東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳
平成20年11月11日(火曜日)

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東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭(脳神経外科専門医)
東京都 世田谷区 山本クリニック 山本 博昭

脳神経外科・神経内科・内科・外科・形成外科・美容外科・
心療内科・耳鼻咽喉科
山本クリニック形成外科・皮膚外科・美容外科
形成外科・美容外科・・レーザー治療・レーザー外科
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mddmsci
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東京 都 世田谷 区 の 評判 山本クリニックの毎日の日記帳

平成20年11月11日(火曜日)

「9月」がおわわりました。
「10月」も終わりました。
「晩秋」もしずかに。
しずかに。しずかに。

能の舞のように。
さらにもふかまりつつあります。

暗い朝の早朝に。
南の天に「明けの明星」が
輝いています。
闇夜の天高いかがやく惑星。

「明けの明星」金星に。
毎日「おはよう」のあいさつを
します。

早朝には
「秋の虫の音」は。
「こおろぎ」だけになりました。

はるか暗い早朝に「こおろぎ」の
鳴き声の合唱がきこえます。

毎朝の暗いうちの「音色」は。
毎日違います。

「ろうろう」「こうこう」

耳をすませば。
こおろぎの鳴き声は。
「合唱」から次第に「ソロ」に
なっていきます。

そしてオーケストラの楽器の配列のように。
一匹一匹の
「こおろぎ」の鳴いている場所がわかるように。
なってきました。

虫たちも
「もっと深い秋」そして「もっと深い秋の先」
「の季節にむけての。
ころもがえやひっこしをしている
ことがわかります。

陽ののぼる時刻はとても遅くなりました。
そして
夕暮れははとてもやくくなりました。

朝の04:30amにはふたたび「真っ暗」
の時期になりました。
あさの06:30amでもなお暗い東空
です。

これからは太陽は。
「晩秋」そして「冬」に向かいます。
「中秋」から「晩秋」になりました。

あさは曇っていて。
さらに昼間でも「さむい」ことがある。
私がおきるまっくらな早朝は。
とてもとても。
とても寒いです。

早朝「そら」をみあげれば。
晴れているはず。日差しもあるはず。

けれども空には
「雲がいっぱい」で「空はくもりそら」
です。
ふしぎな「秋」のひざしです。

ふとかんがえれば・・。
夏至もおわり。
真夏もおわり。
ゆたかなみのりの
「秋」の「9月」がはじまり。
そして「9月」が「おわり」。
「10月」もおわりました。
「11月」です。

「実りの秋」から「収穫の秋」に向けて
「若実」をまもる
「晩秋」の太陽から。さらなる恵みを
「実る木の実」にあたえる。
「ソフトフイルター」の役目を.
「晩秋」の朝の「おぼろくもりそら」が
しているようです。

自然とは。
とてもよくできたものです。
変幻自在でいて規則正しい。
なおかつにして。
自由が自在。

大気に漂う霞がごとし。

深い山の奥に住むという

仙人の心境が。

とてもよくわかります。

街路樹もそうそうたる。
羽振りのよい木々になってきました。
そして晩秋の。
紅葉の秋をむかえようとしています。

街路樹は「落葉樹」がよいです。

街路樹が「松や杉」のような。
「常緑樹」では
冬はうっそうとして
陽の光をえられない。

夏場は枝ぶり葉っぱから陽の光を
さえぎれない。
晩秋も「針葉樹の落葉」では
木枯らしもつりがあわない。
とどのつまり
四季のリズムをつくれません。

ヴイバルデイの
「四季」の「夏」にある
木陰で休む羊飼いの旋律
も。
フランツ・シューベルトの
「菩提樹」の歌曲
も「うまれません」。

落葉の針葉樹で
強いからといって「からまつ」をうえられても
あわないでしょう。

私の「大好き」な。
北原白秋の「からまつの詩」。

「からまつ」は

街路樹にはそぐいません。

やはり野におけ蓮華草と同じく。
「からまつ」も蓮華草と同じく華やかさとはかなさを
もっています。

やはり野におけ蓮華草とからまつ。

秋の「からまつ」です。

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北原白秋
 
「水墨集」より

  
 落葉松
-------------------------------

      一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。

      二
                 
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。

      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。

      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。
 
 さびさびといそぐ道なり。

      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。

      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。

      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

-------------------------------

木々の青葉の房が
早朝くらい中でも
うかびあがります。
とりわけ私は
くすのき科が。
「大好き」な「木」の
ひとつです。
ポプラも好きです。
イチョウもすきです。
けやきもすきです。
カエデもすきです。
もみじもすきです。
松もすきです。
杉もすきです。
紅葉の「秋」は間近いです。

木々の穂先は毛氈(もうせん)
のようにあざやかな萌黄色と緑です。
まるで。
大きな里山の森の秋のうねりのようです。
今年は木々のわかばの秋のめばえがとてもとても
鮮烈です。
紅葉も「鮮烈」なことと見守ります。

街角の雑草も花はおわり。
夏の草花・
「ひるがお」「つるくさ」が
秋草に変貌して。
ますます姿を大きくしています。
けれども。
「秋風」もあり「遠慮がち」になりました。

雑草も。
秋冬草へと変貌しつつあります。

朝暗いうちは。
はださむい気が致します。

東京 都 世田谷 区 山本クリニックには。
ふとい孟宗竹のたけやぶ
があります。
竹はせがたかいから。

クリニック館内からはすこし離れた所にある。
はなれていても。真夏竹。
とおくからもみえます。

風にふかれる秋竹(あきたけ)の
みどりのいらかをかぜはやみ
あきの陽うつすやうつろひの
竹にそだちて月日のはやいくとせ

秋地にも空にも
秋みどり葉ひらき
秋みどり木秋空
秋天高くひろがりけり
秋ゆたかなりけり
秋いふことのなし
秋いふことがなし
秋いふことはなし
秋ゆたかなりけりあき

-------------------------------
ミニ伝言板
★当院は完全予約制です。★
-------------------------------

平成20年2月11日(月曜日)は祝日です。

「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は「おわりました」。
-------------------------------

平成20年3月20日(木曜日)
は「祝日」です。
けれども
(木曜日)は休診日であるために。
「祝日診療」は行いません。

祝日が(日曜日)(木曜日)とかさなわない場合
に限り。
「休日体制」で患者さんの診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

平成20年

4月29日(火曜日)はおわりました。
5月 3日(土曜日)はおわりました。
5月 5日(月曜日)はおわちました。
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

但し
5月 6日(火曜日)は「お休み」
を頂き。5月7日(水曜日)より定常どおり
の診療を行います。

7月21日(月曜日)は
「祝日」で元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

はおわりました。
-------------------------------

「8月」の夏季休診体制ですが。
8月13日(水曜日)ー8月16日(土曜日)
までが「夏季休診」になります。
けれども
8月13日(水曜日)
8月16日(土曜日)は。元来は「休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。
-------------------------------

9月15日(月曜日)
9月23日(火曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
はおわりました。

-------------------------------

10月13日(月曜日)は。

元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。

は終わりました。

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11月 3日(月曜日)
はおわりました。

11月24日(月曜日)は。
元来は「祝日で休診日」です。
けれども「完全御予約制」の
御予約の患者さんのみ
限られた時間帯で診療を行います。
-------------------------------

私は寒い新潟の寒村の百姓のうまれです。
毎朝03:15amには起床致します。

睡眠時間は「4時間」。

朝の病院への移行に車をつかいます。
まっくらです。

朝5:00am前に東京 都 世田谷 区 山本クリニック
の明かりがともります。

真っ暗な中で。
病院の事務局と病院の診察室との
往復はとても気温が低いと
とてもくつらいです。

朝の日の出前までの間は今日御来院される患者さん
の「診療録:カルテ」のチエックと
朝の申し送りの準備です。

★★★

今年の春・から冬は予期せぬ
インフルエンザ*の
大規模な流行が予想されます。
東京 都 世田谷 区 山本クリニックでは。
薬事法の「能書」にあるとおり
「正規の」
「2回法によるインフルエンザワクチン」の
予防接種を行います。
御予約が必要です。

1回法=3500円

2回法=7.000円

です。

当院ではいつでも御来院されれば
インフルエンザ予防接種が可能です。
まだ。
インフルエンザ予防接種をされて
いないかたは
ぜひともうけられてください。

-------------------------------

2004年10月15日より厚生労働省により

肺炎球菌ワクチン
が努力義務のある予防接種の対象
とされました。当院でも接種可能です。
御予約が必要です。
去年2007年の「5月ころ」NHKの
放映があり。
昨年は全国で「肺炎球菌ワクチン」が
たりなくなってしまいました。

------------------------------

成人の風疹急増。
御婦人で風疹の既往が定かでない
場合は。
風疹抗体価血液検査と風疹ワクチン予防接種を
御勧め致します。
御予約が必要です。

------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がきます。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著であろうと推察されます。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」
であることを懸念しています。
そして気候の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表される。
ウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です

-------------------------------

学校の入学式。桜の花。
そして「眼に青葉やまほととぎす・」
の時期。
そして紫陽花が咲き夏になり
秋になりまた今年も冬がくる。

インフルエンザをはじめ「ウイルス系」の
「感染・伝染」が急増致します。

今年は猛暑と厳寒。
「地球温暖化による大気温度差の拡大」が
顕著です。

体調を崩される方が多いものです。
私はこの夏は「猛暑」になり極め厳しい「暑さ」が。
そして気膠の変動は
激しいと思います。

このような今年からは
冬場や春にかぎらずインフルエンザに
代表されるウイルス性感染症が
大流行するおそれが強い。

-------------------------------
麻疹(はしか)の大きな流行が予想されます。

成人しての麻疹(はしか)は重傷化しやすいです。

はしか(麻疹)のワクチンの予防接種を行っています。
御予約が必要です。

-------------------------------

「地球温暖化による大気温度差の拡大」で
季節の変わり目に「反復性上気道感染」に
なられるかたが多いです。

「世情は不安定」であり何かひとつ
生活しづらい日々を感じられる
かたも多いものです。。

人間は「倒れるまではたっています」。
人間は「冬・春」の旅に(度に)齢を重ねる。

昔の「数え年」は「たいした物」だと思います。

難易度の高い「病態」をお持ちの
患者さんが増えています。
難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが
「良くなられていく」笑顔を思い浮かべながら。

私 院長の山本博昭と
東京都 世田谷区 山本クリニックの
「全員」が頑張ります。

難易度の高い「病態」の患者さんの良くなられる
「笑顔」は何物にも変えがたい。

難易度の高い「病態」の患者さんが患者さんが。

「良くなられていく」笑顔に。

心より感謝・感謝。

「今日は何の日」は。

数学者として。
ローザンヌの大学の数学の教授であり。
数学者でもあり。

音楽家・指揮者でもある。

1883年 - エルネスト・アンセルメ、指揮者(+ 1969年)
の生誕日です。

(ちなみに多角的ピアニストとして。
「政治家」でもあり(大統領になられた)。
「映画俳優」でもある
ピアニストに「 イグナツィ・パデレフスキ」がいます。
イグナツィ・パデレフスキは「音楽大学」の教授からは
「「ソリスト」には向かない」といわれましたが。

上手くは全くありません。
けれども。
「聴衆受け」は大変とよく。
人気ピアニストでもありました

アルトゥール・ルービンシュタインは
イグナツィ・パデレフスキに対して
極めて批判的です。)

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメ
(Ernest Ansermet,
1883年11月11日 - 1969年2月20日)は、
スイスの指揮者・数学者です。

スイス西部のフランス語圏にある
レマン湖畔の町ヴヴェイに生まれました。

父は幾何学の学者であったこともあり。

彼もパリのソルボンヌ大学 とパリ大学 で数学を学んだ後。
数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になりました。

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメは。

しかし、音楽好きの母親の影響から。

ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であった
エルネスト・ブロッホについて音楽の勉強をはじめました。

作曲家としてもいくつかの作品を残しています。
また。
ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し。
譜面はデュラン社から出版されています。

数学者として生きるべきか
音楽に進むべきか一時は迷いました。

1909年にベルリンを訪れて、
指揮者のニキシュとワインガルトナーに助言を求め、
ようやく
アンセルメは指揮者としてたつ決心を固めました。

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメは。
1910年、アンセルメはモントルーで指揮者として
デビュー致しました。

この時のプログラムは、
ベートーヴェンの『運命』を中心としたものでした。

このコンサートがきっかけとなり、
アンセルメは
モントルーのクア・ザールの指揮者となりました。

++++++++++++++++++++++

指揮者となったアンセルメは、
モントルーのカフェで
ストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合
致しました。

ストラヴィンスキーは。
当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを。

第一次世界大戦のためスイスに疎開していた
ディアギレフに紹介致しました。

モントゥーの後任を探していた
ディアギレフにとってまさに渡りに舟でした。

彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)による
ジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名致しました。

ディアギレフは、アンセルメを
アメリカ公演の指揮者としても指名致し。
そしてエルネスト・アンセルメを
ついにロシア・バレエ団(バレエ・リュス)
専属指揮者と致しました。

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメ。

彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品には
プロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、
サティの『パラード』などあります。

他にストラヴィンスキーの
数多くのスイス時代の作品を初演し致しました。

マルタンやオネゲルなど
スイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げました。

なおこれらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設した
スイス・ロマンド管弦楽団によってなされました。  

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメ率いる。
スイス・ロマンド管弦楽団は、
設立当初は財政的に不安定でした。

1930年代はじめには
一時活動休止にまで追い込まれています。

しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送の
オーケストラを吸収合併し、
当時成長をはじめた放送局の
オーケストラとして財政的にも安定すると。

一気に活動も活発となりました。
多くの名指揮者を客演として招聘するようになりました。

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメ率いる。
スイス・ロマンド管弦楽団は。

ブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、
カール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)
などが積極的に招かれています。

フルトヴェングラーは、
1944年1月17日ローザンヌ、
1月19日ジュネーヴで客演致しました。
(後にスイスに亡命)。

++++++++++++++++++++++

アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は
戦後
イギリスのレコード会社デッカと専属契約を結びました。

かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽。

親交のあったラヴェルやルーセルなどの作品をはじめ、
ストラヴィンスキーの作品など
網羅的に録音をする機会を得ました。

それらは、アンセルメのホーム・グランドとなった
ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われました。

但しこのホールは録音のための部屋がなく、
レストランの厨房をコントロール・ルームとして行うなど、
難しい面もあったようです。

++++++++++++++++++++++

アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団の。

放送用のスタジオは別にスイス・ロマンド放送にありました。
ここでは映像をはじめとする
アンセルメの多くの演奏が収録されているが。
膨大なアーカイブが存在すると言われています。

現在ではアンセルメの名前がついています。
(しかし、ヴィクトリア・ホールは1980年代に火災に遭い、
オルガンなどを消失してしまいました)。

デッカの録音によりアンセルメは世界的に名声を得ました。
サン=サーンスの『オルガン付』交響曲や、
オネゲルの『ダヴィデ王』などは当時ベストセラーとなりました。

++++++++++++++++++++++

アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は
ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ。
ファリャのバレエ音楽など彼らが世に紹介致しました。

広めてきた音楽のその演奏が多くの人々に支持されたことによって、
アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は
第一級の「売れる」オーケストラとなっていきました。

++++++++++++++++++++++

アンセルメはザッハーなどとともに、
同時代の作曲家たちと親交を深めその音楽の普及に努めました。

ところが。
その中にはシェーンベルクなどの十二音音楽や
ヴァレーズなどのような前衛的な音楽、
無調音楽は含まれていません。

作曲家でもあったアンセルメは
著書「人間の知覚における音楽の原理」
(Les Fondaments de la Musique dans
la Conscience Humaine )の中で、
シェーンベルクの音楽語法が誤っていて不合理であると
証明しようと試みました。

++++++++++++++++++++++

エルネスト・アンセルメは。
長年の友人ストラヴィンスキーとはそれまでも意見が
対立しないわけではなかったのですが。

十二音音楽批判がきっかけで絶交してしまうことになりました

ストラヴィンスキーが
十二音技法を自作の中に取り入れたことが原因でした。
この絶交はアンセルメに深い後悔をもたらしました。

晩年、スイス・ロマンド管弦楽団で、
ストラヴィンスキーの作品を集中的に取り上げた際、
「けんかをするには歳をとりすぎた」と
招待状をストラヴィンスキーに送り、
関係の修復を望んだアンセルメでしたが。

その演奏会にストラヴィンスキーは
ついに姿を見せませんでした。

++++++++++++++++++++++

アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団に
半世紀にわたって君臨致しました。

1967年に引退し、後任の指揮者としてスイスに帰化した作曲家で
ベルン交響楽団の音楽監督であった
パウル・クレツキを指名致しました。

そして1年あまり経った1969年2月20日ジュネーヴにて
亡くなりました。

++++++++++++++++++++++

アンセルメの死後、
スイス・ロマンド管弦楽団は低迷していきました。

それは後任として期待されたクレツキが、アンセルメが
決して取り上げなかったマーラーを取り上げるなど。

新機軸を打ち出そうとしたことが原因です。

わずか3年でその任を離れたことなどによるのかも知れません。
けれども。
スイス・ロマンド管弦楽団が
アンセルメのイメージを求め過ぎたことによるかもしれません。

++++++++++++++++++++++

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++「続きを読むです1」++++++++++++++++++
エルネスト・アンセルメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%A1

エルネスト・アンセルメ
(Ernest Ansermet, 1883年11月11日 - 1969年2月20日)は、
スイスの指揮者・数学者。

スイス西部のフランス語圏にあるレマン湖畔の町ヴヴェイに生まれた。
父は幾何学の学者であったこともあり、
彼もパリのソルボンヌ大学 とパリ大学 で数学を学んだ後、
数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になった。

しかし、音楽好きの母親の影響から、
ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であったエルネスト・ブロッホについて
音楽の勉強をはじめた。
作曲家としてもいくつかの作品を残している他、
ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し、譜面はデュラン社から出版されている。

数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、
1909年にベルリンを訪れて、
指揮者のニキシュとワインガルトナーに助言を求め、
ようやくアンセルメは指揮者としてたつ決心を固めた。

1910年、アンセルメはモントルーで指揮者としてデビューした。
この時のプログラムは、ベートーヴェンの『運命』を中心としたものであった。
このコンサートがきっかけとなり、
アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。

指揮者となったアンセルメは、
モントルーのカフェでストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合した。
ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、
第一次世界大戦のためスイスに疎開していたディアギレフに紹介した。4
モントゥーの後任を探していたディアギレフにとってまさに渡りに舟で、
彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)による
ジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名した。

ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、
ついに専属指揮者とした。

彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品には
プロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』などある。

他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、
マルタンやオネゲルなどスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。

なおこれらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設した
スイス・ロマンド管弦楽団によってなされた。  

スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。
1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。
しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、
当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、
一気に活動も活発となり、
多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。

ブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、カール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)
などが積極的に招かれている。
フルトヴェングラーは、
1944年1月17日ローザンヌ、
1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。

戦後、イギリスのレコード会社デッカと専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、
かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽、
親交のあったラヴェルやルーセルなどの作品をはじめ、
ストラヴィンスキーの作品など、網羅的に録音をする機会を得た。

それらは、アンセルメのホーム・グランドとなった
ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた。
但しこのホールは録音のための部屋がなく、
レストランの厨房をコントロール・ルームとして行うなど、
難しい面もあったようだ。

放送用のスタジオは別にスイス・ロマンド放送にあった。
ここでは映像をはじめとするアンセルメの多くの演奏が収録されているが、
膨大なアーカイブが存在すると言われている。

現在ではアンセルメの名前がついている
(しかし、ヴィクトリア・ホールは1980年代に火災に遭い、オルガンなどを消失してしまった)。

デッカの録音によりアンセルメは世界的に名声を得た。
サン=サーンスの『オルガン付』交響曲や、
オネゲルの『ダヴィデ王』などは当時ベストセラーとなった。

ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、
ファリャのバレエ音楽など彼らが世に紹介し、
広めてきた音楽のその演奏が多くの人々に支持されたことによって、
アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。

アンセルメはザッハーなどとともに、
同時代の作曲家たちと親交を深め、
その音楽の普及に努めたが、
その中にはシェーンベルクなどの十二音音楽や、
ヴァレーズなどのような前衛的な音楽、無調音楽は含まれていない。

作曲家でもあったアンセルメは
著書「人間の知覚における音楽の原理」
(Les Fondaments de la Musique dans
la Conscience Humaine )の中で、
シェーンベルクの音楽語法が誤っていて不合理であると証明しようと試みた。

長年の友人ストラヴィンスキーとはそれまでも意見が対立しないわけではなかったが、
十二音音楽批判がきっかけで絶交してしまう。
ストラヴィンスキーが十二音技法を自作の中に取り入れたことが原因であったが、
この絶交はアンセルメに深い後悔をもたらしたようである。

晩年、スイス・ロマンド管弦楽団で、
ストラヴィンスキーの作品を集中的に取り上げた際、
「けんかをするには歳をとりすぎた」と招待状をストラヴィンスキーに送り、
関係の修復を望んだアンセルメであったが、
その演奏会にストラヴィンスキーはついに姿を見せなかったという。

アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団に半世紀にわたって君臨した。
1967年に引退し、後任の指揮者として、スイスに帰化した作曲家で
ベルン交響楽団の音楽監督であった
パウル・クレツキを指名した。

そして1年あまり経った1969年2月20日ジュネーヴにて亡くなった。

アンセルメの死後、
スイス・ロマンド管弦楽団は低迷したと言われる。
それは後任として期待されたクレツキが、アンセルメが
決して取り上げなかったマーラーを取り上げるなど、
新機軸を打ち出そうとしたが、
わずか3年でその任を離れたことなどによるのかも知れないが、
スイス・ロマンド管弦楽団にアンセルメのイメージを求め過ぎたことによるかもしれない。

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カテゴリ: スイスの指揮者 | 1883年生 | 1969年没

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11月11日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%8811%E6%97%A5

11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から315日目
(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。

できごと
1855年 - 安政の大地震

1881年 - 日本初の私鉄(日本鉄道)設立(設立認可が出された日)。

1889年 - アメリカのワシントン州が42番目の州として成立。

1897年 - 沼垂駅で爆破事件発生。

1918年 - 第一次世界大戦終結。ポーランドがロシア帝国から独立。

1921年 - ワシントン会議始まる。

1924年 - 日本初のウイスキー工場が山崎に竣工。

1937年 - サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジが竣工。

1944年 - 松代大本営が着工。

1951年 - 全国で3番目の民間放送ラジオ局、朝日放送(ABC)開局。

1955年 - 下中弥三郎・植村環・茅誠司・上代たの・平塚らいてう・前田多門・湯川秀樹の
7人によって世界平和アピール七人委員会が結成される。

1971年 - 国立防災科学センターなどが川崎市で行った防災実験でがけ崩れ。15人が死亡。

1975年 - アンゴラがポルトガルからの独立を宣言。

1983年 - 新宿西口のキャッツ・シアターにて
劇団四季がキャッツの日本公演をスタート。これが後に日本初のロングラン公演ミュージカルとなる。

1984年 - シンボリルドルフが菊花賞を勝ち、
2年連続、日本競馬史上4頭めの三冠馬となる。(無敗の三冠馬は史上初)

1995年 - オウム真理教代表(当時)麻原彰晃の著書『日出ずる国、災い近し』
でハルマゲドンが勃発すると予言されていた日。この日、日本各地で厳戒態勢が敷かれた。

2000年 - オーストリアケーブルカー火災事故。
トンネル内の火災で日本人ツアー客10人含む155人が死亡。

2004年 - パレスチナ自治政府のヤーセル・アラファート議長が死去。75歳没。

2006年 - プレイステーション3が日本国内で発売開始。

誕生日
1849年 - 乃木希典、軍人(+ 1912年)

1882年 - グスタフ6世アドルフ、スウェーデン王(+ 1973年)

1883年 - エルネスト・アンセルメ、指揮者(+ 1969年)

1885年 - ジョージ・パットン、軍人(+ 1945年)

1905年 - 藤田圭雄、児童文学者(+ 1999年)

1908年 - 沢村貞子、俳優(+ 1996年)

1909年 - 小森和子、映画評論家 (+ 2005年)

1918年 - 鳩山威一郎、政治家(+1993年)

1922年 - カート・ヴォネガット、小説家(+ 2007年)

1928年 - カルロス・フエンテス、小説家

1933年 - 辻村ジュサブロー、人形師

1935年 - 朝崎郁恵、唄者

1937年 - 養老孟司、解剖学者

1940年 - バロン吉元、漫画家

1945年 - 横田順彌、SF作家・明治文化研究家

1946年 - とりいかずよし、漫画家・大学教授

1952年 - 吉幾三、演歌歌手
1954年 - 徳山文宗、元プロ野球選手
1955年 - ジグミ・シンゲ・ワンチュク、ブータンの国王
1959年 - 田中美佐子、女優
1959年 - フランク・ランペン、プロ野球指導者
1960年 - ダンプ松本、女子プロレスラー
1962年 - 堤信子、アナウンサー・リポーター(元福岡放送)
1962年 - デミ・ムーア、女優
1964年 - 岩本千春、女優
1964年 - 中西圭三、歌手
1965年 - 飯村真一、テレビ朝日アナウンサー
1965年 - 永野椎菜、ミュージシャン(TWO-MIX)
1965年 - オキサイド・パン、香港・タイの映画監督
1966年 - 窪之内英策、漫画家
1969年 - 浜名千広、元プロ野球選手
1969年 - 松井繁、競艇選手
1969年 - 寺田貴信、ゲームクリエイター
1971年 - 首藤康之、バレエダンサー・俳優
1972年 - ダニエル・リオス、プロ野球選手
1973年 - マギー審司、お笑いタレント
1974年 - レオナルド・ディカプリオ、俳優
1975年 - 野中りえ、タレント
1975年 - 宮内潤子、タレント
1975年 - 大畑大介、ラグビー選手
1975年 - 香坂ゆかり、AV女優・ストリッパー
1977年 - マニシェ、サッカー選手
1982年 - 東原亜希、タレント
1983年 - 山口鉄也、プロ野球選手
1983年 - 蒼井そら、タレント・女優
1983年 - 鈴木達央、声優・歌手
1983年 - 芦沢明、元プロ野球選手
1984年 - 山下結穂、女優
1986年 - 酒井香奈子、声優
1987年 - 手越祐也、NEWSメンバー
1988年 - 小林未可子、いもうとメンバー
1988年 - 谷ちあき、ファッションモデル
1989年 - 田中れいな、歌手・モーニング娘。メンバー
1989年 - アダム・リッポン、フィギアスケート選手
1989年 - 小見川千明、女優・声優
生年不詳 - 北原あいね、ストリッパー
生年不詳 - コーヘー、ミュージシャン(ホイフェスタ)

忌日
397年 - トゥールのマルティヌス、キリスト教の聖人(* 316年頃)

1686年 - ルイ2世、コンデ公(* 1621年)

1751年 - ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー、哲学者(* 1709年)

1855年(安政2年10月2日)- 藤田東湖、儒学者(* 1806年)

1855年 - セーレン・キェルケゴール、哲学者(* 1813年)

1862年 - ジェイムズ・マディソン・ポーター、
第18代アメリカ合衆国陸軍長官(* 1793年)

1884年 - アルフレッド・ブレーム、動物学者・作家(* 1829年)

1892年 - 山田顕義、初代司法大臣・日本大学創設者(* 1844年)

1911年 - 川上音二郎、俳優、興行師(* 1864年)

1917年 - リリウオカラニ、ハワイ最後の国王(* 1838年)

1918年 - ジョージ・プライス、
カナダ軍の二等兵・第一次世界大戦最後の戦死者(* 1892年)

1931年 - 渋沢栄一、実業家(* 1840年)

1938年 - メアリー・マローン、世界初のチフス菌の健康保菌者(* 1869年)

1939年 - 村上華岳、日本画家(* 1888年)

1939年 - ヤン・オプレタル、プラハの反ナチスデモで殺害されたカレル大生(* 1915年)

1944年 - 松旭斎天勝、奇術師(* 1886年)

1959年 - 久保田権四郎、発明家・クボタ創業者(* 1870年)

1968年 - ジャンヌ・ドゥメッシュー、オルガニスト・ピアニスト・作曲家(* 1921年)

1969年 - 長谷川如是閑、ジャーナリスト・思想家(* 1875年)

1973年 - アルトゥーリ・ヴィルタネン、化学者(* 1895年)

1976年 - アレクサンダー・カルダー、彫刻家・美術家(* 1898年)

1979年 - ディミトリ・ティオムキン、作曲家(* 1895年)

1993年 - 赤城宗徳、内閣官房長官・農林大臣(* 1904年)

1993年 - 早崎治、写真家(* 1933年)

1998年 - 淀川長治、映画評論家(* 1909年)

1998年 - ジェラール・グリゼー、作曲家(* 1946年) 

1999年 - メアリー・ケイ・バーグマン、声優(* 1961年) 

2001年 - 杉浦忠、プロ野球選手、監督 (* 1935年)

2004年 - ヤーセル・アラファート、パレスチナ解放機構議長(* 1929年)

2004年 - 荻島真一、俳優(* 1946年)

2005年 - ピーター・ドラッカー、経営学者(* 1909年)

2006年 - 宇井純、公害・環境科学者(* 1932年)

2006年 - 村田渚、お笑い芸人(鼻エンジン・フォークダンスDE成子坂) (* 1971年)

2007年 - 林田悠紀夫、京都府知事・法務大臣(* 1915年)

2007年 - 関本忠弘、日本電気会長(* 1926年)

2007年 - 草薙幸二郎、俳優(* 1929年)

記念日・年中行事:とても多いです。

世界

カート・ヴォネガットの日
ヴォネガットの誕生日。ニューヨーク市が制定。

第一次世界大戦終結にちなんだ祝祭日
戦没将兵追悼記念日 (Remembrance Day)、
ポピー・デー (Poppy Day) - イギリス
退役軍人の日 (Veteran's Day) - アメリカ
休戦記念日 (Armistice Day) - フランス、ベルギー。英米での旧称。

独立記念日 (Narodowe Święto Niepodległości) - ポーランド

世界平和記念日
1918年11月11日に第一次世界大戦が停戦したことに由来。
なお、世界平和記念日
(International Peace Day, International Day of Peace) は9月21日を意味することが多い。
ポーランド独立記念日はかつてはソ連がポーランド国民解放委員会を設立した
(1944年)7月22日だったが、民主化後に変更された。

聖マルチヌスの日
聖マルチヌスの聖人の記念日

日本

食品関係
鮭の日
新潟県村上市が1988年ごろに、
またこれとは無関係に築地市場の北洋物産会も制定。
いずれも、「鮭」という漢字が魚偏に「十一十一」と書くことに由来。

ポッキー&プリッツの日
江崎グリコが1999年(平成11年)11月11日に制定。
以後、毎年キャンペーンを実施している。

チーズの日
日本輸入チーズ普及協会とチーズ普及協議会が1992年に制定。
日本史上、チーズの製造が確認される最古の記録が
700(文武天皇4)年10月に、全国「酥(そ)」
(現在のチーズに近い発酵食品)の製造を命じたというものに由来。
10月を新暦に置き換えた11月として、さらに覚えやすい11日とした。

ピーナッツの日
ピーナッツが「畑の土」と呼ばれているところの「土」を分解すると
「十一」となることに由来。全国落花生協会が1985年に制定。

きりたんぽの日
秋田県鹿角市の「かづのきりたんぽ倶楽部」が制定した。
「1111」が、いろりで焼いているきりたんぽに見えることに由来。

もやしの日
「1111」がもやしを4本並べたように見えることに由来。

日用品類
電池の日
日本乾電池工業会(電池工業会)が1986年に制定。
数字の部分を漢字で書いた「十一十一」が「プラス・マイナス・プラス・マイナス」に見えることに由来。

配線器具の日
日本配線器具工業会が1999年に制定。コンセントの差込口の形状が
「1111」に見えることに由来。
また、「秋の火災予防週間」の期間中であり、電気利用の安全啓発も兼ねる。

靴下の日(ペアーズデー・恋人たちの日)
日本靴下協会が1993年に制定。靴下を2足並べた時の形が11 11に見えることに由来。
1年に1度、同じ数字のペアが重なる日であることから、
恋人同士(ペア)で靴下を贈り合おうと呼びかけるため。

下駄の日
伊豆長岡観光協会が制定。下駄の足跡が「11 11」に見えることに由来。

その他
サッカーの日
ミズノの直営店・エスポートミズノが制定。サッカーが11人対11人で行うスポーツであることに由来。

折り紙の日
日本折紙協会が制定。世界平和記念日であること
(折り紙と千羽鶴の関係)と、1を4つ組み合わせると折紙の形である正方形になることに由来。

宝石の日(ジュエリーデー)
日本ジュエリー協会が制定。

煙突の日
「1111」が、煙突が4本立っているように見えることに由来。

磁気の日
磁気治療器「ピップエレキバン」のピップフジモトが1992年に制定。
磁石のN極 (+) とS極 (-) を「十一」に見立てたことに由来。

介護の日
厚生労働省が、高齢者や障害者等に対する介護に関し、国民への啓発を重点的に実施するための日として2008年に制定。「いい日、いい日」にかけた語呂。
コピーライターの日
宣伝会議が、コピーライター養成講座を開講して50周年になる2007年に制定。1111が鉛筆が並んだように見えることに由来。

その他の国
国祭日(アンゴラ)
1975年11月11日に、ポルトガルからの独立を宣言したことに由来。
光棍節(光棍、中華人民共和国)
独身者のための記念日