東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年10月22日(水曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年10月22日(水曜日)

「10月」も半分。「15日」たちました。
中秋です。

「金木犀:きんもくせい」がいよいよ
花を咲かせました。
日々ますます花をさかせています。
「実りの花」。
「金木犀:きんもくせい」は「秋」に「2度」咲きます。
「銀木犀:きんもくせい」も咲き始めました。
「「銀木犀:きんもくせい」は「金木犀:きんもくせい」
の花が黄金色なのに「プラチナ色」です。
かおりも全く違う。
「金木犀:きんもくせい」より10日遅れで咲きます。

「金木犀:きんもくせい」は不思議な木です。

「金木犀:きんもくせい」の真下では何も
「金木犀:きんもくせい」の花の香(はなのか)
はしません。
遠く離れると「香ります」。

「花」はみえませんが。
「金木犀:きんもくせい」の香り
がとくとくと遠く永遠に「ただよっています」。
たいしたものです。

「椿」のように花が落ちて。
「木の下」に「フェルマータ"fermata"」*がありません。

「落花生」のような「木」です。

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C・

イタリア語におけるフェルマータ"fermata"とは。
英語"stop"に相当する名詞です。
(例えばイタリアのバス停の標識には"Fermata"の表示があります)。

音楽美学の世界では。

絵画には限られた面積があるのと同じように。
音楽には。
「限られた時間」—つまり「初め」と「終わり」—があることが
宿命とされています。
古い時代の楽譜のときはその終止線の上下や終結音の
上下に現在のフェルマータのマークの基となったデザインが
配されました。

そこで音楽の終わりを意味致しました。

時間の流れを止めることはできません。
けれども曲の終わりでは。
音楽を止めることによってその時空に終わりが
発生することとなります。
「停止」という意味の"fermata"の概念はそのように
発生したと解されます。

付与された音符や休符で音楽の時間の流れを
停止させる意味を持ちます。

「♪」
に付与されれば
「♪」
その音のまま「停止」=「ずっと鳴り続ける」
「休止符」
に付与されれば
「休止符」
その旋律は「停止」=「ずっと鳴らない」
ことになります。
楽譜の節目の
縦線に付与される場合には。
一記譜上に存在しない挿入された休符が空白時間として
求められます。
ただし
前の音から伸ばされたタイ(スラー)が縦線の上を横切っている場合と
そこにピアノにおけるペダルなどの保続効果の指示が見られる場合は
空白時間として処理されず音を保続させる時間を
別途挿入することとなります。

フェルマータ"fermata"。

そのマークは「一日の終わりである日没」
に由来したデザインとも言われています。
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旧暦では「11月」から「冬」です。
だから今現在は。
今現在深まり行く「中秋」です。

今朝早朝の真っ暗な時間に
「吐息」が「白く」みえました。
急速に「さむくなってきました」。

今朝早朝は
暗いうち晴れて。
霧雨の合間に。
久方ぶりに星をみました。
そして天井の空高くひさしぶりに「月」の
かがやきをみました。

地上の変化(へんげ)が天高くたちのぼり
月や星に結晶して。
芳香をはなつがごとく光をはなつように
見えます。

空気のすんんでいるからでしょう。

「天高く」とはなるほどと考えます。

こうろぎの合唱も。
なかなかすてきです。
ブラスでもない。木管でもない。弦でもない。
グラスハープの。
オーケストラを聴いているようです。

「9月」も深まるにつれ。
そして「10月」になり
「こおろぎ」の鳴き声は「一段と大きく」
なりました。
夏のせみの声より「暗い早朝の一瞬」は
大きいです。

かならずや。
「極めて大きな声でないている」こおろぎが
「1-2匹」はいるのが不思議です。

そぞろ そぞろに。
静かながらに。

「10月」の朝焼けと。
夕焼けどきに。

ひそやかながらもあきらかに。
「しずかな秋」のかおりが。
大気にかげろううや蜃気楼のように
ただよいはじめています。

昼間はまだあつい陽射しを感じることも
あります。

五月(さつき)がおわり。
六月がおわりました。
七月もうおわりました。
「8月」もおわりました。
夏はおわりました。

そして
「あきの「秋」「9月」がおわりました。
今は中秋の「10月」です。

そして。
「今年も半分+4ヶ月」おわろうとしています。

9月の初秋の気配が
あっというまに。
秋の「霞(かすみ)」に「霊気(れいき)」
のように変化して。
次第に「初秋」の気配が消えていく。
そして「10月」。
ふかまりゆく「中秋の登場」は。
威風堂々と。
感じられるような気がします。

そしてさらに。

初秋そしてさらに。

「もっと深い秋」のピアニッシモppで。
しのびよる気配が
かんじられます。

朝日と東の朝焼け青空に。
「朝焼け」の。

空にはそらいろとピンクのレースのような

あやにしきの「あきいろ」が感じられます。

秋陽射し(ひさし)やさしき秋。
秋空にも地にも天高くはれ。
秋の大気のひそみかくれ。
秋そらにみちてあふれれば。
秋吐息(ためいき)となり。
吐息が霧雨か霞になり。
秋おりてくるような感じです。
「秋はふかまりゆく」気配
になりました。

「9月おわりました。」
そして「10月」「深まる秋」になりました。

秋の木々のめぶきは
初秋の息吹から中秋の息吹への
変化(へんげ)を力強く感じます。

早朝は「肌寒い」です。
今年は「寒い」です。

百姓のうまれなので「冷秋」が心配です。

街路樹はしっかりと
枝木の穂先もたわわにつよく
初秋の萌黄色から中秋の若葉そして
中秋のあおい「木」にかわりました。
そしてあきのあおい「木」は。
「実りの秋」のおとづれを。
そしてさらなる「秋の深まり」を
むかえようとしてています。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックの
庭の。

山椒(さんしょう)の木の芽が
中秋にも若葉はそだち。
初秋若葉は中秋の若枝となり。
中秋若枝は天高くすこやかにのび。
秋のふかまりにますますすこやかに。
秋山椒(さんしょう)の木のみどり葉。
秋空に燃えるが如くの炎葉です。

さんしょうを
木の芽(このめ)といふは
なるほどと
かんがえる

秋深まりたり
秋空たかく
秋あやにしき
秋みどり木
秋さんしょう木
秋陽をあびてかがやけり
秋いざいまこそは
秋金色(かがね)にかわり
秋赤き秋空に燃えたたむ

秋さんしょう木
秋もえぎの炎(ほのほ)は芽葉(めは)
秋わかば葉はいずるは花ならむ
秋(あき)こす枝は幹ならむ
秋いざいまこそは
秋空(そら)たかくもえたたむ
秋金色(こがねいろ)なる
秋さんしょう木
秋(あき)深まれり

山本クリニックの庭には水槽が
「2つ」あります。
めだかが泳いでいます。

秋ふかく草を浮かべる水面(おも)に
秋めだかのむれのひかりたり
秋むれておよげるひめだかの
秋みずのなかなるちいさないのち
秋みずのなかなるおおきないのち
秋みのりてあまたにとほときいのちこそ
秋いざみずもにうつしはぐくまむ

けれども
まだ早朝は本当にはだ寒いのです。

小さなあきみつけたから
しだいに大きなあきみつけた
大きなあきみつけたから
大きな大きな秋みつけたは

ちょっと「こころしずまる気」がします
「中秋」です

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ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
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平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
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平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
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GWの予定ですが。
平成20年4月29日(火曜日)
は祝日です。(はおわりました)
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平成20年5月 3日(土曜日)
平成20年5月 5日(月曜日)

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
(4・29 5・3 5.5)
=>

平成20年5月 6日(火曜日)
は同じく祝日ですが
は「お休み」を頂く予定です。
は終わりました。
5月7日(水曜日)より「定常どおり」
になります。
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7月21日(月曜日)は。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
=>
は終わりました。

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「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました
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9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました

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10月13日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

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11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
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私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円
2回法=7.000円
です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。

インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

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2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

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成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は

++++++++++++++++++++++
指揮者
フルトヴェングラーは
チェロ奏者としての賛辞として。

「このチエリストの音楽を聴いたことのない人は、
弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」
と言わしめた。

それまで単なる練習曲と考えられていた
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作
『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、
広く紹介したことで高名な。

世紀の天才名チエリスト。
1973年 -
パブロ・カザルス、チェロ奏者(* 1876年)
の没日です。

++++++++++++++++++++++
パブロ・カザルス
(Pablo Casals, 1876年12月29日 -
1973年10月22日)は。
スペインのカタルーニャ地方に
生まれたチェロ演奏家、指揮者、作曲家です。

カタルーニャ語によるフルネームは
パウ・カルロス・サルバドール・カサルス・イ・デフィリョ
(Pau Carlos Salvador Casals i Defillo)です。

チェロの近代的奏法を確立し、
深い精神性を感じさせる演奏において
20世紀最大のチェリストとされます。

有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていた
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作
『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、
広く紹介したことがあげられます。

++++++++++++++++++++++

早くから世界的名声を築き
ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回りました。

カザルスは平和活動家としても有名で、
音楽を通じて世界平和のため積極的に行動致しました。

++++++++++++++++++++++
カザルスの楽器
弦楽器の名器といえば筆頭に挙げられる
ストラディヴァリウスです。

カザルスは「自分にはもったいない」
「(音色が)自分には合わない」といって使いませんでした。

1733年作のゴフリラーを愛用していました。

カザルスの没後、
このゴフリラーを貸与されたチェリストに
アントニオ・メネセス、アンヌ・ガスティネルがいます。

++++++++++++++++++++++

パブロ・カザルス:Pau Casals i Defillo, Pau Casals
のチェロ奏法の改革

カザルスは12歳でバルセロナの市立音楽院で
チェロを学ぶことになりました。

ホセ・ガルシアから教授されたチェロ奏法に当初から違和感を抱き、
独自の奏法の追究を始めました。

当時のチェロ奏法は、両ひじを両脇につけるという
窮屈なものであったのです。

この状態で、右手は手首を持ち上げ加減にして
前腕だけで弓を扱い、左手は指の間隔を広げずにすべらせて
音程移動させていました。

このような奏法は、ヨーゼフ・ヨアヒム一門による
ヴァイオリン奏法を
機械的に模倣したものと考えられています。

++++++++++++++++++++++

カザルスは、右手を脇から自由にして
弓による表現性を広げ。

左手も脇から離し、指の間隔を拡張させて
同じポジションで半音広く弾くことができるように改良致しました。

このとき、カザルスは、
アンリ・ヴュータンやウジェーヌ・イザイなど
フランコ・ベルギー派のヴァイオリン奏法を
参考にしたともいわれます。

これらの奏法の確立には11年から12年を要しました。

カザルスは、自身では奏法革命とか改革という表現は
使っていません。

名技性ではなく
あくまで音楽的な完全性をめざすために必要だったと述べて
います。

++++++++++++++++++++++

パブロ・カザルス:Pau Casals i Defillo, Pau Casalsの
この奏法の改革がなければ。
20世紀のチェロ無伴奏作品のほとんどが作曲されることは
なかっただろうと伝えられています。

++++++++++++++++++++++

パブロ・カザルス:Pau Casals i Defillo, Pau Casals
の「表現する音程」

カザルスの演奏は
シャープ記号(半音高く)の音が半音より高く。
フラット記号(半音低く)の音が
より低い傾向がありました。

++++++++++++++++++++++

音程が不正確で現代と比べれば、
技巧的には前時代的などと批判的に
指摘する人もいました。

しかし、カザルスは、
音程も表現の手段であり、同じ音階でも、
上昇するときと下降するときでは
異なる音程をとる必要があると語っています。

したがって、カザルス自身はそのことを十分承知の上で、
表現上あえて音程をずらしていたのです。

++++++++++++++++++++++

カザルスの政治姿勢
カザルスは、スペイン内戦が勃発するとフランスに亡命し。

終生フランコ独裁政権への抗議と
反ファシズムの立場を貫きました。

このことは、ナチス・ドイツに
迎合する姿勢を示していたコルトーとの決別、
カザルス三重奏団の解散へとつながりました。

また、スペイン内戦を避けて1939年にプラドへ移り、
第二次世界大戦後の1945年に演奏活動を
一時的に再開するが、
各国政府がフランコ政権を容認する姿勢に失望し、
公開演奏停止を宣言致しました。

この間、多くのチェリストがカザルスのレッスンを受けるために
プラドを訪れました。

++++++++++++++++++++++

この時期カザルスに師事したチェリストに、
モーリス・ジャンドロン、アンドレ・ナヴァラら、
日本人では佐藤良雄、平井丈一朗らがいます。

1950年代後半からは
アルベルト・シュバイツァーとともに核実験禁止の運動に参加
致しました。

++++++++++++++++++++++

略歴
1876年、スペイン・カタルーニャ地方の町ヴェンドレルに生まれる。
カザルスの名パブロは、カタルーニャ語表記ではパウ。4歳でピアノを始め、6
歳で「マズルカ」を作曲した。9歳になると、ペダルに足が届くようになったことで
オルガンを始めた。チェロに出会ったのは11歳のときだった。

1888年から1893年まで、バルセロナ市立音楽院でチェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。
チェロはホセ・ガルシアに、作曲は当時の音楽院長であったホセ・ロドレダに師事。

1890年、13歳のとき、バルセロナの楽器店でバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を発見。

1899年、パリでデビュー。

1904年、バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏する。

1905年、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)
との三重奏団を結成(カザルス三重奏団)。

1908年、コンセール・ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場。
このときが指揮者活動の始まりとみられる。

1919年、第一次世界大戦の影響により、カタルーニャに戻る。

1939年、スペイン内戦のため、フランスへ亡命。
スペインとの国境に近いプラド(Prades)に隠棲。

1945年、6月から演奏活動を再開。しかし、
各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議して11月から演奏活動を停止。

1950年、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダーの説得によって
カザルスを音楽監督とするプラド音楽祭が開催される。

1955年、本拠地をプエルトリコに移す。プエルトリコは、
カザルスの母及びカザルスの妻マルタの故郷である。

1960年、自作カンタータ「まぐさ桶」を初演。

++++++++++++++++++++++

パブロ・カザルス:Pau Casals i Defilló, Pau Casalsは。
1961年、弟子の平井丈一朗[2]のために来日致しました。
東京交響楽団、京都市交響楽団を指揮。

1971年、10月24日の「国連の日」に
ニューヨーク国連本部にて演奏会、
国連平和賞が授与されましら。

1973年、心臓発作によりプエルトリコで死去。
遺言によって、遺体は生地ヴェンドレル村の墓地に埋葬
されました。

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パブロ・カザルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%AB%E3%82%B9

パブロ・カザルス(Pablo Casals, 1876年12月29日 - 1973年10月22日)は、スペインのカタルーニャ地方に生まれたチェロ演奏家、指揮者、作曲家。カタルーニャ語によるフルネームはパウ・カルロス・サルバドール・カサルス・イ・デフィリョ(Pau Carlos Salvador Casals i Defillo)。チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる[1]。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことがあげられる。早くから世界的名声を築き、ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回った。指揮者フルトヴェングラーはチェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」。カザルスは平和活動家としても有名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動した。

目次
1 略歴
2 チェロ奏法の改革
3 「表現する音程」
4 カザルスの政治姿勢
5 プラド音楽祭の誕生
6 鳥の歌
7 カザルスの楽器
8 脚注
9 文献
10 外部リンク

略歴
1876年、スペイン・カタルーニャ地方の町ヴェンドレルに生まれる。カザルスの名パブロは、カタルーニャ語表記ではパウ。4歳でピアノを始め、6歳で「マズルカ」を作曲した。9歳になると、ペダルに足が届くようになったことでオルガンを始めた。チェロに出会ったのは11歳のときだった。
1888年から1893年まで、バルセロナ市立音楽院でチェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。チェロはホセ・ガルシアに、作曲は当時の音楽院長であったホセ・ロドレダに師事。
1890年、13歳のとき、バルセロナの楽器店でバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を発見。
1899年、パリでデビュー。
1904年、バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏する。
1905年、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)との三重奏団を結成(カザルス三重奏団)。
1908年、コンセール・ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場。このときが指揮者活動の始まりとみられる。
1919年、第一次世界大戦の影響により、カタルーニャに戻る。
1939年、スペイン内戦のため、フランスへ亡命。スペインとの国境に近いプラド(Prades)に隠棲。
1945年、6月から演奏活動を再開。しかし、各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議して11月から演奏活動を停止。
1950年、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダーの説得によってカザルスを音楽監督とするプラド音楽祭が開催される。
1955年、本拠地をプエルトリコに移す。プエルトリコは、カザルスの母及びカザルスの妻マルタの故郷である。
1960年、自作カンタータ「まぐさ桶」を初演。
1961年、弟子の平井丈一朗[2]のために来日。東京交響楽団、京都市交響楽団を指揮。
1971年、10月24日の「国連の日」にニューヨーク国連本部にて演奏会、国連平和賞が授与される。
1973年、心臓発作によりプエルトリコで死去。遺言によって、遺体は生地ヴェンドレル村の墓地に埋葬された。

チェロ奏法の改革
カザルスは12歳でバルセロナの市立音楽院でチェロを学ぶことになるが、ホセ・ガルシアから教授されたチェロ奏法に当初から違和感を抱き、独自の奏法の追究を始めた。当時のチェロ奏法は、両ひじを両脇につけるという窮屈なものであった。この状態で、右手は手首を持ち上げ加減にして前腕だけで弓を扱い、左手は指の間隔を広げずにすべらせて音程移動させていた。このような奏法は、ヨーゼフ・ヨアヒム一門によるヴァイオリン奏法を機械的に模倣したものと考えられている。

カザルスは、右手を脇から自由にして弓による表現性を広げ、左手も脇から離し、指の間隔を拡張させて同じポジションで半音広く弾くことができるように改良した。このとき、カザルスは、アンリ・ヴュータンやウジェーヌ・イザイなどフランコ・ベルギー派のヴァイオリン奏法を参考にしたともいわれる。これらの奏法の確立には11年から12年を要した。カザルスは、自身では奏法革命とか改革という表現は使っていない。名技性ではなく、あくまで音楽的な完全性をめざすために必要だったと述べている。

この奏法の改革がなければ、20世紀のチェロ無伴奏作品のほとんどが作曲されることはなかっただろうと伝えられる。

「表現する音程」
カザルスの演奏は、シャープ記号(半音高く)の音が半音より高く、
フラット記号(半音低く)の音がより低い傾向があると指摘されたり、
音程が不正確で現代と比べれば、技巧的には前時代的などと批判的に指摘する人もいる。
しかし、カザルスは、音程も表現の手段であり、同じ音階でも、
上昇するときと下降するときでは異なる音程をとる必要があると語っている。
したがって、カザルス自身はそのことを十分承知の上で、
表現上あえて音程をずらしていたのである[3]。

カザルスの政治姿勢
カザルスは、スペイン内戦が勃発するとフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた。このことは、ナチス・ドイツに迎合する姿勢を示していたコルトーとの決別、カザルス三重奏団の解散へとつながった。

また、スペイン内戦を避けて1939年にプラドへ移り、第二次世界大戦後の1945年に演奏活動を一時的に再開するが、各国政府がフランコ政権を容認する姿勢に失望し、公開演奏停止を宣言する。この間、多くのチェリストがカザルスのレッスンを受けるためにプラドを訪れた。この時期カザルスに師事したチェリストに、モーリス・ジャンドロン、アンドレ・ナヴァラら、日本人では佐藤良雄、平井丈一朗らがいる。

1950年代後半からはアルベルト・シュバイツァーとともに核実験禁止の運動に参加した。

プラド音楽祭の誕生
1947年、ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュナイダー[4]がカザルスを訪ね、アメリカでの演奏を申し出たがカザルスはこれを断った。手ぶらで戻ってきたシュナイダーはカザルスと親交があるミェチスラフ・ホルショフスキと相談した。カザルスを引っ張り出すのは無理でも、音楽家がカザルスのところへ集まれば、演奏会は可能だと判断し、1950年、シュナイダーはアメリカ・コロンビア社の資金協力を得て、プラドでカザルスを音楽監督としたバッハ音楽祭を開くことを提案し、ついにカザルスの説得に成功した。プラド音楽祭の誕生であった。音楽祭の模様は、コロンビア社によってLP録音された。プラド音楽祭は、1950年から毎年開かれたが、コロンビア社の資金難や意向、カザルスたち演奏家同士の意向が衝突するなど、次第に運営が困難になっていく[5]。1957年にカザルスがプエルトリコに本拠を移して以降は、この地でカザルス自身が音楽祭を開催した。1960年からは、カザルスはルドルフ・ゼルキンが主宰するマールボロ音楽祭に参加し、演奏家・指導者としてオーケストラを指揮・録音するようになる。このときのマールボロ音楽祭には、日本人ヴィオリストの今井信子やオーボエの鈴木清三も参加している。

鳥の歌
カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。

1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタロニアの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」と語り、『鳥の歌』 (El Cant dels Ocells) をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている[6]。

カザルスの楽器
弦楽器の名器といえば筆頭に挙げられるストラディヴァリウスだが、
カザルスは「自分にはもったいない」「(音色が)自分には合わない」といって使わず、
1733年作のゴフリラーを愛用していた。
カザルスの没後、
このゴフリラーを貸与されたチェリストにアントニオ・メネセス、アンヌ・ガスティネルがいる。

脚注
^ 『音楽がわかる世界地図』(ロコモーションパブリッシング ISBN 9784862120281)p.74
^ 1957年から1961年にかけてカザルスに師事
^ 音程に関するカザルスの考えは『カザルス The art of interpretation』(デイビッド・ブルーム著)や『現代チェロ奏法』(モーリス・アイゼンバーグ著)に詳しい。
^ ブダペスト弦楽四重奏団の一員でもある
^ なお、一部はペルピニャンで開催された年もある。
^ mp3: [1]

文献
モンセラート・アルベット(岡部真一郎訳)『Memories of Casals ガザルスの思い出』主婦の友社、1990年10月、ISBN 4079367767
石井清司『4分間の第九交響曲 カザルスの果たされた夢』日本放送出版協会、1999年11月、ISBN 4140804831
井上頼豊『回想のカザルス』新日本出版社、1996年12月、ISBN 4406024867
井上頼豊『カザルスの心 平和をチェロにのせて』(岩波ブックレット)、岩波書店、1991年8月、ISBN 400003152X
アルバート・E.カーン編(吉田秀和、郷司敬吾・共訳)『パブロ・カザルス喜びと悲しみ』朝日新聞社、1991年12月、ISBN 4022595396
原著: Albert Eugene Kahn, Joys and sorrows
コレドール(佐藤良雄訳)『カザルスとの対話』白水社、1967年 / 新装版: 1988年2月、ISBN 4560036810
原著: Jose Maria Corredor, Conversations avec Pablo Casals
ジャン・リュック・タンゴー編著(伊藤制子訳)『コルトー・ティボー・カザルス 夢のトリオの軌跡』ヤマハミュージックメディア、2002年4月、ISBN 4636209885
原著: Jean-Luc Tingaud, Cortot-Thibaud-Casals
ロバート・バルドック(浅尾敦則訳)『パブロ・カザルスの生涯』筑摩書房、1994年1月、ISBN 4480872329
デイヴィッド・ブルーム『カザルス The art of interpretation』音楽之友社、1985年3月、ISBN 427620366X
原著: David Blum, Casals and the art of interpretation
フリッツ・ヘンリー『カザルス 写真集 芸術と人生のパンセ』小学館、1977年3月
ジュリアン・ロイド・ウェバー編(池田香代子訳)『パブロ・カザルス鳥の歌』筑摩書房、1989年9月、ISBN 4480871381 / ちくま文庫: 1996年9月、ISBN 448003188X
Julian Lloyd Webber, Song of the birds

外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、パブロ・カザルス に関連するマルチメディアがあります。カザルスへの旅
Benvinguts a la web de la Fundacio Pau Casals(カタルーニャ語・スペイン語・英語・フランス語。PauCasals.org)
Web oficial del Festival Casals de Puerto Rico (San Juan)(スペイン語)
Cello.org: Portrait of Pablo Casals(英語)
Bach-Cantatas.com: Pablo Casals - Short Biography(英語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%AB%E3%82%B9" より作成
カテゴリ: スペインの指揮者 |

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10月22日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8822%E6%97%A5

できごと
1894年 - 庄内地震が発生。死者は700名以上を数えた。

1938年 - チェスター・F・カールソン、
電子複写方式(ゼログラフィ、コピー機、レーザープリンタの原理)を発明。

1958年 - 日本初の長編カラーアニメーション映画『白蛇伝』公開。

1962年 - ジョン・F・ケネディ米大統領がキューバ海上封鎖を表明(キューバ危機)。

1973年 - 読売ジャイアンツが阪神甲子園球場の
最終戦で阪神タイガースを破りセントラル・リーグ9連覇達成。

1992年 - 家庭用ゲーム機スーパーファミコンで株式会社コーエーより
SUPERロイヤルブラッドが発売される。

2004年 - 東京ディズニーシー全域で大規模な停電が発生。

2005年 - 福井青春物語、地方の低予算映画では
異例のロードショー公開、森川陽一郎が劇場デビュー。

2007年 - 1997年に解散したロックバンドX JAPANが正式に復活。

誕生日
1689年 - ジョアン5世、ポルトガル王(+ 1750年)

1792年 - イニャーツィオ・カランドレッリ、天文学者(+ 1866年)

1811年 - フランツ・リスト、ピアニスト(+ 1886年)

1844年 - サラ・ベルナール、女優(+ 1923年)

1882年 - エドマンド・デュラック、イラストレーター(+ 1953年)

1887年 - ジョン・リード、ジャーナリスト(+ 1920年)

1907年 - ジミー・フォックス、元メジャーリーガー(+ 1967年)

1911年 - 佐々木洋興、有機化学者(+ 2008年)

1913年 - バオ・ダイ、ベトナム阮朝最後の皇帝(+ 1997年)

1917年 - ジョーン・フォンテイン、女優

1933年 - 草笛光子、女優

1938年 - クリストファー・ロイド、俳優

1939年 - 黒部進、俳優

1943年 - カトリーヌ・ドヌーヴ、女優

1945年 - 成田賢、歌手

1946年 - 丸山裕子、声優

1948年 - 伊藤正徳、調教師
1948年 - 美樹克彦、シンガーソングライター・音楽プロデューサー
1949年 - アーセン・ベンゲル、サッカー監督
1952年 - 田中芳樹、作家
1952年 - タケカワユキヒデ、音楽家
1952年 - ジェフ・ゴールドブラム、俳優
1953年 - 三田村邦彦、俳優
1953年 - 伊藤薫、作詞家・作曲家
1957年 - クリス・ペプラー、タレント
1958年 - 高木豊、元プロ野球選手・野球解説者
1960年 - 室井滋、女優
1961年 - 石橋貴明、タレント(とんねるず)
1963年 - 大井久士、元プロ野球選手
1965年 - ルビー・モレノ、女優
1966年 - 勇利アルバチャコフ、元ボクシング選手
1967年 - 山口豊、テレビ朝日アナウンサー
1969年 - キューティー鈴木、プロレスラー
1970年 - 中村佳央、柔道・アトランタオリンピック選手
1973年 - イチロー、プロ野球選手・メジャーリーガー
1973年 - 佐藤愛子、元アイドル(ribbon)
1975年 - 外山惠理、TBSアナウンサー
1975年 - ミチェル・サルガド、サッカー選手
1975年 - 水瀬いつる、漫画家
1977年 - 松尾敏伸、俳優
1979年 - 穂苅寿彦、騎手
1982年 - すほうれいこ、タレント
1982年 - 松本莉緒、女優
1982年 - 松尾英里子、日本テレビアナウンサー
1983年 - 上里亮太、タレント(ジャニーズJr.)
1984年 - 関根麻里、タレント
1984年 - 浅尾拓也、プロ野球選手
1985年 - 高木万平、俳優
1985年 - 高木心平、俳優
1986年 - 海老澤健次、俳優
1987年 - 小林ユリ、グラビアアイドル
1989年 - ケイティ・テイラー、フィギアスケート選手
1990年 - 池田光咲、ファッションモデル、女優
1996年 - 小林廉、子役

忌日
1906年 - ポール・セザンヌ、画家(* 1839年)

1914年 - 小錦八十吉 (初代)、大相撲第17代横綱(* 1866年)

1915年 - ヴィルヘルム・ヴィンデルバント、哲学者(* 1848年)

1937年 - 中原中也、詩人(* 1907年)

1937年 - フランク・ダムロッシュ、指揮者(* 1859年)

1972年 - 初代柳家金語楼、落語家(* 1901年)

1973年 - パブロ・カザルス、チェロ奏者(* 1876年)

1975年 - アーノルド・J・トインビー、歴史学者(* 1889年)

1979年 - ナディア・ブーランジェ、音楽教師・指揮者(* 1887年)

1986年 - 葉剣英、中華人民共和国の政治家(* 1897年)

1989年 - 清宮四郎、法学者(* 1898年)

1991年 - 春日八郎、歌手(* 1924年)

1997年 - 柚木進、元プロ野球選手(* 1920年)

2002年 - 戦術君、ベガルタ仙台のサポーター(*1968年)

2006年 - 藤尾正行、衆議院議員(* 1917年)

2006年 - 崔圭夏、韓国大統領(* 1919年)

2006年 - ばってん荒川、ローカルタレント、演歌歌手、舞台役者(* 1937年)

記念日・年中行事
平安遷都の日(日本)/時代祭
延暦13年10月22日(794年11月18日)、
桓武天皇が長岡京から山背国葛城郡宇太村の新京(同年11月8日に平安京と命名)
に移ったことに由来。
これを記念して、京都市では毎年10月22日に時代祭が行われる。

パラシュートの日
1797年10月22日にフランスのアンドレ・ガルネランが
高度約2400mから布製の傘のようなもので飛び降りた事に由来する。

方言の日

絹婚記念日

中原中也忌