調査のために、ウェブスターは、アングロサクソン語やサンスクリット語を含む26の言語を学ぼうとした。そのころのアメリカでは地域によってスペリングや発音、語法がまちまちであったため、ウェブスターはこの辞書によってアメリカ英語が標準化されることを期待していた。

パリやケンブリッジ大学に滞在していた1825年、辞書が完成。かれはイギリス英語のスペリングのルールは必要以上に複雑だと思い、1828年に出版した辞典「An American Dictionary of English Language」において、イギリスでは "colour" とつづられる「色」を "color" として、 "musick" とつづられる「音楽」を "music" として、"waggon" とつづられる「荷馬車」を "wagon" として、"centre" とつづられる「中心」を "center" として、"honour" とつづられる「名誉」を "honor" として収録した。また、それまでのイギリスの辞書には載っていなかったアメリカ独自の動植物に由来する言葉である「スカンク」や「カボチャ」などの単語も収録した。収録語7万語のうち、1万2千語がこれまで辞書に収録されたことのない単語だった。1828年にこの辞書を出版したとき、ウェブスターは70歳になっていた。

1840年、第2版を2分冊構成で出版。その付録の改訂を終えた数日後の1843年5月28日に死亡した。

宗教的見地
ウェブスターが敬虔なキリスト教徒であったことは広く知られている。1828年の辞書には、それまでの参考書には見受けられないほどに聖書にまつわる定義が含まれているといわれる。ウェブスターは「聖書を無視した教育は無益だ」と考えていた。

「私に言わせれば、自由国家において教育を受けるあらゆる子供たちにとって、キリスト教はもっとも重要でもっとも基本的なもののひとつである。(中略)自由民の権利を守ろうと志す国家ならばどんな国家でも、キリスト教を基礎とせねばならないということは、私の中では明らかなことである」(An American Dictionary of the English Language 1828年版の序文より)
「公人を投票で選ぶ権利を行使するときは、権力をふるうにあたって神様を恐れるような人を選ぶよう、神様に命じられているようなものと心得なさい。共和政府の存続は、この義務を誠実に履行できるかどうかにかかっています。もし市民が自分たちに課せられたこの義務をおこたり、そして節義に欠く人物を公務につけるならば、政府はたちまち腐敗してしまうでしょう」(Value of Bible and Excellence of Christian Religion(1834年)所収『若者への助言』より)

ソース
http://noahwebsterhouse.org/biography.html The Noah Webster House, Museum of West Hartford History [英語]
http://www.m-w.com/info/noah.htm メリアム=ウェブスター社のウェブサイト [英語]
http://www.ctheritage.org/encyclopedia/ct1763_1818/webster.htm コネチカット郷土史ウェブサイト [英語]
http://encyclopedia.jrank.org/WAT_WIL/WEBSTER_NOAH_1758_1843_.html ブリタニカ百科事典第11版における伝記的記事 [英語]
http://www.bartleby.com/65/we/WebsterN.html Columbia Encyclopediaにおける伝記的記事 [英語]

外部リンク
100冊余のウェブスター辞書一覧
プロジェクト・グーテンベルクにおける Noah Websterの作品
1800年頃のThe American Spelling Book
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: コネチカット州の人物 | 辞典編纂者 | 1758年生 | 1843年没

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10月16日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8816%E6%97%A5

できごと
1793年 - フランスで、ルイ16世妃マリー・アントワネットが断頭台で処刑される。

1813年 - ライプツィヒの戦い

1904年 - 日露戦争で、ロシアのバルチック艦隊がリバウ軍港を出港する。

1905年 - 交響詩『海』初演。

1943年 - 戸塚球場で学徒出陣壮行早慶戦が行なわれる。

1945年 - 国際連合食糧農業機関(FAO)が設立される。

1946年 - ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた10名の被告への刑が執行される。

1964年 - 中華人民共和国がタクラマカン砂漠で初の原爆実験に成功し、
世界5番目の核保有国となる。

1976年 - 読売ジャイアンツが前年度最下位からセ・リーグ優勝。

1978年 - ポーランド人のカロル・ウォイティワ枢機卿がローマ教皇に選出される。
ヨハネ・パウロ2世として就任。

1981年 - 北炭夕張新炭鉱でガス突出・坑内火災事故発生、死者93人を出す。

1985年 - 阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝。

1998年 - 埼玉医科大学が性同一性障害の女性患者(性自認は男性)
に対する性別適合手術を実施。

2000年 - 長野県知事選挙で、新人の田中康夫が前副知事・池田典隆を大差で破り初当選。

2003年 - 中国が前日発射した神舟5号と、楊利偉が無事宇宙から帰還。

2004年 - 名鉄空港線の常滑駅〜中部国際空港駅間が空港関係者限定で開業。

2005年 - フクダ電子アリーナで、
初の公式戦となるジェフユナイテッド市原・千葉対横浜F・マリノス戦が開催される。

誕生日
1351年 - ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ、ミラノ公(+ 1402年)

1430年 - ジェームズ2世、スコットランド王(+ 1460年)

1535年(天文4年9月20日) - 丹羽長秀、武将、織田氏の家臣(+1585年)

1663年 - プリンツ・オイゲン、オーストリアの軍人・貴族(+ 1736年)

1758年 - ノア・ウェブスター、辞書編纂者(+ 1843年)

1799年(寛政11年9月18日) -
田中久重、発明家・田中製作所(現・東芝)創業者(+ 1881年)

1801年(享和元年9月9日) - 徳川斉順、第11代紀州藩主(+ 1846年)

1806年 - ウィリアム・フェッセンデン、政治家(+ 1869年)

1827年 - アルノルト・ベックリン、画家(+ 1901年)

1841年(天保12年9月2日) -
伊藤博文、初代・5・7・10代内閣総理大臣 (+ 1909年)

1888年 - ユージン・オニール、劇作家(+ 1953年)

1908年 - エンヴェル・ホッジャ、アルバニアの元首相(+ 1985年)

1909年 - 二階堂進、政治家(+ 2000年)

1914年 - ザーヒル・シャー、元アフガニスタン国王(+ 2007年)

1923年 - 早川幸男、宇宙物理学者(+ 1992年2月5日)

1932年 - 伊藤隆、歴史学者

1932年 - 田宮榮一、元警視庁捜査一課長、テレビ解説者

1936年 - 大山のぶ代、声優、俳優

1943年 - 広野功、元プロ野球選手

1944年 - エリザベス・ロフタス、認知心理学者

1947年 - 宮迫千鶴、画家、エッセイスト

1950年 - 大島康徳、元プロ野球選手、野球評論家
1950年 - 若一光司、作家、画家、コメンテーター
1952年 - 金城基泰、元プロ野球選手
1953年 - パウロ・ロベルト・ファルカン、サッカー選手、元日本代表監督
1958年 - ティム・ロビンス、俳優、映画監督
1958年 - 津末英明、元プロ野球選手
1959年 - 小森まなみ、声優
1959年 - 林寛子、タレント
1961年 - 風間八宏、サッカー選手、サッカー解説者
1962年 - フリー(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)、ミュージシャン
1963年 - 瀬藤正則、歌手
1963年 - 伊藤さやか、タレント
1966年 - アマラオ、元サッカー選手
1967年 - 松野太紀、声優
1968年 - 藤井将雄、元プロ野球選手(+ 2000年)
1969年 - 大田垣晴子、イラストレーター・エッセイスト
1969年 - 土屋久美子、女優
1974年 - 中野栄一、元プロ野球選手
1975年 - HARCO、ミュージシャン
1976年 - 末吉里花、タレント
1977年 - 石川亜沙美、俳優、ファッションモデル
1978年 - 渡邉卓哉、フジテレビアナウンサー
1979年 - 義山望、TVQ九州放送アナウンサー
1980年 - 中山恵、俳優、ファッションモデル
1981年 - トモ、奇術師、読者モデル
1981年 - 真中潤、歌手
1983年 - 山本太作、ミュージシャン(AJISAI)
1983年 - 奈月はな(森原みさと)、グラビアアイドル
1984年 - 徳澤直子、ファッションモデル
1984年 - 優木紗和、タレント
1985年 - 沼田由花、タレント
1987年 - 川端慎吾、野球選手
1990年 - 高畠華澄、アイドル
1990年 - 佐藤亜美菜、AKB48
1991年 - 瀧本美織、タレント
生年不明 - べっかんこう(ゲームクリエイター、イラストレーター)
非公開 - じまんぐ、シンガーソングライター

忌日
1355年 - ルドヴィーコ、シチリア王(* 1337年)

1504年(永正元年9月9日)- 最上義淳、出羽国の戦国大名

1537年 - フランソワーズ・ド・フォワ、フランス王フランソワ1世の愛妾(* 1495年)

1553年 - ルーカス・クラナッハ、画家(* 1472年)

1591年 - グレゴリウス14世、第229代ローマ教皇(* 1535年)

1615年(元和元年8月24日)- 島井宗室、商人(* 1539年)

1621年 - ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク、作曲家(* 1562年)

1632年(寛永9年9月3日)- 浅野長晟、初代広島藩主(* 1586年)

1680年 - ライモンド・モンテクッコリ、オーストリア軍司令官(* 1609年)

1682年(天和2年9月16日) - 山崎闇斎、儒者、神道家(* 1619年)

1750年 - シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス、作曲家(* 1687年)

1791年 - グリゴリー・ポチョムキン、ロシア帝国陸軍首席大将・クリミア総督(* 1739年)

1793年 - マリー・アントワネット、フランス国王ルイ16世王妃(* 1755年)

1796年 - ヴィットーリオ・アメデーオ3世、サルデーニャ王(* 1726年)

1810年 - ナフマン・ブラツラフ、ユダヤ教ブレスラフ派開祖(* 1772年)

1874年 - ツヴィ・カリシャー、タルムード学者・シオニズム運動家(* 1795年)

1893年 - パトリス・マクマオン、フランス第三共和政第2代大統領(* 1808年 )

1914年 - 高島嘉右衛門、実業家、易断家(* 1832年)

1925年 - クリスチャン・クローグ、画家(* 1852年)

1930年 - 岩崎俊弥、旭硝子創業者(* 1881年)

1938年 - 野間清治、講談社創業者(* 1878年)

1943年 - 柳原愛子、大正天皇生母(* 1859年)

1944年 - 小金井良精、人類学者・解剖学者(* 1859年)

1946年 - ヴィルヘルム・フリック、
ナチス・ドイツ内相・ベーメン・メーレン保護領総督(* 1877年)

1946年 - ヴィルヘルム・カイテル、
ナチス・ドイツ国防軍最高司令部総長(* 1882年)

1946年 - ユリウス・シュトライヒャー、
シュテュルマー紙の編集者(* 1885年)

1946年 - アルフレート・ヨードル、
ナチス・ドイツ国防軍最高司令部作戦部長(* 1890年)

1946年 - アルトゥル・ザイス=インクヴァルト、
オーストリア・ナチスの指導者(* 1892年)

1946年 - アルフレート・ローゼンベルク、
ナチス・ドイツの人種理論家・東部占領地域相(* 1893年)

1946年 - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ナチス・ドイツ外相(* 1893年)

1946年 - フリッツ・ザウケル、ナチス・ドイツ労働相(* 1894年)

1946年 - ハンス・フランク、ナチス・ドイツポーランド総督(* 1900年)

1946年 - エルンスト・カルテンブルンナー、
ナチス・ドイツ国家保安本部長官(* 1903年)

1954年 - ラルフ・ベナツキー、作曲家(* 1884年)

1956年 - ジュール・リメ、国際サッカー連盟会長(* 1873年)

1959年 - ジョージ・C・マーシャル、
マーシャル・プランを提唱したアメリカの政治家・軍人(* 1880年)

1962年 - ガストン・バシュラール、哲学者(* 1884年)

1967年 - 富田常雄、小説家(* 1904年)

1981年 - モーシェ・ダヤン、イスラエルの軍人・国防相・外相(* 1915年)

1982年 - ヤコヴ・ゴトヴァツ、作曲家(* 1895年)

1982年 - マリオ・デル=モナコ、テノール歌手(* 1915年)

1983年 - 河野謙三、第11・12代参議院議長(* 1901年)

1983年 - ケルソ、競走馬(* 1957年)

1986年 - アルテュール・グリュミオー、ヴァイオリニスト(* 1921年)

1989年 - コーネル・ワイルド、俳優(* 1915年)

1989年 - 二出川延明、元プロ野球選手、審判(* 1901年)

1990年 - ホルヘ・ボレット、ピアニスト(* 1914年)

1990年 - アート・ブレイキー、ジャズドラマー(* 1919年)

1994年 - 井上孝雄、俳優(* 1935年)

1998年 - ジョン・ポステル、コンピュータ科学者(* 1943年)

2003年 - スチュ・ハート、プロレスラー(* 1915年)

2004年 - 川又一英、小説家・美術研究家(* 1944年)

2006年 - バレンティン・パニアグア、ペルー元大統領(* 1936年)

2007年 - デボラ・カー、女優(* 1921年)

2007年 - トシェ・プロエスキ、歌手(* 1981年)

記念日・年中行事
ボスの日
1958年に、アメリカのパトリシア・ベイ・ハロスキ
(Patricia Bays Haroski)が、会社を経営していた父のために、
経営者と部下の関係を円滑にする日として提唱し、
アメリカ商業会議所に登録されたことが始まり。

アメリカではこの日に、ボスを昼食に招待したりプレゼントを贈ったりして日頃の労をねぎらう。

日本でも1988年からデパート業界が実施している。

世界食糧デー(World Food Day、国際デーの一つ)
1945年10月16日に国際連合食糧農業機関 (FAO)
が設立されたことを記念して、1981年に制定。
発展途上国などでの食糧不足や栄養失調、飢餓について考える日。