東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭
脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年10月30日(木曜日)
ことしもずっと前に。
ひなまつりがおわり。
春分の日もはるかまえ。
「さくら咲き」
「4月」が終わりました。
「5月」になりました。
「5月」もおわりました。
6月に。「夏」になりました。
6月も終わりました。
7月 たなばた もおわり。
7月もおわりました。
8月もおわりました。
夏はすぎました。
9月の秋はおわりました。
中秋10月です。
あと「2日」で「11月」冬間近です。
「秋」になりました。
「9月」の初秋がおわり。
「10月」になり「30日目」です。
「10月もおわり」です。
もう「11月」。
ことしも「あと63日」で。
「来年」になります。
考えると「おそろしいもの」です。
考えなければ「なおおおそろしい」。
今日の深夜早朝03:15amには。
久方ぶりに大きな「星空」がみえました。
早朝くらいうちは。
空に月。
「お月様」が「秋雲のじゅうたん」
天高くにねそべっている
ような「寒月」です。
日があければ。
朝日を背に。
西のコバルトの空高くの。
高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」が
西のコバルトの空高に
描かれていました。
見事な筆裁きです。
ためらいがない「朝焼け色」の線描です。
高い成層圏近くの高い高度に。
「刷毛でひいたように」「絹雲(けんうん)」
の端には渦巻きのような「あな」があり
「青空」がみえます。
さながらにして。
皇室は赤坂迎賓館の。
東山魁夷画伯の描かれた大きな壁画。
大きな屏風絵の世界。
そのものです。
はやいものです。
ときのたつのは。
はやいものです。
そしてふと考えれば
今年も「10ヶ月」が
終わりました。
そして中秋から晩秋。
「寒月」です。
病院の庭園に「4本」ある
「金木犀:きんもくせい」の大木の
いずれもがこがねの花を
たんぽぽのように
枝にみのらせていました。
まだ「はつはな」で初々しかったです。
けれども「金木犀:きんもくせい」
は雨に打たれると。
花は地面にオレンジの緋色毛氈(ひいろもうせん)
のように落下致します。
オレンジ色の雪のようでし。
「金木犀:きんもくせい」に変わって
「銀木犀:きんもくせい」のプラチナ色の香りが
致しました。
「金木犀:きんもくせい」も
「銀木犀:きんもくせい」
も花はおわりました。
山茶花が蕾をふくらませています。
ふと野草の花は香らないこよに気づきました。
伊藤左千夫の「野菊の墓」の「野菊」は。
矢車菊 (やぐるまぎく)
(Corn lower, Bachelor's-button)です。
因みに
最高級の(今はもうとれない)
インド・カシミール地方で産出されたの
サフアイアの色は「矢車菊色」=
「カシミール・ヴァイオレット」。
麦畑の中に 咲いていたことから「野菊」(Corn lower)
です。
別名 「矢車草(やぐるまそう)」 なのですが
実はまったく違う植物です
「野菊」は春から夏にかけて咲くむらさきの花。
古代エジプトのツタンカーメン王の墓 からも
発見された由緒正しき「野菊」で色は紫です。
ツタンカーメン王のまだ幼な子王妃が
「亡きツタンカーメンンにささげるけなげな姿」
が鮮烈に眼に浮ぶ「野菊」です。
けれども「野菊」は香りません
毎朝暗い早朝と暗くなる午後4時ころに
「こおろぎ」がないています
「こおろぎ」のほかの。
「秋の虫」も
鳴き声はきこえているようです。
「秋の虫たち」がないています。
こおろぎたちの合唱がきこえてきます。
こおろぎが
「夏のせみより大きな鳴き声」で
鳴く時期のあることに。
びっくりいたしました。
「ろうろう」「こうこう」です。
けれども「虫たちの鳴き声」
は次第に小さく少なく聞こえる
ようになりました。
秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども
風の音にぞおどろかれぬる
あききぬとめにはさやかにみえねども
かぜのおとにぞおどろかれぬる
これは「今現在の秋」よりもう少し手前の
「旧暦初秋或は晩夏」の時期に詠まれた
昔の短歌です。
「来(き)ぬ」「着ぬ」「絹」の
最初の「韻:いん」で衝撃的
なインパクトを伝える「うた」です。
そして
「みえね」「美え音」で「第2主題」の伏線をはり。
突如として。
「かぜの音」にて「第2主題」の旋律。
「音」を響かせてフオルレッシモ
ff。
季節そのものの感覚を「音」にあらわした
名歌です。
ジプシーのチャルダッシュの
ラッサン・フリスカのような「うた」です。
これからは日は。
陽は次第にみじかくなる。
日が短くなる。
朝は明けるのは遅くなり。
夕に暗くなるのは速くなる。
しだいに陽がみじかくなる・
なぜか。
不思議なやさしさ。
やすらぎと。
心やすらかなる
安堵感をかんじます。
けれども「安堵感」と「落胆感」は
表裏一体。両羽(もろば)の剣です。
「ぬかよろこび」の「ぬか」のような
性格を「短くなる陽」は持っています。
季節には「大気の音」があるようです。
朝空は
陽ははるかに天高く。
空色はミルク色です。
クリームのかかった雲空です。
「つつじ」の「花」が「春に」おわり。
「葉木」になりました。
東京都世田谷区山本クリニックの庭園には
「えどむらさき」という「つつじ」
が「何本」もはえています。
野生種に近いものです。
大きな真紅紫の花を咲かせます。
「つつじ」ですから
盆栽の「皐月:さつき」のような
繊細さはみえません。
金木犀の大木が4本と銀木犀が2本
あります。
「中秋」をつたえるがごとく。
モクセイの木が「香り花」が開花致しました。
今は
「晩秋」。
「木犀:もくせい」の「花」は通り過ぎました。
「花」はみえない頃からもう
「金木犀:きんもくせい」
は「香っています」。
モクセイも秋にも若葉をだします。
「木犀:モクセイ」は「荒い木」
です。
けれども「生き様」は。
樹木として
とてもとても麗しいと思います。
ある意味では威風堂々です。
「あじさい」は
のんびりやの気がする。
「あじさい」の「花」はさいたまま
「花がさいた」を忘れたかのように
ぼんやりと木にのっている。
いつ花が散るのだろう。
ふと考えます。
あじさいのはなは散らずにそのまま。
いちょうのきの落葉のように。
「葉」としてまっていくのかな。
ふと思う。
考えれば「あじさいのつぼみ」が
思い出せない。
花の咲く存在感のない植物は
あじさいです。
うすぼんやりした花木です。
水墨画の主人公にはなりえない。
この時期になり。
私は森山を分け入ると。
木々の根元に隠れ咲く。
だいだい色の花の花のごとくに紅葉する
「やまはぜの葉木」が「大好き」です。
「やまうるしの紅葉」もかわいらしく。
「大好き」です。
身の丈ほどもある群生する。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
が病院の林の一角に野生のまま
おいしげっています。
野生の「小紫式部:こむらさきしのぶ」
のパープルの真珠が群れたように実る
「実りの木の実」の風にそよぐ音色には。
おどろかされます。
あけびつたもうれしい
あけびの「実」がみつかればなおなおうれしい。
里山の紅葉の時期になりました。
四季の歩みの春夏秋冬のうつろいは
メトロノームの「あゆみ」を
感じさせます。
この「あゆみ」の「質量」は高いです。
質量があれば。あたかも。
重力のように。
四季のリズムにひきよせられていく。
そのような感じがします。
四季の歩みの春夏秋冬は。
フアジーでいてなお着々。
確実な「リズム」を感じます。
ここに。
「メロディ:旋律」とハーモニー:和声」
がくわわれば「音楽の三要素」。
音楽と同じです。
草花や草木につつまれた自然は。
「音楽」と同じように
ひびきとして聴こえます。
自然は
「しぜん」の
「ヴィルトオーゾ」と「ヴィルトゥオーサ(virtuosa)」
*です。
この「自然のフイルハーモニウム」の。
指揮者は。
太陽なのか大地なのか人なのか。
或は音色をかもし出す自然はオーケストラ
であるのか。
ソリストなのだろうか。
私の尊敬する「合衆国USA」の
女性で小説家(「ノーベル賞受賞者」)
「パール・サイデンストリッカー・バック
(Pearl Sydenstricker Buck)
中国名、賽珍珠(サィ・チンシュ)」
パールバックの「大地」に
その「こたえ」が示唆されています。
古代より芸術家が
自然を音楽や絵画や彫刻
で表現しようとした気持ちが良く判ります。
*ヴィルトゥオーソ(virtuoso)は、
「博識、達人」を意味するイタリア語の男性名詞である。
複数形の場合はヴィルトゥオーシ(virtuosi)
、女性形はヴィルトゥオーサ(virtuosa)となる。
ラテン語のvirtus(「男らしさ」「美徳」「至高」の意)を語源とし、元来は「有徳の」「誉められるべき」
を意味する形容詞の男性形であった。
実際の楽曲ではこの三要素は。
密接に音楽的に結びつきひとつの楽曲をなします。
但し音楽の「リズム・メロディ・ハーモニー」は
一つだけを明確に取り出せる「成分」というわけ
ではありません。
また「音楽であるため」に。
三要素が絶対必要ということ
でもないでしょう。
邦楽などではリズム・ハーモニーは
存在しないか希薄である事が多いです。
「音楽」として「欠陥」があるわけ
ではありません。
「リズム・メロディ・ハーモニー」
が西洋音楽の常識ではありえないほど
高度な進化を遂げた音楽も存在致します。
邦楽もその一つです。
大和の国 やまとのくにの自然は。
「大和の国の音楽」と同じように思えます。
聴こえます。
「音楽」は「音」「おと」です。
そして「しらべ」=メロディとハーモニーです。
人類が「この音楽」を「楽譜」として
「寸分たがわず」「譜面」という名の「紙」に
「かくことを完成させた」ということは
大変なことです。
人間は。
人類は。
わずか「400年」で。
「音楽の旋律」に対する「楽譜」を.
「あらたな言語」を
完全に「完成」させたことになります。
まさにミューズの神の「神業かみわざ」です。
木々のめぶきの
ますます力強い息吹を感じます。
「真夏」をすぎ「秋」になると。
再び「若葉」がみられることに。
きづきました。
「ため息」がでるほど木々の「秋若葉」の
「つどい」は「つよく」「うつくしい」。
木々のてっぺんは萌黄色から
「ふかみどり」
になりました。
そして「しっかりと樹木として
「夏を迎えた葉束」になりました。
これからは
「深まる秋」をまちます。
「紅葉」の炎が。
くすぶりまちわびてています。
「若葉」の「新緑」から「深緑」です。
高い木々の穂先は萌黄から若草色に。
うねるなみのように。
木々の新緑は常緑となり夏のおとずれを
伝えていました。
桜は葉桜から「葉木」
道路沿いの「けやき」の木々も
萌黄から若葉。
そして青葉。
どうもうともいえる青葉。
そして見え隠れする「紅葉葉」。
紅葉葉の10枚20枚がひとつひとつ
の樹木にみえるようになりました。
「黄色調」です。
明らかなる。
「冬から春」とはことなる。
「春から夏」「夏から秋」にむかう四季の
「大気の「色」のうつろい
に気づきます。
今は里山(さとやま)をさまよい。
今は里山(さとやま)をあるきたい。
今は里山(さとやま)の季節。
今は昔々里山(さとやま)であそび。
今は昔々て里山(さとやま)でおぼえ。
今は昔々里山(さとやま)でまなんだ。
今は昔々のその日々の思い出は。
今は黄金(こがね)か。あるいは。
今は銀か。いぶし銀か。
今はもしかしたらプラチナか。
今は思い出色は鉛のように。
今は重さは鉛のようになり。
今は心の奥深くに埋もれて感じられます。
「幸せ色」=「しあわせいろ」
ならばよいです。
けれども
早朝ははだ寒くなりました。
秋やま中さまよい
秋わけいらば
秋大樹の根元に隠れたり
秋あけぼの色のちひさき炎(ほのほ)
秋みつけたりやまの華。
秋やまの葉木のかくれんぼ
秋大樹の根元に隠れたり
秋山はぜの葉木。
秋やまうるしの葉木。
秋あきやまはぜとあきやまうるし。
秋山萩(やまはぎ)の
秋花をかくして燃えたたむ
秋に実りの祭りなり
秋山はぜの葉炎
秋天高く燃ゆ
あきやまはぎの
はなをかくしてもえたたむ
あきにみのりのまつりなり
あきやまはせのほのほ
あきてんたかくもゆ
あきひろくなりけり空(そら)たかし
あきさとやまに木々のみどり木
あきこもれびうけて燃えるがごとし
あきみどりの炎(ほのほ)
あきほのほうちけさむかすみはあおし
あきほのほにかすみにただよひて
あきうるわしくかがやきたり
あきあたたかくかおりたり
あきあざやかなりけり
あきやまさとのやまみどり
あきやまさとのふかみどり
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
は「英国:United Kingdom UK」の
「風景画家」
天才画家ですが「緑」が大嫌い
で「黄色」が「大好き」。
「木」をかくのを非常にいやがったそうです。
*
多分ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
が「修行時代」に「お金にために
「どこの国も同じですが」
「名所絵」をかかされたときの
「反動」ではないかと
今の私は考えます。
「大きな夏みつけた」
から
「夏がすぎてて真秋間近い」
「小さな秋みつけた・。」
私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。
睡眠時間は「4時間」。
朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。
朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。
真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。
朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。
-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------
平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
は「おわりました」。
-------------------------------
平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。
祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
は終わりました。
++++++++++++++++++++++
平成20年
4月29日(火曜日)
はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわりました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
但し
5月 6日(火曜日)祝日は「お休み」
を頂きました。
5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行っています。
-------------------------------
7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++
「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。
元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました
++++++++++++++++++++++
9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
++++++++++++++++++++++
10月13日(月曜日)は
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました
++++++++++++++++++++++
11月 3日(月曜日)
11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
++++++++++++++++++++++
★★★
今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。
1回法=3500円
2回法=7.000円
です。
当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。
-------------------------------
2004年10月15日より厚生労働省により
肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。
------------------------------
成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。
------------------------------
学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。
インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。
今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。
体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。
このような今年からは
冬場や春にかぎらず
インフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。
成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。
はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です
-------------------------------
「完全御予約制」の御予約で。
これからの1週間にお越しになる
患者さんの「診療録:カルテ」。
1週間の患者さんの「治療戦略」で
「診療録:カルテ」
をすべからくチエックします。
「御既往」を問診票にお書きいただいており
前回「お書き戴いた文章のあいだ」をよみとる。
「お書き戴いた文章のあいだ」=
行間には「さまざまなものが見えます」。
お書き戴いた
「問診票」は大切な貴重な情報源です。
「問診票」のお書きいただいた文章は
「同じこと」がかかれているようで
わずかにも・内容多くにも・患者さんの
「御自覚症状」を伝えてくれます。
「囲碁・将棋・チエス」で言う所の
「3千手」位までは「先読み」致します。
すなわち患者さんの場合極端に言えば
「10年後」くらいまでのことも考えます。
そのためには逆に考えると今現在から
「10年前」の「病態」の推察も欠かせません。
患者さん御自身「10年前」のことなど
覚えていらっしゃらないことが多いけれども。
「まず外れません」「はずしません」。
考えて。考えをまとめる。
考える。また考える。そしてまた考える。
考えて。考えをまとめる。
考えて。考えをまとめたら。その結果をまた考える。
作業は予想以上に大変で
「1日仕事」になります・・・・。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら
私と東京都 世田谷区 山本クリニックの
「スタッフ全員」が頑張ります。
難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。
よくなられていかれる「笑顔」に。
私そして東京都 世田谷区 山本クリニックの
職員はなによりもの「喜び」を感じます。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔に。
心より。
感謝・
感謝。
「今日は何の日」は
世界の大文豪。
賭博好きな性質や。
シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん
(側頭葉てんかんの一種と思われる。
恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)
などが創作に強い影響を与えているロシアの大文豪。
1846年、処女作『貧しき人々』を
批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、
華々しく作家デビューを果たした文豪。
デビュー前に直接作品を渡されて読んだ。
詩人ネクラーソフが
感動のあまり深夜真夜中に作者宅を訪れたという逸話は
あまりにも有名な大文豪。
文学以外の分野の著名人からも
高く評価されてきた作家としても非常に有名な作家。
「アルバート・アインシュタイン*」は。
「どのような物理学者や思想家が与えてくれるものよりも
多くのものを私に与えてくれる。
ガウスよりも多くのものを与えてくれる」
と語りました。
1821年 - フョードル・ドストエフスキー、小説家(+ 1881年)
の生誕日です。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
(ロシア語:
Фёдор Михайлович Достоевский,
1821年11月11日
〔ユリウス暦10月30日〕 -
1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)
は。
ロシアの小説家・思想家です。
レフ・トルストイやアントン・チェーホフとともに
19世紀後半のロシア文学を代表する文豪です。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの
その著作は。
当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に
影響を受けた知識階級(インテリ)の
暴力的な革命を否定しようとしたものです。
また
キリスト教ことに正教に基づく魂の救済を訴えています。
このような「考え方」から。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは。
実存主義の先駆者と評されることもあります。
なお
姓は訳者によって
ドストエフスキイ、ドストエーフスキイ、ドストイェーフスキイ
などと表記されることもあります。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの略歴
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれました。
15歳までモスクワの生家で暮らしました。
工兵学校生・作家時代を送ったペテルブルクは
物語の舞台として数々の作品に登場致します。
1846年、処女作『貧しき人々』を発表。
批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、
華々しく作家デビューを果たしました。
デビュー前の
ドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ
詩人ネクラーソフが、感動のあまり夜中に
ドストエフスキー宅を訪れたという逸話は
あまりにも有名です。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの
デビューこそ華々しかったものの。
続けて発表した『白夜』『二重人格』は
酷評をもって迎えられました。
その後、
ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する
空想的社会主義サークルのサークル員となったため。
1849年に官憲に逮捕されました。
死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に
皇帝からの特赦が与えられて
(この一連の特赦はすべて仕組まれたものでした)。
シベリア流刑へと減刑になりました。
オムスクで1854年まで服役致しました。
この時の体験に基づいて。
後に『死の家の記録』を著しました。
他にも『白痴』などで、
死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、
この事件は以後の作風に多大な影響を与えました。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは。
刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後に。
1858年にペテルブルクに帰還致しました。
この間に理想主義者的な社会主義者から
キリスト教的人道主義者へと
思想的変化がありました。
その後『罪と罰』を発表し。ますます評価が高まりました。
自身の賭博好きな性質、
シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん
(側頭葉てんかんの一種と思われる。
恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)
などが創作に強い影響を与えています。
これらは重要な要素として
しばしば作品中に登場致しました。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
賭博好きな性質から
ドストエフスキーは生涯を通じて貧乏生活を
余儀なくされました。
借金返済のため、出版社との無理な契約をして、
締め切りに追われる日々を送っていました。
あまりのスケジュール過密さのため。
『罪と罰』、『賭博者』などは
口述筆記(速記)という形をとりました。
速記係のアンナ・スニートキナは後に
ドストエフスキーの2番目の妻となりました。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーには。
また、小説以外の著作として
『作家の日記』があります。
これはいわゆる日記ではなく。
雑誌『市民』でドストエフスキーが
担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり。
文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、
政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、
宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み。
後年ドストエフスキー研究の
貴重な文献として参照されることとなりました。
++++++++++++++++++++++
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは。
晩年に集大成ともいえる
長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。
その数ヵ月後の1881年1月28日に
家族に看取られながら60歳で亡くなりました。
ドストエフスキーの末裔
ドミトリーは現在もサンクトペテルブルクで活動中。
関東(早稲田大学)、関西(天理大学)で
2004年に来日記念講演を行いました。
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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの。
著名人への影響等。
ドストエフスキーは文学以外の分野の著名人からも
高く評価されてきた作家
としても非常に有名です。
「アルバート・アインシュタイン*」は。
「ドストエフスキーは、
どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。
ガウスよりも多くのものを与えてくれる」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、
『カラマーゾフの兄弟』を50回以上も熟読したとされている
(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったため)。
ジークムント・フロイトは、
論文「ドストエフスキーと父親殺し」に関して
ドストエフスキーの
小説や登場人物について研究しておりました。
(フロイトが論文の表題に
作家の名前を冠したことは、極めて異例なことでした)。
グスタフ・マーラーは
妻アルマによれば、マーラーはドストエフスキーの信奉者であり。
つねづね「この地上に誰か一人でも苦しんでいる者がある限り、
どうしてわれわれは幸せになれようか」と言っていました。
黒澤明
「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んでいて、
どうしても一度は映画化をやりたかった。
もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど、
作家として一番好きなのはドストエフスキーですね」
(黒澤監督は『白痴』を、
人物と場所の設定を日本にした上で映画化している)
江戸川乱歩は、ドストエフスキーの作品を繰り返し読み
、「スリルの事」という
ドストエフスキーの作品に関するエッセイも書いています。
また、乱歩の
『心理試験』の設定は『罪と罰』から借りたものです。
手塚治虫は、ドストエフスキーの影響を非常に受けた漫画家である。
「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と公言していました。
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フョードル・ドストエフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(ロシア語: Фёдор Михайлович Достоевский,1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシアの小説家・思想家である。レフ・トルストイやアントン・チェーホフとともに19世紀後半のロシア文学を代表する文豪である。
その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。なお、姓は訳者によってドストエフスキイ、ドストエーフスキイ、ドストイェーフスキイなどと表記されることもある。
目次
1 略歴
2 ドストエフスキーと日本の接点
3 著作
4 研究
5 著名人への影響等
6 脚注
7 外部リンク
略歴
モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らした。工兵学校生・作家時代を送ったペテルブルクは物語の舞台として数々の作品に登場する。
1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。
デビューこそ華々しかったものの、続けて発表した『白夜』『二重人格』は酷評をもって迎えられる。その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられて(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)、シベリア流刑へと減刑になり、オムスクで1854年まで服役する。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。
自身の賭博好きな性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、ドストエフスキーの生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』、『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。
また、小説以外の著作として『作家の日記』がある。これはいわゆる日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の貴重な文献として参照されることとなった。
晩年に集大成ともいえる長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。
ドストエフスキーの末裔ドミトリーは現在もサンクトペテルブルクで活動中。関東(早稲田大学)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行った。
ドストエフスキーと日本の接点
ドストエフスキーは、日本に正教を伝え、日本ハリストス正教会の原型を築いたロシア人大主教ニコライ・カサートキンに会った事がある[1]。ドストエフスキーは日本に正教会を伝道する大主教ニコライと会う事を楽しみにしていたらしい。当時の二人の会話にある彼の台詞は、ドストエフスキーの日本に対する見方と、正教伝道に対する姿勢が垣間見える、貴重な判断材料である。
ドストエフスキー研究の専門家の中からニコライ大主教の膨大な量の日記を全て日本語訳するプロジェクトを監修するに至る研究者(中村健之介)が出てきている事からも分かるように、ドストエフスキーと日本との数少ない接点がここに見出される。
ドストエフスキーが日本文学に与えた影響は計り知れない。ドストエフスキー熱は現在でも冷めることなく、「ドストエーフスキイの会」(木下豊房代表)、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」がある。全集は、大正期に新潮社(未完)ほか3社で、戦前は三笠書房で、戦後は2度米川正夫訳で河出書房より、小沼文彦訳で筑摩書房より、江川卓、原卓也、川端香男里、小笠原豊樹、工藤精一郎、木村浩等の訳で新潮社より刊行された。
著作
死去するまでに残した著作は全部で35篇で、短編も少なからず残されている。
1841年『マリア・ステュアルト』、『ボリス・ゴドゥノフ』(いずれも現存せず)
1846年『貧しき人びと』(Бедные люди)、『分身』(Двойник)、『プロハルチン氏』、『剃り落とされた頬髯』、『廃止された役所の話』(後の二作品は現存せず)、
1847年『九通の手紙にもられた小説』、『ペテルブルグ年代記』、『家主の妻』
1848年『他人の妻』、『弱い心』、『ポルズンコフ』、『世なれた男の話』(のちに改稿の上『正直な泥棒』と改題)、『クリスマス・ツリーと結婚式』(Елка и свадьба)、『白夜』(Белые ночи)、『嫉妬ぶかい夫』(Честный вор)(のちに『他人の妻』と合わせて『他人の妻とベッドの下の夫』と改題)
1849年『ネートチカ・ネズワーノワ』(Неточка Незванова)
1857年『小英雄』
1859年『伯父様の夢』(Дядюшкин сон)、『ステパンチコヴォ村とその住人』(Село Степанчиково и его обитатели) いずれも笑劇的な滑稽小説であるが、不当に無視されている。
1860年『死の家の記録』(Записки из мёртвого дома)
1861年『虐げられた人びと』(Униженные и оскорбленные)、『ペテルブルグの夢—詩と散文』
1862年『いまわしい話』(Скверный анекдот)
1863年『冬に記す夏の印象』
1864年『地下室の手記』(Записки из подполья)
1865年『鰐』(未完)
1866年『罪と罰』(Преступление и наказание)、『賭博者』(Игрок)
1868年『白痴』(Идиот)
1869年『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
1870年『永遠の夫』
1871年『悪霊』(Бесы)
1873年『ボボーク』*
1875年『未成年』(Подросток)
1876年『キリストのもみの木祭りに行った男の子』*、『百姓マレイ』*、『百歳の老婆』*、『やさしい女』
1877年『おかしな人間の夢』(Сон смешного человека)*
1880年『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы)
注:題名のあとに「*」をつけてある著作は、『作家の日記』(Дневник писателя)に収録された短編である。
一般に『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』が、ドストエフスキーの5大作品と呼ばれている。
研究
ドストエフスキーの研究の歴史の中で、特に重要な研究者は以下の通りである。バフチン、江川以外は古書でしか購入できない。
ミハイル・バフチン - バフチンはポリフォニー論やカーニバル論によって、ドストエフスキー研究の新たな境地を拓いた。バフチンの論は半ば一般論化している。邦訳はちくま学芸文庫版が購入しやすい。
アンドレ・ジイド - ジイドは『地下室の手記』がドストエフスキー文学を解く鍵であるとした。ジイドの論文「ドストエフスキー」は数ある評論の中でも特に有名である。新潮社版全集で寺田透訳がある。
レオニード・グロスマン(1888年 - 1965年) - ドストエフスキーの文学が冒険小説的構成をとっていることなどを指摘した。
『ドストエフスキイ』(北垣信行訳、筑摩書房、1966年、1978年)
『ドストエフスキー全集・別巻』(新潮社版、1980年) - 年譜、伝記、日付と資料 年代記的伝記
『ドストエフスキーの一日』(原卓也訳、講談社、1981年)は小説
江川卓 - 江川はドストエフスキーの言語のダブルミーニングなどについて、研究を行った。
『謎解き罪と罰』『謎解き白痴』ほか 各新潮選書
ヴィクトル・シクロフスキー
『ドストエフスキー論 肯定と否定』(水野忠夫訳、勁草書房)
ニコライ・ベルジャーエフ
『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳、白水社)
著名人への影響等
ドストエフスキーは文学以外の分野の著名人からも、高く評価されてきた作家である。
アルベルト・アインシュタイン「ドストエフスキーは、
どんな思想家が与えてくれるものよりも多くのものを私に与えてくれる。
ガウスよりも多くのものを与えてくれる」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、『カラマーゾフの兄弟』を50回以上も熟読したとされている
(第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったため)。
ジークムント・フロイトは、
論文「ドストエフスキーと父親殺し」において、ドストエフスキーの
小説や登場人物について研究している
(フロイトが論文の表題に作家の名前を冠したことは、極めて異例なことだった)。
グスタフ・マーラーは、妻アルマによれば、マーラーはドストエフスキーの信奉者であり、
つねづね「この地上に誰か一人でも苦しんでいる者がある限り、
どうしてわれわれは幸せになれようか」と言っていた。
黒澤明「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んでいて、
どうしても一度は映画化をやりたかった。
もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど、
作家として一番好きなのはドストエフスキーですね」
(黒澤監督は『白痴』を、人物と場所の設定を日本にした上で映画化している)
江戸川乱歩は、ドストエフスキーの作品を繰り返し読み
、「スリルの事」というドストエフスキーの作品に関するエッセイも書いている。
また、乱歩の『心理試験』の設定は『罪と罰』から借りたものである。
手塚治虫は、ドストエフスキーの影響を非常に受けた漫画家である。
「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と公言していた。
脚注
^ 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波書店〈岩波新書〉。
^ 『一億人の手塚治虫』JICC出版局。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、フョードル・ドストエフスキー に関連するマルチメディアがあります。ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ:作家別作品リスト(青空文庫)
作品集(原文)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC" より作成
カテゴリ: ロシアの小説家 | ロシアの人物 | ロシア正教会 | 実存主義 | 1821年生 | 1881年没
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10月30日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%8830%E6%97%A5
できごと
1890年 - 「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布。
1910年 - 赤十字の創始者 アンリ・デュナン死去。
1938年 - アメリカでオーソン・ウェルズ演出のSFドラマ
『火星人来襲』(原作はH・G・ウェルズ『The War of the Worlds』。
邦題『宇宙戦争』)が放送される。
その中で、演出として「火星人が攻めてきた」という臨時ニュースを流したところ、
本物のニュースと勘違いされ、アメリカ中で120万人以上が大パニックに
。参考:War of the Worlds
1952年 - 第4次吉田茂内閣が成立。
1961年 - ソ連がノヴァヤゼムリャ上空で、史上最大の水爆実験(ツァーリ・ボンバ)を実施。
1978年 - 京王新線が開通
1999年 - 上信越自動車道が全線開通
2000年 - シドニーオリンピックで金メダルを獲得した高橋尚子に国民栄誉賞が贈られる。
2002年 - 一青窈がシングル『もらい泣き』で歌手デビュー。
2003年 ? 阪神、星野仙一監督が勇退。
誕生日
1735年 - ジョン・アダムズ、第2代アメリカ合衆国大統領(+ 1826年)
1821年 - フョードル・ドストエフスキー、小説家(+ 1881年)
1862年 - フリードリヒ・マイネッケ、歴史家(+ 1954年)
1868年(明治元年9月15日) - 大森房吉、地震学者(+ 1923年)
1871年 - ポール・ヴァレリー、詩人・批評家(+ 1945年)
1893年 - ローラント・フライスラー、ナチス・ドイツ人民法廷長官(+ 1945年)
1894年 - ピーター・ウォーロック、作曲家・音楽評論家(+ 1930年)
1896年 - アントニーノ・ヴォットー、指揮者(+ 1985年)
1906年 - ジュゼッペ・ファリーナ、F1レーサー(+ 1966年)
1906年 - 須藤克三、教育者・児童文学者(+ 1982年)
1930年 - クリフォード・ブラウン、ジャズミュージシャン(+ 1956年)
1932年 - ルイ・マル、映画監督(+ 1995年)
1932年 - 石田章六、指定暴力団・五代目山口組舎弟頭補佐
1935年 - マイケル・ウィナー、映画監督
1935年 - アゴタ・クリストフ、作家
1937年 - 東海林さだお、漫画家・エッセイスト
1945年 - 蜂谷薫、元毎日放送アナウンサー
1947年 - ティモシー・シュミット、ミュージシャン(イーグルス)
1948年 - 大川栄策、演歌歌手
1950年 - 前田恵一、宇宙物理学者
1951年 - 金山仙吉、元プロ野球選手
1958年 - 畠山智之、アナウンサー
1958年 - 石川光久、アニメーションプロデューサー
1960年 - ディエゴ・マラドーナ、サッカー選手
1963年 - トッド・サンド、フィギュアスケート選手
1964年 - 呂明賜、元プロ野球選手
1964年 - 日出郎、タレント 歌手
1965年 - 森友嵐士、ミュージシャン・シンガーソングライター(元T-BOLAN)
1965年 - レッド吉田、お笑い芸人
1967年 - 笹野みちる、ミュージシャン
1967年 - 小島弘務、元プロ野球選手
1968年 - 清春、ミュージシャン(元黒夢、SADS)
1970年 - 伊藤智仁、元プロ野球選手
1970年 - 森たまき、女優
1973年 - シルビア・コルソ、ニュースキャスター
1973年 - 小松亮太、バンドネオン奏者
1973年 - アダム・コープランド(エッジ)、プロレスラー
1975年 - 佐藤丈青、ピアニスト(SOIL&"PIMP"SESSIONS)
1975年 - ジャビッド・バイラミ、K-1選手
1976年 - 大橋マキ、アナウンサー
1978年 - ルイス・マトス、野球選手
1979年 - 仲間由紀恵、女優
1979年 - 真中瞳、女優
1980年 - 鬼束ちひろ、シンガーソングライター
1980年 - 杉内俊哉、プロ野球選手
1980年 - チェ・ホンマン(崔洪万)、K-1選手・元シルム選手
1981年 - 長手絢香、女優(元ココナッツ娘。)
1981年 - 仙台エリ、声優
1981年 - 中沢健、作家・芸人
1981年 - チョン・ジヒョン、女優
1981年 - イヴァンカ・トランプ、ファッションモデル、実業家
1985年 - 澤野ひとみ、ファッションモデル
1987年 - 阿久津加菜、声優
忌日
1522年 - ジャン・ムートン、作曲家(* 1459年?)
1626年 - ヴィレブロルト・スネル、天文学者・数学者(* 1580年)
1654年(承応3年9月20日)- 後光明天皇、第110代天皇(* 1633年)
1664年(寛文4年9月12日)- 南部重直、第2代盛岡藩主(* 1606年)
1732年 - ヴィットーリオ・アメデーオ2世、サルデーニャ王(* 1666年)
1772年 - カール・イェルーザレム、法学者(* 1747年)
1790年(寛政2年9月23日)- 柄井川柳、川柳の祖(* 1718年)
1796年(寛政8年9月30日)-
牧野貞長、江戸幕府老中・京都所司代・笠間藩主(* 1733年)
1816年 - フリードリヒ1世、ヴュルテンベルク王(* 1754年)
1863年(文久3年9月18日) - 芹沢鴨、新撰組筆頭局長(* 1827年)
1863年(文久3年9月18日) -平山五郎、新撰組副長助勤(* 1829年)
1883年 - ローベルト・フォルクマン、作曲家(* 1815年)
1903年 - 尾崎紅葉、小説家・俳人(* 1867年)
1910年 - アンリ・デュナン、国際赤十字創始者(* 1828年)
1912年 - ジェームズ・S・シャーマン、第27代アメリカ合衆国副大統領(* 1855年)
1916年 - ピーター・ドッヅ・マコーミック、
オーストラリアの国歌「アドヴァンス・オーストラリア・フェア」作者(* 1834年?)
1923年 - アンドルー・ボナー・ロー、イギリス首相(* 1858年)
1928年 - ロバート・ランシング、アメリカ合衆国国務長官(* 1864年)
1930年 - 豊田佐吉、発明家・豊田自動織機創業者(* 1867年)
1933年 - 平福百穂、日本画家(* 1877年)
1941年 - 谷口尚真、第18代連合艦隊司令長官(* 1870年)
1945年 - 堀口九萬一、外交官・随筆家(* 1865年)
1953年 - カールマーン・イムレ、作曲家(* 1882年)
1953年 - レオニード・クロイツァー、ピアニスト(* 1884年)
1960年 - ジョージ・ボンハーグ、陸上競技選手(* 1882年)
1961年 - ルイージ・エイナウディ、第2代イタリア大統領(* 1874年)
1975年 - グスタフ・ヘルツ、物理学者(* 1887年)
1977年 - 野尻抱影、随筆家、天文研究家(* 1885年)
1979年 - ラケーレ・グイーディ、イタリア指導者ムッソリーニの妻(* 1890年)
1981年 - 能見正比古、血液型性格分類の普及者(* 1925年)
1984年 - 森有一、俳人・日本画家(* 1898年)
1985年 - 北裏喜一郎、実業家(* 1911年)
1985年 - 斎藤隆介、作家(* 1917年)
1990年 - 石川恒太郎、歴史学者(* 1900年)
1997年 - サミュエル・フラー、映画監督(* 1911年)
2000年 - 2代目神田山陽、講談師(* 1909年)
2003年 - フランコ・ボニゾッリ、テノール歌手(* 1938年)
2004年 - 南條範夫、小説家(* 1908年)
2005年 - アル・ロペス、メジャーリーグベースボールの選手(* 1908年)
2005年 - 葉室鐵夫、水泳選手(* 1917年)
2006年 - 白川静、漢文学者(* 1910年)
2006年 - 木下順二、劇作家(* 1914年)
2006年 - クリフォード・ギアツ、文化人類学者(* 1926年)
2007年 - ジョン・ウッドラフ、陸上競技選手(* 1915年)
2007年 - ロバート・グーレ、歌手・俳優(* 1933年)
記念日・年中行事
卵かけご飯の日(日本)
2005年、島根県雲南市において卵かけご飯の魅力を語り合うシンポジウムが開かれ、
その中で制定される。
香りの記念日(日本)
1992年、石川県七尾市で第7回国民文化祭
「世界香りのフェアIN能登」が開催され、それを記念し制定される。
おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・おわり・